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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」
1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。
同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。
1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。
1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」
粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志
1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)

〇向宣恭・伊是名朝信(朝宜三男、生没年不詳)は明治大正時代に郵便局に勤務し、糸満郵便局で定年退職し、那覇上之屋に居を構え、その夫人が作る首里仕込みの豆腐餻が近くの辻町で評判となり、この豆腐餻作りで晩年の生計が助けられた。朝信の一人息子の向得遠・伊是名朝義がロシア革命の影響を受けて沖縄の左翼活動の嚆矢となった為、勘当されて壷屋地区に移り住み政治活動を行った。 →ウイキ
1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業
1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」
1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)
1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが村芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)
1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」
1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)
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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、左端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。

【関連】1975年 伊勢海老料理「味の店三郎」で食事会ー新城栄徳、息子、あけみ、新城敏子
1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」
1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」
1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。
1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。

1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営。
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1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」
1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」                

1972年10月 『米の味』グラフ社

1975年5月 江原恵『まな板文化論』河出書房新社

1976年7月 『月刊食堂別冊「天ぷら」柴田書店〇天丼の店(中西吉太郎)は大阪ミナミにある小さな店で、、私もかれこれ10回は食べている。熱々で美味しい。

1991年7月 周達生『東アジアの食文化探検』三省堂〇沖縄の「肉」/沖縄の特徴/イトウリ・ニガゴイー沖縄では、中国南方諸省の人びとが好むヘチマを「ナーベーラー」といい、苦瓜を「ゴーヤー」といい、種々の野菜料理を作っている。

1991年12月 イヴ・コア/宮崎信之『クジラの世界』創元社

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Posted by: ryubun02
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右下に井筒屋の開業広告

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1994年2月21日、新聞で井筒屋の開業広告を見つけたので、井筒屋の話を聞きに浦添市のオキジム本社を訪ねた。新里有四郎会長、新里盛吉社長、新里有造氏が同席された。有造氏はライフル射撃で国場武三(こくば駐車場)氏とも知り合いだった。現社長はこの人の子息である。写真/オキジム会長室で、左から新里有四郎会長、新城栄徳

1995年6月ー『私の好きなすばやー物語』(資料提供・新城栄徳)ボーダーインク


2002年10月30日ーオキジム本社で左から、新里有四郎会長、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、新城栄徳

1992年5月 『食足世平ー日清食品社史』「めんの系譜図」
『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


〔大濱聡〕2019-3-30

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業



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1959年11月 『オキナワグラフ』

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Posted by: ryubun02
本展は、大城精徳(おおしろ・せいとく 1928年9月14日~2007年12月17日)の絵画と資料群が一堂に会する展覧会。大城は、名渡山愛順に師事し琉球美術展をはじめ、戦後草創期のグループ展に名を重ね、琉球政府立博物館を辞してからは琉球文化社を設立し、雑誌『琉球の文化』を刊行、美術工芸論の発展に寄与した。

 昨年は「琉球文化」のシンボル首里城の大火。YouTubeでは大量に首里城に関する動画が展開されている。私(新城栄徳)は首里城は何時でも見られると思って5回しか見てなかったので、有難く拝見し琉球文化を再認識した。今のようにネットなどが手軽でない時に、「琉球文化」普及に尽力した琉球文化史研究家・大城精徳の足跡を私事を交えて見る。
1928年9月14日 沖縄県島尻郡大里村字目取真に父・大城蒲戸(屋号・大屋3男)の長男として生まれる。
1932年1月5日 星山吉雄、那覇市久米町で生まれる。
1945年4月3日、観音寺(金武)本殿広場に集合、指揮班の安里源秀教頭から鉄血勤皇隊農林隊の解散の伝達。3か月間にわたる沖縄戦逃避行の末、捕虜になり屋嘉のP・Wキャンプに収容された(3か月)。→1996年6月『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』大城精徳「沖縄戦逃避行ーメモランダム」〇1943年 沖縄県立農林学校40期ー新城安善1945年3月/沖縄県立農林学校41期―1渡口彦信/1945 沖縄県立農林学校42期―大城精徳、諸喜田達雄『比謝の流れは とこしえにー県立農林四十二期回想録ー』「わが半世の記」
1945年11月 大城精徳、久志村瀬嵩の難民収容所で家族と合流。一つ屋敷の隣人に山田真山が居た。

1988年5月『新生美術』大城精徳「40年前のことどもー大嶺政寛先生との出逢い」7号
〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。
1948年12月  新城栄徳、粟国島に生まれる。

写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳→1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社/知念軍政府に於ける定例の新聞記者会見ー左よりタール、比嘉(沖縄タイムス)、大城精徳(沖縄毎日)、平良(民政府情報部)

1949年 名護にて /1949年10月25日那覇写真館にて

1949年11月19日『沖縄毎日新聞』第66号
1949年 大城精徳、記者兼通訳として沖縄毎日新聞に入社。新聞は週刊で、印刷は普天間の米軍のオフセット印刷工場を利用させてもらった。その工場の南側に隣接して、戦災を免れた大きな瓦ぶきの家屋に山田真山一家が住んでおられた。その住宅の一部を新聞の臨時編集室として使わしてもらったこともある。

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ
1949年7月、沖縄タイムス社は創刊1周年を記念して「沖縄美術展覧会」(第4回から「沖展」と改称)を開催した。→沖展オフィシャルサイト 沖縄県内最大の総合美術展
1950年  大城精徳、米国留学ニューメキシコ大学に学ぶ。

写真左から大城精徳、澄子さん/1950年6月 出発前ー前列左から二人目が大城精徳


1950年11月23日 感謝祭 右から二人目が大城精徳

1950年9月 ハリウッドの野外音楽堂/ホッドジン・ホールの裏山

1950年12月 ニューメキシコ大学寄宿舎にて/1952年 ニューメキシコ大学訪問 左端-大嶺政寛、そのつぎ大城精徳、右端・名渡山愛順 
ニューメキシコ大学〇1889年2月28日に設立され、2019年に130周年を迎えた。ニューメキシコ州最大の研究・教育機関でセメスター制の総合大学。略称は「UNM」。教職員数は約6,900人。学生数は約26,000人。ネイティブ・アメリカンやヒスパニック系の教職員と学生が多い。 アルバカーキ校は、約800エーカーの広大なキャンパス。周辺にはサンディア国立研究所、ロスアラモス国立研究所、そして空軍研究所(カートランドエアフォース)がある。近年は産学連携活動と技術移転活動に力を入れている。地域医療、看護学、原子力工学、写真、多言語・多文化教育、異文化コミュニケーション研究で世界的に知られている。 留学生数は約1,500人。日本の早稲田大学、立教大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、関西学院大学、京都光華女子大学等と交換留学プログラムがある。 →ウィキ

