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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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2016年7月1日 那覇・若狭龍神

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1933年1月 『沖縄教育』第百九十八号<昭和会館落成記念>□島袋源一郎昭和会館主事「昭和会館の建設に際して」/西田直二郎「歴史と琉球の史蹟」/喜田貞吉「琉球民族の研究に就いて」/島袋全発沖縄県立第二高女校長「おもろさうしの読方」/宮里正光「国語読本に現れた古事記の神話及伝説」
1933年2月 『沖縄教育』第百九十九号<郷土史特集号>
1933年8月16日 東京美術学校講師鎌倉芳太郎、教育参考館見学
1933年8月128日 昭和会館で謝花昇に関する座談会開く
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
1934年12月 島袋源一郎『林政八書』沖縄郷土協会/沖縄書籍株式会社
1935年3月11日 三重城金比羅宮鎮座奉祝祭並竣工式 
1935年5月13日 沖縄MTL(MISSION.TO.LEPERS)結成。
□青木恵哉の話で那覇東町救世軍の花城武男大尉が、救らいに関心が深い日本キリスト教会の服部団次郎牧師、那覇日基の野町牧師、那覇メソジスト教会の北村健司牧師、首里パプテスト教会の照屋寛範牧師などに呼びかけ運動を開始。沖縄MTLが結成された。理事長にクリスチャンで沖縄教育界の重鎮、島袋源一郎が就任した。→川平朝申『沖縄庶民史』月刊沖縄社
1935年8月 『沖縄教育』第228号 島袋源一郎「教育参考館施設の経路」(1)
1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観
1935年9月25日 尚文子、昭和会館参観
1935年10月 『沖縄教育』第230号 
□教育参考館資料目録二 金石文拓本の部
安國山樹花記、真珠湊碑、國王頌徳碑、万歳嶺記、官松嶺記、円覚禅寺記、頌徳植樹碑、松尾碑文、大道松尾碑文、下馬碑、一翁寧公碑、新築石垣記、やらざ森城碑、浦添城碑、太平橋、廣徳寺親方碑、極楽山碑、津嘉山森墓、王舅達魯金大人、本覚山墓碑、毛國鼎墓、菊隠和尚墓碑、池城墓、金剛嶺、津屋口墓、

1935年10月30日 安部金剛、昭和会館参観
1935年11月 『沖縄教育』第231号(表紙・島袋寛平) 「教育参考館資料目録五 染織工の部」
1935年12月6日 昭和会館で藤山一郎独唱会
1935年12月20日 島袋源一郎、折口信夫を案内して首里へ

11月19日
1936年1月 『沖縄教育』第233号 「教育参考館資料目録六 漆器及家具の部」
1936年3月17日 岡田弥一郎博士、昭和会館参観
1936年3月18日 京都市檀王法林寺信ケ原良哉住職、昭和会館参観/島袋源一郎、世持神社の用件で台中丸で上京。
1936年2月 『沖縄教育』第235号(表紙・宮平清一) 「教育参考館資料目録八 陶磁器之部」
1936年3月ー沖縄県『史蹟名勝天然記念物一覧』を発行した。
1936年4月 『沖縄教育』第236号(表紙・中川伊作)
1936年4月10日 仲吉朝宏、教育参考館幹事
      4月ー那覇市公会堂で「南島美術展」
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5月ー東京で折口信夫斡旋の「琉球古典芸能大会」開かれる。写真ー3列目右から島袋源一郎、金武良章、伊波普猷、親泊興照(雅叙園で)
1936年6月11日 沖縄の新聞□帝都の芸術家達、沖縄に憧るー東京で催された琉球芸能団一行の監督として上京中だった沖縄県教育会主事島袋源一郎氏は昨日帰県、未曽有の感激を帝都の人士に与えた帝都公演の模様を左の如く語った。 私共は初め難しい本県の古典芸術を東京の人士が分かってくれるか何うか非常に危く思った、然しながら二日間4回に亘っての上演の結果は大変な盛況で而も東都に於ける芸能界は勿論、学術、音楽、美術等、凡ゆる文化層の人々に予想外の人気を以て迎えられ非常な反響を与えたのであった。琉球芸能を通じて古琉球の文化を紹介し併せて沖縄県を新しく認識せしめたのは今回の最も大きな成果である、私共は主催者たる民族協会や、資金を提出して下さった、文化聯盟の松本學氏並びに凡ての斡旋に努めて下さった折口信夫博士に心からなる感謝の辞を送らなければならない。
公演が終わってから雅叙園で在京県人有志により一行に対す感謝の会が催されたが、伊江朝助男の開会の挨拶ののち伊波普猷氏やその他の人々から大大次のような感想が述べられた。我々は沖縄県人として是まで何ものも誇るものはなかったが今回の公演によって帝都に於いても誇るに足る琉球芸能を紹介し今後は県人として肩身の狭い思いをしなくてすむようになった。
又東京では琉球の団十郎が来たというので本家の市川三升及び奥さんの市川翠扇(団十郎の娘)さん等は揃って観劇にきたが幕間に楽屋へきて衣服、調度、髪飾り等を熱心に手にとってみるという程であった。その他美術界のそうそう藤島武二、岡田三郎助氏其他4,5名の方々がきて若衆踊や女踊をスケッチしたりした。そしてこれまで沖縄を忘れていたのは残念である是非近い中に遊びにいきたいと話していた。それからこの様な立派な芸術を育てて下さったのは尚侯爵家御祖先の賜物であると一同、侯爵家へ挨拶に上り御礼を申し述べた。
1936年6月13日 沖縄県教育会主催「山田耕作講演会」
1936年6月22日 参考館参考品、首里城北殿に移転
1936年7月4日、首里城北殿内に郷土博物館が開館。沖縄県教育会と沖縄郷土協会のコンビにより往時の荘厳な姿を再現した由緒ある首里城内北殿は本県唯一の郷土博物館としてまた首里市の新名物として輝かしく誕生し午後5時から隣接の首里第一小学校に於いてその落成式・開館式は島袋源一郎の挨拶ではじまった。来賓として県より清水谷総務部長、平山裁判所長、古思司令官、金城那覇市長ら官民3百名が列席。祝電ー東恩納寛惇「新シキ力ハ古キ栄ヨリ生レン 遥ニ祝ス」/伊波普猷「開館ヲ祝ス」/下地玄信「県ノ為メ偉大ナル功績ヲタタエ御盛典ヲ祝ス」

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1936年7月4日 沖縄県教育会附設博物館落成・開館式。1936年8月 『沖縄教育』第240号<博物館開館紀念> 仲吉朝宏「開館するまで」「雲海空青録」/「沖縄郷土博物館資料紹介(1)皇室御関係の御宝物 (2)古琉球の漆器」
沖縄県教育会附属「郷土博物館」が開館。所蔵目録□漆器之部ー螺鈿/硯屏(文房具衝立)琉球国王御愛用の品、食籠(方言クイチクン)聞得大君御使用品、食籠(台付)郷土協会出陳、料紙文庫、五段御重箱、御菓子皿(薔薇模様入大皿)、御菓子器(支那製厚貝象)、鏡台、茶盆、香箱、印籠(山水図案)、印籠(山水寿老人)、印籠(梅花)、三方(唐草模様)、煙草盆、御椀(冊封使歓待様、伊江男爵寄贈)、御酒盃台。堆錦/中央卓(郷土協会出陳)、料紙文庫、四段御重(流水に桜花模様)、四段御重(水に貝)、東道盆、印籠(山水朱塗)、印籠(獅子黒塗)、菓子器(海草に金魚の図案)。沈金/料紙文庫、御徳盆・御米盤(祭祀用、元侯爵家御蔵品)、御米盤(かつぎ御米盤、玉貫瓶一対外箱共)、御椀、菓子器(六角形)、サシクイー(小道具入)、朱塗(菜飯ゆつぎ用)、毛彫沈金(名工新垣の作)。蒔絵/印籠(山水)、木盃(金蒔絵)、硯蓋、四段御重(草花に轎車)、四段御重(唐子絵山水)、四段御米盆(唐草模様)、大型四段御重(琉球蒔絵)、東道盆(支那製箔絵)、香箱(唐子絵、唐草模様)、弁当(亀甲紋)、弁当(山水、唐子絵)、弁当(山水、外間カメ子寄贈)、小道具箱(女持、支那製唐子絵)、御盆(長方形、支那製唐子絵)、東道盆、野弁当、折盆(三方、支那製唐子絵、唐草金模様入)、御酒盃台
□図表之部
喜屋武村古地図、島尻郡村図、大日本全図、台湾地図、幕府時代学校図、薩摩琉球古地図、支那全図、北京城内図、鍼灸図解、日本城閣の図、旧藩生理巻物、旧藩庭作手本、旧藩弓術手本、琉球歴代対照表(歴代王統表)、治家捷経(蔡温著作表解)、那覇泉崎古地図、石鼓山全景、唐船設計図、接貢船設計図

1936年7月18日 中村清二、首里市見物。北殿の郷土博物館見学「宜湾朝保短冊、天王寺仏壇の抽戸の彫刻、野外遊楽用の携帯道具、燭火を反射する目的の凹面鏡、古陶器、官吏の冠及び帕、婦人の衣裳、紅型染め標本、漏刻などを見る。/7月26日、一行は集合地たる波上神社鳥居際で同所からバスに乗って午前8時出発した。同行は新垣氏の外に谷本氏と沖縄教育会主事の島袋源一郎氏と工業指導所の窯業部の鈴木利平氏と余と其他の人と併せて一行9人であった。→1947年1月 中村清二『硬と軟』要書房
1936年8月28日、昭和会館で沖縄観光協会の設立協議会も島袋源一郎の挨拶ではじまった。観光協会の会長に那覇市長が就任した。協会趣意書に「空にはダグラス機が就航しました。福岡台湾は勿論東京、大阪、朝鮮、満州からも沖縄に一と飛びに行ける便利な時代になりました。海には大阪商船の新造船が愈々来春から配船せられ大阪那覇間の航程が三日に短縮されようとしています。空に飛行機、海に優秀船、陸に無線電話があれば沖縄ほど旅行の好適地は他になかろうと思われます」とある。□思うに、観光の好適地は地政的には軍事基地としても最適地ということである。それが沖縄戦を引き起こした要因の一つであろう。限りある地球資源を食いつぶす軍事基地は、何処の国に於いても軍事基地は即撤去し、こと沖縄では人類の平和と健康を考える基地に転換すべきだ。テレビのコマーシャルではないが明日ではもう遅い。評論家もテレビ新聞で小遣い稼ぎをしないで実際に活動してもらいたいものだ。
1936年10月16日 昭和会館で「山崎延吉農事講習会」
1936年12月25日 昭和会館で「空手道振興協会発会式」
1937年2月  沖縄空手道振興協会(昭和会館内)会長ー蔵重久知事、副会長ー古思了聯隊区司令官陸軍大佐、副会長ー金城紀光那覇市長、総務部長ー平野薫学務部長、宣伝部長ー島袋源一郎教育会主事、指導部長ー屋部憲通
1937年3月5日 比嘉朝健、郷土博物館に来館
1937年3月19日 『大阪朝日新聞』「日本最初の聖書 ベッテルハイム琉球語バイブル写本 アメリカの宣教師ブール氏から沖縄県教育会主事島袋源一郎氏に贈られた。早速県立図書館の珍書として所蔵」
1937年4月27日、午後7時入港の首里丸でベッテルハイム孫ベス・プラット夫人がルーズベルト米大統領の親書を持参来沖。宝来館で休息、波上宮参拝、護国寺、善興堂病院を訪問。午後は金城那覇市長を訪問、又吉康和の案内で泊の仲地紀晃宅、天久寺、外人墓地。/5月2日、金城那覇市長公舎で晩餐会、来賓として北村、阿嘉、野町の3牧師、山田有登、島袋源一郎、屋冨祖徳次郎、親泊政博ら。、プラット夫人作の油絵「ベッテルハイム像」を那覇市に贈呈。
1937年4月28日~30日 昭和会館で「袋中上人、尚寧王、儀間真常顕彰展覧会」
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1937年  沖縄MTLのメンバーの愛楽園敷地視察ー写真左から当山正堅、4人目・當間重剛、山田有登、島袋源一郎、8人目・野町牧師
1937年11月3日 粟国校二宮尊徳像銅像除幕式
1937年11月4日  那覇尋常高「河村只雄講演会」
1937年11月10日 島袋源一郎、世持神社鎮座祭出席
1937年11月7日  首里市図書館開館式、島袋源一郎参列
1937年11月17日 昭和会館で「トラウツ博士、二見孝平、下地玄信講演会」  
1939年4月11日~13日 昭和会館で琉球新報主催「琉球民芸品展」
1939年5月10日 金城朝永、昭和会館来館
1939年6月26日 島袋源一郎の長女キヨ子死去(27日告別式)
1939年7月22日 沖縄県教育会夏季講習会講師・東恩納寛惇来沖。

