05/29: 麦門冬と比嘉朝健
比嘉朝健(1899年11月22日~1945年)
1899年向氏亀山、比嘉カナの間に比嘉次良(次郎)妻はカマド。朝健は父次良、母は辻の女。
1900年7月『琉球新報』「広告ー1、唐茶類 1、銅鑼かね 其他種々ー小生儀此迄諸品買入の為福州へ渡航滞在候處這般帰県右品々廉価に差上げ申候間続々御購求被成下度偏に奉希候也 茶商 比嘉次郎 那覇警察署後通西詰」
1911年1月26日 『琉球新報』「亀山朝恆儀転地療養ノ為メ実父所国頭郡金武村字漢那ニ於テ静養中薬石効ナク去ル二十日死去致シ候此段生前巳知諸君ニ謹告ス 亀山朝奉/朝矩/朝摸/比嘉次郎/朝盛」
沖縄県立第一中学校中退
「女学校の三年生のころ、私はある裕福な家の息子(比嘉朝健)と縁談が進み、卒業までにウブクイ(結納)もとりすましていた。これは松山小学校の教師時代と思うが、解消した。当の婚約者も組合教会に来ていて、私とは話も交わしたりしたが、どうもピンとこない。とっかかりもひっかかりもない感じなのだ。もうこのころ私は、恋愛をへない結婚なんてあるものかとはっきり思っていたので、自分の気持ちが動かないのに困惑した。(略)私は意を決して、二人はどうも合わないと思うので、結婚はやめた方がいいのではと、自分で婚約者に申し出た。ところが相手は母親とは生さぬ仲だったので、自分の方からはどうしても言い出せないから、君の方から直接言い戻してくれという。」金城芳子『なはをんな一代記』(沖縄タイムス社1977年9月)
1920年 沖縄タイムス記者
1924年12月16日『沖縄タイムス』比嘉朝健「末吉安恭君を悼む」
1926年3月、那覇市役所庶務課
1927年6月20日、帝国大学文学部史料編纂掛雇(~1932年1月)
□同僚に森銑三.史料編纂官ー中山久四郎(東洋諸国史料調査)
1937年3月『沖縄教育』第247号/仲吉朝宏「雲海空青録ー博物館たより」
□3月5日帰省中の比嘉朝健氏来訪、之で第2回目である。氏は多年東京に生活せられ、芸術方面の蘊蓄の深い人『陶器講座』第2巻に「琉球の陶器」を紹介せられ、嘗ては自己所有の殷元良の「墨山山水図」を帝室博物館に寄贈せられた特志の人である。今帝室博物館年報の殷元良の記事を録すると
隼者、殷元良は琉球の代表的画人であって、清朝、乾隆帝時代に活躍し、その画風は宗元画風の影響に成り、墨 画彩絵ともに能くした。本図の如きは琉球画の山水図として逸品といふべく、その趣致また日本画と一脈相通ずるも のあるは、日支間に位置する琉球の芸術として感興深きものである。
殷元良の面目躍如たりである。又氏は今迄多数の人が疑問にしていた首里城正殿前の龍柱についても、その作者が謝敷宗相なること、石材が瀬長島海岸から採掘したものなることを、已に大正10年頃に発表せられたとのこと。日支琉の古代芸術の逸品などについて語らるる豊富な話題には只目をみはるのみである。『沖縄などには逸品はありませんよ』と捨台詞のやうな言葉を残して、佐敷方面へ殷元良の先生であった山口呉師虔の子孫を訪問すべく出かけられました。
1899年向氏亀山、比嘉カナの間に比嘉次良(次郎)妻はカマド。朝健は父次良、母は辻の女。
1900年7月『琉球新報』「広告ー1、唐茶類 1、銅鑼かね 其他種々ー小生儀此迄諸品買入の為福州へ渡航滞在候處這般帰県右品々廉価に差上げ申候間続々御購求被成下度偏に奉希候也 茶商 比嘉次郎 那覇警察署後通西詰」
1911年1月26日 『琉球新報』「亀山朝恆儀転地療養ノ為メ実父所国頭郡金武村字漢那ニ於テ静養中薬石効ナク去ル二十日死去致シ候此段生前巳知諸君ニ謹告ス 亀山朝奉/朝矩/朝摸/比嘉次郎/朝盛」
沖縄県立第一中学校中退
「女学校の三年生のころ、私はある裕福な家の息子(比嘉朝健)と縁談が進み、卒業までにウブクイ(結納)もとりすましていた。これは松山小学校の教師時代と思うが、解消した。当の婚約者も組合教会に来ていて、私とは話も交わしたりしたが、どうもピンとこない。とっかかりもひっかかりもない感じなのだ。もうこのころ私は、恋愛をへない結婚なんてあるものかとはっきり思っていたので、自分の気持ちが動かないのに困惑した。(略)私は意を決して、二人はどうも合わないと思うので、結婚はやめた方がいいのではと、自分で婚約者に申し出た。ところが相手は母親とは生さぬ仲だったので、自分の方からはどうしても言い出せないから、君の方から直接言い戻してくれという。」金城芳子『なはをんな一代記』(沖縄タイムス社1977年9月)
1920年 沖縄タイムス記者
1924年12月16日『沖縄タイムス』比嘉朝健「末吉安恭君を悼む」
1926年3月、那覇市役所庶務課
1927年6月20日、帝国大学文学部史料編纂掛雇(~1932年1月)
□同僚に森銑三.史料編纂官ー中山久四郎(東洋諸国史料調査)
1937年3月『沖縄教育』第247号/仲吉朝宏「雲海空青録ー博物館たより」
□3月5日帰省中の比嘉朝健氏来訪、之で第2回目である。氏は多年東京に生活せられ、芸術方面の蘊蓄の深い人『陶器講座』第2巻に「琉球の陶器」を紹介せられ、嘗ては自己所有の殷元良の「墨山山水図」を帝室博物館に寄贈せられた特志の人である。今帝室博物館年報の殷元良の記事を録すると
隼者、殷元良は琉球の代表的画人であって、清朝、乾隆帝時代に活躍し、その画風は宗元画風の影響に成り、墨 画彩絵ともに能くした。本図の如きは琉球画の山水図として逸品といふべく、その趣致また日本画と一脈相通ずるも のあるは、日支間に位置する琉球の芸術として感興深きものである。
殷元良の面目躍如たりである。又氏は今迄多数の人が疑問にしていた首里城正殿前の龍柱についても、その作者が謝敷宗相なること、石材が瀬長島海岸から採掘したものなることを、已に大正10年頃に発表せられたとのこと。日支琉の古代芸術の逸品などについて語らるる豊富な話題には只目をみはるのみである。『沖縄などには逸品はありませんよ』と捨台詞のやうな言葉を残して、佐敷方面へ殷元良の先生であった山口呉師虔の子孫を訪問すべく出かけられました。
05/29: 麦門冬と池宮城積宝
1924年3月21日 『沖縄タイムス』末吉麦門冬「序に代へて」