1952年 大城精徳、崇元寺・琉米文化会館職員→1969年9月『琉球新報』大嶺信一「大城精徳個展によせて」
1952年~57年 大城精徳、名渡山愛順に師事。
1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1954年    翁長良明、首里城跡周辺で古銭を拾って以来、古銭収集に取りつかれる。
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚(左から/森田永吉、岡本恵徳、仲吉朝祐、津留健二、饒平名健爾)/2014年11月 津留健二『教職の道に生きて 出会いに学ぶ』ボーダーインク

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1957年7月 『今日の琉球』(表紙 金城安太郎「旗頭」)川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史」
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒
1958年 新城栄徳、祖父が亡くなったので、粟国島から家族で父の居る那覇に出る。父の勤める料亭「新風荘」近くの寄宮、楚辺と変わり、崇元寺に落ち着く。私は最初、琉映本館後ろの伯母宅に居候。なので、紫煙けぶる映写室で何故かゴロゴロしフィルムのひとコマを貰って遊んでいた。東映の総天然色映画は殆ど見た。崇元寺に移ってから、前島小学校4年在学中に首里の龍潭傍の博物館、図書館(今の県立図書館の前身)はよく歩いて行った。図書館で嘉手納宗徳氏と出会う。/首里の琉潭池側の琉球政府立博物館は「首里那覇港図」「首里城正殿模型」(縮尺10分の1。1953年知念朝栄制作)などよく見た。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。

1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄
1959年、大城精徳、琉球政府博物館に学芸員として勤務(主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年)

左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳 1996年 『沖縄県立博物館50年史』

1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール

1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」


1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室/1969年 首里博物館にて 


1960年夏 新城栄徳、上の蔵の「琉球史料研究会」を訪ね、『琉球事始舊記』製本中の比嘉寿助氏と雑談。
1961年 大城精徳、第1回琉球国際美術展出品(~第8回展まで出品)

1961年11月『今日の琉球』大城精徳「ワトソンさんとバブ君のこと―ある日曜日の午後の出来事」
1962年 新城栄徳、近所の島袋慶福翁に郷土史を学ぶ。郷土史の古書は開南の「みやぎ書店」「琉球史料研究会」が扱っていた。

1962年11月24日~27日「第1回 美緑会展」 那覇琉米文化会館/1962年12月 「琉球美術展」那覇琉米文化会館
1962年12月17日 建築家・仲座久雄(58)死去。

【資料】2020-2 仲座巌『仲座久雄 その文化財保護活動1936~1962年』

【関連】高松塚古墳/首里城正殿模型/大龍柱/琉球文化社・琉球書院

1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」




大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」
1964年4月、新城栄徳、集団就職で白雲丸に乗船、那覇港から上京、晴海桟橋に着く。後に知るが芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。錦糸町駅から御茶ノ水駅で降りてニコライ堂の傍を通りながら神田古書街にも近い神田錦町三丁目の錦城商業高校夜間部に通う。神保町には新刊書店もあるが何故か古書店や古書展が面白い。古書店に積まれている雑誌は安く、主に週刊誌を買って切り抜いて手帳に貼っていた。この頃の週刊誌を切り抜かず、そのまま保存出来たらミニ大宅壮一文庫となっていた。しかし手帳は残っていない。
1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。

1967年2月『守礼の光』第97号 仲泊良夫「新装の琉球政府立博物館」/星雅彦、画廊喫茶「詩織」開業。こけら落としに「グループ耕・三人展(大浜用光・大嶺実清・城間喜宏)」開催。→2003年7月『星雅彦 詩集』土曜美術社出版販売

1967年10月4日『琉球新報』大城精徳「名渡山愛順氏個展によせて」
1969年2月  新城栄徳、南紀白浜の 南方熊楠記念館を訪ねる。東京に行くつもりが京都駅で所持金が無くなり、京都駅近鉄名店街でコック募集の貼り紙を見て「紅屋」に就職。オーナーは京都国立博物館の国宝修理所に勤めていた。

1969年3月14日 りゅたん三味線会1周年発表会
1969年4月  大阪城公園で「沖青友の会」発足
 
1969年9月4日~9日 リウボウ4階ホール「沖縄現代作家展」

1969年9月18日~23日 デパートリウボウ4階「第一回 大城精徳個展」

1969年6月 『琉球政府立博物館館報』第2号 大城精徳「琉球の唐獅子雌雄考」

1970年3月 『琉球政府立博物館館報』第3号 大城精徳「琉球の屋根獅子」→1972年 増補版「琉球の屋根獅子」発行・琉球文化社

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 「くろねこの短語」2020年5月31日 コロナ禍に苦しむ中小企業を支援するための持続化給付金の給付業務を請け負う一般社団法人「サービスデザイン推進協議会」が、ひょっとしたら給付金の中抜きを狙った“トンネル会社”じゃないのかということは28日のエントリーで紹介した。電通やパソナがその設立に関わっていることから、税金を食い物にする「電通案件」なんて言葉までネットでは流布されている。そんな疑惑は、どうやら当たらずといえども遠からずだったようで、サービスデザイン推進協議会は委託された業務のほぼすべてをそのまま電通に再委託していたことが発覚。何もしないで20億円の仲介料を手にするたというからこんなおいしい話はない。
 でも、そうなると電通の立ち位置ってのが大いに問題なんだね。ようするに、760億円という委託料でまずは自らが設立に関わった社団法人が請け負い、そこから下請けに回すようにして電通そのものに業務を740億円で再委託するという不可思議な構図になっているんだね。当然、740億円で再委託された電通はそこからも何らかの利益を受け取るわけで、なんでこんなトリッキーなことする必要があったのか。ここからは、妄想なんだけど、サービスデザイン推進協議会が手にする20億円ってのは、政治家へと還流されてるんじゃないのかねえ。公共事業で税金を中抜きする典型的な手口にしか見えないのだけれど・・・。そんな妄想してたら、なんとサービスデザイン推進協議会の代表理事が突然辞職しましたとさ。本人は「任期満了」としか説明してないんだけど、まるで沈む船から逃げるネズミみたいなんだよね。
 「KYODO」6-2 中小企業に最大200万円を支給する「持続化給付金」を巡り、事務業務を受託した団体から再委託を受けた電通が、パソナなどに業務をさらに外注していたことが2日、分かった。
〇南部 靖之は、日本の企業家。パソナ創業者で、株式会社パソナグループ代表取締役グループ代表兼社長並びに株式会社パソナ代表取締役会長CEOを務める。大阪大学大学院国際公共政策研究科客員教授。→ ウィキ
〇竹中平蔵は、2016年4月から2017年3月まで東洋大学国際地域学部国際地域学科教授、2017年4月から東洋大学国際学部グローバル・イノベーション学科教授 兼 グローバル・イノベーション学研究センター長、関西大学会計専門職大学院客員教授。パソナグループ取締役会長、オリックス社外取締役→ ウィキ