1938年8月下旬 沖縄県衛生課撮影「屋我地癩療養所 愛楽園全景」 
1939年8月20日 沖縄郷土協会総会。会長・志喜屋孝信、副会長・島袋全発、幹事長・島袋源一郎が選出される。

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 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみに、この時の平安神宮建築技師が伊東忠太。


1927年12月『國本』伊東忠太「不平等は天賦なり」
□翻って考ふれば、宇宙の諸現象は皆不平等、不自由なるが為に生ずるので、一現象毎に一歩づつ平等と自由とに近づくのである。斯くて幾億劫の後には絶対の平等自由が実現されて宇宙は亡びるのである。社会の現象も亦た不平等、不自由の力に由て起こるので、一現象毎に一歩づつ平等自由に近づくのである。斯くて幾万年の後には絶対の平等自由が実現されて社会は滅亡するのである。個人の一生も亦不平等不自由の為に支配せられて活動して居るのである。吾人の一挙一動毎に一歩づつ平等自由に近づくのを以て原則とする。斯くて百年の後絶対の平等自由が得られた時は即ち吾人の死んだ時である。
人は生まれた瞬間より一歩づつ死に向かって進むので、同時に又自由平等に向かって進むのである。絶対の平等自由を強要するのは即ち死を強要する所以である。要するに吾人は各自の職貴を竭して社会文化の向上に貢献すれば善いので社会の安寧秩序を保つべき条件の下に吾人の平等自由が適当に制限さるべきことを認容しなければならぬ。制限なき平等自由は假令之が與えられても吾人は之を受けることを欲せぬものである。何となれば之を與ふる者は悪魔であり、之を受くる者は之が為に身を亡ぼすからである。
 
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1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」
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1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」

1924年
3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

①『科学知識』「琉球紀行」□余は沖縄到着の第五日目の晩に脚の関節に鈍痛を覚えたので、テッキリやられたと直覚して寝に就いたが、夜半過ぎから疼痛が全身の関節に瀰漫し来り、朝になって見ると起きかえることは愚、寝返りも出来ぬ程の痛さである。(略)兼ねて東京を出発する時、琉球に悪疫の流行して居ることを聞知して居たので、入澤達吉博士に注意事項を問うた処が、博士は若しも沖縄で病気に罹ったら金城医学士の診療を受けるがよいと教えて呉れた。そこで早速同学士の来診を求めた所が、学士は直ちに来て呉れた。一診してこれは軽いデング熱である、2,3日で快癒すると事もなげに断言して呉れたので大いに安心した。(略)金城学士の話によれば、那覇市では殆ど毎戸に患者があって、一家一人も残らず感染した例も珍しくない。那覇6万の人口中、少なくともその三分の二は感染したものと思われるが死者は今の所43人である。夫は何れも嬰児で脳膜炎を併発したのであると云う。余が全治した頃は那覇の方は下火になり、追々田舎の方へ蔓延する模様であった。土地ではこれを「三日熱」と唱えて居る。夫は熱が大抵三日位で去るからである。
8月20日午後3時 大阪商船の安平丸で鹿児島へ。8月22日ー『沖縄タイムス』伊東忠太「琉球を去るに臨みて」。8月25日に東京着□→1925年1月~8月『科学知識』に琉球紀行を連載□1928年5月ー伊東忠太『木片集』萬里閣書房(写真・首里城守礼門)
1925年
1月ー鎌倉芳太郎、沖縄の新聞に啓明会から発行予定の「琉球芸術大観」発表。□(イ)序論ー分布の範囲、遺存の概況、調査物件の項目 (ロ)総論ー史的考察、時代分期
(ハ)各論①建築ー1王宮建築、2廟祠建築、3寺院建築、4住宅建築、5陵墓建築、6橋梁建築 ②琉球本島の部ーイ純止芸術(美術)篇ー1紋様、2絵画、3彫刻 ロ応用芸術(工芸)篇ー1漆工、2陶磁、3織工、4染工、5金工鋳造、6雑工 ③宮古八重山の部 ④奄美大島の部

1925年2月 坂口総一郎『沖縄写真帖』第一輯 画・伊東忠太

1926年2月『考古学雑誌』第16巻第2号 伊東忠太「古琉球の芸術」

1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
     □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 

1929年
2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」

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3月ー新光社『日本地理風俗体系』第12巻(カラーの守礼門)□伊波普猷「守礼門ー首里府の第一坊門を中山門と言ひ、王城の正門に近い第二坊門を守礼門と言ふ。前者は三山統一時代の創立で、『中山』の扁額を掲げたが、一時代前に毀たれ、後者はそれより一世紀後の創立で、待賢門と称して『首里』の扁額を掲げたが、万暦八年尚永即位の時、明帝の詔勅中より『守礼之邦』の四字を取って『首里』に代えた。以後守礼は首里の代りに用ひられる」
10月ー鎌倉芳太郎・田邊孝次『東洋美術史』玉川学園出版部

1942年(昭和17年)ー俳聖殿(伊東忠太の設計は、三重県伊賀市にある松尾芭蕉生誕300年を記念する木造建築物。上野公園(伊賀上野城)内にある。

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 「くろねこの短語」2018年11月20日-昨日の夕方に速報が飛び交ってからというもの、メディアはゴーン一色。まるで極悪人扱いという、手の平返しの凄まじいこと。それにつけても、日産の社長の記者会見はゴーン憎しが言葉の端々に感じられて、なんとも気分の悪いものだった。これって、ようするにクーデターだよね。別にゴーンの肩持つわけじゃないけど、「一人に権限が集中し過ぎた。負の側面であることは事実で、将来に向けて精算していきたい」なんて社長の会見聞いてるとまるで「正義のヒーロー」面しちゃって、だったらゴーンの悪さを見逃した自分たちの無能さはどうなんだよ、って突っ込みたくなっちまう。
 それにしても、またしても絶妙なタイミングなんだね。国会では、入管難民法改正案ですったもんだしている今、ゴーン逮捕はワイドショーの格好のネタですからね。これで、入管難民法改正案はもちろん、片山も桜田も麻生も、さらにはまだまだ終わっちゃいないモリ・カケ疑獄も霧の中ってことになっちまうんじゃないのかねえ。ていうか、それを目論んでいるんじゃないのか。何十億という高額報酬が槍玉に上げられているのもわかりやすい。これなら、高額所得者に鉄槌というイメージ操作ができて、東京地検特捜部としても「やってる感」をアピールできますからね。
 地検特捜部と日産の間で司法取引があったんじゃないかという憶測も飛んでいるようだし、ゴーン一人を悪者にしてシャンシャンというわけにいきまんよ、たぶん。そう言えば、ゴーン逮捕は、思いの他根が深そうなジャバンライフ隠しって噂もあるようだけど、どうなんでしょうねえ。

「くろねこの短語」2018年11月19日-(前略)ー「少子化対策に逆行」という意見もあるようだけど、なによりも「妊婦加算」は女性差別そのものだろう。「妊婦加算」より「妊婦控除」こそなすべき政策ってことだ。ところで、生活保護叩きの鬼嫁・片山君の看板問題なんだが、さいたま市の許可を受けていなかったそうで、取り外されたってね。鬼嫁曰く、「業者に広告費用を払っているだけなので、条例に関する話はうちに来ない」そうです。生活保護叩きする前に、テメーのケツを拭きやがれ!!
 看板をとくれば、産経新聞が全国紙の看板を下ろすとさ。部数減少で経営難だってんだが、しょせんは自民党広報紙なんだから、これからは「アベ様のサンケイ」としてネトウヨ相手にせいぜいフェイクニュースを垂れ流すことだ。ついでにフジTVも全国ネットから退場したらどうだ。

 「くろねこの短語」2018年11月18日-昨日からナベツネ死亡説がネットを駆け巡っているようで、初老の小学生・ペテン総理が外遊から帰国するまで読売は発表を先伸ばししているとか。果たして、真相やいかに。そんなことより、またしてもひょっとこ麻生が他人の悪口を言って顰蹙買ってるってね。なんでも、福岡市長選の応援演説で北九州市の市長が東大出身ってことをあげつらって「人の税金を使って学校に行った」って批判したんだとか。税金使って飲み食いしたり、愛人に貢いだりしているスットコドッコイに言われたかない、っなもんです。
 それにしても、福岡市長選とは何の関係もない北九州市長を槍玉に上げるってはどんな了見なんだろうね。この男、ほとんどビョーキなんじゃないのか。少なくともまともな神経ではないことは確かだ。他人を貶めることで自らの正当性をアピールしようという卑劣な手口は、ペテン政権になってからというもの政治屋どもの常套手段になってるんだね。銀座のクラブでホステス前にしてオダ上げてるのと同じ感覚で政治ごっこやられちゃたまったもんじゃありませんよ、ったく。
 そもそも、朝鮮人労働者から搾取し続けた一族の末裔に「人の税金を使って学校に行った」なんてことを言われる筋合いはありません。私学にだって多額の助成金が出てるわけで、ちなみにこやつの出身校である学習院は補助金の多い私立大学ベスト50にランクインしているんだよね。それはともかく、ひょっとこ麻生の品性下劣さは、もはや看過できないレベルまできているのは間違いない。ゴルゴ13はどこぞにいないものだろうか。

「くろねこの短語」2018年11月16日-(前略) 入管難民法改正案は、とどのつまりは低賃金労働者の確保にあるんだね。審議が長引けば長引くほど技能実習生の失踪(と言うよりは脱走に近い)の実態が世間に公になって、現代の奴隷制度ってことが明るみに出ちゃうんだから、そりゃあ成立を急ぐわけだ。ところで、カーペンター桜田君がサイバーセキュリティー担当でありながらパソコン使えないとかで、国会が紛糾したというから笑っちまう。「USBジャックをご存知か」と問われて「たとえあったとしても万全の対応をする」って頓珍漢な答弁したそうで、ははは、「ハイジャック」と間違えちゃったのね。でもって、頓珍漢答弁の白眉がこれです。「(USBを)使う場合は穴を入れるらしいですけど、細かいことは私はよく分かりませんので、専門家に答えさせます」 いまどき、三流芸人ですらこんなギャグはかましませんよ、ったく。カーペンター桜田君は「自分は大工だからわからない事もある」とわけわかんない弱音吐いたりしてるそうだが、そりゃあ大工に失礼だろう。謝れ!!

 「くろねこの短語」2018年11月14日-(前略)でもって、言い換えとくれば、「徴用工」を「労働者」って言い出してるのもそのひとつで、なかでもこれこそ三百代言の白眉ってのが「日米FTA」と言い募っている「日米TAG」だ。アメリカ副大統領のペンスが来日して、初老の小学生・ペテン総理と日米貿易協定について会談したけど、来日前にツイッターで「FTAに向けた交渉について議論する」ってハッキリと言ってるんだね。ようするにペテン総理は嘘をついてるってことなのだ。こんなにわかりやすい嘘を、なんでほったらかしにしてるのか。「実態は日米FTA」ってメディアは口にしてるけど、ペテン総理が嘘ついていることにはいたって寛容なんだね。なんで「日米TAGは嘘」ってハッキリ言わないのかねえ。
 ペテン政権の得意技に、データ捏造・改竄ってのもある。なんと、日銀がそうしたペテン政権の体質に不信感を持ち始めたそうだ。なんでも、「国内総生産(GDP)など基幹統計の信頼性に日銀が不信を募らせ、独自に算出しようと元データの提供を迫っている」とか。これに対して「内閣府は業務負担などを理由に一部拒否している」ってんだが、そもそも日銀が政府が発表した数字を疑うというのは凄い話なんだね。ペテン政権の終わりの始まりか・・・!?