○私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬのかと云ふことは、私も考へないではありませんでした。一口に云ふとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思ひます。本當の沖縄と本當の沖縄人が出て来なくてはなりません。(略)鏡に向かって多くの人々は不満を抱きます。憤ほろしくなります。美しいと見惚れることはありません。私達の創造しやうとする郷土文学もこの厭やな思ひのする鏡裏の映像ではありませんか。けれどこの厭であっても、自分達の姿には、私達はどうしても逃げもかくれも出来ぬものがあります。・・・・
1924年12月17日『沖縄タイムス』寂泡生「末吉安恭君を悼む」
○私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬのかと云ふことは、私も考へないではありませんでした。一口に云ふとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思ひます。本當の沖縄と本當の沖縄人が出て来なくてはなりません。(略)鏡に向かって多くの人々は不満を抱きます。憤ほろしくなります。美しいと見惚れることはありません。私達の創造しやうとする郷土文学もこの厭やな思ひのする鏡裏の映像ではありませんか。けれどこの厭であっても、自分達の姿には、私達はどうしても逃げもかくれも出来ぬものがあります。・・・・
1924年12月17日『沖縄タイムス』寂泡生「末吉安恭君を悼む」
05/29: 麦門冬と上間朝久
1924年12月18日『沖縄タイムス』上間草秋「末吉安恭君を悼む」
1955年4月19日『琉球新報』上間朝久「琉球舞踊雑観」(1)
○琉球歴史は既に郷土研究の先哲 伊波普猷先生を初め、真境名笑古、末吉麦門冬、東恩納寛惇、島袋全発の諸家に依って解明されたが、中にも琉球古文化の研究という点に於いては、郷土史家の鬼才 末吉麦門冬に負うところ多大であった。
上間正雄(1890・6・29~1971・4・12)
別名ー草秋、朝久
実父上間正富は松山王子尚順の守役であった。後に那覇上之蔵の亀山朝奉の養子となる。沖縄県立中学校在学中から詩や歌を作り、1910年に同人誌『雑草園』を発行。同年上京。帰郷して樗花、夏鳥、梅泉、正敏のペンネームで新聞雑誌に文芸・美術・芸能の評論や創作を発表する。特に12年に『三田文学』に発表した「ペルリの船」は注目された。14年琉球新報歌壇選者、16年琉球新報記者、19年沖縄時事新報記者、20年沖縄タイムス編集長。→1991年1月 新沖縄文学別冊『沖縄近代文芸作品集』「上間正雄」
先日、久方ぶりに麦門冬研究家のA女史と図書館で出会って談話。私が「インターネット時代は麦門冬の時代の到来だ」と言うと、「それで最近は『琉文21』に麦門冬関連が多くなっているんですね」。「そう奈良女子大学人間文化研究科・南方熊楠の学際的研究プロジェクト『南方熊楠に学ぶ』の麦門冬書簡の解説に就いては、ネット上でのエログロ話は●●●が多くなるかも知れない。神坂次郎さんの『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』は大方この手の内容で、女性が関わるべき世界ではない。また、この面白いものは紙の世界でしか出来ないし、ネット上では猥褻露出になる」。
大正7年9月の書簡に、「『御膳本草』(著者は国王の侍医たりし渡嘉敷と申す人)には羊とせるも、山羊のことに候。・・・」/左が麦門冬旧蔵の『御膳本草』(コピー)、右が中城御殿の旧蔵(コピー)
『御膳本草』右は1963年8月発行の當間清弘編、左は前出の麦門冬の旧蔵(コピー)
左下ー2002年4月 月刊 『榕樹』□沖縄の熊楠ー末吉麦門冬の人生にスポット 作家・神坂次郎氏が『歴史街道』に連載ー神坂氏に資料を提供した新城栄徳氏は、主宰する『琉文手帖(弟2号)』で麦門冬を取り上げ、早くから注目してきたひとり。『麦門冬が全国デビューした』と喜んでいます。
1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 石垣博孝「やさしさと桃林寺の仁王像」
1975年3月『青い海』41号 石垣博孝「八重山の祭事ーニライカナイの思想を記録する」
2013年9月15日 那覇市民ギャラリー「新生美術展」
石垣博孝氏とその作品「日輪」「人面」
2012年5月26日ー画家・石垣博孝
新生美術展会場でー石垣博孝氏と、その作品
2013年5月21日~26日 那覇市民ギャラリー「新生美術展」
2014年5月21日 那覇市民ギャラリー「新生美術展」石垣博孝氏、新城栄徳
2015年9月5日 那覇市民ギャラリー「新生美術展秋展」石垣博孝氏と、その作品
05/20: あぐに/伊佐三郎
江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745~1818)の命日の17日、遺髪と爪が納められている香取市牧野の観福寺(田中量信住職)で墓前祭が行われた。約40人の参列者らは読経の中、焼香し、日本で初めて実測日本地図を作成した郷土の偉人をしのんだ。関係者らによると、墓前祭は1933(昭和8)年に当時の佐原町議会で5月17日に「忠敬祭」を行うことを決議したが、いつから実施されているかは不明で、48(同23)年に没130年祭を行った後は10年ごとに開催したという。98(平成10)年以降は毎年実施されるようになった。その後、2007年までは市の行事として行っていたが、憲法の政教分離原則もあり、08~10年は観福寺主催で実施。11、12年は東日本大震災の影響などで中止となっていた。今回の墓前祭は、有志による市民団体「(仮称)忠敬墓前祭斎行を考える会」(山村増代会長代行)の主催で、3年ぶりに開催された。「千葉日報5月18日」
1983年10月 伊佐三郎『回想』
第15章 万葉集歌の英訳と琉歌