大濱聡 2020-5-31
〇「毎日新聞」6-1 河野太郎防衛相は1日付のブログで、航空自衛隊のアクロバット飛行隊「ブルーインパルス」を都心上空に飛行させたのは、自身の指示だったことを明らかにした。

 2020年5月29日『週刊フライデー(6月12日号)』来年7月に延期された東京五輪が、実はすでに中止とすることで決定済みであることを示す極秘情報を週刊フライデーが入手。(米政府との繋がりをバックに世界展開している大手旅行会社から「東京五輪は中止が決定している」との情報。)中止の理由は次の通り。①多くの国が代表選手を再選考するための大会を開催する余裕も時間もない②来年は各国ともに財政立て直しが最優先される③ワクチンができたとしても世界中に行き渡るだけの量を確保することは困難④アフリカや中南米などの医療後進国はまだ第一波の真っただ中でこれからが大変。

 5-28[27日 ロイター] - 米国の新型コロナウイルス感染症による死者が27日、10万人を突破した。米国での新型コロナ死者数は約3カ月間で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、2003─11年のイラク戦争を合わせた米国人の死者数を上回った。また1981年から89年にエイズ(後天性免疫不全症候群)で亡くなった人の数も超えた。

 「くろねこの短語」2020年5月28日ーコロナ・パニックで四苦八苦の中小企業を支援するための持続化給付金を申請している友人が何人かいるんだが、いまだに振込どころかなんの音沙汰もないんだとか。アベノマスクもまだ届いていない家庭が大半で、特別定額給付金だって申請が始まったとは言うものの、いつ振り込まれるか皆目見当もつかない。困ったもんだと我が家のドラ猫にグチこぼしてたら、なんと持続化給付金って民間に業務委託されてたんだってね。しかも、そこには電通やヘイゾーのパソナが絡んでいるんだとか。一般社団法人「サービスデザイン推進協議会」というその団体に支払われる業務委託料は769億円っていうベラボーな額なんだとか。
 持続化給付金は税金ですからね。給付が遅れれば、どんな業務体制なのか調査するのは当然の話。ところがどっこい、調べてみたら電話番号は非公開、登記所在地も怪しげなビルの2階。さらに、実質的な運営形態もさだかでないという、まるで幽霊会社みたいな実態が発覚したんだとさ。アベノマスクの受注業者を彷彿とさせる話で、ようするにここでもまた初老の小学生・ペテン総理のお仲間が税金を中抜きしているんじゃないかという疑惑が頭をもたげてきているってわけだ。よくもまあ、いろいろ考えるものだと感心してしまうが、テンピン黒川君が失脚したいま、いつまでも甘い汁吸っていられると思ったら大間違いだから、首洗って待っていやがれ。
 そんな流れを予想させるように、なんと河井バカップルの買収疑惑で、検察が自民党本部関係者を事情聴取してたってね。1億5000万円の一部はペテン総理にも渡ったという疑いもあることだし、検察の逆襲を期待したい今日この頃なのだ。



 『毎日新聞』5-27 元日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏(73)が27日、東京都庁で記者会見を開き、任期満了に伴う東京都知事選(6月18日告示、7月5日投開票)に無所属で立候補すると正式表明した。宇都宮氏は過去2回の都知事選で次点となっており、今回も有力候補になるとみられる。(略)宇都宮氏は「緊急の3課題」として、PCR検査の拡充や自粛・休業要請に対する補償の徹底などの新型コロナウイルス対策▽都立・公社病院の独立行政法人化の中止▽都が検討するカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致反対――を公約とした。学校給食の完全無償化や羽田空港の新飛行ルート運用による都心の低空飛行の反対など「重視する8課題」も掲げた。 会見で宇都宮氏は「まずは雇用を守らないと経済復興もありえない。ハコモノ建設などを一部中断し、予算の振り替えを大胆に行う」と述べた。来夏に延期された東京オリンピック・パラリンピックについては「専門家が来年の開催は難しいというなら、できるだけ早い段階で中止を決めるべきだ。五輪の予算を使えば、都民の命を救える」と主張した。


2020-5-27 左が古本屋anmo堂店主・嘉陽安茂さん、新城栄徳/人も車も少ない一銀通り、右の建物が「琉球文化社・琉球書院」跡/久茂地橋,奥右に起重機が見えるのが国の援助の箱もの「市民会館」が粛々と工事中。これの設計はコロナ前だが、完成予想図の説明にはコロナ後(主催者に対しては、来場者の日時や座席の指定予約による人数調整を図り、来場者の名前や緊急連絡先の把握に努めるように求めた。また、出演者の「入り待ち」を控えるように呼びかけたり、最前列席は舞台前から十分距離をとったりする。風通しなど)について触れていないが大丈夫かな?。
〇新那覇市民会館反対-市長が教育長だった頃、久茂地小学校廃校についての説明会で子供達からの質問に始終うつむき「決まった事ですから」を連呼した。廃校が正々堂々と向き合えないような決断だったからかもしれない。そんな大人のご都合主義に、久茂地児童の大人を信じる心もまた破壊されたかもしれない。 2018年10月10日·Twitter (設立: 2006年3月21日アメリカ合衆国、カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置くTwitter, Inc.のソーシャル・ネットワーキング・サービス。「ツイート」と呼ばれる半角280文字以内のメッセージや画像、動画、URLを投稿できる。) ウィキ


大濱 聡2020-5-27■コロナ自粛で那覇での会合が2ヶ月ことごとく中止になっていたが、21日からの全面解除により実に久しぶりに那覇へ。まずはかねてより佐賀の知人・第14代齋藤用之助氏から案内を受けていた沖縄県立博物館・美術館で開催中の「激動の明治 大正の沖縄 第11代齋藤用之助の足跡から」を鑑賞。この展示会も本来は5.2からの予定だったが、自粛休業のため21日から開催されている。■明治12年、沖縄県が発足。初代県令になった旧佐賀藩の鍋島直彬とともに齋藤は警察官として沖縄に赴任。後に島尻役所長・郡長になるが、他の14人が1ヶ月~4年10ヶ月務める中、16年10ヶ月もその職にあった。結局、46年間にわたり官吏や実業家として沖縄の近代化に大きく貢献した人物である。今回、沖縄県博に寄贈されていた齋藤が保存していた200点余りの貴重な資料の中から選りすぐりのものが展示されている。■「後世の歴史資料として残してほしい」という11代用之助の遺言が現代に生きた展示会といえる。6月21日(日)まで。