 「テレ朝」11-11〇財務省の文書改ざん問題で、職員が自殺した近畿財務局のOBらが財務省の前で麻生財務大臣の辞任を求めました。職員が自殺した近畿財務局OB:「自死に追い込まれるという悲惨な結果を招いたにもかかわらず、麻生大臣は佐川氏は有能と持ち上げる。そんなことは断じて許されない」
 近畿財務局のOBや市民団体らは、麻生大臣の即刻辞任を求めています。麻生大臣は、これまでに財務省が改ざんを行った動機を「分かれば苦労しない」としたままで、改ざんを主導した佐川氏について、「有能な行政官」と発言しています。市民団体は9日、麻生大臣の辞任を求める1万人分の署名を財務省に提出しました。

 「くろねこの短語」2018年11月11日-(前略)ところで、ペテン総理が日本会議と組んで強行突破しようとしている「憲法発議」なんだが、どうも雲行きが怪しくなったからなのだろう、ここにきて加計学園献金疑惑の下村君がやたら強気の発言を繰り返している。先週末にCSの番組でこんな発言しています。「高い歳費をもらっているのに改憲議論しなかったら、国国会議員として職場放棄」 ははは、相変わらずの馬×鹿ですね。憲法遵守義務こそあれ、改憲の義務なんてものは国会議員にはありません。そんなことより、テメーの献金疑惑を説明することこそ、国会議員としての義務なんじゃないのか。まずは、自分の頭のハエを追ってからにしろ!!

  『しんぶん赤旗』11月10日ー東京都水道局幹部天下り
 東京都水道局発注の浄水場排水処理業務をめぐり、公正取引委員会が独占禁止法違反の容疑で立ち入り検査を行った水事業大手の水ing(スイング、東京都)に、水道局幹部OB2人が天下りしていたことが9日、本紙の取材で明らかになりました。水道局の職員が入札情報を漏らした疑いも生じており、都と企業の癒着関係が問われます。(略)本紙の取材で、水ingに元水道局設備担当部長が2011年9月に「技術建設部担当部長」の肩書で天下りした他、元多摩水道改革推進本部長(局長級)が15年前後に「特別顧問」の役職に就いていたことがわかりました。関係者によると「立ち入り検査を受けた会社には、都OB3人が直近まで在籍していた」といいます。水道局は13~17年度の5年間に、水ingに対し工事や施設管理など計106件を発注。発注額は計104億円余に上ります。水道局と水ingの両者は本紙の取材に、「公取委の調査に全面的に協力しているので(都OB問題は)お話しできない」としています。(略)
 過去10年間に都水道局職員が関与した汚職事件は4件発生。▽係長が局発注工事で業者に便宜を図り107万円の謝礼を受け、逮捕(2012年)、懲戒免職▽職員2人が工事入札で最低制限価格情報を元職員に漏えい(11年~13年)、罰金の略式命令▽職員が工事入札で最低制限価格情報を業者に漏えい(11年)、罰金の略式命令―を受けています。(略)都発注の豊洲新市場、20年東京五輪競技施設など大型工事を受注した大手ゼネコンには都OBが大量に天下りしており、癒着構造の抜本是正が迫られます。

 「くろねこの短語」2018年11月6日-国会は、入管難民法改正案という、へたすると国のカタチを変えかねない重要法案を抱えているというのに、ポンコツ内閣の在庫一掃閣僚のおかげで吉本新喜劇も真っ青のドタバタ劇が展開されている。主役のひとりが、そもそも答弁能力が疑われていた五輪担当大臣のカーペンター桜田君だ。ラオックス蓮舫君を相手に、とんだどつき漫才を演じてくれた。たとえば、「東京オリンピックのビジョンは?」なんてストレートな質問に席すら立とうとせずに、お付きの役人の支持をじっと待つだけ。さらに、オリンピックの見込み予算額を「1500円」と言い間違えたり、そのポンコツぶりはさすが「適材適所」ってことだ。
 確か、初老の小学生・ペテン総理は、組閣にあたって「いぶし銀の人材」とのたまってたんだよね。ところがどっこい、これではいぶし銀どころか錆びついた鉄屑ってことだ。顔を赤くして、ひたすら汗を拭く姿を見た家族は、さぞかしやるせなかったことだろう。それにしても、組閣からの1ケ月間というもの、この男はいったい何してたんだろうね。まさか、大臣になれたからって、連日宴会していたわけじゃないだろう。お付きの役人も同罪だ。レクチャーする時間はたっぷりあったはずだから、大臣が阿呆だからは通用しません。予算委員会でも、質問のたびに役人自ら右往左往したところをみると、こいつらもただのポンコツなのかもね。
 そして、もうひとりの主役が、生活保護叩きの鬼嫁・片山君だ。舌ったらずの杉尾君の質問に、いちいち小走りで答弁席にやってくるその姿に、財務省のエリート官僚だった面影のカケラもありません。選挙運動で平気で土下座できちゃう誇りのなさもむべなるかなってことだ。過去の言動もここぞとばかりにつつかれて、もうボコボにされちゃってます。口利き疑惑は深まるばかりだし、いつ引導を渡されるか・・・期待に胸膨れる火曜の朝であった。

 「くろねこの短語」2018年11月5日-初老の小学生・ペテン総理が率いるポンコツ内閣が成立して早1ケ月。まだ何も仕事していないのに、「政治とカネ」がらみの疑惑が出るわ出るわ。談合で行政処分された業者から献金貰った裸でピンポンダッシュの沖縄北方担当大臣・宮越君。バスツアーで利益供与疑惑の「教育勅語を現代風にアレンジ」の文科大臣・柴山君、指名停止処分された企業から献金受け取った科学技術担当大臣の平井君。この男は、在庫一掃セールの代表みたいな陣笠です。
 そして、生活保護叩きの鬼嫁・片山君が「政治とカネ」の真打として注目が集まっているんだが、そんなポンコツにもうひとり仲間が加わった。地味すぎて誰も知らない農水大臣の吉川君だ。なんでも、現在係争中の太陽光発電所を巡る詐欺事件で口利きしてたんじゃないかという疑惑があるんだとか。裁判では「バッジの方」という言い方で被告人が国会議員の関与を認めているとかで、その御仁が吉川君じゃないかというわけだ。大臣会見で記者に「一部の報道で北海道の補助金詐取事件の口利きをした議員が吉川大臣だという声も上がっています」と質問されて、「お答えしようがない」なんてトンチンカンかな返答しているところをみると、限りなく黒に近いってことなのかもね。言下に否定しないところがなんとも臭い。

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 「脳細胞と宇宙は驚くほど似ている」がネットで飛び交っている。

島袋百恵 画「末吉麦門冬」

 麦門冬・末吉安恭は1886年5月に首里儀保で生まれた。沖縄師範附属小学校を卒業後の1902年上京した。杉浦重剛の日本中学や、神田の英語学校に通いながら演説会に行ったり、図書館で好きな本を読んで抜書きしたりして新しい知識を貪欲に求めた。1904年に一時帰郷し、名護真松と結婚。1905年再上京、弟の安持と同居。1906年、長男・安慶が生まれると帰郷。
 麦門冬(龍の鬚・ヤブラン藪蘭)は俳号。歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と色々と使い分けていた。麦門冬も身内(先祖)の毛鳳儀を1919年の『沖縄朝日新聞』に「王舅・池城毛公」として長期連載している。末吉家は毛氏池城一門で、その始祖は新城親方安基、俗に<大新城>といい、唐名は毛龍○<口+全>である。一門は八重山でも繁盛していて1928年9月の『先島朝日新聞』には「八重山毛氏一門の美挙 当地毛姓には本年大祖大新城親方の三百五十年忌に相当するを以って門族相図り記念運動場南の墓地に大祖の記念碑を建設し去る2日盛大に其の三百五十年祭を挙行せり」として毛姓・池城安伸の祭文まで記されている。

1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」

 華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・
 麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。

 4月、南方熊楠顕彰会から『南方熊楠邸資料目録』が贈られてきた。巻末の人名索引に私の名前が有る。驚くと同時に記憶が甦った。1984年の夏、麦門冬・末吉安恭書の軸物「松山うれしく登りつめ海を見たり」を背に担ぎ熊本城を経て、田辺の熊楠邸を訪ねた。折よく文枝さんが居られたので麦門冬の写真を仏壇に供えてくださいと差上げたものであるが、大事に保存され且つ目録にまで記されるとは夢にも考えなかった。飯倉照平先生に電話で伺うと、研究会では熊楠没後の写真なので収録することに悩んだという。と書いた。そして麦門冬の親友・山城正忠を紹介した。正忠は那覇若狭の漆器業の家に生まれた。若狭は漆器業が多い。麦門冬の手ほどきで琉球美術史研究に入った鎌倉芳太郎(人間国宝)は「思うに(福井県)若狭はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し(略)、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、十五世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資(漆器)生産のための若狭の居留地が造成された」(『沖縄文化の遺宝』)と推定している。
平成17年12月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風③末吉安恭と南方熊楠」

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 鎌倉ノート〇鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店(1982年10月)には首里王府画人伝と題し、長嶺華国「琉球歴代画人表」、末吉安恭「琉球画人伝」とあるが,これは村松梢風『本朝画人伝』に倣って鎌倉さんが付けたもの。「琉球画人伝」の恵光翰友寄筑登之で「彼以前に沖縄美人を画く者もあったが、髪を画くにあたり昔風に根をつめて結う髪の形が野暮ったくこれを絵にしても面白くないので、恵光翰は大いにここに工夫をこらし、根をゆるくして左右に張り広げるように画いたため髪がひき立って美しく見えるようになった。その髪風がまもなく辻の遊女の間に行われ、また一般婦女子にもこれを模する者が現れ、これが流行となって新しい明治風俗の琉球美人を形成した」と琉髪にふれている。


大正12年3月 『沖縄タイムス』莫夢生(末吉麦門冬)「春景雑筆ービーチャー」
3月5日の新聞に「七高教授の日野光次氏の琉球鼠の悪臭は異性を呼ぶ為」記事を見て麥門冬は「ビーチャー」を書いた。
○琉球鼠と呼ぶなら下に必ずビーチャーと添名しなければならぬ。琉球にはビーチャーの外に普通の鼠もいるからである。単に琉球鼠と云ったのでは琉球にはこの悪臭を発する眼の小さい鼠しかいないようで変だ。どこまでも琉球は違っていると人に思わすのも面白くないからである。

ビーチャー

1920年11月 『日本及日本人』南方熊楠「大本といふ神號」/麥生(末吉安恭)「薩人の虐殺」→吉田茂の妻:雪子は牧野伸顕伯爵の娘で大久保利通の孫。1941年に死別。後妻は喜代(元新橋の芸者)である。アベやアソウも薩摩の大久保利通の血が流れている。まぁ戦後歴代の総理は皆親戚だが。


2016年ー若狭龍神と初日

1936第23回二科美術展覧会 饒平名智行「唐破風」

龍神と月
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1966年5月『守礼の光』表紙「玉城節子さんの真乙女『竜神の舞い』の舞台より」


1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』

儀間比呂志の絵本 1978年『りゅうと にわとり』ひかりのくに


儀間比呂志の絵本 2016年1月『りゅうになりそこねたハブ』福音館書店

1976年 渡口精真(狛江市)の年賀状

2003年8月 原田禹雄『琉球を守護する神』榕樹書林
〇醍醐寺の清瀧宮は、醍醐寺の鎮守の杜で、理源大聖宝が、醍醐寺を開基したときに勧請した。祭神の清瀧明神とは、裟伽羅龍王の第三王女である。この神は、唐の青龍寺の鎮守神であったのを、弘法大師空海が帰朝するときに勧請し、それを、聖宝が醍醐寺に勧請したとされる。もともと醍醐は、水とのゆかりの深い霊地である。上醍醐に勧請された清瀧宮もまた、醍醐水のかたわらに建立された。青龍①の二字に、それぞれサンズイヘンをつけて清瀧としたところも、請雨の祈祷に名をはせた醍醐寺らしい配慮がしのばれる。下醍醐の清瀧宮は、承徳三年(1099)に、上醍醐から勧請された。(略)袋中は『琉球神道記』で≪私云く、爾ば琉球の二字、恐らくは龍宮の韻なり。那覇は、阿那婆達龍王の所居なるべし≫(略)袋中は、琉球を守るキンマモンに、この白い蛇体、ないし、龍体の神を感得していたらしい。いや、天照大神も蛇体と思っていた節がある。
①青竜(せいりゅう、せいりょう、拼音: qīnglóng チンロン)は、中国の伝説上の神獣、四神(四象)の1つ。東方青竜。蒼竜(そうりゅう)ともいう。福建省では青虎(せいこ)に置き換わっている。現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように緑色植物の色であり、本来は緑色をしているとされる。東方を守護する。長い舌を出した竜の形とされる。青は五行説では東方の色とされる。また、青竜の季節は春とされている。天文学上は、二十八宿の東方七宿に対応する。東方七宿(角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿)をつなげて竜の姿に見立てたことに由来する。道教における人格神化した名前では、東海青龍王敖広と呼ばれる[要出典]。清瀧権現の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。秩父神社の「つなぎの龍」が青龍である。俳句において春の季語である「青帝(せいてい)」・「蒼帝(そうてい)」・「東帝」と同義であり、春(東・青)の象徴である。但し、「炎帝」・「白帝」・「玄帝(冬帝)」と違い、「青帝」はあまり使われない季語であるため、小型の歳時記や季寄せから削除されている場合が多い。なお、春のことを「青春」ともいう。→ウィキペディア