日本民族の心の故郷とも賞賛される万葉集歌の外国語訳は、明治維新前にさかのぼってのことである。即ち1834年、独乙の有名な東洋学者ハインリッヒ・ユリアス・クラブロース(Heinrich Julius Klaproth)(1783~1835)がシベリヤ旅行中、難波船からシベリヤ放浪中の日本人漁夫にあい、彼等から聞いた万葉集歌を独乙語に訳したのが、外国語への訳の始めであった。明治維新(1868)後は次から次へと訳文が表れた。1872年にオーストラリアの学者フィズマイヤー(August Pfizmaier)(1808~1887)により万葉集歌の200首が英訳され、世界の注目をひいた。万葉集歌の英訳の満足すべきもの、完成されたものとも見られるものは、現代版である(The MANYOSHU)である。日本の英文学者、国文学者を網羅した日本学術振興会、特別万葉集委員会が、日本在住の英国詩人ラルフ・ホッヂソン(Ralph Hodgson)の協力によって、万葉集歌四千五百首中の壱千首を翻訳したものである。それは1940年に完成され、コロンビヤ大学版(Columbia University Press)として、ニューヨーク及びロンドンでされている。この英訳により万葉集の文学的価値が、いよいよ高く世界の文学界に宣揚されつつある。さて郷土沖縄の歌謡もまた、沖縄の人たちの心の故郷である。沖縄の歌謡にも万葉集歌のような秀歌が無数にあるといってよい。
万葉集「わが背子は いづち行くらむまつち山越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね」
琉歌 「なま降ゆる雨や雲に宿みそり 里が花の島着ちゅるえまや」
万葉集「足音のとどとひびけば松下に 出でて見つる けだし君かと」
琉歌 「夕まんぎとともに 立ちゅる面影や ゆすの足音も 里めとむて」
伊佐三郎は本書に「粟国の英傑、友利仁三郎」を紹介、「私の父の姉で、友利家に嫁いだ伯母があった。私の母や、私の兄弟姉妹、皆から親のように親しまれた伯母であった。(略)此の伯母さんの二男一女の中の、次男が、友利仁三郎である」と記している。私も元村長の友利仁三郎の名は知っていたので大阪で友利氏に出会って親しく会話してもらい感激した記憶がある。
写真ー友利仁三郎
伊佐三郎は、同郷(粟国)の先輩・新里朝彦の世話で1927年5月に東京教育界の名門 白金小学校に勤務する。校長は創価学会創設者の牧口常三郎であった。新里は1916年に沖縄県師範学校入学、1919年の大ストライキの首謀者10名と共に放校処分。上京し、人力車を引くなどの労役苦学で豊島師範を卒業し、竜野川小学校勤務のとき牧口常三郎を知る。新里は1925年に白金小学校に勤務した。伊佐の1932年の教え子の一人に中川順(テレビ東京社長)が居る。
関連事項
写真ー新里朝彦
伊佐はまた、同僚で新里と同じ豊島師範出身の鈴木昶を知る。鈴木は熱心な大本信者で、伊佐は1933年暮れに亀岡大本本部に鈴木らと同行し出口王仁三郎にも会っている。1942年3月、白金小学校を去って、千葉県佐原中学校に転出。佐原中学校の校歌2番「関東平野の空高く 筑波の峰ぞほほえめる 朝に夕に打ち仰ぐ 忠敬翁の遺徳ぞ尊し 崇き御教心の技と 高嶺を攀じて勇まし我等」と伊能忠敬が歌いこまれている。1949年4月から千葉県立千葉工業高等学校教諭となった。ここで1958年まで勤務した。
新里朝彦は粟国小中学校校歌の作詞者である。2013年の東京での戸澤裕司写真展には、新里の子息が来られ、写真展の関係者に手紙で「過日は短い時間ながらお会いする機会を頂き有難うございました。同時に粟国の空気を感じ取ることが出来る楽しい会合でした」とある。
伊佐三郎(沖縄高校校長時代)
1979年6月 在阪有志による『黎明期の粟国』出版祝賀会
1982年 大淀沖縄県人会・大阪粟国村人会主催の激励会
1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』石川澄子□伊佐三郎「沖縄近代(二十世紀)の偉大なる学者 石川正通先生」
池宮城友子さん、その作品「島の子守歌ー辺野古2008」
高田陽子さん、その作品「よじれ/distortion」「NO SING」
當銘弓佳さん、その作品「再生」「imitation」
「沖縄~現代日本画作家展2013~」を観賞する佐藤文彦氏
□さとう ふみひこ(美術家/大学講師)1966年東京生まれ。1973年両親とともに沖縄へ移住、現在に至る。沖縄県立芸術大学絵画専攻卒業(1990年)。東京藝術大学大学院後期博士課程油画専攻修了。大学院時代は「琉球の絵画様式」の研究に打ち込み、『「御後絵」再生の現代的意義』にて博士学位取得(1995年)。鎌倉芳太郎著「沖縄文化の遺宝」と出会い、1945年の沖縄戦で消失した歴代の琉球国王の肖像画「御後絵」10点をモノクロ写真をもとに再現し注目された。琉球・沖縄の文化継承や琉球語の消滅、歴史認識が危惧される今日にあって、再現された琉球国王の「御後絵」に対面する事は多くの発見があるだろう。今展では歴代の国王肖像画と佐藤氏の研究の原点とも言える作品を展示する。
05/18: みどり風通信「アーチって何だろう?」
みどり風通信に「アーチって何だろう?」が写真と共に載っている。 「みどり印刷」ここをクリック
辞書によれば、[建造物で、弓形に曲がった梁(はり)。半円・尖頭形・馬蹄形などがあり、窓・入り口・門・橋などに用いる。迫持(せりもち)とある。 その昔「琉球へおじゃるなら 草履はいておじゃれ 琉球石原小石原♪」 と薩摩の侍にからかわ れたが、首里城や勝連城、中城城、今帰仁城の立派な石積みを例に出すまでもなく、県内各地に 残る石畳道や石垣、また竹富島のサンゴ焦の石垣、農家の立派なフール(ウヮーフール・豚小屋と トイレを兼用した施設)など、沖縄の建造物は石と切り離す事は出来ない。 古代ローマ時代にすでに完成された石造のアーチの技術がシルクロードを伝って、中国に入り、 中国では主に城郭都市の城門として結実し、それが朝鮮(南大門は馬蹄形アーチ)や琉球にも伝 わった。
いつの頃からか、私は沖縄に多く見られる優美な三心円アーチという天井部が「かまぼこ型」の アーチに興味を持った。文系の私は、アーチ構造の力学的な解説や重力の方向や集中・分散等 の説明は出来ないので、現在も残っている歴史的な建造物、最近造られた新しいアーチ、現在 進行形のアーチと、その形状を収集し写真で載せる事で幼い頃からの「私のアーチへの想い入 れ」の一里塚としてみようと思ったのである。
アーチの基本型 単心円アーチ
沖縄自動車道橋脚部(南風原町大名)規模の大きさにおいても、連続性という点でも、他を 圧倒する県下最大のアーチ橋 [下]若杉保育園園舎(首里大名町)アーチの連続は幾何学的 な美しさがあり、スペイン瓦の屋根とマッチして夢のあるエキゾチックな雰囲気を醸しだしている。
三心円アーチとは?