大濱聡 2019-7

大濱聡 2019-7



1999年10月 『元島尻郡長 第11代 齊藤用之助資料』南部振興会(島尻博物館)

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1937年9月『月刊琉球』山城正忠「麦門冬を語る」
○けふは旧の7月13日、所謂精霊を迎える日であり、初秋の風に、盆灯篭のもの淋しくゆれる孟蘭盆である。そのために、私の心には麦門冬が今に会いにくるような気持ちになるまでに、なつかしい彼の面影がよみがへって来ている。今。麦門冬。思いがけなくも、あまりに世を早く去った彼、年齢からいふと、わたしより弟分でありながら、生意気に本を読み過ぎいささか頭のよかったキヤツ、私は無理と知り乍らも、今一度奴を現実にひき戻したくて仕方がないのだ。麦門冬。即ち』末吉麦門冬である。親のつけた戸籍面では末吉安恭。元来、麦門冬は彼の俳号であった。私の知っている範囲内で、その頃の沖縄俳壇に、名実共に俳人らしい俳人といったら、末吉麦門冬ともうひとり、これも物故したが、壷屋出身の高江洲三念であった。三念に就いては、今頃知る人も少なかろうが目下、中京名古屋の舞踊界で活躍している、南条舞踊研究所高江洲康宏君の兄である。したがって、麦と三念の間にはわれわれにもうかがひ知れない緊密な俳交があった。それから麦門冬には莫夢山人といふ号があり、それもよく随筆なぞを物していたのは、未だ記憶している人も多かろう。

その代わり、落紅といふ歌号は十中八九知らないだろうと思ふそれを特に私が知っているのは少し理由がある。といふのは例の新詩社の「明星」が百号で廃刊し、それに代わる「昴」が森鴎外博士を主格に、与謝野夫妻を顧問として、北原、吉井、茅野、大田(木下杢太郎)、平野それから一代の才人石川啄木君なぞによって発刊された、当時彼が落紅の筆名で、しばしば短歌の一般投稿欄のトップを切っていた折あたかも在京当時の私がその雑誌の同人格で果敢ない命脈を繋いでいたからである。とにかく、麦門冬といふ男はある一時、新聞記者といふ立場に於いて反対党の或政敵からは「化け者(モン)とう」といい囃された程、得体のわからない豪ら物だった。そもそも、末吉安恭が書斎から街頭に出た当初は、何の変哲もない一文学青年に過ぎなかったが、天稟と努力による彼の行くとし可ならざるは無き学殖と端倪すべからざるその才能は、いつしか県ソウコ界の寵児たらしめたのであった。おそろしく筆まめの男で、編輯締切間際になって記事が不足し、他の記者が徒に騒いでいる時でも彼は悠然として神速に、何かを書き上げてその穴を埋めていた。しかもそれが良い加減のものではなかった。酒と来たらそれこそ眼がなかった。飲むと矢鱈に煙草を吸ひその吐き出す煙で相手を巻くように能弁になり、雄弁になる彼であった。ふだんは割合におとなしかったが、酔ふとトラになって、武を演ずることが往々有った。(以下略)



山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○崖言ー黙っているのも能ではあるまい何か書いて見たらと、灰雨①にそそのかされて、久方ぶりに、筆を執り、研に親しんでみる気になった。それだけでも、私としてはよほどの発心である。もちろん、文をつづるわざに、関心を失ったわけではないこれでも絶えず、その方面に念がけているが、人に示す程のものがかけないからといふ心に、鞭うてない例の怠りである。そこで、案に向って見たものの、これといった腹案がないため、やはりいけない。よんどころなく、筆を投じ、数年来珍蔵している、寄書屏風に対座して見た。何かそれによって、暗示でもうけたいと思ったからである。
①灰雨ー國吉眞哲

夭々たる桃花と微吟したい陽春三月の光をうけて、銀の色がややすんでいるのもどことなく落付きがあって、いいものである。そこには一面に、先輩や友人たちの芳名が録されてあり、なほ、各自の心境と気魄の横溢した、書画がひしめき合っている。数にしざっと百名を越すであらふ。すべて、茅屋に駕を枉げていただいた方々の記念に残されたサインである。こうして見ていると、おのづから、いろいろの顔が浮かんで来るし、更らに、ことなった声がきこえるやうな気がして、何とはなしに、「閑忙至楽」といふ句が思ひ出される。試みに、その中から、特に異色のあるものを拾って見やふ。

「浄華雲」、敏とあるのは、暁烏敏②(以下敬称を省く。又他意なし)である。これを見ていると、あの極度の近眼鏡と、若い夫人の品やかな手が思ひ出される。「首里の青天、なはのへきれき」とつつましく書かれているのは、折口博士の事、釈ちやう空のである。薄墨の色にも、氏の人柄が窺はれて頭がさがる。「山原船」の絵は春陽会の山崎省三③。「笊を頭にのせた女」の絵は帝展の三宅凰白。これには句が賛してある。曰く。物売りの言葉わからず梯梧散る。踊を象徴したやうな「踊」の字は石井漠④。その署名をとりまいて、圓舞するけしきに見えるとりどりの署名。八重子、洋子、みどり、静香、恵美子。因云。八重子は石井夫人である。これだけは旅館でかいてもらった。佛文はアグノエル⑤、露文はセルゲーエワ嬢。

②暁烏 敏は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 ウィキペディア

③山崎省三 やまざき-しょうぞう
1896-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年3月6日生まれ。日本美術院研究所にまなぶ。大正5年院展に初入選。村山槐多(かいた)とまじわる。11年春陽会創立会員。昭和12年より新文展に出品。山本鼎(かなえ)らと農民美術運動をすすめた。昭和20年6月7日ハノイで戦病死。50歳。神奈川県出身。作品に「午砲の火薬庫」など。→コトバンク

④石井漠いしいばく
[生]1886.12.25. 秋田,下岩川
[没]1962.1.7. 東京
舞踊家。本名石井忠純。日本の現代舞踊の父といわれる。文学を志して上京したが,のちに石井林郎の芸名で帝国劇場付属管弦楽部員,同歌劇部第1期生となり,ジョバンニ・V.ローシーにバレエを学ぶ。 →コトバンク