沖縄県立博物館の封筒


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 東京古書会館の古書即売展で、金城朝永の『異態習俗考』を入手し、酒井潔『愛の魔術』の贅沢版を捲ったことがある。酒井は、風俗大衆雑誌のオルガナイザーの梅原北明の盟友で、澁澤龍彦の「魔道」にも先鞭をつけている。金城も伊波普猷も風俗雑誌に論考を発表していた。
1967年、東京で紀田順一郎の『古書店地図帖ー東京・関東・甲信越』図書新聞社を入手した。専修大学の方には移転する前の長門屋書房と同じ通りに巌南堂、崇文堂、向かいの通りに篠村書店、原書房、高山本店などがある。反対の御茶ノ水駅に向っては明倫館書店、一誠堂、田村書店、小宮山書店、玉英堂書店、東陽堂書店、弘文堂書店、大屋書房、三茶書房、文庫川村などがある。この本を片手に東京古書会館に出入りした。また高円寺の球陽書房も知った。この本が最初に出合った紀田順一郎氏の著書である。今では紀田氏書斎も大体想像できる。後に紀田氏がこの本の発行年を誤植、それを指摘すると、紀田氏自筆の葉書をもらった。これは私の宝物となっている。

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1980年1月 小寺謙吉『寶石本わすれなぐさー書物奇譚』「児玉花外『社会主義詩集ーまぼろしの詩集を死守した男』/東郷青児・古賀春江 薔薇画入『ルゥベンスの偽画』ー美書を愛のかたみにした青春挽歌」西澤書店、1983年4月 紀田順一郎『とっておきの本の話』実業之日本社/1983年4月 紀田順一郎『とっておきの本の話』実業之日本社〇1955年6月マルコ・ペイジ『古書殺人事件』中桐雅夫訳(早川書房)




2004年4月24日『沖縄タイムス』新城栄徳「古本屋と県産本」



東京・球陽書房↓

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 盆の挨拶回りで親戚のところから帰ると『日本古書通信』(日本古書通信社 〒101-0052 千代田区神田小川町3-8 駿河台ヤギビル5F ☎03-3292-0508 FAX:03-3292-0285)が来ていた。本日は物外忌((沖縄学の父・伊波普猷の命日)である。『日本古書通信』1045号の「バジル・ホール来琉200周年」には伊波普猷のことも記している。


2016年8月 『日本古書通信』1045号 新城栄徳「バジル・ホール来琉200周年」

 わが国に航海術や造船術を伝えた英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、平戸のイギリス商館長を勤めた リチャード・コックスも努力した人たちである。アダムズはオランダ船リーフデ号の水先案内人として当時の豊後(大分県)に 漂着した人物である。その後、平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの命を受け、シー・アドヴェンチャー号の船長として、 タイへ向かう途中乗組員の不穏な動きを察知して、五島に引き返しているが、その際沖縄から持ち帰った一袋のサツマイモをコックスに 送っている。時に1615年6月2日のことで、コックスはその日の日記に「大御所が大阪の城を取り、フィディア(秀頼)様の軍を 滅ぼした」報せを受けたとも記している。6月19日になって、コックスは、「庭を手に入れて、リケア(琉球)から将来された藷を そこに植え」、1年当たり10匁(英貨5シリング)を支払うと記している。すなわち、平戸に菜園を借り栽培を試みたわけである。 しかし、その後の実績は記されていない。現在平戸の川内浦の鳶の巣に「コックス甘藷畑跡」が残っており、この地域ではサツマイモを 「琉球イモ」または単にイモと呼んでいたといわれるが、そうであるとすると、何らかの実績が見られたのではないかと想像される。→鈴木俊(東京農大国際食料情報学部教授)

1796年 英船プロビデンス号虻田に来航。翌年室蘭に来航
1798年 近藤重蔵、択捉を調査。帰途ルベシベツ山道を開く
1811年 国後でロシア艦ディアナ号艦長ゴローニンが幕府の警備隊に捕らえられる

 バジルホールの現在の認知度を画像検索すると「バジルホール(@ashurnasirpal2)」が出て満島ひかりちゃんが出てきた。「満島ひかり」を検索すると、女優の黒柳徹子の自伝的エッセイ『トットひとり』『トットチャンネル』を原作にしたNHKドラマ『トットてれび』で、満島ひかりが黒柳役を務めているが、映画「夏の終り」では若き日の瀬戸内寂聴を艶っぽく演じている。さらに検索すると沖縄県沖縄市出身。ユマニテ所属。弟は俳優の満島真之介、妹はモデルの満島みなみ、となっていて、初めて沖縄出身だとわかった。話が本題から逸れてしまったが、この偶然も必然として見逃してもらいたい。正確にバジル・ホールでウィキペディアを見ると「19世紀のイギリスの海軍将校、旅行家、作家。インド洋、中国、琉球、中南米各地を航海したことで知られる。ベイジル・ホールと記述されることも多い。 ナポレオン1世に『琉球では武器を用いず、貨幣を知らない』と伝えた」とある。また 「Facebook/バジル・ホール研究会」も参考になる。
 
1816年(文化13)7月25日、イギリス軍艦アルセスト号(艦長マレー・マクスウェル)・ライラ号(艦長バジル・ホール)、那覇に投錨/9月6日、首里王府、マクスウェル館長の国王への謁見要請を謝絶。/7日、両船、那覇を離れる。後にライラ号の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

Basil Hallは1788年12月31日、スコットランド エディンバラで生まれて、1844年9月11日ポーツマス王立ハスラー病院で死去(55歳)。
「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人のキーツ、ウォルター・スコット、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジェームズ・ボズウェル、トマス・カーライル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。
スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベル、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装(マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム、消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。
羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬などである。『聖書』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。→ウィキ


『バジル・ホール琉球航海記』最も大きいのが初版(1818年)で、小さいのが3版(1826年)
2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

那覇市歴史博物館で「バジル・ホール来琉200周年記念/ウランダーがやってきた!」の図録を見せてもらった。上の地図に書き込みがある地図も掲載されていた。担当の鈴木学芸員がネット「ヨーロピアナ」①で収集したフランス国立図書館蔵のものだ。(2016ー8ー4)

①欧州委員会は、EU加盟国の図書館や博物館が所蔵する書籍、文献、映像、絵画などを検索・閲覧できる「ヨーロピアナ」という電子図書館を開設した。インターネットを通じて、400万件以上のデータに無料でアクセスすることができる。ヨーロピアナは、2008年11月20日に公式オープン。ところが、初日の1時間で1000万件を超えるアクセスがあり、サーバーが停止してしまった。モナリザの絵やベートーベンの楽譜といった有名なアイテムも閲覧することができ、大変な人気となったためだ。オープン早々「一時休館」となったヨーロピアナは、その後、コンピューターの処理能力を上げて、12月24日に再オープンした。ヨーロピアナは、EU加盟国の公用語である23言語で利用可能であり、欧州市民の誰もが身近に利用できるよう配慮されている。もちろん、日本からもアクセスできる。欧州の図書館や博物館が所有する日本関連のアイテムも閲覧することできる。


「ベッテルハイム」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房

 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク
岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン」
 中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。

1912年 バージル・ホール・チェンバレン「ある新しい宗教の発明」(神道の資源を引き継ぎながら新たに作り上げられた天皇崇拝のシステム)→タカシ・フジタニ『天皇のページェントー近代日本の歴史民族誌から』(1994年 日本放送出版協会)/2016年10月『春秋』島薗進「明治天皇崩御と国家神道」

1926年6月 武藤長平『西南文運史論』岡書院
○内藤虎次郎「西南文運史論序」/新村出「小序」
○末吉安恭、東風平東助二君の好意で古き『沖縄集』一冊(写本)と新しき『沖縄集』二冊(宜湾朝保輯板本)とを一覧した。

右 ピントウ航海記 1663年ロンドン刊行  ホール著琉球紀行 1840年ロンドン刊行


伊江朝睦筆「島津日新公いろは歌」(𤘩宮城氏所蔵)



1930年8月『日本地理大系 第九巻 九州篇』改造社

1931年12月『琉球新報』伊波普猷「ナポレオンと琉球」
1932年1月 『改造』伊波普猷「ナポレオンと琉球」
1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される



1936年3月(1948年2月 再版) 中村清二『見たり聞いたり』「琉球とナポレオン」(初出1910年9月発行『學生』冨山房)古今書院

1943年4月 中村清二『田中館愛橘先生』中央公論社/1947年1月 中村清二『硬と軟』要書房

1937年1月9日、神戸から那覇港に波上丸処女入港/4月、在米沖縄県人会(松田露子)『琉球 THE LOOCHOO』第4号/4月27日、午後7時入港の首里丸でベッテルハイム孫ベス・プラット夫人がルーズベルト米大統領の親書を持参来沖。宝来館で休息、波上宮参拝、護国寺、善興堂病院を訪問。午後は金城那覇市長を訪問、又吉康和の案内で泊の仲地紀晃宅、天久寺、外人墓地。/5月2日、金城那覇市長公舎で晩餐会、プラット夫人作の油絵「ベッテルハイム像」を那覇市に贈呈。



3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」

1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。
1970年4月、『沖縄ポスト』(『沖縄ジャーナル』改題)「沖縄への理解訴えー沖縄関係資料室」/5月11日、NHKラジオ「ここに生きるー沖縄文庫にかける(西平守晴さん)」

1970年7月 川平朝申『琉球王朝史』月刊沖縄社
1974年5月 川平朝申『琉球王朝史』月刊沖縄社
1974年5月 川平朝申『沖縄県庶民史』月刊沖縄社
1971年4月、『青い海』創刊

7月16日『週刊言論』「西平守晴ー私設『沖縄資料室』で真の理解を訴え続ける」
この年の前後をみると、1969年4月ー安田寿明『頭脳会社ーシステム産業のパイオニア』ダイヤモンド社、1970年9月ー野口悠紀雄『シンク・タンク』東洋経済が出ている。私も1971年9月発行の『石の声』8号に「関西沖縄青年ミニ・シンクタンク構想」を書いた。

8月11日『読売新聞』(大阪版)「大阪に沖縄ありーサラリーマン部長が沖縄関係資料室」/10月『青い海』第7号□新城栄徳「粟国島」/12月11日、関西テレビ「土曜イブニングショウ」に沖青年友の会出演

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1990年2月『彷書月刊』54号□新城栄徳「沖縄に来た画家たちー(略)沖縄の美術史研究家の草分けは麦門冬・末吉安恭(南方熊楠、折口信夫と親交があった)で、沖縄美術史研究は麦門冬の手ほどきを受けた鎌倉芳太郎(人間国宝)、比嘉朝健によって、さらに発展する。この研究をふまえ、沖縄に来た画家たちの絵や紀行文を新聞雑誌から収集し、人物を主体に沖縄の美術、文学、風俗の事項を網羅した文庫版の『近代沖縄文化年表』を友人たちと実現してみたい。」/この文化年表は下記のように『琉文手帖』4号として1999年5月に発行した。「文人・末吉麦門冬」を補足するものである。/2006年5月『彷書月刊』248号□新城栄徳「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾編」

 『彷書月刊』(ほうしょげっかん)は、1985年9月に創刊された日本の月刊誌。株式会社彷徨舎から刊行。のち弘隆社より刊行。古書と古書店をテーマにした情報誌で、毎号異なる特集記事、本に関する連載、古書即売会の情報のほか、巻末には数十ページの古書店目録(古書店が売り物を公表するカタログ)が掲載されている。編集長は田村治芳(田村七痴庵)。2010年10月号(300号)をもって休刊した。→ウィキ



田村治芳、元日に逝く
2011年の元日に、田村治芳が死んだ。享年60。食道がんだった。2日の朝、星谷章くんが電話で知らせてくれた。→源泉館備忘録2011年01月06日