大きな1個の円弧を天井部として、2個の小さな同大の円弧が重なって、左右両面の壁と繋がる形状、これが三心円アーチと呼ばれるもので、大きな円弧と2個の小さな円弧の大きさの割合 いによって、2つのタイプに分かれる。[上]をAタイプ[下]をBタイプとしよう。
先ずAタイプ (注意深く見ないと、単心円に見えてしまう。)
上之橋(ウィーヌハシ) 首里当蔵町と赤平町の境、真嘉比川中流域に架かる現役の石橋。 その200M下流の下之橋(シムヌハシ)も同じく現役の石橋だが、直角に近い湾曲部にある為、 他家の屋敷に侵入しなければ撮影できなかったので載せられなかった。天女橋(テンニョバシ)1502年 龍潭上部(南側)の円鑑池(エンカンチ)の中島にある弁財天堂に架かる。日本百名橋の一つ。
円覚寺左腋門 下川原橋(シチャーラ)沖縄自動車道那覇インターの北、県道との谷間にある。第2尚氏の最高神君、聞得大君(チフィジンウドゥン)の叙任式への斎場御嶽 への道にあり、島尻東方への宿道(国道)上の橋でもある。よく見ると左右の壁は下に狭まり馬 蹄形にも見える。金城ダムの上流部、安里川の上流、弁ヶ嶽のふもとにある。ヒジ川橋 首里城から南苑(識名園)への道にある。金城ダム敷地内、ダムで新しく水路を造った為、現在川床に水は無い。[右]金城ダム(上池水路)2001年竣工。
Bタイプ 数としても多く、典型的な三心円アーチ
天井のアーチ部がカマボコ型。アンパンマンの友人、食パンマンの頭部に似て、ゆるやかで優 美な曲線である。琉球を代表するフォルムの一つだと思う。なお、ここでは写真掲載出来なかっ たが、県内各地に残るウヮーフールの屋根部分もきれいな三心円アーチである。安谷川御嶽(アダニガーウタキ)石碑などもあり、琉球王府でも格式の高い拝所の一つ、 アーチ上部の宝珠があることがそれを物語っている。前の道は、首里城・久慶門を起点とする 本島中北部への宿道(シュクミチ、国道) 崇元寺石門 三連アーチの安定感!
龍淵橋[リュウエンキョウ] 1502年頃 Aタイプにあった、天女橋のある円鑑池(エンカンチ)からのオーバーフロー(溢れた水)が龍潭へ 流れ込む短い水路。龍潭側から、東から見た龍淵橋、以前は石彫りの欄干があった。余談だが、円鑑池に中島があり、そこに弁財天が祀られている。琵琶湖には竹生島があり、 弁財天がある。東京上野、不忍池にも中島があり、弁財天がある。長野・野尻湖には琵琶島 があり弁財天が祀られている。
辞書によれば、[建造物で、弓形に曲がった梁(はり)。半円・尖頭形・馬蹄形などがあり、窓・入り口・門・橋などに用いる。迫持(せりもち)とある。 その昔「琉球へおじゃるなら 草履はいておじゃれ 琉球石原小石原♪」 と薩摩の侍にからかわ れたが、首里城や勝連城、中城城、今帰仁城の立派な石積みを例に出すまでもなく、県内各地に 残る石畳道や石垣、また竹富島のサンゴ焦の石垣、農家の立派なフール(ウヮーフール・豚小屋と トイレを兼用した施設)など、沖縄の建造物は石と切り離す事は出来ない。 古代ローマ時代にすでに完成された石造のアーチの技術がシルクロードを伝って、中国に入り、 中国では主に城郭都市の城門として結実し、それが朝鮮(南大門は馬蹄形アーチ)や琉球にも伝 わった。
いつの頃からか、私は沖縄に多く見られる優美な三心円アーチという天井部が「かまぼこ型」の アーチに興味を持った。文系の私は、アーチ構造の力学的な解説や重力の方向や集中・分散等 の説明は出来ないので、現在も残っている歴史的な建造物、最近造られた新しいアーチ、現在 進行形のアーチと、その形状を収集し写真で載せる事で幼い頃からの「私のアーチへの想い入 れ」の一里塚としてみようと思ったのである。
アーチの基本型 単心円アーチ
沖縄自動車道橋脚部(南風原町大名)規模の大きさにおいても、連続性という点でも、他を 圧倒する県下最大のアーチ橋 [下]若杉保育園園舎(首里大名町)アーチの連続は幾何学的 な美しさがあり、スペイン瓦の屋根とマッチして夢のあるエキゾチックな雰囲気を醸しだしている。
三心円アーチとは?
大きな1個の円弧を天井部として、2個の小さな同大の円弧が重なって、左右両面の壁と繋がる形状、これが三心円アーチと呼ばれるもので、大きな円弧と2個の小さな円弧の大きさの割合 いによって、2つのタイプに分かれる。[上]をAタイプ[下]をBタイプとしよう。
先ずAタイプ (注意深く見ないと、単心円に見えてしまう。)
上之橋(ウィーヌハシ) 首里当蔵町と赤平町の境、真嘉比川中流域に架かる現役の石橋。 その200M下流の下之橋(シムヌハシ)も同じく現役の石橋だが、直角に近い湾曲部にある為、 他家の屋敷に侵入しなければ撮影できなかったので載せられなかった。天女橋(テンニョバシ)1502年 龍潭上部(南側)の円鑑池(エンカンチ)の中島にある弁財天堂に架かる。日本百名橋の一つ。
円覚寺左腋門 下川原橋(シチャーラ)沖縄自動車道那覇インターの北、県道との谷間にある。第2尚氏の最高神君、聞得大君(チフィジンウドゥン)の叙任式への斎場御嶽 への道にあり、島尻東方への宿道(国道)上の橋でもある。よく見ると左右の壁は下に狭まり馬 蹄形にも見える。金城ダムの上流部、安里川の上流、弁ヶ嶽のふもとにある。ヒジ川橋 首里城から南苑(識名園)への道にある。金城ダム敷地内、ダムで新しく水路を造った為、現在川床に水は無い。[右]金城ダム(上池水路)2001年竣工。
Bタイプ 数としても多く、典型的な三心円アーチ
天井のアーチ部がカマボコ型。アンパンマンの友人、食パンマンの頭部に似て、ゆるやかで優 美な曲線である。琉球を代表するフォルムの一つだと思う。なお、ここでは写真掲載出来なかっ たが、県内各地に残るウヮーフールの屋根部分もきれいな三心円アーチである。安谷川御嶽(アダニガーウタキ)石碑などもあり、琉球王府でも格式の高い拝所の一つ、 アーチ上部の宝珠があることがそれを物語っている。前の道は、首里城・久慶門を起点とする 本島中北部への宿道(シュクミチ、国道) 崇元寺石門 三連アーチの安定感!