⑤シャルル・アグノエルは日本・朝鮮の言語・文化を担当したパリ大学教授。1924年から八年間日本に留学し30年に沖縄を調査。沖縄に関し「琉球における死の表象の特徴について」などの論文があり、著書「日本文明の起源」(56年)が久高島の風葬などを報告した。→森田琉大学長

短冊型に輪郭をとった中に柳につばめの模様を描き、「宵闇を明るくするや、小夜楽」と句をかいたのは田谷力三。「ほのぼのと明け行く白き朝霧につつまれて着く那覇の港や」は北村季美子。紙数に制限があるから、以下友人のをぬいてみやふ。「鶏啄木」の宮城長順。「銀椀裡盛雪」の島袋全発。「喜神招福」の謝花雲石。心如水一の谷本誠。「多情無為」の上間正敏。等々。何れも其性格があらはれてほほえましくなる。その他「月橘花白ろ」の故国吉寒路。「首里城明渡し」の山里永吉、これは俳句と戯曲の題書である。一寸変わり種では石川正通の英文ゲーテの句、イブラギムのトルコ文字。ネファ。ヴアンチュウルの吉野光枝といったところ、それに島袋光裕の書と、宮城能造の絵を追加したい。大書きされて眼につくのは、時君洞の蒼勁三武郎の典雅、反対に小書きされて眼につかないのは、川俣和と藤井春洋。両氏共、国学院の出身で、折口門下であるのも、此場合、偶然の対照で面白い。
書いているうちに、紙数が尽きたから、他は割愛することにして、次回から、此欄を藉りて、私なりの考証や観察といったやふな、随筆を連載させていただく事にする。

1936年4月 山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○一茶と琉球人ー良寛と一茶とは、私にとって、もっとも嬉しい人生の旅人であり、又、遺された句や歌を通じて、知合になったいい途連れである。しかし、ここではその一茶に就いてのみ、かきとめておく。「一茶旅日記」ーこれはその名の示す如く自ら「革命の年」と呼んでいる。彼の42歳から46歳までの5年に亘る句集を兼ねた日乗である。島崎藤村先生は、江戸の仮住居の侘しい行灯のかげなぞでその日その日に書かれたらしい心覚えの手帳だと、いみじくも追想されている、越後入村家の襲蔵に係る稀こう本で、大正13年6月18日、斯道の権威、勝峰晋風氏の解説によって遍く世の同好者に頒れたもの、私は友人川俣和氏に借覧して思ひがけない眼福を得た次第。その中から事琉球に関するものだけを抜粋して、取り敢えず手控へにしたい。左記。
     文化三年十二月十三日の条に、晴。北風。品川岡本屋にて琉球人を見る。砂明と外三人一座なり。
     同二十三日。琉球人登城。同三十日琉球人上野に入。同十二月四日。晴。行徳川岸大阪屋に泊る。琉球の医師葬。
以上。これによって、江戸上り琉球使節一行の唐人行列が、如何に江戸市民に好奇心を以て迎へられたかといふことがよく窺はれる。(以下略)

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」
 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

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 林修 の「ことば検定【テレビ朝日】」よく見ているが、26日は「愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)」であった。これは昨日『毛主席語録』1966年北京・外文出版社を読んでいたからすぐ分かった。語録には「いま、中国人民の頭上には、やはり帝国主義と封建主義という二つの大きな山がのしかかっている。(略)この上帝とはほかならぬ全中国の人民大衆である」としている。


1923年12月 『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
 支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク

1911(明治44)年1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・
①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク
②蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 



1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」   

1939年8月 斎藤緑雨『あられ酒』岩波文庫/1991年7月 斎藤緑雨(編・中野三敏)『緑雨警語』冨山房百科文庫
 
三人冗語ー森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。当時の批評界の権威として,多くの作品を辛辣に批判したなかで,樋口一葉の《たけくらべ》に対する批評(第4号)は,この小説を絶賛し,彼女の文名を一躍高めたことで有名である。 /1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会

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2000年4月 小泉時、小泉凡『文学アルバム 小泉八雲』恒文社〇1887年、カメラ(フランス製ディテクティヴ)106ドルで購入/1890年4月、横浜港到着/1891年11月19日、熊本の春日駅(現・熊本駅)に到着、加納治五郎第五高等中学校校長が』出迎え。12月6日、チェンバレンからの手紙で琉球の魅力を教えられる。1893年3月、琉球旅行を終えたチェンバレンが帰路に来熊。9月26日、沖縄県尋常師範学校の生徒49名が来校し歓迎行事。



1984年4月 土井晩翠顕彰会『土井晩翠ー栄光とその生涯』宝文堂〇/1933年9月9日、25歳で亡くなった土井英一の遺書で『荒城の月』の作詞者で知られる土井晩翠が帝国図書館(現・国際子ども図書館)の前庭に建立した小泉八雲記念碑。土井晩翠も東京帝大時代の小泉八雲の教え子。

1924年  石川正通、東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通を訪ねたときのことが書かれている。☆山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。 

1973年6月 雑誌『青い海』通巻24号 「インタビュー/中野好夫ー沖縄と私」
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 法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。
□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

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2005年1月『世界』中野利子「漢那憲和のこと」
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新星出版で左上から新城栄徳、松島弘明社長、下左・松居州子さん(漢那憲和の孫)、中野利子さん
中野利子
1938年東京生、慶應義塾大学文学部卒。父は中野好夫、母方の祖父は土井晩翠。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。著書は「君が代通信」「教育が生まれる-<草の根>の教師像」「教師たちの悩み唄-10の人生ドキュメント」「H・ノーマン-あるデモクラットのたどった運命」等。93年「父中野好夫のこと」により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

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2020-5-24 左、沖縄県立博物館・美術館/ヤマダ電機 テックランド那覇本店/黄金森公園入口/右、泊小学校