2017年2月 鹿島茂『神田神保町書肆街考-世界遺産的”本の街〟の誕生から現在まで』筑摩書房〇目次ーⅠ・神保町という地名/蕃所調所の設立/東京大学の誕生/『当世書生気質』に描かれた神保町/Ⅱ・明治十年前後の古書店/明治二十年代の神保町/Ⅲ・神田の私立大学/漱石と神田/神田の予備校・専門学校/Ⅳ・神田神保町というトポス/中華街としての神田神保町/フレンチ・クォーター/お茶の水のニコライ堂/Ⅴ・古書肆街の形成/神田と映画館/神保町の地霊/Ⅵ・戦後の神田神保町/昭和四十~五十年代というターニングポイント
◇「学者が去って、オタクがやってきた」私が田村書店洋書部の奥平禎男氏と2001年に月刊誌「東京人」で対談したときの見出しにはたしかにこう書かれていたはずだ。これは果たして、神田神保町の未来を開くことになるのかそれとも閉じることになるのか(略)政府がクール・ジャパンの輸出などと浮かれたことを言っているあいだに、オタクの牙城である神田神保町が崩壊しないとは限らない。杞憂に終わることを祈るのみである。
 ◇クールジャパンとは、日本の内閣府「クールジャパン戦略のねらい」によると「外国人がクールととらえる日本の魅力」であり、クールジャパンの情報発信・海外展開・インバウンド振興によって世界の成長を取り込み日本の経済成長を実現するブランド戦略「クールジャパン戦略」政策で使われている用語である。 →ウィキペディア
 ◇青木 正美(あおき まさみ、男性、1933年4月22日 - )は、古書店主、日本近代文学研究者。 東京生まれ。1950年(昭和25年)東京都立上野高等学校定時制課程中退。半年ほど玩具工場に勤務したのち、1953年(昭和28年)東京都葛飾区堀切に古本屋・青木書店 (開業当時の名称は一間堂)を開業する(2008年現在の店主は、青木正一)。 古書店業のかたわら、文筆活動にも精力的に取り組む。神保町の業者中心の「明治古典会」の会員となり、のち会長をつとめた。→ ウィキペディア

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息子。小学校入学前に、左は麻布にあった法政大学沖縄文化研究所玄関で、初めて外間守善氏、比嘉実氏と談。/右は渋谷区の早川図書前。
比嘉実
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奥が比嘉実氏、新城栄徳、崎浜秀明氏、明治新聞雑誌文庫の北根豊氏/中央が比嘉実氏、右が新城栄徳

外間守善(1924年12月6日 - 2012年11月20日)

2000年12月 伊波普猷 著/外間守善 校訂『古琉球』「琉球訳聖書」岩波文庫


写真ー伊江邸で外間守善氏(右)、新城栄徳/1990年10月ー外間守善(文)・桑原重美(写真)『沖縄の祖神アマミク』築地書館

2007年3月ー外間守善『回想80年 沖縄学への道』沖縄タイムス社

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 法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。
□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

1973年6月 沖縄の雑誌『青い海』通巻24号 「インタビュー/中野好夫ー沖縄と私」
なかのよしお【中野好夫】
1903‐85(明治36‐昭和60)
昭和期の評論家,英文学者,平和運動にも貢献。愛媛県松山市生れ。1926年東大英文科卒業。中学教師などを経て35年東大助教授,48年教授に就任。敗戦直後みずから〈戦犯第1号〉を名のり,以後一貫して民主主義と平和のために,〈知こそ力〉という姿勢を律義に貫いた。53年〈官学〉を辞し,著作活動に専念する。著作は多岐にわたり,モームの《雨》,シェークスピアの《ベニスの商人》など精細な原文分析による達意の翻訳をはじめ,専門の《シェイクスピアの面白さ》(1967),《スウィフト考》(1969),また人間の内面への飽くなき好奇心と歴史への関心に支えられた《アラビアのロレンス》(1940),《蘆花徳冨健次郎》(全3冊,1972‐74)などの評伝は,伝記文学に新生面を開いた。(→コトバンク)
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2005年1月『世界』中野利子「漢那憲和のこと」
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新星出版で左上から新城栄徳、松島弘明社長、下左・松居州子さん(漢那憲和の孫)、中野利子さん
中野利子
1938年東京生、慶應義塾大学文学部卒。父は中野好夫、母方の祖父は土井晩翠。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。著書は「君が代通信」「教育が生まれる-<草の根>の教師像」「教師たちの悩み唄-10の人生ドキュメント」「H・ノーマン-あるデモクラットのたどった運命」等。93年「父中野好夫のこと」により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

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めいじしんぶんざっしぶんこ【明治新聞雑誌文庫】
東京大学法学部に所属し,同大学史料編纂所地階にある。1981年以降,原資料部(旧,近代立法課程研究会)とともに,〈近代日本法政資料センター〉と呼ばれる。明治時代に発行された全国各地の新聞・雑誌を専門に収蔵している(大正以後のものは明治の創刊で続刊されているものに限られた)。内外通信社博報堂の創業者瀬木博尚の寄付により1926年設立決定,翌年2月から事務を開始した。初代主任宮武外骨の努力で多くの貴重な新聞・雑誌が収集された。

「関西日誌2011-9」
大阪市・靱公園から北のほう西区江戸堀と土佐堀通の交差点に「宮武外骨ゆかりの地」(滑稽新聞社跡)の碑がある。近所には薩摩藩蔵屋敷跡、大阪上等裁判所跡などがある。場所名を確認しようと検索したら「ときどき日記」(同名のブログ多し)というブログに出会った。中に「確認まだ先の見えない原発事故の行方だが、最近、事故の悪化の責任を内閣の不手際にして問題をすり替えようとする動きや、事故の原因は地震ではなく津波だったことにしたいという東電の思惑などが見え透いていて不愉快だ。原発を再稼働する条件として「地元の了解」ということもまことしやかにいわれているが、原発問題は空港の騒音問題などと違って、国民全体の了解が必要なことはいうまでもない。地元の範囲をどこまでと考えるか、という問題もあるが、地元はすでに原発と利害関係をともにするような関係になっているのだから、その地元に客観的な判断をもとめるのはどだい無理な話なのである」と、外骨に関心がある人にしては健全な考えの持ち主である。(その後、調べてみたら吉野孝雄氏であった。氏は1945年、東京生まれ。早稲田大学文学部露文科卒業。元千葉商業高等学校国語科教諭。近代文学史、ジャーナリズム史研究者。また外骨の甥で外骨研究者)。

□ブログ「宮武外骨解剖」連載お休みのながーいご挨拶で吉野孝雄氏はー「外骨の跡地を訪ねて」の連載が終わり、さて次に何を書こうか、と考えているうちに震災と原発の問題が起こった。もうそれどころではなくなった。毎日、原発の放射線やヨウ素などの数値などの正確な情報を集めるのに忙しくなにか落ち着かなくて、頭に余裕がなくなった。単純作業をしていると落ち着くので、空いている時間は掃除や片付けなどの単純作業に没頭している。なにしろ、災害に際しては自分の身は自分で守る、という防災政策をモットーにしている知事の東京都に生活しているので、自分の身は自分で守るしかなく、放射能などの危険性の正しい情報も自分で集めるしかないのである。日本政府の発表は信頼性がいまひとつなので、現在のところもっぱらフランスからの情報に依存している。なぜ、自分の国の情報を外国に求めなくてはならないのか?だから、原発の今後の見通しが不透明なのと同じように、この連載の再開も今のところまるで見通しが立たない。よって、連載は原発の見通しがついてからということにさせていただいて、当分の間お休みします。

□吉野孝雄「正しい、正しくない、乱れている、などという価値観をともなうことについては個人の意識の問題であって、そこに権力が入り込んでくることには問題がある。「日の丸」は美しい旗だという歌や、「富士山」が日本一の美しい山だという歌が戦前から戦後まで歌われていたが、美意識や価値観を国家が決めるとろくなことにはならない。そういえば、かつて「期待される人間像」などということを言い出した政権もあったなあ。」   




1918年6月24日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑰、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「昨年の『日本及日本人』春季拡大号に『酒泉等の話』という論文の中に耳塚のことにつき柳田国男氏説を駁されたことは至極尤もに存じ奉り候。丘浅次郎『進化論講話』。豚の化物。豚と不動」□安恭の人物ポンチ絵□1920年2月1日『日本及日本人』775号に、安恭は「糞汁が解毒剤ー支那の昔には誠に糞喰うことあり」、1923年7月15日『日本及日本人』866号に「支那人と豚」を書いている。「御問合せの茶臼、倒澆蝋燭のこと、我琉球にては何と申候哉と、小生いろいろ尋ね候ひしも知る者これなく・・・・・」とある。さすがの博覧強記の麦門冬も辻通いは専ら酒だけで、そういうことには疎い。前に、真喜志康忠優に「茶臼は沖縄口で何と言われるんですか?」と問うと、「むちゃき」と言われた。最近、仲宗根幸市氏の本を見ていると、八重山六調(坐興歌)に「ー思う男が上になり 下からもちゃげよ面白さー」と出ている。


1929年11月 再生外骨主筆『面白半分』第六號





1941年3月 宮武外骨『府藩縣制史』名取書店

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1968年12月ー『真鍋博の鳥の眼』毎日新聞社/この年、福岡の金平団地の土建屋でアルバイトをして旅費をためて鹿児島へ向かう。鹿児島の日本調理師会の事務所の紹介で温泉ホテル「中原別荘」(赤線の場所)で調理師見習。鹿児島は古本屋が少ないが、ビルの間から見え隠れする噴煙の桜島は幻想的だ。
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1968年4月6日ーデパート山形屋・丸屋での「日本の開眼・鹿児島百年」展パンフにあった未来の鹿児島。

 今年は「明治維新150年」ということで色んな催しがあった。かつて「維新」というアナクロニズムが流行っていた。これは手垢がつきすぎた坂本竜馬などが象徴となっていた。1968年4月に鹿児島での明治100年はデパート山形屋・丸屋で開かれ私も見た。
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1960年8月に那覇の琉映本館で「壮烈新撰組/幕末の動乱」を見て以来の新撰組大好き人間だから「維新」を口にする人間は生理的に合わない。そのころオリオンでは「地底探検」「類猿人ターザン」を上映していたせいでもないが、江戸文化を再評価してみたい。

東京江戸博物館や京都国立博物館で開かれた「新撰組展」

「壮烈新撰組/幕末の動乱」中央・片岡千恵蔵

映画ー1960年8月「壮烈新撰組・幕末の動乱」琉映本館・桜坂琉映


東映太秦映画村の片岡千恵蔵コーナー
かたおかちえぞう【片岡千恵蔵】 1904‐83(明治37‐昭和58)
映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。(→コトバンク)

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東海道新幹線ー1964年(昭和39年)10月1日に開業
輸送力が限界に達していた東海道本線の混雑を解消するため、根本的対策としての別線増設という形で1959年(昭和34年)4月20日に十河信二国鉄総裁と技師長の島秀雄の下、高速化が図れる標準軌新線(在来線は狭軌)として着工され、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した(開業時の総裁は石田禮助)。建設開始時は「新幹線」という呼び名はなく、第二の東海道線ということで「東海道新線」と呼んでいた。新幹線の名前は、戦前に東京駅 - 下関駅間で計画された「弾丸列車計画」の内部関係者による呼称にちなむといわれている。〔ウィキペディア〕


□→2008年3月 角一典『整備新幹線問題年表 1907-2007』法政大学社会学部科研費プロジェクト「公共圏と規範理論」
 
 私の16歳は、東京・新宿歌舞伎町の大衆割烹・勇駒新館で働いていた。勇駒本店隣に鮒忠①もあった。当時、新宿は副都心と称していた。現在は伏魔殿と謂われた都庁があるので都心であろう。新宿は個人の存在など歯牙にもかけない喧噪で無味乾燥なビルが林立する巨大歓楽街であるが、ときおり朝霧が立ち込めゴミが散乱する早朝の静寂は何とも言えない退廃的な雰囲気であった。職場には学費を稼がなければならない大学生バイト(早稲田が多かった)が5人も居たのでヒマな学生の政治運動やスポーツには興味も関心も無かった。沖縄出身に元出版社に居たという神里氏、いつも朝にヌンチャクの稽古をしていた。王城(喫茶)にも入口に沖縄出身が居て、「困っていることがあれば相談に来い」と言ってくれた。

