宮里榮弘芸能館(みやざとえいこうげいのうかん)
沖縄民謡居酒屋 沖縄料理 | 那覇 > 中心部その他 | 国道58号線・泊ふ頭入口交差点から港向けに進み、信号を左折。ローソン前島三丁目店斜め向かい ☎098-862-7198
伊佐傳一さん(2018-2-26没 93歳)
開南中学校を経て台南師範入学(同期生に漫画家の冨永一朗)。敗戦のため学校閉鎖。帰沖し粟国小学校、豊見城小学校などで教鞭。開南小学校校長で教員生活を終える。粟国郷友会生みの親でもある。
①末吉優羅くん
毎日jp2013年9月4日【豊見城】豊見城市文化協会が夏休み期間中に開催した「第9回豊見城市しまくとぅば子ども教室」(市教育委員会共催)の発表会・閉講式が、8月31日同市立中央公民館で開かれた。受講生10人のうち9人が学んだ成果をはつらつと発表した。最優秀賞には①末吉優羅10+件(ゆら)君(上田小2年)、優秀賞には外間巴琉(はる)君(同)が選ばれた。
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『世界地理風俗大系 南アメリカ篇』新光社1935.12-南洋・印度篇 アメリカ合衆國篇 イギリス・フランス篇 サヴィエート・ロシヤ・北歐諸國篇 支那(中華民國)篇 滿洲帝國篇 中歐・バルカン諸國篇 北極・カナダ・アラスカ・メキシコ・中米・西印度諸島篇 南アメリカ篇 中央アジヤ・西アジヤ篇 イタリヤ・スペイン・ポルトガル篇 アフリカ・大洋洲・南極
ブラジルでは「混血に対する差別がない」「すべての人種は平等である」というスローガンによって国民の統合を図ろうとしており、これがブラジル国民のイデオロギーといえるまでになっている。「多くの人種の混合によって超人種とでもよべるような世界でもっともすばらしい人間をブラジルはつくりだした」という主張までなされている(木村秀雄)。
1950年代以降、日本の高度経済成長期にかけて東芝やトヨタ自動車、東京海上日動、コマツ、ヤクルト本社、日本航空など、重工業から金融、サービス業や運送業に至るまで、様々な業種の日本企業がサンパウロを中心に数百社進出しており、世界でも有数の規模の日本人学校、サンパウロ日本人学校など、ブラジル国内に複数の日本人学校がある他、日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれており、また、両国間の人的交流が活発にあるなどその関係は非常に深いものがある。在留邦人は約6万人(2010年)、在日ブラジル人は約23万人(2010年、外務省)である。→ウィキ
1987年10月 屋比久孟清『ブラジルオキナワ移民誌』在伯沖縄県人会
2006年4月 宮城松成『忘れえぬ人々ーブラジル沖縄移民の秘話』沖縄タイムス社
『ニッケイ新聞』2012年4月17日
【沖縄タイムス・南風原】県内から多くの移民が渡ったブラジルとの交流を推進し、次世代へと引き継ごうと、沖縄ブラジル ネットワーク・アミーゴ会(与那城昭宏会長)が発足し、7日、約60人が参加して喜屋武町の南風原文化センターで交流昼食会が開かれた。1908年の最初 の移民から100年余、ブラジル社会で6世の県系人が活躍する中、参加者は交流の発展を決意した。同会は次世代の交流へ向けて、若いリーダーの育成も目指す。与那城会長は「沖縄で活躍するブラジル出身の若者たちを支えながら、沖縄とブラジルの情報交換の会に育て、実のある交流をしていきたい」と抱負を述べた。昼食交流会では沖縄で学ぶブラジルの留学生らが手作りした同国の家庭料理「フェジョアーダ」が振る舞 われた。留学生たちはあいさつで「沖縄とブラジルの懸け橋になりたい」と流ちょうな日本語やウチナーグチで話し、会場を沸かせた。・・・
2013年10月12日 (社)那覇市観光協会「市民演芸・民俗伝統芸能パレード」写真・吉田佐和子さん
沖縄ブラジル協会「ミス琉装」□国際貿易学を学ぶ大学生の比嘉ジュリアナさん(23)=3世、ヴィラ・カロン支部
2014年4月27日/粟国郷友会ー第51回定期総会写真左からオキジム会長の新里有四郎氏、糸数信一32代郷友会長、新会長の与那城昭広氏
2014年10月 赤嶺園子『笠戸丸移民 未来へ継ぐ裔孫』ニッケイ新聞
2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」
写真左から仲宗根政善、折口信夫、島袋全幸、藤井春洋、宮城眞治
島袋全幸『昔の那覇と私』「折口信夫先生と沖縄と・折口先生と伊波先生・東恩納寛惇先生・比嘉春潮先生・宮城栄昌さん・獏さんと泉さん・那覇および那覇人・市史こぼればなし・電車の開通・ありしひの那覇・那覇の女・むかし那覇の正月風景」昭和61年2月ー若夏社発行
09/24: 長虹堤②
【中山伝信録】中国、清の徐葆光(じよほうこう)の撰。六巻。1721年成立。冊封副使として琉球に派遣された際に見聞した、琉球国の地理・制度・風俗・中国との外交関係などを記す。
美栄橋駅周辺の史跡・旧跡
美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤」の築造に始まる。
長虹堤は、1451年に築造させた安里橋(現祟元寺橋)からイベガマ(俗に「久茂地のチンマーサー」)に至るまでの約1kmに及ぶ海中道路で、美栄橋はこの道のほぼ中央に架けられた石橋である。長虹堤築造以来、昭和戦前期に至るまで首里・那覇の往来には主にこの道が利用された。また築造により、安里川から流入する土砂が河口に堆積して干潟が形成され、ここで製塩業が営まれた。
近代に入ると、安里橋付近には漆喰屋、瓦葺職人が集まり、美栄橋からチンマーサーにかけては鍛冶屋が軒を並べ、線香屋も数多くあった。
1945年の沖縄戦の後、美栄橋から西側の地域は米軍の物資集積所となり、その後の区画整理により、往時の様子はすっかり変わってしまった。製塩が行われた地域も埋立により宅地化された。ただ美栄橋から祟元寺橋にかけて(牧志2丁目部分)、長虹堤跡の道が残っている。
現在、美栄橋駅周辺には、長虹堤のほか「新修美栄橋碑」、「十貫岩」の話、幽霊伝説の「七つ墓」、天女伝説の「天日井」、沖縄陶芸史上に名を残す「渡嘉敷三良」・「張献功」の墓などの史跡・旧跡が残っている。
The history of the area where the Miebashi monorail station is today began with the construction of the Chokotei causeway in the days of the Kingdom of the Ryukyus.
Chokotei was a kilometer long inter island causeway built in 1451. The Miebashi was a stone bridge in the center of the causeway. When completed, Chokotei became the primary thoroughfare between Shuri and Naha. Construction of the Chokotei gave rise to silt build-up which in turn developed into tidal flats providing beds for a prosperous salt manufacturing industry. In the late feudal period, the area was a concentration of commerce and industry, including plaster craftsmen, blacksmiths and incense manufactures.