龍淵橋[リュウエンキョウ] 1502年頃 Aタイプにあった、天女橋のある円鑑池(エンカンチ)からのオーバーフロー(溢れた水)が龍潭へ 流れ込む短い水路。龍潭側から、東から見た龍淵橋、以前は石彫りの欄干があった。余談だが、円鑑池に中島があり、そこに弁財天が祀られている。琵琶湖には竹生島があり、 弁財天がある。東京上野、不忍池にも中島があり、弁財天がある。長野・野尻湖には琵琶島 があり弁財天が祀られている。
05/17: さやか、第49回・京展出品
島袋百恵さん、その作品「とぶとぶ むしむし さようなら」「プレゼント」
喜屋武千恵さん、その作品「蘇生」
2013年5月14日~19日 沖縄県立博物館・美術館「沖縄~現代日本画作家展2013~」②
上原ちはるさん、その作品「九份」
平良優季さん、その作品「浮游」「うたたね」
古謝茜さん、その作品「星の声を聴く」
平山郁夫 ひらやま-いくお
1930-2009 昭和後期-平成時代の日本画家。
昭和5年6月15日生まれ。前田青邨(せいそん)に師事。院展に出品,昭和39年日本美術院同人となる。シルクロードを取材旅行し,仏教東漸などをテーマにした作品を発表。48年東京芸大教授,平成元年学長,13年2度目の学長につく。10年文化勲章。国内外の文化財の保護につくし,16年朝日賞。平成21年12月2日死去。79歳。広島県出身。東京芸大卒。作品に「入涅槃(ねはん)幻想」「雲崗盧遮那仏(るしゃなぶつ)」など。(→コトバンク)
○わが古里・粟国とは全く関わりはないが、川岸に宿泊した玄奘たちは、翌日川を渡り、南へゆくこと四十里にしてついに阿耆尼国(カラシャール)の王城に着いた。阿耆尼とは「境の国」の意とも、「火(サンスクリット語のアグニ)」の意ともいう。すでに地域はまったく胡語の世界であった。阿耆尼の旧名は焉耆である。→2010年4月 前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』岩波新書。インド神話の火神にアグニというのが居られたが、現在ではアグニVと云うミサイルの名前となって嫌われ者となった。そのミサイルは2012年4月19日にインド東部のオリッサ州沿岸にあるWheeler島(英語版) において打上げ試験が実施され成功したとされる。(→ウィキペディア)
以前、薬師寺で平山郁夫画伯作「大唐西域壁画」を見たことがある。その平山画伯は被爆者であるが被爆体験を絵にしたのは被爆から34年後の作「広島生変図」、画面の殆どが真っ赤な炎で占められ左上に憤怒の不動明王が現れている。
1998年1月 平山美知子『道はあとからついてくるー「家計簿」にみる平山画伯家の足跡』主婦と生活社
1998年11月 平山郁夫『絵と心』読売新聞社
○科学技術が進めば効率が上がり生活が向上する。しかし、核エネルギーのように、軍事的に利用すると、破壊力が強大なだけにいまだもって人間には制御が困難なものもある。(略)日本は、今一度、この失いかけた真善美や自然の摂理を再認識して、しっかりとした日本のグローバルな目標を示せば、世界は日本を認め国際信用が高まるだろう。豊かになって、心が貧しくなった我々日本人を、恥ずかしいと反省することからすべては始まるのではないだろうか。
公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館
1988年.平山郁夫,鎌倉にシルクロード研究所を創設.1993年4月.平山郁夫,シルクロード研究所を正式設立.1999年7月.平山美知子、八ヶ岳南麓(JR甲斐小泉駅前)に「八ヶ岳シルクロードミュージアム」開館.2003年11月.シルクロード研究所を母胎として、財団法人平山郁夫シルクロード美術館を設立.2004年4月.「八ヶ岳シルクロードミュージアム」を「平山郁夫シルクロード美術館」に改称.7月.JR甲斐小泉駅前に新展示棟完成(現平山郁夫シルクロード美術館本館).2007年.山梨県指定美術館に認定.10月.2006年10月に財務省の認可を受けた指定寄附(「財税第377」号)により、新館増築工事開始.2008年3月12日.所得税法施行令第217条第1項第3号カ及び法人税法施行令第77条第1項第3号カに掲げる特定公益増進法人の認可を受ける.7月12日.新館開館.2010年6月29日.公益財団法人としての認定を受け、法人の名称が「公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館」となる。
05/14: 蘇鉄/島袋和幸「蘇鉄ネットワーク」③
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。●補足
長崎県口之津港<与論館>の蘇鉄
長崎県南島原市口之津町の烽火山の蘇鉄
長崎県・島原城の蘇鉄
長崎県口之津港<与論館>の蘇鉄
長崎県南島原市口之津町の烽火山の蘇鉄
長崎県・島原城の蘇鉄
05/12: 1913年5月ー大門前占春魁主人・高相杰の鄭夫人
1913年5月7日『琉球新報』「大門前占春魁主人・高相杰の夫人(鄭)福州より来沖」
大門前占春魁主人・高相杰
05/12: 2013年5月の山田實さん
5月1日
小渡幸信氏と山田さん
戸澤裕司氏、山田勉氏、小渡幸信氏
5月23日
写真前右から山田實さん、西牟田靖氏 後右から山田勉氏、新城栄徳
写真左から國吉まこも氏、西牟田靖氏、山田實さん
西牟田氏が持参した写真資料に関連して
○西牟田 靖(にしむた やすし、1970年3月5日 - )は、日本のライター、ノンフィクション作家。人物 大阪府東大阪市生まれ。1993年に神戸学院大学法学部卒業後、会社員などを経て1995年、ライターとしての活動を開始。貧乏旅行ライター/サブカル突撃ライターとし...(出典:fepedia)〇2006年2月『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』情報センター出版局
第29回写真の町東川賞 飛彈野数右衛門賞
山田實 Minoru Yamada 沖縄県那覇市在住