2020-5-23 中の橋/右、ローソン前島一丁目店/左、ユニオン 前島店/美栄橋駅



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 斎藤 陽子(Walnut, California)5-28日本時間 新型コロナウィルスで相変わらず外出禁止中の、自宅待機生活も71日目です。ロスアンゼルスは非常事態解除は段階的に行うとのことで、まず最初に1週間前には生産工場などの解除がされましたが、今日はほとんどの美容院と理髪店がカリフォルニアで再開できるようになったとの発表がありましたが、人々の生活は今しばらく静かに耐えていなければいけない生活です。ラスベガスのカジノは6月4日から再開の様ですが、外国観光客も今はアメリカに入国できす、アメリカ国内の人々も、まだ自宅待機中とあっては果たして、以前の様な賑わいの有るラスベガスに戻るのも、なかなか時間がかかることでしょう。
 果樹大国の南カリフォルニアの今日の気温は34℃と夏日ですが、夜は13℃ほどとは砂漠気候の夜は冷え込みます。日中は豊かな太陽の陽と、朝夕の急激な冷え込んだ気温で、一日の温度差が大きいお陰で、果物の糖度を生み出す作用となると言われ、南カリフォルニアは豊かな、果物生産地帯となっています。わが庭のイチジクFig(無花果)も豊かな太陽を浴びて、ワイルドに育って、今日は今年初めてのイチジクを収穫しました。これから10月までは小鳥が先か人間様が先かの、小鳥との収穫戦争が始まります。不老長寿の果物と言われているイチジクに、「無花果」という名がついたのは、花を咲かせないで実を付けるように見えることからの、由来の漢語と言われています。
 イチジクの原産国はアラビヤ南部といわれて、旧約聖書の中にはアダムとイヴが裸に気づき、イチジクの葉を覆いとして使用したことは誰でも知っている話いですが、イチジクは世界最古の果樹植物とのことです。メソポタミアでは6千年前から栽培され、古代ローマでは最もポピュラーな果物だったそうです。
ヨルダンでは新石器時代の遺跡から1万1千年前のイチジクの化石が出土したとの記録があるとのことです。アメリカではイチジクは腸整剤の役割をすると、高齢の人に乾燥イチジク愛好者は多いです。カリフォルニアの最も南の、メキシコとの国境の街サンディエゴでは、9月にイチジク・フェスタ(Fig Fest)が開催されます。

 「東洋経済オンライン」5-28 ジム・ロジャーズジム・ロ「日本は20年後、必ず没落する」「日本のみなさんは、オリンピックが2021年に開催されるかどうかが心配だろう。だがそれよりも、その後の債務のことをもっと心配すべきだと言いたい」


 全国ネットママの会@愛知 2020-5-27 暑い季節は特にマスクだけでもストレス。福岡や大阪一部使ってるフェイスシールドなんてもってのほか。しかも食べる以外外しちゃいけないなんて、、つけ外しの自由もない。危ないしストレスだし首輪つけられてる家畜とそう変わらない。ここまでしなくちゃヤバいなら、再開に無理があるレベルです。とにかくオンライン授業の整備が最優先ですね。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-26日本時間 5月最終の月曜日の今日はメモリアル・ デー(Memorial Day)戦没者追悼記念日の公休日で、アメリカの今週末は三連休です。近くの墓地の軍 人専用のセクションは第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの、これまでの軍人戦死者の墓地は広大な敷地で、軍人墓碑には星条旗の小旗が祀られていす。
 このメモリアル・デーは古くは1865年南北戦争で亡くなった北軍兵を称えたのが始めと言われていますが、以来、アメリカは第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして今に続く中東の紛争と、沢山のアメリカの兵士が戦場で亡くなっています。1865年に兵役中に亡くなった人を追悼することから始まったメモリアル・デーですが、1967年に国民の公休日として制定され、歴代大統領はこの日アーリントン国立墓(Arlington National Cemetery)に花束を捧げるのが恒例となっています。
 各地のアメリカ国旗の星条旗は、今日は半旗になっています。戦場で兵役中に亡くなった兵士の遺族は慰霊祭やお墓参りに行き、墓参りの後は肉親や親戚家族が集まって、自宅裏庭などでBBQなどをして故人を偲ぶ日です。敵国、友国にかかわらず、戦争というのは人が人を無意味に殺し合い、自国を誇示する行為は誠に愚か極まりないことです。沖縄戦の痕をなまなましく見て育った78歳としては、戦争の悲惨さ愚かさを身をもって知っております。この地球上に戦争の無い日が来ることを切に祈っております。

 目取真俊ブログ5-25 全国すべての都道府県で緊急事態宣言が解除された。沖縄防衛局からすれば、早めに工事を再開したいだろうが、沖縄は県議会議員選挙がまじかに迫っている。下手に工事を再開すれば、県内の自民党、公明党が猛反発するだろう。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-25日本時間 明日 月曜日はメモリアル・ デー(Memorial Day)戦没者追悼記念日の公休日で、アメリカの今週末は昨日から三連休です。すでに新型コロナウィルスで2か月以上もの間、外出禁止の自粛生活では、三連休のお休みの嬉しさも少なめです。アメリカで車を借りて観光をした人は、アメリカでも最大手のレンタカー会社 Hertzにお世話になった方も多いと思います。昨日土曜日このHertz社が破産したとの、大きなニュースが全米を掛け走りました。1925年日本で日本初の本格的な自動車、白楊社のオートモ号が最初に生産開始しされる以前に、Hertz社は1918年に米シカゴで創業し、「Hertz(ハーツ)」ブランドのレンタカー店を空港を中心に展開していた会社です。5月22日 連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用で、破産申請し、負債総額は日本円でおよそ2兆円と見られていて、大型「コロナ倒産」となります。なお、ハーツによると欧州、オーストラリア、ニュージーランドを含む国際部門は破産申請の対象外とのことです。ハーツは1世紀以上の歴史を持つレンタカーの老舗で、2019年末時点の世界の従業員数数は約3万8000人の社員がいました。
 アメリカの失業率は4人に一人との深刻な事態です。州によってその失業率も異なり、最もひどい失業率の1位の州はラスベガスの有るネバダ州です。米国でも最もキラビヤカナな街、ラスベガスで4人に1人どころか、3人に1人の失業率と言ってもいいほどで、24時間、年中無休で稼働していたラスベガスですが、非常事態宣言以来、全てのカジノは閉鎖されて、現在人っ子一人として歩いてない街となり、カジノを支えていた裏方の人々の、失業率は相当数といいます。失業率2位が、自動車産業を抱えているミシガン州、3位が観光産業を生業としているハワイ州とのことです。1週間前から非常事態が段階的に緩和されてきたカリフォルニですが、まず最初に工場関係が稼働し始めて、高速道路には幾らか車が埋まってきましたが、まだ飲食店や学校などの、人々の暮らしは厳しい自粛対象にあります。
 さてアメリカは自粛中の明日 月曜日はメモリアルデー(戦没者追悼記念日)を迎えますが、思い出されるのが南カリフォルニアから10号線で車を南東へと走り、4時間ほど経つと見渡す限り何もない砂漠地帯となり、アリゾナ州に入る手前の砂漠の中の高速沿いに、ぽつんと「パットン将軍記念博物館」(General Patton Museum 入場料大人20ドル)があります。南北戦争から三代続いた軍人の家に生まれた、陸軍大将 ジェネラル・スミス・パットン(George Smith Patton Jr.1885年~1945年)が、この砂漠地帯で機甲師団の団長として、第二次世界戦に向けて、彼のモットーである「大胆不敵であれ!」の精神で、砂漠地帯での戦闘訓練を大々的に展開した将軍が、この地に砂漠戰訓練センターを開いていた処です。
 パットン将軍は砂漠での交戦を想定して、このカリフォニアの砂漠地帯で、機甲師団への過酷な訓練を行い、その後、彼はシチリア島上陸作戦からドイツ敗戦まで戦い抜き、機甲師団を指揮し歯向かう敵を粉砕しました将軍で、「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた、アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた北ロンメル将軍率いるドイツ軍の戦車部隊と、アフリカで戦ったことは有名で、アメリカとドイツとの闘いで決定的なアメリカ側の勝利を導いた将軍でもあります。パットン将軍は第二次大戦にアメリカ第一軍師団の指揮を執って、ノルマンディー上陸作戦で活躍した将軍でもあります。