After the Battle of Okinawa in 1945, the area just west of Miebashi became a U.S.military depot. Although the look of the area was completely altered later by land redistricting parts of the Chokotei still remain.
Today, the Miebashi Station area has several historical sites besides the Chokotei: the Miebashi Bridge improvement Monument: the legendary Jikkanji rock: Nanatsu-baka the site of a ghost story: Tiraga spring known for the legend of a celestial maiden: and tombs of the famous artisans Tokashiki Sanra and Cho Kenko.
1長虹堤跡
長虹堤は、1451年に築造された那覇と安里を結ぶ1kmの海中道路である。
長虹堤築造以前、那覇は海に浮かぶ「浮島」であったため、首里と那覇の往来には船を利用し、中国からの使者冊封使の来琉の際には、那覇から安里まで船を並べて橋にしたという。1451年国王尚金福は、国相懐機に命じて、首里・那覇を結ぶ道を造らせた。懐機は、この工事は海が深く波が高いので、とても人間の力では出来ない、神の御加護が必要だと、祭壇を設け二夜三昼祈願した。翌日水が引き海底が見えたので、身分を問わず人民を動員し、安里橋(元祟元寺橋)から、①イベガマ(俗に「久茂地のチンマーサー」)に至るまで、石橋七座を設け海中道路を完成させたという。1633年来琉の冊封使杜三策の従客胡靖は、この海中道路を「遠望すれば長虹のごとし」とうたい、それ以降「長虹堤」と称された。
「長虹堤」は1451年以降、明治期まで首里・那覇を結ぶ主要道であった。しかし、1911年首里・那覇間に泊高橋を経由する電車の開業(1933年廃止)や、1934年新県道(現国際通り)の開通により、主要道としての「長虹堤」の地位は低下した。現在、沖縄戦や戦後の都市開発により、「長虹堤」の風情は失われてしまったが、久茂地川沿いの道路に平行に走る道(牧志二丁目部分)が、わずかに「長虹堤」の様子をとどめている。
A kilometer long inter-island causeway called Chokotei linked Naha to Asato. Then, Naha was built across a few islands, and people used small boats to travel from Shuri to Naha. In 1451, King Sho Kinpuku directed Minister Kaiki to construct seven stone bridges from Asato (today's Sogenji Brige area) to Ibegama (known as Kumoji Chinmasa) to establish an inter-island causeway. Kosei, a member of the Chinese investiture delegation which came to the Ryukyus in 1633, noted in his poetry that the road looked like a rainbow (choko) in the distance. Thus, the causeway got its name.
Although Chokotei was the primary access linking Shuri and Naha, traffic volume dropped with the start of train service between Shuri and Naha via Tomari Takahashi in 1911 (discontinued in 1933), and the opening of a new Prefectural road (today's Kokusai Street) in 1934. Much of the Chokotei was lost in the Battle of Okinawa and to later development, but parts of the causeway still remain along the Kumoji River.
「那覇市歴史博物館」
①現在のイベガマ(俗に「久茂地のチンマーサー」)付近
新城喜一「長虹堤」
09/23: 長虹堤①
琉球最古の石橋を持つ長虹堤も、近代になると、泊高橋を経由して首里-那覇間をむすぶ電車の開業(1911年)や、1934(昭和9)年の新県道(現在の国際通り)開通などにより、次第に華やかさを失った裏通りとなり、現在は通りの一部が「十貫瀬(じっかんじ)」の道として残るだけになっている。 →「道の歴史」
2003年6月 原田禹雄訳注・周煌『琉球國志略』榕樹書林
○ネット上で画像「長虹堤」を見ると、ローゼル川田「琉球風画夢うつつー長虹堤」、琉球ニライ大学の「長虹堤跡を訪ねて」、或いは個人などの画像が豊富である。2010年11月・那覇市歴史博物館発行の『那覇の名橋と知られざる橋』には当然ながら「長虹堤」が載っている。
大正期の長虹堤跡(現・十貫瀬通り)
○2013年9月23日ー美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤」の築造に始まる、といってよい。15時からジュンク堂那覇店で、ゆたかはじめ×ローゼル川田「沖縄の鉄道と旅する」トークイベントがあった。冒頭ゆたか氏が周煌『琉球國志略』の那覇風景を見せていたのは偶然か。会場入口でローゼル川田絵ハガキ「長虹堤」を買った。
石川和男 みどり印刷2013-9-24□これは仮説ですが。長虹堤も龍潭も懐機①の作とされています。おそらく、現在の龍潭の場所は葦などが茂る湿地帯であったとおもいます。土地がクチャ(不透水)である事から掘り下げて周囲に積み上げハンンタン山などの小山や半島をつくり、現在の中城御殿の左端から城西小前までに長虹堤と同じ手法で堤を東西に築き城西小正門前坂道の前までL字型の堤、同じ手法で世持橋のオーバー フロー・・・建築手法が長虹堤と同じなのです。壊機とその技術スタッフで作られたのが この二つの土木遺構だとおもいます。周辺にはその他にも数箇所の暗渠が今では知る人 も少なくアスファルトの下に眠っています。(機能は果たしています。)