1918年生まれ、那覇市出身。41年明治大学専門部商科卒業。大学新聞編集委員を務め、同年には同大学新聞高等研究科(二部)卒業。日産土木株式会社入社後、満州に赴任。現地で召集され、関東軍に入隊。北満州でソ連軍と交戦中に終戦、シベリアに抑留される。47年に舞鶴に復員し、日産土木に復職後、52年に沖縄へ帰還。那覇市内に山田写真機店を開業。二科会沖縄支部結成メンバー(58年)となるほか、沖縄ニッコールクラブを設立(59年)、沖展への会員参加(62年)、沖縄写真連盟設立メンバー(66年)になるなど、戦後の沖縄写真界の草分け的存在となる。土門拳のリアリズム運動や、62年に沖縄での取材に同行した濱谷浩から強い影響を受ける一方で、基地や闘争の写真からは距離をおき、子どもや庶民の日常生活を、抑制のきいた距離感と深い共感によって、丁寧に撮りおさめる。また、72年の本土復帰までは、岩宮武二、濱谷浩、林忠彦、木村伊兵衛、東松照明他、本土の多数の写真家の身元引受人となるほか、東松が主となり沖縄で開催された「ワークショップ写真学校」の窓口も引き受けるなど、本土と沖縄をつなぐネットワーカーとしての非常に重要な役割を担った。
77年に沖縄タイムス芸術選大賞、2000年に沖縄県文化功労賞受賞。2012年には沖縄県立博物館・美術館にて「山田實展 人と時の往来」展が開催されるほか、『山田實写真集 故郷は戦場だった』(未来社、2012年)も出版された。
作家(山田實)の言葉
「北と南の出会い」
北海道は私にとって未知の世界です。学生時代の友人に具知安出身の小林君が居たこと。東北観光旅行の際、函館空港に降り船で青森に渡ったこと。私が写真を撮り始めた頃、北海道の沖縄開拓団を取材した写真が雑誌に発表され、撮影者は掛川源一郎氏でした。ニッコールクラブ札幌支部長の橋本博氏とは東京で三度程お会いしました。 十数年前、写真甲子園で地元高校生が準優勝の記事に注目、その後、真和志高校写真部の活躍が新聞に大きく報道される様になり北海道との距離がずいぶん近くなりました。米軍統治時代、沖縄取材の木村伊兵衛、林忠彦、東松照明各先生方の身元引受人は私でした。濱谷浩先生他、各先生方の案内役を務めながら私の写真勉強が続きました。当時、本土では基地闘争やデモ隊の写真ばかりを報道、沖縄の実情を撮るため農漁村を訪ね、山野を駆け廻りました。写真を撮り作品を発表することが私の長寿の元だと思います。
小渡幸信氏と山田さん
戸澤裕司氏、山田勉氏、小渡幸信氏
5月23日
写真前右から山田實さん、西牟田靖氏 後右から山田勉氏、新城栄徳
写真左から國吉まこも氏、西牟田靖氏、山田實さん
西牟田氏が持参した写真資料に関連して
○西牟田 靖(にしむた やすし、1970年3月5日 - )は、日本のライター、ノンフィクション作家。人物 大阪府東大阪市生まれ。1993年に神戸学院大学法学部卒業後、会社員などを経て1995年、ライターとしての活動を開始。貧乏旅行ライター/サブカル突撃ライターとし...(出典:fepedia)〇2006年2月『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』情報センター出版局
第29回写真の町東川賞 飛彈野数右衛門賞
山田實 Minoru Yamada 沖縄県那覇市在住
1918年生まれ、那覇市出身。41年明治大学専門部商科卒業。大学新聞編集委員を務め、同年には同大学新聞高等研究科(二部)卒業。日産土木株式会社入社後、満州に赴任。現地で召集され、関東軍に入隊。北満州でソ連軍と交戦中に終戦、シベリアに抑留される。47年に舞鶴に復員し、日産土木に復職後、52年に沖縄へ帰還。那覇市内に山田写真機店を開業。二科会沖縄支部結成メンバー(58年)となるほか、沖縄ニッコールクラブを設立(59年)、沖展への会員参加(62年)、沖縄写真連盟設立メンバー(66年)になるなど、戦後の沖縄写真界の草分け的存在となる。土門拳のリアリズム運動や、62年に沖縄での取材に同行した濱谷浩から強い影響を受ける一方で、基地や闘争の写真からは距離をおき、子どもや庶民の日常生活を、抑制のきいた距離感と深い共感によって、丁寧に撮りおさめる。また、72年の本土復帰までは、岩宮武二、濱谷浩、林忠彦、木村伊兵衛、東松照明他、本土の多数の写真家の身元引受人となるほか、東松が主となり沖縄で開催された「ワークショップ写真学校」の窓口も引き受けるなど、本土と沖縄をつなぐネットワーカーとしての非常に重要な役割を担った。
77年に沖縄タイムス芸術選大賞、2000年に沖縄県文化功労賞受賞。2012年には沖縄県立博物館・美術館にて「山田實展 人と時の往来」展が開催されるほか、『山田實写真集 故郷は戦場だった』(未来社、2012年)も出版された。
作家(山田實)の言葉
「北と南の出会い」
北海道は私にとって未知の世界です。学生時代の友人に具知安出身の小林君が居たこと。東北観光旅行の際、函館空港に降り船で青森に渡ったこと。私が写真を撮り始めた頃、北海道の沖縄開拓団を取材した写真が雑誌に発表され、撮影者は掛川源一郎氏でした。ニッコールクラブ札幌支部長の橋本博氏とは東京で三度程お会いしました。 十数年前、写真甲子園で地元高校生が準優勝の記事に注目、その後、真和志高校写真部の活躍が新聞に大きく報道される様になり北海道との距離がずいぶん近くなりました。米軍統治時代、沖縄取材の木村伊兵衛、林忠彦、東松照明各先生方の身元引受人は私でした。濱谷浩先生他、各先生方の案内役を務めながら私の写真勉強が続きました。当時、本土では基地闘争やデモ隊の写真ばかりを報道、沖縄の実情を撮るため農漁村を訪ね、山野を駆け廻りました。写真を撮り作品を発表することが私の長寿の元だと思います。
魚住惇吉
○大正13年(1924年)魚住惇吉校長の後を受けて建学当初から教鞭をとられた志喜屋孝信先生が第四代校長に就任した。
『アサヒグラフ』1927年7月13日号□南島談話会のメンバー/前列右より柳田国男・金田一京助・伊波普猷・富名腰義珍・岡村千秋 後列右より魚住惇吉・南風原驍・金城金保・仲宗根源和・金城朝永・島袋源七
1924年夏 小石川植物園で、向かって右から魚住惇吉、永田千代、
1987年8月 関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』双葉社
1988年8月 日本エッセイスト・クラブ『思いがけない涙』文藝春秋□魚住速人(三菱鉱業セメント副社長)「漱石と隻腕の父ー(略)実をいうと、私の父が、その左手のない学生である。名前は惇吉という。(略)私の父は東大を卒業したあと、中学の英語教師になり、沖縄県立第二中学校の校長を最期に、台湾旅行のとき罹ったマラリアの持病もあって、42歳で早々と引退、自適の生活に入った。ふたたび東大に通い、英文学やラテン語の研究をしていたことを覚えている。(略)私の息子が東大野球部に入り、法政の江川投手を4打数3安打で打ち破ったことがあるのを父が知ったら、さぞかし喜んだことであろう。」