 この博物館の裏庭には、ドイツ軍と戦った当時のアメリカの戦車が展示されて、軍隊に興味の有る人は寄って行く処です。パットン将軍の戦いの映画は戦後数本作られていますが、中でも1970年に制作された映画『パットン大戦車軍団』は、43回アカデミーで、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞、編集賞、美術賞、録音賞、と7部門も受賞しています。強引な独断的で強気な行動を取るパットン将軍に、トランプ大統領が似ていると、ときどき揶揄されることもあります。


維新流!吉村大阪府知事①が大阪モデルだと通天閣の信号が黄色になっちゃうので、こっそり基準を変えていた笑笑 山中教授「結果を見て基準を変える。大阪はもはや科学じゃなく政治が基準」
 ①1998年(平成10年)3月九州大学法学部卒業。 卒業後の1998年10月、司法試験に合格し、2000年に弁護士登録。熊谷信太郎弁護士の法律事務所に勤務。 この時期に弘中惇一郎とともに大手消費者金融武富士の訴訟代理人を務める。→ウィキ

  「くろねこの短語」2020年5月25日ー(前略)ところで、世界中の権力者がコロナ・パニックを利用して、強権体制の強化を図っている。トランプしかり、初老の小学生・ペテン総理しかりなんだが、なかでも中国の習近平の香港に対する抑圧・弾圧はどんどんエスカレートしているようだ。このままだと、デモ・集会が一切禁じられているマカオのような存在に香港はなっていくに違いない。
 翻って、日本はと言えば、検察庁法改悪はどうにか見送りとなり、種苗法が先送りとなったは言え、まだまだ火事場泥棒的に成立を画策している法案があるんだよね。年金改革法案もそのひとつなんだが、なかでもメディアが完全スルーしている法案がある。それが、「スーパーシティ法案」なるもので、「人工知能(AI)やビッグデータなど最先端の技術を活用し、未来の暮らしを先行実現する『まるごと未来都市』をつくる」というもので、ザックリ言って、「AIによる監視社会」を目的としたものなんだね。

 テンピン黒川の賭けマージャン騒動のすきをつくようにして、22日には、「スーパーシティ構想」を盛り込んだ国家戦略特区法の改正案(スーパーシティ法案)が、参院地方創生・消費者問題特別委員会ですでに可決されている。もはや、「スーパーシティ構想」は具体的に動き出しているってことだ。これには、あの口入れ屋のヘイゾーが深く関わっているようで、今週にも成立しそうな気配だから、ご用心なのだ。
 
〇政府・自治体、民間企業、そして個人とそれぞれが独立して所持している情報を「国家戦略特区データ連携基盤整備事業」と称して一元化することは民間企業や政府に、納税の状態や既往症、位置・移動情報や商品の購買歴といった個人情報が渡ることになります。こういった個人情報をデータとして政府や企業が共同で扱うことは、住民の権利侵害です。


 大濱 聡 5-24■5.17(24日再放送)放送のNHK「BS1スペシャル デジタルハンター~謎のネット調査集団を追う~」は見応えのある番組だった。PCを操りFBなどSNS上にUPされた動画や写真、データなどを解析し、世界的な疑惑の事件の真相に迫る調査集団を追ったドキュメンタリー。■アフリカでのカメルーン軍兵士らによる母子銃殺事件、ロシアの関与が疑われるウクライナ上空でのマレーシア航空機撃墜事件、新型コロナウイルスの震源となった武漢での惨状の実態など、政府当局が隠蔽しようとした「不都合な真実」の真相が次々と暴かれていく。その手法がスゴイ!■「ベリングキャット」(調査集団の名称)、「オープンソース・インベスティゲーション」(革命的といわれる調査報道手法)、新聞社の「ビジュアル・インベスティゲーションチーム」etc――聞き慣れない横文字に必死についていく。■BBCや「ニューヨーク・タイムズ」はゲームオタクだった彼らをスカウトし、その成果を放送や新聞のスクープ報道につなげているが、日本のメディアはどこまで進んでいるのだろうか。
 【関連】☆1924年5月10日、ジョン・エドガー・フーヴァー司法省内の捜査局(Bureau of Investigation:BOI)の長官に任命。○「2007年2月 マルク・デュガン 中平信也『FBIフーバー長官の呪い』文春文庫□貴族の出自を自慢していたジャクリーンの父親の祖先は、じつは無一文の入植者にすぎない。彼女の父親が金持ちになったことはたしかにあったが、財産は大恐慌の時に全て失われていた。人生に敗れた遊び人で、度重なる飲酒からアルコール中毒になり、その病状は結婚式で娘と腕を組むことができないほど深刻だった。ジャクリーンの母親はリー姓のフランス系アイルランド人だと公言していたが、実際はレヴィという姓のユダヤ人だった・・・

FBIフーバー長官の呪い (文春文庫) – 2007/2 /沖縄テレビ「奇跡体験!アンビリバボー:市民が窃盗団結成★FBIから極秘文書を盗み出せ」

 【関連】☆1956年11月 木村文平『米軍の諜報機関』東京ライフ社〇苦しい戦いが終わって、ほっとしたのも束の間、われわれは、更に恐怖の占領統治に喘いだ。日本の軍閥にとって代わった連合軍は、口に自由を唱えながらも、その実腹の底は搾取一途だった。占領下、苦難の七年間!彼らは政治を動かし財政を牛耳り、労組を弾圧し、言論出版の自由を認めながら、窃かに親書にさえも検閲を強化した。ある者の身辺には常に密偵の眼が光り、MPの拳銃が威嚇しつづけていた。本書は、かつて米軍の出先諜報機関の一員だった著者が、彼らの行動を衝いたものである。