①懐機 【かい・き】
尚巴志王代の琉球王国の国相。中国からの渡来人か。初代尚思紹から5代尚金福に至る第一尚氏歴代の王に仕えた。2代尚巴志代に国相となり,三山統一や中国への進貢貿易に尽力した。尚巴志6(1427)年建立の琉球最古の金石文である「安国山樹華木之記碑」に,北京に派遣されたこと,王城外に池(竜潭)を掘ったことがみえている。また旧港(パレンバン)の宣撫使や中国竜虎山の天師大人(道教教主)に文書や礼物を送っており(『歴代宝案』),その権威の高さがうかがわれる。尚金福王代(1450~53)には那覇と泊を結ぶ長虹堤を創建している。古琉球王国草創期の注目の人物である。 (田名真之)→コトバンク
沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。
2005年11月 与並岳生『新 琉球王統史③思紹王、尚巴志王・尚泰久王』「尚金福王と長虹堤建設」新星出版
2003年6月 原田禹雄訳注・周煌『琉球國志略』榕樹書林
○ネット上で画像「長虹堤」を見ると、ローゼル川田「琉球風画夢うつつー長虹堤」、琉球ニライ大学の「長虹堤跡を訪ねて」、或いは個人などの画像が豊富である。2010年11月・那覇市歴史博物館発行の『那覇の名橋と知られざる橋』には当然ながら「長虹堤」が載っている。
大正期の長虹堤跡(現・十貫瀬通り)
○2013年9月23日ー美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤」の築造に始まる、といってよい。15時からジュンク堂那覇店で、ゆたかはじめ×ローゼル川田「沖縄の鉄道と旅する」トークイベントがあった。冒頭ゆたか氏が周煌『琉球國志略』の那覇風景を見せていたのは偶然か。会場入口でローゼル川田絵ハガキ「長虹堤」を買った。
石川和男 みどり印刷2013-9-24□これは仮説ですが。長虹堤も龍潭も懐機①の作とされています。おそらく、現在の龍潭の場所は葦などが茂る湿地帯であったとおもいます。土地がクチャ(不透水)である事から掘り下げて周囲に積み上げハンンタン山などの小山や半島をつくり、現在の中城御殿の左端から城西小前までに長虹堤と同じ手法で堤を東西に築き城西小正門前坂道の前までL字型の堤、同じ手法で世持橋のオーバー フロー・・・建築手法が長虹堤と同じなのです。壊機とその技術スタッフで作られたのが この二つの土木遺構だとおもいます。周辺にはその他にも数箇所の暗渠が今では知る人 も少なくアスファルトの下に眠っています。(機能は果たしています。)
①懐機 【かい・き】
尚巴志王代の琉球王国の国相。中国からの渡来人か。初代尚思紹から5代尚金福に至る第一尚氏歴代の王に仕えた。2代尚巴志代に国相となり,三山統一や中国への進貢貿易に尽力した。尚巴志6(1427)年建立の琉球最古の金石文である「安国山樹華木之記碑」に,北京に派遣されたこと,王城外に池(竜潭)を掘ったことがみえている。また旧港(パレンバン)の宣撫使や中国竜虎山の天師大人(道教教主)に文書や礼物を送っており(『歴代宝案』),その権威の高さがうかがわれる。尚金福王代(1450~53)には那覇と泊を結ぶ長虹堤を創建している。古琉球王国草創期の注目の人物である。 (田名真之)→コトバンク
沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。
2005年11月 与並岳生『新 琉球王統史③思紹王、尚巴志王・尚泰久王』「尚金福王と長虹堤建設」新星出版
写真ー松田賀哲
○1986年1月 松田賀哲『随筆と歌』
写真1935年頃辻ー後列右からー山里永吉、仲泊良夫 前列中央が松田枕流(賀哲の弟)
右ー松田賀孝氏(一橋大学経済学博士、琉球大学名誉教授)
09/19: 宜湾朝保(1823年3月5日~1876年8月6日)
宜湾朝保
近世末期琉球の政治家,歌人。唐名は向有恒。明治政府が樹立し,廃藩置県が行われると,維新慶賀副使として上京,琉球藩王を受けて,琉球王国の日本への編入の道を開く。琉球の名門の家に生まれ,父親は幼時に死去したものの,やはり三司官(本土の家老などに相当する首里王府の要職)だった。本人も尚泰15(1862)年から死の前年まで三司官を務める。歌を,香川景樹の高弟で薩摩藩士八田知紀に師事し,『沖縄集』(尚泰23年刊),『沖縄集二編』(同29年刊)を編集刊行するなど大いに歌道を興す。家集に『松風集』がある。
(池宮正治)→コトバンク
宜湾朝保の父ー向延楷・盛島親方朝昆
1969年3月 昭和女子大学近代文学研究室『増訂 近代文学叢書』「八田知紀」第一巻 昭和女子大学
近世末期琉球の政治家,歌人。唐名は向有恒。明治政府が樹立し,廃藩置県が行われると,維新慶賀副使として上京,琉球藩王を受けて,琉球王国の日本への編入の道を開く。琉球の名門の家に生まれ,父親は幼時に死去したものの,やはり三司官(本土の家老などに相当する首里王府の要職)だった。本人も尚泰15(1862)年から死の前年まで三司官を務める。歌を,香川景樹の高弟で薩摩藩士八田知紀に師事し,『沖縄集』(尚泰23年刊),『沖縄集二編』(同29年刊)を編集刊行するなど大いに歌道を興す。家集に『松風集』がある。
(池宮正治)→コトバンク
宜湾朝保の父ー向延楷・盛島親方朝昆
1969年3月 昭和女子大学近代文学研究室『増訂 近代文学叢書』「八田知紀」第一巻 昭和女子大学
浦添市美術館連続講座「近代沖縄の美術・工芸」
沖縄県物産販売斡旋所と沖縄県工業指導所
1926(大正15)年
10月1日ー沖縄県大阪物産斡旋所・東京物産斡旋所設置
1930年3月7日ー沖縄県大阪物産斡旋所で「漆器宣伝会」
沖縄県物産販売東京斡旋所(西村所長)東京駅前丸の内ビルディング内
1934年3月20日ー沖縄県大阪物産斡旋所が神戸大丸百貨店で「沖縄県漆器見本展示会」
1937年9月1日ー『大阪球陽新報』安慶名宜良「本県物産斡旋所の沿革と事業に就いて」
1938年11月1日ー『大阪球陽新報』「沖縄県漆工藝組合が11月1日より阪急百貨店6階で琉球漆器陳列会」
1939年
4月1日ー『大阪球陽新報』「大阪物産斡旋所主任、安慶名宜良氏が本県糖業主事として栄転」
11月1日ー『大阪球陽新報』奥里将建「美術館の創設と沖縄の工藝政策」連載
1940年
3月1日ー『大阪球陽新報』「漆の配給は見込みが薄いー屋嘉那覇市勧業課長談」
6月20-『大阪球陽新報』「6月25日から三越大阪支店で山田真山画伯陶作即売会」
8月15日ー『大阪球陽新報』「去る14日から南海高島屋7階で沖縄民芸品と物産即売会並びに古芸品展」
沖縄県工業指導所
1926年8月14日ー『琉球新報』「商工省助成費の看板は工業指導所/計画の試験場は取止め、大蔵省は無事通過か」
1927年8月ー沖縄県工業指導所、島尻郡真和志村に設置。組織は所長事務取扱の井田憲次、窯業部の金沢武雄、染色部の光安源次郎、漆器部の生駒弘、機織部の4部門で構成。
1929年