2004年11月 仲里正雄(携帯090-9781-0089)『御孵化果報』(戸澤裕司写真「粟国島ハンガーを背景に仲里チヨさん」)□母の人生から看た粟国史
2004年11月/仲里正雄『御孵化果報ー風車祝を迎えた阿母に感謝して』まさお塾出版(〒900-0022那覇市樋川2-2-39 ☎仲里正雄090-9781-0089)「第1章ー故郷粟国(蘇鉄の実の収穫)/粟国の1年の生活誌/
母(仲里チヨ)の介護日記/索引」
粟国風土記 島の景観ー(略)島の南西、真塙(尖って岩肌がゴツゴツした小高い痩せ地)はイギリスの「ドーバーの白い崖」が切り立ったような嶮岨な断崖絶壁である。凝灰岩の露出や整合面が見られ、壮大な全景が開けている。このような島の誕生は、推し量ることのできない秘められた、激しい火山活動の産物でもある。
ウィリアム・ダイス「イギリス、ケント(Kent, England)沿岸で、画家自身は遠方に立ち崖の先端を見上げ、その家族はペグウエル湾(Pegwell Bay)の浅瀬で貝を掘っている」
仲里正雄氏の塾でイギリス人で写真家、早稲田大学で英語を教えているジョナサン ガーナー氏に出会う。
05/04: 琉球 冊封使
2013年4月30日~5月5日 那覇市民ギャラリー「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」
□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。
鉄の暴風が荒れ狂った沖縄戦。辛酸をなめた戦後の極貧の離島苦から那覇に移り、
老いるまで清貧を貫き必死に生き抜いたある親子の晴れ晴れしい『カジマヤー』祝い。
そして40年ぶりの故郷粟国島へ、母と連れ立っての凱旋。
だが数年後、百歳誕生祝直前の母の死。
離島特例、島懐に守られた土葬での別れ。
カジマヤーから十年、奇しくも東日本大震災の年の暮れ、再び棺を開けて執り行われた『洗骨式』。
島の風土、親子の生き様や死までを見つめ、人や情とは何かを考える機会になればと、
写真家がまとめた十数年間の人間ドキュメント!
2013年5月4日
写真家 戸澤裕司 氏
1964年12月、石川県小松市生まれ。東京綜合写真専門学校芸術学部第一学科卒業。「朝日ジャーナル」、「週刊朝日」のグラビア専属カメラマンを経てフリーランスカメラマンとして活躍。90年半ばから作家藤原新也①氏助手。人物のドキュメント、ポートレイト、作家との紀行写真などを雑誌で発表。沖縄の竹富島に十数年通い、島の写真など多数発表。主な著書に「旅する作家五木寛之2001~2006」「海上晩餐会 魅惑の料理クルーズ 山岸一茂」「下川裕治編『アジア大バザール』」、『AERA』(朝日新聞社)の現代の肖像シリーズ、ドキュメント、ルポ、CDのジャケットなど幅広い媒体で写真作品を発表している。現在は、則子夫人が編集している、世界へ発信!日本の魅力再発見!地域活性マガジン『ADVENTURE JAPAN』や、『Asahi Shimbun GLOBE』の写真を担当している。
①藤原 新也(ふじわら しんや、1944年3月4日 - )は、日本の作家・写真家である。
福岡県門司市(現:北九州市門司区)の門司港地区生まれ。生家は旅館を営んでいた。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻中退。インド、東京、アメリカなどを対象に、写真とエッセイを組み合わせた作品を発表。1972年の処女作『印度放浪』は青年のインド放浪記として、当時の青年層に大きな影響を与えた。1977年、『逍遙游記』で第3回木村伊兵衛写真賞。1981年に発表した『全東洋街道』で第23回毎日芸術賞を受賞した。1983年に発表した『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推挙されたが、本人の意思により辞退となった。(→ウィキペディア)
愛用のカメラと『AJ~ADVENTURE JAPAN』(田畑 則子①編集)
①田畑 則子 Noriko Tabata
ライター
1971(昭和46)年 埼玉県生まれ。短大児童教育学科卒。
カード会社に勤務の後、ワーキングホリデイにてオーストラリアに1年間滞在。現地ツアーデスク、日本語教師などを経験。帰国後、出版社勤務などを経て、1995年、フリーライターとして独立。著書に『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)共著に、『笑うアジア』 『女ひとり旅読本 (シリーズ第一弾)』 『HAPPY HAWAII (シリーズ第一弾)』 (共に双葉社)、『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)など。
日本の魅力再発見! をキャッチフレーズに『AJ~ADVENTURE JAPAN~』(株式会社Adventure JAPAN発行)、英語、中国語、タイ語、仏語の五ヶ国語(日本語含)で配信する同名のサイトを運営。
著書
『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)
『笑うアジア』 (双葉社)
『女ひとり旅読本』 (双葉社)
『HAPPY HAWAII』 (双葉社)
『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)
2013年5月3日 ポールさん夫妻
○上記の展覧会は継続巡回展の第3会場で、第4会場は2013年6月いっぱい宮崎市広島1-6-11-1 ギャラリー「ArtSpace色空」
□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。
鉄の暴風が荒れ狂った沖縄戦。辛酸をなめた戦後の極貧の離島苦から那覇に移り、
老いるまで清貧を貫き必死に生き抜いたある親子の晴れ晴れしい『カジマヤー』祝い。
そして40年ぶりの故郷粟国島へ、母と連れ立っての凱旋。
だが数年後、百歳誕生祝直前の母の死。
離島特例、島懐に守られた土葬での別れ。
カジマヤーから十年、奇しくも東日本大震災の年の暮れ、再び棺を開けて執り行われた『洗骨式』。
島の風土、親子の生き様や死までを見つめ、人や情とは何かを考える機会になればと、
写真家がまとめた十数年間の人間ドキュメント!