当時の新宿歌舞伎町(真鍋博1968年12月)

歌舞伎町の大衆割烹・勇駒本店 

1977年8月 桜井華子『東京の味Ⅲ』保育社「いそ料理 勇駒」
①根本忠雄(ねもと ただお、1913年 - 1988年)が1946年9月1日に同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業。川魚の捕れない冬場のメニューとして、進駐軍向けの鶏肉(ブロイラー)を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始。焼き鳥を大衆へ大々的に販売することを始めたのは日本初と言われ、「焼き鳥の父」と呼ばれたという。根本忠雄『年商十五億のやきとり商法―鮒忠立志伝』 柴田書店 (1965年)『鮒忠の江戸ッ子商法』 東京経済 (1972年)→Wikipedia。現在、勇駒はネット上出てこないが、鮒忠はもう老舗となって三代目が卸、ケータリング、レストランの3事業をネットも活用し引き継いでいる。

 勇駒新館の支配人は出っぷりとした人で読書人。週に一回は紀伊國屋本店に雑誌や本を買いに行かされた。もちろん私も本屋は大好きだから喜んで行った。紀伊國屋本店には名物社長の田辺茂一がいたが見たことはない。この年は、「夢の島」の蠅騒動、ベ平連、河野一郎・江戸川乱歩・谷崎潤一郎・高見順らの死去、横井英樹襲撃で東京を震撼させた安藤組の安藤昇が映画俳優として登場したのが週刊誌を賑わしていた。店にはヤクザの長老も常連で来る。その一人が「近くで安藤昇のロケがあったのだが奴は小柄だからいかに大きく見せるかで周囲が悩んだ」という。これを聞いて思い出したのが、以前、錦糸町のボウリング場で美川憲一が雑誌の取材でボールを投げるマネをしていた。誌面では見事にストライクとなっている。何事でも演出は必要だと思った。集団就職での上京の目的のひとつに、神田の古書街に通うことがあった。新宿は夜の街で前衛的な文化(サブカルチャー)の街で芸術文学の分野も幻想、終末、刹那・頽廃なものであふれていた。安藤昇のレコード「新宿無情 」[1965]も出ていたが今ではYouTubeで聴くことができる。


右に新宿コマ劇場
新宿コマ劇場とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムによって運営されていた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。/1956年(昭和31年)2月にコマ・スタジアムが設立。大阪・梅田にあった梅田コマ・スタジアム(梅田コマ劇場の前身)の姉妹劇場として当劇場が建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。→ ウィキ

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新宿・勇駒新館でー左に座っているのが新城栄徳、柴田マネジャー。柴田マネジャーに早稲田の学生がバイトさせてくれという、即採用。/新宿コマ劇場近くには琉球泡盛屋が数軒あった。

 柴田マネジャーは秋田の人、生真面目な人で未熟な人生観の持ち主の私を色々と注意してくれた。自宅にも連れて行かれ、マネジャーの痩躯にくらべふっくらとした色白の奥様の手料理を御馳走になった。寮の相棒に熊本出身の23歳の青年が居た。小柄だが休みの日にはコマ劇場の前などでプレイガールをお茶に誘い旅館に行き、その女性との一夜をこと細かく手帳に記していた。今だったら一流のホストになっていたが、私はそれでよく性病を移されなかったものだと感心した。店には茨城出身の威勢のいい2歳年上の子も居た。彼は駐車中の車を弄り人身事故を起こしその賠償金を払うため働いているという。また別の相棒に長崎出身の同じ年頃の子も居た。彼は年に似合わず、木の根っこを入手、磨きあげオブジェにして楽しむ人物であったが、繊細ゆえ「ゴールデン街」の人となった。後に柴田マネジャーは高円寺で焼鳥屋を開いた。

新宿は夜の街で昼間は時間がある。よく図書館に行った。二十歳前だから国会図書館は入れないので、区立図書館や日比谷図書館を利用した。神保町の古書街、古書会館もよく行った。別に調理士だからというわけではないが神保町の古書店から買った本に李家正文『厠(加波夜)考』がある。中に三田村鳶魚や金城朝永の本からの引用がある。金城の『異態習俗考』にも厠に関する論考がある。『梅毒図譜』というのも買った。私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。

 新宿勇駒の仕事は夕方の5時半から深夜の12時までであった。営業終了後、掃除をしあと片づけが終わり、皆で日本酒を飲みながら毛ガニ、フグちり、焼き鳥、生野菜の鍋を食べ終わると2時頃になる。コマ劇場横の銭湯に入り、寮に帰り同僚たちと会話。長引くと寝るとき朝日が差し込んでくる。寮の隣のビルはトルコ風呂のお姉ちゃんたちの寮であったが話をした記憶はない。異性は店から寮に帰る途中に女娼、男娼が立っている。そのとき私は運悪く16歳の夢見る年齢、異性には関心は薄かった。本屋・古本屋に行くのが唯一の趣味であった。高円寺の球陽書房で最初に買ったのが江戸川乱歩『乱歩随筆』青蛙房 昭和35年であった。乱歩の小説は好みではないが随筆は好きであった。
 
 1965年当時、東京に居るころは全く性風俗雑誌に沖縄関係記事は無いと決めつけていたが、最近ネットで表紙と目次が見られるようになったのでチェックしてみた。『風俗奇譚』である。同誌は1960年1月に文献資料刊行会から創刊された性風俗雑誌。内容はSMを中心に、ゲイ・レズビアン、レザー・ラバー・乗馬・腹切り・女格闘技などの各種フェティシズム、そして女装と、多種多様な性的嗜好を大集合させた感じの「総合変態雑誌」。(→三橋順子)先発の『奇譚クラブ』があった。前記の雑誌には沖縄に関する記事は無かったが、『奇譚クラブ』に、1953年2月ー木之下白蘭「琉球の女達」(白蘭は1936年5月『サンデー毎日』の大衆文芸に「撤兵」が当選)◇1972年7月ー道場瑞夫「SM通信 沖縄復帰と沖縄美人」が見える。(2011-10記)

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表紙「Cocco」〇本誌『オキナワグラフ』(以下グラフ)は、1958年4月に創刊された。発行人は崎山喜昌、編集人が神村朝堅。創刊者の人物像は余り知られてないが、崎山は名護に生まれ11歳のときに父を亡くしている。15歳で上京し、神田の中学に入学、チンドン屋、新聞配達のアルバイトをしながら苦労して日大夜間部に入るが、胸膜炎にかかり帰郷する。1928年に沖縄物産販売の目的で再び上京し、鶴見に泡盛卸商を開業する。31年、東京深川に進出。一時、佐久田昌章と沖縄物産商会を経営したこともある。 
 崎山は泡盛で得た資金で37年、那覇西新町に高級旅館「那覇ホテル」を経営する。戦時中、軍命で南洋パラオに渡り、戦後、引揚げ南洋群島引揚沖縄人援護会を組織し理事長となり南洋庁沖縄人関係残務整理事務所の嘱託、南洋群島共助義会理事を経てドイツ製のカマでパン製造の朝日製菓株式会社を創立した。その朝日製菓の住所と電話番号は後に沖縄映画配給株式会社(国場幸太郎会長、宮城嗣吉社長)の東京支社となる。グラフが初期のころ映画や沖縄物産の宣伝に力を入れていた背景には崎山の経歴によるものがある。後に生地跡に「崎山図書館」を寄贈し、名護市立図書館の母体となった。(以下略)


『南島』1934年2月10日


『自由沖縄』1947年2月20日


1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「崎山喜昌」


『サンデーおきなわ』1971年5月15日



1981年ー國場組創立50周年記念祝賀会で、國場幸太郎の右隣が崎山喜昌

崎山喜昌ー1995年2月2日、死去86歳 沖縄テレビ放送会長、沖縄テレビ開発会長、九州東急ホテルチェーン取締役、沖縄証券前会長、沖縄三越元相談役、沖縄グラフ社元社長/名護市名誉市民

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 2017年6月ー前々から気になっていた「古本くろねこ堂」を検索してみた。古本くろねこ堂の本は、耽美・幻想・神秘・異端・怪奇・エロスなどをキーワードに、店主が気ままに集めたものです。系統だったジャンル分けはしていませんが、“奇妙な味”の本の世界をお楽しみください。とある。この、“奇妙な味”の本はほとんど私が東京在住の1964年頃の神保町で立ち読みしたものだ。関西ではだいぶ入手したが。
 1964年、神保町古書街で『宝石』(推理小説専門誌)を見たことがある。澁澤龍彦が「黒魔術の手帖」(1960~1961)を15回連載していた。澁澤がオカルティズムの初期の頃のエッセイ。悪魔学、サバト、黒ミサ、錬金術、タロットカードなど、西洋の黒魔術について紹介した書物。「青ひげ」のモデルといわれる幼児殺戮者ジル・ド・レエ侯について紙幅を多く割いている。『宝石』は古本屋の店先に積まれてあったからよく立ち読みしていた。単行本の『夢の宇宙誌』を錦糸町駅ビルで買ったのが澁澤との最初の遭遇である。『黒魔術の手帖』もすでに単行本で本屋に並んでいた。<読書傾向も澁澤本の手引きで南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、酒井潔、日夏耿之介へと続く。
◇『宝石』(ほうせき)は、日本の推理小説雑誌。1946年創刊、1964年まで発行された。出版社は、創刊時は岩谷書店、1956年からは独立した宝石社となった。この期間の日本の推理小説界を代表する雑誌。宝石社の倒産後、光文社が版権を買い取って、1965年10月に男性向け月刊総合雑誌として再刊し、1999年まで発行された。光文社は他にも『宝石』を冠する姉妹誌として、『週刊宝石』『小説宝石』『SF宝石』を刊行。この光文社版と区別して推理小説誌時代を旧『宝石』と呼ぶこともある。
  澁澤龍彦に会おうと思ったのは、テレビで千円雑誌『血と薔薇』発行が報じられたからである。5日後、鎌倉に澁澤を訪ねたのは1968年の10月9日であった。年配の女性がお茶を持ってきてくれたり応対してくれた。(同年、澁澤は夫人・矢川澄子①と別れたばかりであったから母堂であろう。)そのうち2楷からトックリシャツ姿でパイプを持った澁澤が応接間の椅子に座り、甲高く透き通る声でいろいろ話をしてくれた。「京都に行く機会があれば稲垣足穂さんに是非会うといい。子どものような純粋な精神の持ち主だ」「沖縄出身の友人に彫刻家が居る」とか、発禁本の話もしてくれた。澁澤は1987年8月5日、59歳で逝去。今の私は澁澤の年齢から9年も越えている。
①矢川澄子 やがわ-すみこ
1930-2002 昭和後期-平成時代の小説家,詩人。
昭和5年7月27日生まれ。渋沢竜彦と離婚後,44年ごろから創作活動にはいり,短編集「架空の庭」でデビュー。また美術書や児童書の翻訳も手がけ,おおくの訳書がある。平成14年5月29日自殺。71歳。東京出身。東京女子・学習院大卒,東大中退。詩集に「ことばの国のアリス」,評論集に「反少女の灰皿」,翻訳にエンデ「サーカス物語」など。(→コトバンク)




1973年4月ー沖縄タイムス創立20周年記念事業『現代の幻想絵画展』(朝日新聞社後援)
□藤野一友「抽象的な籠」→ブログ「藤野一友=中川彩子作品集 天使の緊縛(河出書房新社)ー藤野は、澁澤龍彦と交流があり、瀧口修造から評価を受けた日本のシュルレアリスム系の画家である。藤野一友の絵画の魅力は、潜在意識(夢、幻想)の世界を描きながら、自動筆記(シュルレアリスム的手法、お筆先)に走るわけでもなく、かといってアンフォルメル(無形象)や抽象に走るというわけでもなく、どこまでも明晰に細密ともいえる具象画の方法で追求したことにあるだろう。画法としては、夢の世界を具象的に描いたという点で、サルバドール・ダリに近いと思えるが、ダリが俗なる人間の本性を暴露する方向に向かったのに対し、藤野は反対に俗なるもののなかから、至高性へと向かっていく傾向があるように思える。 」、古沢岩美「コルドバの朝の幻想」、香月泰男「業火」


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1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1969年7月10日 三島由紀夫、「弓張月」取材のため来沖 」



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佐久田繁(1926年~2005年4月12日)