赤間文三所長□(1899年5月31日生まれ。福岡県出身。1925年、東京帝国大学独法科卒業、岡山、山梨、愛知大阪各府県勤務。徳島県経済部長、商工省、大臣官房から燃料局醸造工業部長を経て1947年4月から3期12年にわたって大阪府知事を皆勤12年。1951年2月15日の北恩加島小学校で開かれた沖縄諸島日本復帰要望大会(豊川忠進会長)では熱弁を振う。
8月10日ー『琉球新報』「所員間の醜き暗闘をー赤間所長戒む/明るく正しくあれと工業指導所刷新に着手」
9月3日ー『沖縄朝日新聞』「芭蕉布団地ー県外に販路拡張」
沖縄県工業指導所門前。戦前、工業指導所に居られた具志堅以徳氏、牧港篤三氏によれば、門から入って本館があってそこには陳列室があり左側には所長室があった。それを通って行くと、右には宿直室、その隣には漆器の模様入れの作業場、向かいの左側に漆器部がある。その裏側に紅房が出来る。さらに奥のほうの左側に染織部、図案部があり、その右側に窯業部があり煙突がついていた。
1930年
8月6日ー『沖縄朝日新聞』生駒弘「琉球塗の特質」
1930年2月18日『大阪朝日新聞附録九州朝日』「琉球紹介の沖縄県物産館生る」
09/16: 探訪人・大湾朝功
大湾朝功は『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社1983年4月)に金城正篤氏が紹介しているので名前は知られている。
2013年9月15日『琉球新報』仲村顕「人ものがたりー大湾朝功」(イラスト・カカオマスさん)
○1990年2月 渡久山寛三『琉球処分ー探訪人・大湾朝功』新人物往来社
○2011年2月のブログ「海邦小国」にも大湾朝功(向建栄)は報告書の写真付(大湾朝功と久高盛政が警察へ提出した報告書の一部)で紹介されている。「大湾朝功(おおわん・ちょうこう)は琉球併合の際、日本側につき処分官・松田道之のスパイ(探訪(謀)人)となり、琉球人の同行を探る役割を果たした。置県後は生命の危険もあったため、松田が帰任する際に一度沖縄を離れたが、その後戻って県庁に勤めた。事典などでは生没不詳とされているが没年は確認できる。没年は明治40(1907)年4月。長男は朝忠。朝忠も県庁に勤めた。孫は朝義。」また同ブログには他の探訪人、「伊波普猷の叔父・許田普益(小樽金)ー琉球併合時に日本側について、探訪(謀)人(スパイ)となる。スパイとなった許田は生命の危険もあったことから、松田道之が帰任する際、同行して一時東京へ行き身を隠す。東京で滞在中は共慣義塾(英学)で学び、明治15(1882)年4月に沖縄に戻った。しかし、翌年の明治16(1883)年、腸チフスにかかって亡くなった。享年18歳。 久高盛政が日本側の探訪(謀)人として活動したことが確認できるが、ほかに首里士族の「仲吉、松島」も、探訪人となったという。」も紹介されている。
2013年9月15日『琉球新報』仲村顕「人ものがたりー大湾朝功」(イラスト・カカオマスさん)
○1990年2月 渡久山寛三『琉球処分ー探訪人・大湾朝功』新人物往来社
○2011年2月のブログ「海邦小国」にも大湾朝功(向建栄)は報告書の写真付(大湾朝功と久高盛政が警察へ提出した報告書の一部)で紹介されている。「大湾朝功(おおわん・ちょうこう)は琉球併合の際、日本側につき処分官・松田道之のスパイ(探訪(謀)人)となり、琉球人の同行を探る役割を果たした。置県後は生命の危険もあったため、松田が帰任する際に一度沖縄を離れたが、その後戻って県庁に勤めた。事典などでは生没不詳とされているが没年は確認できる。没年は明治40(1907)年4月。長男は朝忠。朝忠も県庁に勤めた。孫は朝義。」また同ブログには他の探訪人、「伊波普猷の叔父・許田普益(小樽金)ー琉球併合時に日本側について、探訪(謀)人(スパイ)となる。スパイとなった許田は生命の危険もあったことから、松田道之が帰任する際、同行して一時東京へ行き身を隠す。東京で滞在中は共慣義塾(英学)で学び、明治15(1882)年4月に沖縄に戻った。しかし、翌年の明治16(1883)年、腸チフスにかかって亡くなった。享年18歳。 久高盛政が日本側の探訪(謀)人として活動したことが確認できるが、ほかに首里士族の「仲吉、松島」も、探訪人となったという。」も紹介されている。
09/16: 那覇市歴史博物館 「沖縄のシンボル 守礼門」展②
守礼門
小峯和明立教大学教授の『今昔物語集の世界』に「ある人は個人の屋敷の門やお寺の三門を想像するでしょうし、ある人はパリの凱旋門や都市の有名な門を連想するかもしれません」と門の話から始まり羅城門(羅生門)で話がはじまっている。ここに出てくる「守礼の門」は扁額が「守礼之邦」となっているところからそう呼ぶのであるが、中には「守礼門」と書いて「しゅれいのもん」と呼ぶのもいる。
大阪「沖縄関係資料室」(西平守晴主宰)には守礼門の扁額の拓本が軸装である。これは1972年に「豊川忠進先生の長寿を祝う会」のため那覇市の又吉真三氏から借用し寄贈されたものである。拓本の先駆者は久場政用。久場には『琉球金石総覧』『琉球列島之文化史料と植物史料』がある。また1926年の『沖縄タイムス』には「久場政用事業広告ー琉球植物園、科学知識普及ノ講話」がある。
新川明氏は『沖縄・統合と反逆』の中で「『守礼門』新札をどう読むか」と題し「扁額の『守禮之邦』という語句は、琉球王国が対外的に礼節を重んずる国であることを内外に宣言した意味を持つ。おのずからその国民は『守礼の民』であるという自己規定が生じる。『守礼門』は、そのような自己規定を媒介する『記号』として共有されてきたのである」とし、続けて「このような伝統は直ちに統治者によって逆手に取られ、支配目的を遂行するために利用されるのが常である。たとえば米軍統治下の沖縄に『守礼の光』と題する雑誌があった」としその側面にも触れている。
守礼門は、首里城が復元されるまでは「沖縄のシンボル」であった。最近は無用の長物の扱いを受け、沖縄教育委員会発行の『概説・沖縄の歴史と文化』の索引にも独立した項目としては無い。首里城に一括りされ冷たい扱いとなっている。1853年6月6日にペリー提督一行が首里城を訪れた。その遠征記には守礼門の版画が掲載されている。扁額の字は「中山府」としか見えないがとにかくもアメリカ史に守礼門が登場した最初のものであろう。
1952年発行の琉球郵便切手に「正殿唐破風」「琉大開学記念」(正殿が描かれている)、53年発行の「ぺルリ来琉百年記念」がある。58年には守礼門復元記念切手が発行された。62年には「国際マラリア防遏事業記念」切手に守礼門が図案化され、65年の「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」切手にも守礼門が使われた。復帰のときは守礼門が紅型模様とともに記念切手に使われ、時代の節目には必ず守礼門が使われた。合計6枚もある。スタンプにも数種がある。
丹羽文雄の小説集に『守禮の門』(1948年)がある。ちなみに手元の沖縄の旅行ガイドブックを見ると、1963刊の実業之日本社『沖縄』は口絵カラー写真に「守礼の門」がある。68年の主婦と生活社『カラ―旅・沖縄』はカバーと中扉に守礼門の写真がある。70年の日本旅行研究所『沖縄』には「守礼の門」のカラー写真、72年の山と渓谷社『沖縄と南西の島々』は「夕日の守礼門(しゅれいのもん)」の写真がある。