2013年5月4日
写真家 戸澤裕司 氏
1964年12月、石川県小松市生まれ。東京綜合写真専門学校芸術学部第一学科卒業。「朝日ジャーナル」、「週刊朝日」のグラビア専属カメラマンを経てフリーランスカメラマンとして活躍。90年半ばから作家藤原新也①氏助手。人物のドキュメント、ポートレイト、作家との紀行写真などを雑誌で発表。沖縄の竹富島に十数年通い、島の写真など多数発表。主な著書に「旅する作家五木寛之2001~2006」「海上晩餐会 魅惑の料理クルーズ 山岸一茂」「下川裕治編『アジア大バザール』」、『AERA』(朝日新聞社)の現代の肖像シリーズ、ドキュメント、ルポ、CDのジャケットなど幅広い媒体で写真作品を発表している。現在は、則子夫人が編集している、世界へ発信!日本の魅力再発見!地域活性マガジン『ADVENTURE JAPAN』や、『Asahi Shimbun GLOBE』の写真を担当している。
①藤原 新也(ふじわら しんや、1944年3月4日 - )は、日本の作家・写真家である。
福岡県門司市(現:北九州市門司区)の門司港地区生まれ。生家は旅館を営んでいた。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻中退。インド、東京、アメリカなどを対象に、写真とエッセイを組み合わせた作品を発表。1972年の処女作『印度放浪』は青年のインド放浪記として、当時の青年層に大きな影響を与えた。1977年、『逍遙游記』で第3回木村伊兵衛写真賞。1981年に発表した『全東洋街道』で第23回毎日芸術賞を受賞した。1983年に発表した『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推挙されたが、本人の意思により辞退となった。(→ウィキペディア)
愛用のカメラと『AJ~ADVENTURE JAPAN』(田畑 則子①編集)
①田畑 則子 Noriko Tabata
ライター
1971(昭和46)年 埼玉県生まれ。短大児童教育学科卒。
カード会社に勤務の後、ワーキングホリデイにてオーストラリアに1年間滞在。現地ツアーデスク、日本語教師などを経験。帰国後、出版社勤務などを経て、1995年、フリーライターとして独立。著書に『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)共著に、『笑うアジア』 『女ひとり旅読本 (シリーズ第一弾)』 『HAPPY HAWAII (シリーズ第一弾)』 (共に双葉社)、『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)など。
日本の魅力再発見! をキャッチフレーズに『AJ~ADVENTURE JAPAN~』(株式会社Adventure JAPAN発行)、英語、中国語、タイ語、仏語の五ヶ国語(日本語含)で配信する同名のサイトを運営。
著書
『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)
『笑うアジア』 (双葉社)
『女ひとり旅読本』 (双葉社)
『HAPPY HAWAII』 (双葉社)
『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)
2013年5月3日 ポールさん夫妻
○上記の展覧会は継続巡回展の第3会場で、第4会場は2013年6月いっぱい宮崎市広島1-6-11-1 ギャラリー「ArtSpace色空」
05/02: 内暈
太陽や月に薄雲がかかると大きな光の輪が現れることがあります。これは暈(かさ)、内暈(うちかさ、ないうん)という現象で、太陽の場合は日暈(ひがさ、にちうん)、月の場合は月暈(つきがさ、げつうん)などとも呼ばれます。
パレットくもじ2階で12時、佐和子さん撮影
パレットくもじ2階で12時、佐和子さん撮影
5月1日
宮城護氏と戸澤裕司氏
大塚勝久氏と戸澤裕司氏
大塚勝久
1941年大阪市に生まれる(本籍 兵庫県伊丹市)。那覇市在住。1964年に関西大学新聞学科卒業、大阪トヨタ自動車本社、宣伝広報課に配属される。同社に勤務しつつ、1967~1968年には日本写真専門学校(夜間)に入学。 写真撮影技術をさらに磨く。同社16年の在籍中は、カメラマン兼宣伝広報マン。おもにPR紙の編集に携わり、全国各地を「ドライブ旅行取材」で巡る。 1972年に沖縄本島の自然や風俗を撮りはじめ、翌年から、盆、正月、有給休暇を利用して竹富島など八重山の島々に通う。1980年にフリー写真家として独立し写真事務所を設立。自然・風俗・祭祀・旅など八重山諸島を中心に沖縄50島の取材活動を続けている。1989年には大阪から那覇市首里に移住し、沖縄専門の「オリジナルフォトライブラリー」設立。現在、取材35年分のストックフイルム&デジタルフォトをそろえている。
大濱聡2019-12-14「大塚勝久」
宮城護氏と戸澤裕司氏
大塚勝久氏と戸澤裕司氏
大塚勝久
1941年大阪市に生まれる(本籍 兵庫県伊丹市)。那覇市在住。1964年に関西大学新聞学科卒業、大阪トヨタ自動車本社、宣伝広報課に配属される。同社に勤務しつつ、1967~1968年には日本写真専門学校(夜間)に入学。 写真撮影技術をさらに磨く。同社16年の在籍中は、カメラマン兼宣伝広報マン。おもにPR紙の編集に携わり、全国各地を「ドライブ旅行取材」で巡る。 1972年に沖縄本島の自然や風俗を撮りはじめ、翌年から、盆、正月、有給休暇を利用して竹富島など八重山の島々に通う。1980年にフリー写真家として独立し写真事務所を設立。自然・風俗・祭祀・旅など八重山諸島を中心に沖縄50島の取材活動を続けている。1989年には大阪から那覇市首里に移住し、沖縄専門の「オリジナルフォトライブラリー」設立。現在、取材35年分のストックフイルム&デジタルフォトをそろえている。
大濱聡2019-12-14「大塚勝久」