集英社文庫『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の索引に佐久田繁が無い。また宜保俊夫のライバル又吉世喜(スター)は正喜となっている。沖縄に於ける雑誌ジャーナリストの先駆者が索引に無いのは不満である。この戦後史に登場する人物の大概はすでに『月刊沖縄』で取り上げている。1961年11月号に「縄張り”暁に死す”」でスターの西原飛行場事件、1963年3月号では「殺し屋に殺された暴力団」と題し又吉世喜や喜舎場朝信の顔写真を掲載している。その暴力団のアジトは月刊沖縄社の隣り近所に位置する場所である。同年5月号には「嵐を呼ぶ男ー熊谷優」に長嶋茂雄と石原裕次郎にかこまれた熊谷優の写真が掲載されている。


2013年8月9日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー高良一」

高良一□1954年9月 亀川恵信(平良市下里571)『宮古先覚者の面影』池間利秀、義武息廣、佐久田繁「高良一氏半生記」-1924年、大阪実業学校入学。25年中退し早稲田法制学校入学。1927年、徴兵検査で宮古へ帰郷。大阪谷水力伸鋤動社入社。1928年、大阪沖縄県人会運動に参加。1931年、関西沖縄県人会連合会理事。1934年、月刊『礦源社』発行。国粋大衆党此花区第二班遊説部長。1936年、時事写真同盟通信社にニュース記者。波之上丸処女航海の試乗招待で帰沖。本部町政刷新運動に参加。公聲新聞記者。1941年、本部町産興商事組合長。映画演劇「みなと館」経営。本部、那覇、与論間の海運事業「合同運輸会社」設立。那覇で「昭和織物工場」設営。

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『現代沖縄』表紙ー神村真紀子/『月刊沖縄』表紙は真喜屋優


1962年10月『月刊沖縄』渡名喜守定「ああ!壮烈 親泊大佐ー日本の敗戦をはぢて 一家ことごとく自決し果てた最後の武人」


1962年11月『月刊沖縄』「故郷の空に散った伊舎堂特攻隊長」


1962年12月『月刊沖縄』「日本一の中隊長 大舛大尉」


1963年3月『月刊沖縄』「殺し屋に殺された暴力団」


1963年8月『月刊沖縄』「座談会ー今だから話そう/逃げようとした牛島中将」□宮城嗣吉(琉球映画協会会長)ー沖縄戦だが、私はみんなが見る沖縄戦とは見方がちがう。とにかく真相はヤミだ。というのは、沖縄の進駐当時まず慰安所の経営から手をかけた。軍規が乱れていた証拠だねあれは。日本人は我々が小さなとき、武士道とは”死ぬ事と見つけたり″と教え、兵隊では”忠君愛国"などをたたきこみ、組織的に訓練された軍隊だった。ところがどうだ。首里を中心として玉砕すべきだったものが、新垣、安謝から安里へ逃げたうえに陥落寸前に、撃てる銃を破壊したんだったな。陸軍は卑怯だったな。海軍はあんた、7,800名から一割しか生きていない。つかえる銃があるならば、最後まで闘うべきではなかったか、と思うね(略)何はともあれ、牛島中将、長参謀も卑怯だよ。住民が逃げかくれて安全だと思っている壕を占領しようとして、住民を壕から追い出したのだからね。

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1981年2月『青い海』「出版王国 沖縄のいまむかし」(座談会・佐久田繁、仲程正吉、桑高英彦、太田良博、津野創一)


1963年5月『月刊沖縄』「辻の女軍応召す」


1963年7月『月刊沖縄』「売春天国におどる男たち」

○1961年1月『オキナワグラフ』「コザの迎賓館ープリンスホテル(熊谷優 経営)」



1965年6月『月刊沖縄』「わたしたちはガス実験台に使われた!!」

調理師であった父の数少ない蔵書に、月刊沖縄社が1966年に発行した田島清郷『琉球料理』があった。同年には『乗用車への招待』も発行している。前出の料理本は一般向きでないため1975年に渡口初美の『実用・琉球料理』が発行されている。私が佐久田さんを知ったのは、久茂地の琉球書院で店主の大城精徳さんから紹介されたのが最初の出会いである。このころは青い海出版社や琉球文化社によく出入りしていたから月刊沖縄社はめったに行かなかった。

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2002年6月5日『沖縄タイムス』「魚眼レンズー茶貿易商に光、新城栄徳さん」



1937年9月 『月刊琉球』儀間正忠「国民政府と琉球館」/顔写真ー儀間正忠

福州琉球館

柔遠駅正庁(琉球館)


1937年1月 京都帝国大学文学部『史林』第22巻第1号 米倉二郎「福州の琉球館」


柔遠駅外小萬壽橋付近


福州南台郊外の墓地(前の2基は琉球人の墓)


琉球祠堂

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

美栄橋駅2018-10


9-29 昼の我が家の屋上/安里川


2016年8月19日 いなんせ フクギ(福木)  分類名:オトギリソウ科フクギ属
原産地:台湾 、フィリピン  樹高:10~20m 花色:クリーム色 
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1914年12月 石野瑛『琉球へ』三笑堂書店
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左1915年6月『琉球大観』(表紙・石野隆)三笑堂書店/1916年4月『南島の自然と人』(表紙・山田真山)三笑堂書店
『琉球大観』太田朝敷〇序ー琉球大観の発行大いに好し矣。歴史の概要、風土・気候・人口戸数より産業・交通・経済・娯楽等に至るまで、誠実に事実を集蒐せるは更に好し矣。元来外来者にして正しきレンズを以て琉球の正体を見たるもの至って稀なり。是畢竟弓張月、竜宮物語の如き極端なる浪漫的レンズを透して眺むる故、見るもの聞くもの殆ど奇談怪説に化せざるものなし。我輩之を遺憾とすること久し。今琉球大観の著あり。現在の事実を集蒐分類して来遊者の栞と為さんとす。今後本県に遊ぶもの、此の正しきレンズを透して見ば、自ら本県の正体を知るを得ん。/伊江朝助〇序/伊波普猷〇序

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1928年10月ー石野瑛『考古要覧』横浜文化協会

 武相中学校・高等学校ー1942年(昭和17年)、考古学者で歴史家でもあった石野瑛が、青少年教育の重要性を感じ、神奈川県横浜市港北区篠原町富士塚に旧制武相中学校創立。その後、生徒と共に原野であった松風台(現・武相台)を開拓し移転。当時この場所は見晴らしが良く、旧国名の武蔵国と相模国が一望できたことからその頭文字を一字ずつ取って校名にした。校名の由来ともなっている高台(武相台)は昭和17年当時非常に見晴らしが良く、横浜港はもちろん、遠く丹沢や富士山、房総半島も望むことができ、文字通り武・相両州が一望できたという。→ウィキ

1952年ー1961 石野瑛『神奈川県大観』(「自然と人文」、「横浜・川崎」、「鎌倉・三浦・湘南」、「湘東・湘中」、「湘西・湘北」)武相出版社

1960年1月 石野瑛『沖縄大観』武相学園

安藤佳翠


1991年4月22日『沖縄タイムス』「那覇市史編集室にあった新聞コピーは、那覇市泊の収集家・新城栄徳さん(42)が以前持ち込んでいた。新城さんによると、2年ほど前に名護市立博物館で戦前の新聞をめくっていて偶然目に・・・」

那覇市歌の制定については、戦禍で資料が失われたため、正確なことはわかっていません。 しかし、戦前の新聞の記録や作詞家の安藤氏の当時の日記などから、制定されたのは、1929年(昭和4年)ころと推定されています。 現在、市歌は、市の様々な式典や行事などで演奏されている外、ラジオの広報番組「那覇市民の時間」 のオープニング、エンディングのテーマ曲としても使われていて、広く市民に親しまれています。
市歌(楽譜)
作詞:安藤佳翠(あんどう かすい) 作曲:宮良長包(みやら ちょうほう)
1. あけぼの清き南(みんなみ)の 港にぎわう百船(ももふね)や まちはいらかの数増して 弥(いや)栄えゆくわが那覇市  
2. みどりも深き奥武山(おうのやま) めぐる入江の水なごみ 清き心に諸人の むつみしたしむわが那覇市  
3. ゆかりも古き波の上 あおぐ誠を捧げもて 理想の自治に進まなん 希望(のぞみ)かがやくわが那覇市
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1903年ー大阪で開催された第五回内国勧業博覧会美術館に出品したもの

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1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会/左端が比嘉崋山


写真・中央が比嘉華山





沖縄県献上衝立図(絵葉書)/上の原画
1928年11月ー昭和天皇御大典献上の螺鈿大衝立の原画(那覇港図・中山門)は比嘉華山、製作は友寄英茂とその弟子たち、衝立の木地製作は宮大工の玉城サンルー(その息子政康は戦後の守礼門復元に関わった)。沖縄県工業指導所で製作した。□1988年6月29日『琉球新報』に「黎明館の『漆絵螺鈿衝立』」が報じられ製作年代は不明とあった。新城栄徳はすぐ比嘉華山の作品と解釈、その旨を岡田新報記者に連絡。1988年7月5日の記事「製作は昭和3年ー鹿児島の琉球『螺鈿大衝立』」となり、序でに比嘉華山の顔写真も紹介した。





鹿児島で沖縄物産を扱う息子のために書いた絵

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琉球の絵師・慎克凞と阿嘉宗教
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左、1990年7月18日『沖縄タイムス』/右、1988年7月4日『琉球新報』

 1875年(明治8)年に来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。79年3月25日、琉球処分官・松田道之、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部、巡査160人余、熊本鎮台分遣隊400人来琉。島袋盛敏が「私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根嶂山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして嶂山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。嶂山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える」と述べているように、当時の画家の友寄喜恒、阿嘉宗教、佐渡山安豊、麻有信・儀間親雲上、兼城昌興、比嘉華山などは沖縄県庁や分遣隊の士官達の求めに応じて首里城や沖縄風俗絵を描いていたようだ。

仲里コレクション「友寄喜恒」
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司馬江漢写(?)


兼城昌興



 笑古漫筆には琉球美術史の史料も豊富である。私は置県後の画家、阿嘉宗教を見出して子孫を訪ねた。作品の「首里那覇鳥瞰図」も沖縄県立博物館、沖縄県立図書館、那覇市史編集室に所蔵されていることを確認した。同時期の画家、友寄喜恒の逸話も豊富である。(略)琉歌人として柳月庵、漢詩人・郷土研究家としての笑古の真境名安興を、伊波普猷は1924年刊行の『琉球史料目録』で「真境名安興氏は図書館開館当時から今日に至るまで、多大な貢献をされたばかりでなく、今その目録の公刊に当たり、序文を物して史料蒐集の経緯を審にされた。特に記してその労を謝する。(真境名安興)氏の名は恐らく郷土研究の続くかぎり記憶されるであろう」と記している。

1991年5月ー『山学校』№1□新城栄徳「絵図資料と首里城」
精細を極めたる『首里城正殿実施設計報告書』という資料があって、その中に「絵図資料」があるので、巷の沈潜したる首里城正殿の色彩、いわゆる「赤黒論争」と、大龍柱の「正面向き」、「向き合う」とかの論争を横目で見ながら思いつくまま述べてみよう。
 絵図資料の頁の左側「首里那覇港図」は、19世紀に描かれたもので、正殿、南殿、北殿、奉神門の屋根が連なって簡略化されている。正殿前の画廉と向拝部分は割と丁寧に描かれ大龍柱は向き合っている。右側の「首里那覇鳥瞰図」と「琉球王府首里那覇之図」の作者は同一人物で阿嘉宗教と言って友寄喜恒と同時代の画人である。


金城安太郎「王朝時代の那覇港風景」

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『オキナワグラフ』2018年11月号<特集・山田實生誕百年ー変わりゆく島を見つめてー>

 今年は山田實生誕100年。東京、沖縄などで写真作品が展示された。10月29日は山田写真機店でニッコールクラブ沖縄のメンバーによる記念の宴があった。(撮影・新城栄徳)