『おきなわキーワードコラムブック』に小野まさこさんが守礼門を「琉球王国時代には中国使節を迎え、現代においては観光客を迎えている首里王城の一門。観光客も必ず立ち寄る沖縄観光の記念写真の撮影場所となっている。夕日の中の『守礼之門』等、堂々たるシルエットの絵葉書も何枚かある。(略)東急ホテル前のイミテーション守礼門を本物だとカンチガイする人がけっこういるので、ご注意を」と簡潔に説明している。
東恩納寛惇は「首里王府の第一号坊としては中山門があり、王城の門としては、歓会門がある。第二坊が守礼門」と守礼門考に記している。寛惇は続けて「守礼門は尚清王時代の創建で、其頃は待賢門と言うて居たが、中頃になって首里と言う扁額を掲げ、これを首里門と称えて居た」とあるから呼び方も時代によって変遷している。
2010年7月3日から那覇市歴史博物館で「守礼門」展が開かれる。『球陽』の尚巴志7年(1428年)に「国門を創建す。曰く中山」とあるのは中山門で、尚貞13年(1681年)に板葺きが瓦葺に改められた。ちなみに正門の歓会門は尚眞代の建立。守礼門は尚清代の創建とされ、はじめ「待賢門」、のち「首里」の2字の額を掲げていた。尚永代に「守礼之邦」の額を冊封使来流のときにだけ掲げたが、1663年からは常に掲げられるようになった。
小峯和明立教大学教授の『今昔物語集の世界』に「ある人は個人の屋敷の門やお寺の三門を想像するでしょうし、ある人はパリの凱旋門や都市の有名な門を連想するかもしれません」と門の話から始まり羅城門(羅生門)で話がはじまっている。ここに出てくる「守礼の門」は扁額が「守礼之邦」となっているところからそう呼ぶのであるが、中には「守礼門」と書いて「しゅれいのもん」と呼ぶのもいる。
大阪「沖縄関係資料室」(西平守晴主宰)には守礼門の扁額の拓本が軸装である。これは1972年に「豊川忠進先生の長寿を祝う会」のため那覇市の又吉真三氏から借用し寄贈されたものである。拓本の先駆者は久場政用。久場には『琉球金石総覧』『琉球列島之文化史料と植物史料』がある。また1926年の『沖縄タイムス』には「久場政用事業広告ー琉球植物園、科学知識普及ノ講話」がある。
新川明氏は『沖縄・統合と反逆』の中で「『守礼門』新札をどう読むか」と題し「扁額の『守禮之邦』という語句は、琉球王国が対外的に礼節を重んずる国であることを内外に宣言した意味を持つ。おのずからその国民は『守礼の民』であるという自己規定が生じる。『守礼門』は、そのような自己規定を媒介する『記号』として共有されてきたのである」とし、続けて「このような伝統は直ちに統治者によって逆手に取られ、支配目的を遂行するために利用されるのが常である。たとえば米軍統治下の沖縄に『守礼の光』と題する雑誌があった」としその側面にも触れている。
守礼門は、首里城が復元されるまでは「沖縄のシンボル」であった。最近は無用の長物の扱いを受け、沖縄教育委員会発行の『概説・沖縄の歴史と文化』の索引にも独立した項目としては無い。首里城に一括りされ冷たい扱いとなっている。1853年6月6日にペリー提督一行が首里城を訪れた。その遠征記には守礼門の版画が掲載されている。扁額の字は「中山府」としか見えないがとにかくもアメリカ史に守礼門が登場した最初のものであろう。
1952年発行の琉球郵便切手に「正殿唐破風」「琉大開学記念」(正殿が描かれている)、53年発行の「ぺルリ来琉百年記念」がある。58年には守礼門復元記念切手が発行された。62年には「国際マラリア防遏事業記念」切手に守礼門が図案化され、65年の「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」切手にも守礼門が使われた。復帰のときは守礼門が紅型模様とともに記念切手に使われ、時代の節目には必ず守礼門が使われた。合計6枚もある。スタンプにも数種がある。
丹羽文雄の小説集に『守禮の門』(1948年)がある。ちなみに手元の沖縄の旅行ガイドブックを見ると、1963刊の実業之日本社『沖縄』は口絵カラー写真に「守礼の門」がある。68年の主婦と生活社『カラ―旅・沖縄』はカバーと中扉に守礼門の写真がある。70年の日本旅行研究所『沖縄』には「守礼の門」のカラー写真、72年の山と渓谷社『沖縄と南西の島々』は「夕日の守礼門(しゅれいのもん)」の写真がある。
『おきなわキーワードコラムブック』に小野まさこさんが守礼門を「琉球王国時代には中国使節を迎え、現代においては観光客を迎えている首里王城の一門。観光客も必ず立ち寄る沖縄観光の記念写真の撮影場所となっている。夕日の中の『守礼之門』等、堂々たるシルエットの絵葉書も何枚かある。(略)東急ホテル前のイミテーション守礼門を本物だとカンチガイする人がけっこういるので、ご注意を」と簡潔に説明している。
東恩納寛惇は「首里王府の第一号坊としては中山門があり、王城の門としては、歓会門がある。第二坊が守礼門」と守礼門考に記している。寛惇は続けて「守礼門は尚清王時代の創建で、其頃は待賢門と言うて居たが、中頃になって首里と言う扁額を掲げ、これを首里門と称えて居た」とあるから呼び方も時代によって変遷している。
2010年7月3日から那覇市歴史博物館で「守礼門」展が開かれる。『球陽』の尚巴志7年(1428年)に「国門を創建す。曰く中山」とあるのは中山門で、尚貞13年(1681年)に板葺きが瓦葺に改められた。ちなみに正門の歓会門は尚眞代の建立。守礼門は尚清代の創建とされ、はじめ「待賢門」、のち「首里」の2字の額を掲げていた。尚永代に「守礼之邦」の額を冊封使来流のときにだけ掲げたが、1663年からは常に掲げられるようになった。
09/12: 2013年9月の山田實さん
2013年9月1日『沖縄タイムス』「目~ぐるアングル⑥戦後沖縄文化の『博物館』写真家・山田實さんの事務所ー人と記録の『交差点』」
2013年9月10日 那覇市民ギャラリー「二科会写真部沖縄支部 第二回写真展」山田實「粟国の思い出」
小橋川肇氏、その作品「錯綜する馬面骨」①②
右が宮城護氏、その作品をバックに新城征孝氏
『日本カメラ』2013年10月号
30日、自宅書斎にて
2013年10月8日~13日 那覇市民ギャラリー「金城規克写真展ー光景1970~1990」宮城保武氏、金城規克氏、小橋川肇氏
沖縄の雑誌『青い海』
左ー1998年3月「道の島・美の交流展」那覇市民ギャラリーに出品の「礁の浮遊」と小橋川肇氏
小橋川肇 〒900-0021那覇市泉崎1-8-2
赤嶺正則(☎850-6264)
写真左から城間喜宏氏、赤嶺正則氏
2015年11月3日~8日 那覇市民ギャラリー「赤嶺正則 人物画個展」
写真左から赤嶺正則氏、城間喜宏氏
2023年10月19日 那覇市民ギャラリー「具志弘樹作品展」/左から赤嶺正則氏、大久保彰氏、具志弘樹さん
写真左から城間喜宏氏、赤嶺正則氏
2015年11月3日~8日 那覇市民ギャラリー「赤嶺正則 人物画個展」
写真左から赤嶺正則氏、城間喜宏氏
2023年10月19日 那覇市民ギャラリー「具志弘樹作品展」/左から赤嶺正則氏、大久保彰氏、具志弘樹さん
09/11: 雑誌『おきなわ』/島袋百恵・画「山之口貘」
島袋百恵・画「山之口貘」
沖縄県立図書館創立100周年記念「山之口貘文庫開設展」
写真は1925年8月16日、貘2度目の上京前に上左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
写真は1959年1月3日「大原登美屋」で、座っている左から末吉安久(麦門冬の弟)、一人おいて国吉真哲、南風原朝光、一人おいて貘
2010年10月21日―午後5時 沖縄県立図書館の山之口貘展を期に貘さんの親友であった国吉真哲翁の「貘関係資料」数点を新城栄徳氏が沖縄県立図書館の島袋道男館長へ寄贈した。(宮城涼子 資料班長記)
神山政良、山入端つる、貘の左に平良リヱ子
著者の後田多敦氏から『山之口貘 詩と語り』が贈られてきた。中に「貘さんが又吉康和」へ宛てた手紙の一節は興味深い。手紙には『小生まだ碌な仕事も出来ずまことにお恥ずかしい次第ですが、最後まで東京に頑張ります』とある。」 この手紙には「船」の詩原稿が添えられていた。国吉真哲記者によって元旦号の記事になったのはいうまでもない。
山之口貘の又吉康和宛書簡/詩稿
1952年1月1日『琉球新報』
新城栄徳「山之口貘、バクの由来」
1911年1月ー『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉麦門冬)「古手帖」
1913年2月ー『沖縄毎日新聞』獏族(末吉麦門冬)「川柳 車上偶吟ー龍宮の火事鹽焼きの死魚出て/聲聞いて誰やみしへが入みそうれ/寒いのに波上などへ吹かれに出/大和語は唯はいはいと受け流し」
□新城栄徳「國吉眞哲翁から、貘と一緒に末吉麦門冬の家に遊びに行った話を伺ったことがある。玄関から書斎まで本が積んであって、麦門冬が本を広げている上を鶏が糞を垂れ流しながら走りまわっていたのが印象に残っているとの話であった。思うに貘はそのとき麦門冬の旧號・獏を夢を喰う意味での「獏夢道人」をいくぶん意識に植えつけたのではなかろうか。」→1997年8月1日『琉球新報』「貘のいる風景」
大正14年9月ー『沖縄教育』第百四十七号(編集者・又吉康和)□山之口貘詩「まひる」「人生と食後」(編集後記ー山之口氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ外三篇入選しました之れより琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります。表紙の装幀を本号から改めました題字は山城正忠氏の揮毫、獅子は山口重三郎氏に御願しました茲に両氏に篤く謝意を表して置きます。)→この『沖縄教育』を那覇市歴史博物館に寄贈したのは鹿野政直さんである。
大正15年9月ー『沖縄教育』第百五十六号(編集者・國吉眞哲)□山之口貘短章「彼」(編集後記ー山之口貘君は青年詩人で『彼』は短章ではあるが胸を突くものがある筈である。)
大正15年12月ー『南鵬』第2巻第1号(編集者・又吉康和)□山之口貘詩「莨-ニヒリストへの贈物ー諦らむるものの吐息はけぶるのである/深い深い地の底に吸はれてけぶるのである うちつづくこの怪しげな平面に直角lで/高い高い 昇天の涯で/ああ 疲れた生命のまうえ/死んだ月の輪にけぶるのである うちふるふ希望の触手の末梢はしびれ/得体の知れない運命にすっかり瘠せてしまうて/とほくとほく真空をめざしてけぶるもの それは火葬場を訪ねる賓客の莨です。」、國吉灰雨「風景短章」
1975年7月23日ー『琉球新報』国吉真哲「小説や絵にも筆力ー貘は中学時代は画家になることを志し、大正11年ごろの第一回の上京は日本美術学校に入学のためであった。しかし間もなく家計が左前になり、学費に窮することもしばしばで、いくばくもなく学校をやめ、大正12年の関東大震災を機会に帰郷したようである。家族が離散して後は、学生のもつズックの手提げにスケッチブックと大学ノート2冊、タオルと歯みがき楊子を入れたのが全財産のようであった。(略)絵については、基礎としてのデザインを強調し、物の見方や、対象の把握がなければ、真実を探求することは出来ないという意味のことを話していた。(貘)自画像ははっきり覚えている。赤みがかった茶色を主にし、くすんだ黄土色とだいだい色を使用したもので、よく似ていたが、少しきつかった。」
1986年12月ー『金真弓』沖縄県歌話会□新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学ー山之口貘の全集の年譜を見ると、大正6年8月に若い画家たちら浦崎永錫の主張で『丹青協会』が創設、とある。これは誤りで大正8年9月の『自由絵画展覧会』のことではなかろうか。翌年に『ふたば会第一回展』が開催されている。これらは沖縄近代美術史についてあまり知られてないゆえにそうなったので、先学の研究を下地にアウトラインを述べてみる。」
伊波廣定氏と新城栄徳
伊波廣定
伊波廣定から國吉眞哲宛ハガキ
写真ー左から伊波広定氏(元沖縄人民党文化部長)、古波蔵保好氏、新城栄徳/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳
伊波廣定から國吉眞哲宛書簡
2019/8/13 謝名元 慶福 『謝名元慶福戯曲集 島口説 』ゆい出版
1977年7月 『青い海』64号 謝名元慶福「『レクイエム沖縄』を聴く」
1978年6月 『青い海』74号 謝名元慶福「子ども文化の胎動の中で―沖縄の子どもたちと文化を考えるー」
1978年12月 『青い海』79号 謝名元慶福「沖縄県民の特性と背景 NHK全国県民意識調査から」
1984年1月 『青い海』129号 謝名元慶福「島口説」「『島口説』雑感」、北島角子「島口説とのめぐりあい」
1984年3月 『青い海』130号 謝名元慶福「『朝未来』と『たねだ賞』」
1987年3月 『新沖縄文学』71号 謝名元慶福「チェロ二題」
謝名元慶福ー1942年、沖縄県出身。コザ高校卒業。東京のテレビドラマ研究所に学ぶ。琉球放送、NHK等の放送局勤務と並行し、劇作家として活動を開始。明治から復帰後までの沖縄を舞台に、天皇制や米国といった権力と向き合う民衆の姿を描いた戯曲を数多く発表する。
1983年9月23日ー『沖縄民権』第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)
1972年6月 沖縄の雑誌『青い海』14号 安次嶺金正「沖縄の文化財 海と台風に育まれた文化」
2013年9月10日~10月27日 沖縄県立博物館・美術館「緑の抒情 安次嶺金正展」
安次嶺金正(五人展会場で)
1982年3月 『安次嶺金正・画集』/図録『緑の抒情 安次嶺金正展』