『オキナワグラフ』2018年9月号

写真右よりー中山良哲 ニッコールクラブ沖縄支部長、豊里友行氏、真栄田義和氏、山田勉氏

山田實「儀間比呂志」/山田實「1956年 美空ひばり 那覇公演」

山田實「瀬長亀次郎、伊波広定」/山田實「市場」

写真左からー伊佐眞一氏、中山良哲氏、大城さゆりさん、大城仁美さん/山田勉氏、中山良哲氏、嘉数理紗さん、比嘉清眞氏

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2018年8月11日ー11月4日 東京都写真美術館「夢のかけら」〇山田實作品も展示されている。
 TOP コレクションは、東京都写真美術館の収蔵作品を紹介する展覧会です。今年のテーマは「たのしむ、まなぶ」。この展覧会は、大人と子供、さまざまな立場の人たちが見たものや感じたことを自由に語りあって、作品の見方を深めていく、そんな光景が自然と生まれてくることを目指しています。本展では、「大人+ 子供×アソビ」、「なにかをみている」、「人と人をつなぐ」、「わからないことの楽しさ」、「時間を分割する/積み重ねる」、「ものがたる」、「シンプル・イズ・ビューティフル」、「時間の円環」という8 つのセクションに分けて34,000点以上におよぶコレクションの中から選りすぐった古今東西の名品をご紹介していきます。
出展アーティスト: ジャック・アンリ・ラルティーグ、林ナツミ、井上孝治、ロベール・ドアノー、山田實、井手傳次郎、 W.ユージン・スミス、本城直季、フェリーチェ・ベアト、ナダール、岩合徳光、ハロルド・ユージン・エジャートン、石田尚志、瑛九、竹村嘉夫、今道子、篠山紀信、川田喜久治、宮崎学 ほか→東京都写真美術館は、1995年、目黒区三田一丁目にある恵比寿ガーデンプレイス内に総合開館した、国内唯一の写真と映像専門の公立美術館。改修による2年間の休館の後、2016年秋にリニューアル・オープンした。
 

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2018年10月 『絵で解る琉球王国 歴史と人物2』JCC出版 島袋百恵「泰期」


島袋百恵・画「冨名腰(船越)義珍」

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(翁長良明コレクション)
1973年12月ー又吉眞三『琉球歴史・文化史総合年表』琉球文化社
この年表は一級建築士の著者より署名入りで贈られた。首里城復元に関わった人で、崎間麗進氏や大阪の沖縄関係資料室主宰の西平守晴、琉球文化社の大城精徳社長とは親交があった。私も色々とお世話になった。 →□ 郷土史年表

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写真左から、又吉眞三氏、新城栄徳、伊敷勝美さん、武石和実氏

 私は大分前から龍柱とは縁がある。首里城復元に関わっていた又吉眞三氏から、「新城君、君の提供した資料で寸足らずの龍柱が本来の高さに復元出来そうだ」と喜んで居られ、かつ話された、その資料を『首里城復元期成会会報』第7号で紹介してほしいと。同誌に載せたのが比嘉朝健「琉球の石彫刻龍柱」である。
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□本稿は1927年(昭和2)3月発行の『アトリエ』第4巻第3号の同氏(1899~1945)論文から転載したもので、新城栄徳氏から資料の提供を受けた。




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又吉眞三氏を囲んでー右から3人目が又吉眞三氏、左奥から西村貞雄氏、新城栄徳 


1982年8月 又吉真三『住吉神社並垣花各拝所合同神殿復興工事報告書』那覇市垣花奉頌会

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『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業

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 1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」

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1992年9月16日ー『沖縄タイムス』

講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている。


1875年(明治8)年に松田道之と琉球処分で来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。
 現時点で見られる沖縄写真屋の最初の広告は、1895(明治28)年の『袖珍沖縄旅行案内』所載の「岩満写真場ー那覇東村上の倉」で後の上之倉写真館である「那覇東村上の倉・岩満写真場「写真ー琉球絶景の眞趣を穿つは写真なり弊店写真中優等なる者は首里城、中城殿、師範学校、崇元寺、波の上、墓所、辻遊廓、市場、通堂浜、那覇市街、吾妻館、奥武山、港口、三重城中島海岸、蓬莱山なり琉球の眞景を知り度き人は続々御注文を乞う」とある。この沖縄旅行案内には旅店遊廓及び割烹店も紹介されている「遊廓ー辻を第一とし中島渡地之に次ぐ辻にて」有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむる所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸座席兼割烹店は東屋芸妓21人を有し常盤芸妓9人小徳芸妓10人海月3人合計46人」、演劇場は「本演芸場中毛演芸場壬辰座及び首里演芸場等なり開場は毎日午后2時より6時半より12時迄木戸銭は晝四銭夜三銭場代とてはなし」とある。同書発行5年前の1890年『沖縄県統計』を見ると写真師のところに那覇2人となっている。

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵

1900年2月 『太陽』第6巻第2号 山城正澤撮影「琉球風景」


1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。

1901年6月『東京人類学会雑誌』加藤三吾「沖縄通信(をがん、仮面、舞踊、丸木弓、古鏡、曲玉等の)ー1月27日の日曜に小生は那覇写真師・山城正澤並に琉球新報主筆・太田天南(両人とも沖縄人にて太田氏は慶応義塾出身に侯)同道にて参り山城は其外面一部を撮影致候」

 

山城正擇写真館/清容館(吉村貞)


1900年4月28日ー写真左から小嶺幸得、渡久地政勗、小嶺幸慶、前列左から渡久地政憑、小嶺幸秀、幸厚(山城正擇謹写)
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2011年『琉球新報』伊佐眞一「沖縄と日本の間でー伊波普猷・帝大卒論への道」10月25日(39回)に、伊波普猷夫妻、金城朝永夫妻と山之口貘、伊波普哲らの写っている写真を金城朝永関連で琉文21から引用している。
11月29日(43回)に「伊波の『海の沖縄人』ー『海上王国』を喚起 沖縄人の自覚、矜持示す」とし伊波を高く評価していることに意表を突かれた。この連載は確か伊波批判が主題ではなかったか。本人に聞くと「いや、見るべきものはチャント見ている」と言うことらしい。

写真家・𤘩宮城昇探求
𤘩宮城昇は沖縄j県第二中学校を卒業、1924年に東京高等工芸学校に入学した。

在学中の昇は1926年11月、表調社主催の写真展に「白衣を着たる少女」を出品する。27年11月には表調社第3回展覧会に「詠子さんの像」「MaKe up」を出品。同年、東京写真研究会主催の第16回展覧会に「ひろ子さん」出品し入選する。28年3月、東京写真専門学校()卒業。同年、第3回日本写真美術展覧会(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社主催)で特選を受賞。このころ写真雑誌『フォトタイムス』に論考を発表していると思われる。

1930年10月、秀英舎(現・大日本印刷)を退社し帰郷。31年、那覇で「昇スタヂオ」開業する。

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2000年5月27日『沖縄タイムス』写真人物、右から山田有登(写真家・山田實の父)、翁長助成、𤘩宮城宗倫(写真家・𤘩宮城昇の父)、山川文信、山城正好、宮里良貞


1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー前列右端に座っているのが山城正綱。真ん中の柱の中列右が瑞雨。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵
富名腰義珍『琉球拳法 唐手』の処女出版は武侠社から発行された。装幀は小杉未醒、山城正綱が挿絵。山城正綱の父は山城正澤。

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1893年9月15日『琉球新報』創刊

1989年11月30日『琉球新報』松島弘明「琉球新報初代主筆・野間五造の著書や論文発見」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 『琉球新報』の創刊は一八九三(明治二十六)年九月十五日だが、実はそれ以前にも新聞発行の動きがあったことが分かっている。一八九〇(明治二十三)年十二月十三日の『官報』に「沖縄新聞、隔日、琉球国泉崎村九番地、沖縄新聞社」と記されているが、この新聞は計画だけで終わった(新城栄徳「琉球新報」九三年四月二十日)。

■明治23年7月6日『九州日日新聞』「沖縄県に一新聞起るー行なきより近来時勢の進歩に連れて其必要を感する者日に増加し先頃来頻りに計画奔走中の者ありし由なるが今度同県庶務課属華族戸田敬義氏等の発起にて準備○○は整頓したるに依り愈々近日より一新聞を発行す○の○合なるが主筆には戸田氏自ら當る筈なりといふ」→國吉まこも氏提供

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

 同年9月23日、『読売新聞』は「琉球新報-かねて噂ありたる琉球新報は去十五日第一号を発兌せり吾人は之より琉球が社会上の問題として並びに経済上の問題として天下に紹介さるるを喜ぶ」と報じる。

 同年9月26日、『朝野新聞』は「琉球に新報起れリ-昔は絶海の孤島、今は沖縄県の奔蒼裡に、喜ぶべし開明の一機関なる新聞は起これり。今や計画準備全く整頓して、琉球新報と題名し、去る十五日を以って第一号を発兌したりという。発起人は尚順氏の代表者、島按司護得久朝惟、商人芝原佐一、按司高嶺某、同親方豊見城某、宮井悦之助、野間五造の人々にて、発行兼印刷人は伊奈訓氏、編集人は太田朝敷氏、校正は諸見里朝鴻氏なり。印刷機械は従来沖縄県庁に備え付けありしものを七万圓にて払い下げ、維持費には同県庁の公布式を引き受けし年額二千圓余を充つるはずなりとぞ。因に記す、新聞の発行は当分隔日なる由」。27日の『国民新聞』は「琉球新報は去る十五日那覇西村琉球新報に由て発刊せられたり曾て慶応義塾に遊学しつつありたる琉球人の筆になる云ふ」と報じられた。

私は1989年11月に、琉球新報初代主筆の野間五造の経歴を発掘したことがある。大阪府立中之島図書館で、たまたま講談社創立者の野間清治のカードを繰っていたら、琉球新報の野間五造を思い出しカードで調べた。著書が次々出てきた。『縦横公儀録』(1912年)、『日支合邦論』(1913年)、『立法一元論ー貴族院無用論』(1926年)などがあった。岡山県出身ということも分かった。岡山市立中央図書館に岡本月村(画家)と共に問い合わせると野間の写真、新聞記事、人名簿などのコピーを送ってくれた。

『中国新聞』によると、「桜痴時代の新聞記者として健筆をふるった五造は、若い血潮にまかせてシナ、琉球、タイワン、満州ととびまわり巨万の富を築いた実業家でもあった」とある。五造は1898年、30歳のとき、若さと金にものをいわせ木堂派の憲政党公認で衆議院に出て当選した。1900年から01年にかけて欧米、インド、北津、ロシアなどを視察して帰国。次いで02年の衆議院にも再選された。政界を引退し満州にわたり水運公司をおこし財をなして07年に帰国。銀座や明石海岸に大邸宅を構え政界を放浪し日夜、遊里で大尽遊びを続けていた。

1911年1月発行の雑誌『グラヒック』に美人論と題し「今日のように新橋全盛の世と移りかわっている。その新橋でも江戸っ子芸者から名古屋の金城美人の全盛を迎え、今は北越種を加味し来り。此のぶんで進めば台湾の生蕃や琉球のアンガが飛び出す時代もくるであろうと思われる」と書いている。五造の女性の好みは知らないが、最近のテレビなどに毎日のように沖縄のアンガが出ていることを
教えてあげたいものだ。

 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一は父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

麦門冬と太田朝敷


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□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」
「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの

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□沖縄芝居ー明治26年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。



1982年1月3版 那覇市『写真集・那覇百年のあゆみ』(琉球処分百年記念出版)

1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊り
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(略)沖縄の歴史を研究している新城栄徳氏(琉文手帖主宰)が、京都府立総合資料館で発見した大正8年の日出新聞(現在の京都新聞)に掲載されているもの。




上ー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」


1919年9月14日ー『沖縄時事新報』


1920年5月 『地方行政』小林次郎「沖縄の特殊行政」



1925年11月『沖縄タイムス』

1932年
●山里永吉の戯曲「那覇四町昔気質」が琉球新報に掲載されたのは昭和7年3月で、山里はその後記で「この戯曲は多分13日から大正劇場で上演されると思うが、考えて見ると大正劇場に拙作『首里城明け渡し』が上演されたのが一昨年の今頃、ちょうど衆議院の選挙が終わった当座だったと覚えている。それから昨年の正月が『宜湾朝保の死』、今度の『那覇四町昔気質』と共に尚泰王三戯曲がここに完成した」と述べている。

1929年11月 那覇の平和館で「先駆者時代」上映□原題: The Pioneer Scout 製作国: アメリカ 製作年: 1928 配給: パラマウント支社

1930年11月 那覇の平和館で①「百年後の世界(原名メトロポリス)」/「江戸城総攻メ」上映
①『メトロポリス』(Metropolis)は、フリッツ・ラング監督によって1926年(大正15年)製作、1927年に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画である。
製作時から100年後のディストピア未来都市を描いたこの映画は、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。SF映画に必要な要素が全てちりばめられており「SF映画の原点にして頂点」と称される。→ウィキペディア
□1985年2月 那覇の国映館で「メトロポリス」上映

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