1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>
1996年3月 『新生美術』11号 星雅彦「安次嶺金正試論」
09/05: 鎌倉芳太郎②
1954年11月14日『沖縄タイムス』「琉球藝術論を脱稿ー胡屋琉大学長と同大名義出版を約すー世に出るか、鎌倉芳太郎教授の著書(本文・千二百頁、図版五百頁)」
1955-8 日本橋高島屋「沖縄展」鎌倉芳太郎、型紙出品
8月ー東京日本橋高島屋で読売新聞主催「沖縄展」
1957-12-1 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「私と沖縄」□交友関係では末吉麦門冬(末吉安久氏の実兄)と意気投合。いろいろ啓発し、されたもの
1958-7-16 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「沖縄の美しいもの」(1)6-15川崎市沖縄文化同好会第8回沖縄文化講座で講演したもの。~7-26(10)
1960-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型型紙の研究』京都書院
1961年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「円覚寺大雄殿壁画」(鎌倉芳太郎模写)、「大島祝女服装図」(鎌倉芳太郎模写)寄贈。鎌倉芳太郎から「ときさうし」「古代祝女衣裳カカン」「古代芭蕉地カカン」、鎌倉秀雄から「進貢船図」購入
1963-9月 鎌倉芳太郎『琉球の織物』京都書院
1964年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「三平等兼題文言集」「呈禀文集」「寺社由来記」「琉球事件 上」「球陽外巻(遺老説伝)」「萬集」「覚世真経」「廃藩後旧例相変り候事件」「浦添御殿本 『王代記』」「大上感応篇大意の序」を寄贈。鎌倉秀雄から「琉球詩集」「琉球官生詩集」「琉球詩録」「毛世輝詩集」「東子祥先生詩集」「平敷屋朝敏文集」「中山王府相卿伝職年譜」「御書院並南風原御殿御床飾」「御座飾帳」「御書院御物帳」「琉球俗語 巻之一」購入
1966ー10 東京ひめゆり同窓会『戦後二十周年記念誌』(表紙・鎌倉芳太郎)□鎌倉芳太郎「回想記ー廃藩置県時代以前の琉球王国時代の美術研究に従事した。その関係で沖縄タイムス主筆 麦門冬末吉安恭氏と親交を続けた。またその縁戚の南村氏とも顔を合わせる機会が多く、したがって当時の沖縄における共産社会主義の猛者連中の思想運動にもふれた・・・」
1966年10月/1975年10月
1968年2月 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』京都書院
1968-4 日本橋東急百貨店「沖縄展」図録 鎌倉芳太郎「琉球造形美術について」→名古屋の徳川美術館でも中日新聞社共催で開催された。
4月ー東急百貨店日本橋店7階で「沖縄展ー琉球の自然と文化」
1971-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』上下 京都書院
1971 鎌倉芳太郎『古琉球型紙』京都書院
1955-8 日本橋高島屋「沖縄展」鎌倉芳太郎、型紙出品
8月ー東京日本橋高島屋で読売新聞主催「沖縄展」
1957-12-1 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「私と沖縄」□交友関係では末吉麦門冬(末吉安久氏の実兄)と意気投合。いろいろ啓発し、されたもの
1958-7-16 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「沖縄の美しいもの」(1)6-15川崎市沖縄文化同好会第8回沖縄文化講座で講演したもの。~7-26(10)
1960-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型型紙の研究』京都書院
1961年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「円覚寺大雄殿壁画」(鎌倉芳太郎模写)、「大島祝女服装図」(鎌倉芳太郎模写)寄贈。鎌倉芳太郎から「ときさうし」「古代祝女衣裳カカン」「古代芭蕉地カカン」、鎌倉秀雄から「進貢船図」購入
1963-9月 鎌倉芳太郎『琉球の織物』京都書院
1964年 琉球政府立博物館、鎌倉芳太郎から「三平等兼題文言集」「呈禀文集」「寺社由来記」「琉球事件 上」「球陽外巻(遺老説伝)」「萬集」「覚世真経」「廃藩後旧例相変り候事件」「浦添御殿本 『王代記』」「大上感応篇大意の序」を寄贈。鎌倉秀雄から「琉球詩集」「琉球官生詩集」「琉球詩録」「毛世輝詩集」「東子祥先生詩集」「平敷屋朝敏文集」「中山王府相卿伝職年譜」「御書院並南風原御殿御床飾」「御座飾帳」「御書院御物帳」「琉球俗語 巻之一」購入
1966ー10 東京ひめゆり同窓会『戦後二十周年記念誌』(表紙・鎌倉芳太郎)□鎌倉芳太郎「回想記ー廃藩置県時代以前の琉球王国時代の美術研究に従事した。その関係で沖縄タイムス主筆 麦門冬末吉安恭氏と親交を続けた。またその縁戚の南村氏とも顔を合わせる機会が多く、したがって当時の沖縄における共産社会主義の猛者連中の思想運動にもふれた・・・」
1966年10月/1975年10月
1968年2月 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』京都書院
1968-4 日本橋東急百貨店「沖縄展」図録 鎌倉芳太郎「琉球造形美術について」→名古屋の徳川美術館でも中日新聞社共催で開催された。
4月ー東急百貨店日本橋店7階で「沖縄展ー琉球の自然と文化」
1971-1 鎌倉芳太郎『古琉球紅型』上下 京都書院
1971 鎌倉芳太郎『古琉球型紙』京都書院
09/04: 画家・冨田渓仙
1916年4月18日ー冨田渓仙、来沖、3週間滞在。
1917年 冨田渓仙「沖縄三題」□2007年 沖縄県立博物館・美術館『沖縄文化の軌跡1872-2007』所収
冨田渓仙 とみた-けいせん
1879-1936 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治12年12月9日生まれ。狩野派,四条派をまなび,のち仙厓義梵(せんがい-ぎぼん),富岡鉄斎に傾倒。横山大観にみとめられ,大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員。昭和11年7月6日死去。58歳。福岡県出身。本名は鎮五郎(しげごろう)。字(あざな)は隆鎮。別号に雪仙,渓山人など。作品に「御室の桜」「伝書鳩」など。(コトバンク)
2013年11月2日~12月8日 沖縄県立博物館・美術館「京都 清水寺展」に冨田渓仙「伎芸天図」「詞梨帝母図」が展示される。
1917年 冨田渓仙「沖縄三題」□2007年 沖縄県立博物館・美術館『沖縄文化の軌跡1872-2007』所収
冨田渓仙 とみた-けいせん
1879-1936 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治12年12月9日生まれ。狩野派,四条派をまなび,のち仙厓義梵(せんがい-ぎぼん),富岡鉄斎に傾倒。横山大観にみとめられ,大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員。昭和11年7月6日死去。58歳。福岡県出身。本名は鎮五郎(しげごろう)。字(あざな)は隆鎮。別号に雪仙,渓山人など。作品に「御室の桜」「伝書鳩」など。(コトバンク)
2013年11月2日~12月8日 沖縄県立博物館・美術館「京都 清水寺展」に冨田渓仙「伎芸天図」「詞梨帝母図」が展示される。
09/04: 冬瓜(とうがん)を担ぐ岩獅子
岩獅子の独白
俺、冬瓜(とうがん)を担ぐ岩獅子。日々、冬瓜を担ぎ部屋の片隅で置物としての生業(なりわい)を果たしています。冬瓜とはいえ陶製なので、重みが右の肩に食い込み、肩や腰が痛くてなかなか辛い仕事でもあります。仲間のシーサー達からもよく「一体君は何のために、冬瓜を担ぐ格好でいるのか。」と聞かれますが、実は、俺にもよく解らないのであります。
俺は、この世に生まれてずっとこのかた、この格好でいるので、特に疑問に思ったこともなく、日々を過ごしてきたが、長ずるにつれ世間を見まわして見ると、俺の格好が奇妙で他のシーサー達とは違うことに気ずいてきました。この頃は、門柱の上で夫婦(めおと)シーサーとして仲睦まじく存在している彼らや、屋根瓦の上で孤高の哲学者のように、虚空を睨む彼に較べると、俺の格好はいかにもぶざまではないのか?との疑念が湧いてきて心穏やかではいられないのであります。存在の不条理というか、他のものに変わりたいというか、
兎にも角にもこの重たい物を降ろして、自由になりたいという思いが強くなってきて、
毎日が面白く無いのであります。
このオリモノのように沈殿した妄念が、ある暑い夏の日に爆発しました。
「一体、俺が冬瓜(とうがん)を担ぐことに何の意味があるんですか?。ゴルゴダの丘のキリストでもあるまいし。」と悶々たる思いを、生みの親である陶芸家先生にぶつけました
普段は物言わぬ俺の発言に、先生は一瞬「ん?」という顔をなさいましたが、曰く、
「特に意味はない。冬瓜の石膏型があり、思い付きで冬瓜と手びねりの獅子とコラブレーションしただけだ。只、最初の構想では槍を持つ衛兵の如く、姿勢はもう少し立つていたのだが、冬瓜の重みでだんだんと倒れかけてきて、アレ、アレと思うままに手直しを重ねてきたのが今の形だよ。」と仕事の手を休めるでもなく素っ気なくこたえるのでした。
勢いこんでいた俺は
「はぁ」と拍子抜けするやら、俺がこれだけ懊悩しているのに「思い付きでつくったぁーあ?俺の存在は毛ほども軽いのか?。」「倒れかけたら真っ直ぐに直したらいいじゃないか。あんたのズボラのおかげで、俺の肩と腰はヒィヒィいってるよ。」
と情けなくもあり、怒りも込み上げてきて、冬瓜(とうがん)をバット替わりに殴ったろうかとも思いました。俺の顔は紅潮し、目は涙目になりながらも、なお、
「先生、俺、辛いんだよ。やりきれないんだよ。意味も解らないで冬瓜を担ぎ存在していることが。」と声を荒げ言い放ちました。
先生は今度は仕事の手を休め、俺の方をむき直り、真顔で俺の顔をじっと見て
「君の存在理由を、強いて言えばユーモラスな感じかな?。門柱のシーサーや屋根のシーサーを見てごらん。どこも似たり寄ったりで、誰も見向きもしないではないか。そこにくると冬瓜を担ぐ君の姿を見ると、誰でもまずは微笑むだろう。そこだよ。君が意識するとしないとに関わらず君の存在は、人に微笑みを与える。微笑みとはすなわち幸せのことだよ。仏様の教えでは、己を滅して他に幸せを与える者を菩薩と言うんだよ。尊いことだよ。冬瓜を担ぐ君の姿は尊い菩薩行を行じているんだよ。」
と言い、頭をなでてくれるのした。その瞬間、憑き物が落ちたように、俺の人生でも初めてのことだが、ワァと涙が滂沱の如くあふれでて、俺の中にもこんなに涙があったのかと思うくらいに泣きました。そして先生が偉い人にも思えてきました。
その日以来、解ったような解らないような気持ちですが、でも少し解ったような気がしています。これからは、俺が冬瓜(とうがん)を担ぐ姿をみて、人が微笑んでくれたら良しとしようかと思います。又、その日以来、冬瓜が軽くなったような気がしています。 合掌
追記 今度のシーサー会の模合では、みんなにこのことを語ってみようとおもいます。
09/01: 水上泰生
『琉文手帖』(1999年5月)「沖縄近代文化年表」の1914年(大正3)の2月5日のところに、画家・水上泰生 平壌丸で来沖とある。
水上泰生 みなかみ-たいせい
1877-1951 大正-昭和時代の日本画家。
明治10年10月24日生まれ。寺崎広業(こうぎょう)に師事。大正3年「琉球の花」,4年「樺太の夏」が文展三等賞をうける。5年上京。昭和2年帝展委員。写実的な花鳥画を得意とした。昭和26年2月21日死去。73歳。福岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は泰生(やすお)。⇒コトバンク
大正3年・第八回文展 水上泰生「琉球の花」(六曲一双)
○1999年3月 沖縄県立芸術大学附属研究所紀要『沖縄芸術の科学』題1号 原田あゆみ「鎌倉芳太郎略年譜」(参考文献に『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」もある)
□1914年 鎌倉芳太郎、第8回文展にて水上泰生の『琉球の花』(3等賞)を見る。1918年 鎌倉芳太郎、水上泰生を麻布本村町の邸宅に訪ねる。早速その日から宿泊し、製作の手伝いをすることになる。狩野派の彩色原理は水上泰生から学ぶ。
水上泰生 みなかみ-たいせい
1877-1951 大正-昭和時代の日本画家。
明治10年10月24日生まれ。寺崎広業(こうぎょう)に師事。大正3年「琉球の花」,4年「樺太の夏」が文展三等賞をうける。5年上京。昭和2年帝展委員。写実的な花鳥画を得意とした。昭和26年2月21日死去。73歳。福岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は泰生(やすお)。⇒コトバンク
大正3年・第八回文展 水上泰生「琉球の花」(六曲一双)
○1999年3月 沖縄県立芸術大学附属研究所紀要『沖縄芸術の科学』題1号 原田あゆみ「鎌倉芳太郎略年譜」(参考文献に『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」もある)
□1914年 鎌倉芳太郎、第8回文展にて水上泰生の『琉球の花』(3等賞)を見る。1918年 鎌倉芳太郎、水上泰生を麻布本村町の邸宅に訪ねる。早速その日から宿泊し、製作の手伝いをすることになる。狩野派の彩色原理は水上泰生から学ぶ。