 【関連】☆『沖縄タイムス』2018年5月29日 -【ジョン・ミッチェル特約通信員】在沖米軍の広報活動には、米中央情報局(CIA)が指南した沖縄世論操作の手法に沿った例が多くみられる。
 【関連】☆『東京新聞』2017年6月2日 ー 「監視システムを日米共有」 スノーデン氏との一問一答 米中央情報局(CIA)のエドワード・スノーデン元職員-エックスキースコアは何ができるのか。
 「私も使っていた。あらゆる人物の私生活の完璧な記録を作ることができる。通話でもメールでもクレジットカード情報でも、監視対象の過去の記録まで引き出すことができる『タイムマシン』のようなものだ」「エックスキースコアを国家安全保障局(NSA)と日本は共有した。(供与を示す)機密文書は本物だ。米政府も(漏えい文書は)本物と認めている。日本政府だけが認めないのは、ばかげている」-日本の共謀罪法案については。「(法案に)懸念を表明した国連特別報告者に同意する。法案がなぜ必要なのか、明確な根拠が示されていない。新たな監視方法を公認することになる」「大量監視の始まりであり、日本にこれまで存在していなかった監視文化が日常のものになる」

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『噂の真相』を糾弾する右翼結社

屋良朝博氏、 岡留安則氏、

 2011□岡留安則の「東京-沖縄-アジア」幻視行日記 今回の大震災と原発事故はさまざまな出来事を核爆発のように吹き飛ばした。東北3県の地デジ延期からTPP,子供手当、高速道路無料化、メビン・ケア差別発言事件・・・・。東北の被災でJTの工場やトヨタの工場などが被災し,たばこ不足、部品不足による車の生産台数の削減。大手製紙会社の被災による紙とインク不足による新聞や週刊誌などの減ページ措置などにより社会生活にも多大な影響を与えつつある。小沢擁護や記者クラブ批判もやったリベラル過激な「週刊朝日」の山口一臣編集長もとばされ、同誌じたいの休刊も囁かれている。何よりも、外国人からの102万円の献金を受け取って内閣総辞職に追い込まれる寸前だった菅総理退陣も吹っ飛んだ。これぞ、最大の不幸かもしれない。 
 また、朝のTBSワイドショー「はなまるマーケット」でおなじみの薬丸裕英・岡江久美子コンビも、原発PR推進組(中部電力)に出たことも知らんぷりでテレビに出ずっぱり。北村晴夫弁護士、勝間和代らもそうだ。調べればB・C級戦犯は他にもいっぱいいるはずだ。こうした連中は、この原発危機の中で反省も自粛もなし。視聴者はシラケるばかり。それでいいのかい,テレビ局よ!!  それはともかく「ウチナー・パワー」という新刊が出た。サブタイトルには「沖縄 回帰と再生」とある。天空企画編集でコモンズというという出版社から出た本だが、なぜか筆者が表紙の帯に100時程度の推薦文を書いているので、紹介だけしておこう。「多彩な書き手が琉球を論じる掘り出しものの逸品本だ!沖縄再生のヒントがあちこちで発見できる楽しさも満載。 岡留安則元「噂の真相」編集長(沖縄在住)」。たまたま出合った沖縄本を数多く編集している智内好文氏に頼まれたものだ。
 15人くらいのライターたちが寄稿しているが、保坂展人氏も沖縄との出会いから今日までを「ニライカナイ・クロニクル」という題で書いており、小林よしのり派の宮城能彦教授も「村落共同体としての共同売店」について書いている。個人的に面白かったのは永峰眞名氏の「郷土月刊誌『青い海』のころ」だ。<沖縄に来て知った雑誌だが、なかなかウワシン的要素もあり、スコブル面白い。東京ならともかく、沖縄で採算ベースに乗る本を作るのがいかに難しいかと言う意味でも大いに参考になった記事だった。
 沖縄関連の振興予算は2900億円で決まった。当初の一括交付金3000億円よりも減額されたものの、大幅アップとなった。だが、沖縄県民にすれば、予算増額を手放しで喜べる状況ではない。仲井真知事が東京で民主党幹部や閣僚クラスと極秘の会談を続けた結果がこれだったのか、と思わざるを得ない。辺野古移設のための環境アセスを防衛省が進めることに対してもあっさり容認した。アセスの権限は防衛省にあるのは間違いないが、「県民の意志はアセス提出に反対である」ことを強く明言すべきだったし、振興予算と基地問題はリンクさせないという強固な意志を示すべきだったが、それもふにゃふにゃ。沖縄予算に関しては前原政調会長の陰謀臭いが、そうだとすればタチが悪すぎる。仲井真知事が振興予算と引き換えに辺野古建設容認をやるのではないかと勘繰りたくなる。少なくとも東日本大震災の復興予算じたいが厳しい中で、沖縄だけ特別視することのひとつが基地対策である事は間違いないろう。北部振興予算も20億円削られたが、50億円は認められた。いまだに、前原が建前上否定するアメとムチの政策は強固に存在しているのは明らかである。ケビン・メアではないが、やはり、たかりの名人なのか。 
 米国が東芝の子会社を使って原発を30年ぶりに建設するという。福島第一原発は米国のGEである。脱原発は完全無視なのか。オバマ大統領も碌な人物でしかないことがバレバレだ。来年は、北朝鮮、中国、ロシアも政権交代を迎える。日本も未熟な政権の元で先の見えないまま、非常事態に突入するつもりなのか。それでいいのか、ニッポン、チャチャチャ!!

□< 2012年3月11日 日テレ21>
東日本大震災の発生から11日で1年がたった。死亡した人の数は1万6000人近くに上っている。
警察庁によると、11日現在、震災による死者は計1万5854人となった。最も多いのは宮城県の9512人、次いで岩手県の4671人、福島県の1605人などとなっている。 行方がわからない人は宮城県が1688人、岩手県で1249人、福島県で214人など、計3155人となっている。死者と行方不明者は、計1万9009人となった。この死者と行方不明者、オキナワ戦没者、最初のヒロシマ・ナガサキの被爆者の霊魂(あるとすれば)は自分らの死が後世どう扱われているか気にする筈だが・・・。少なくとも今のゴミ扱いされている状況に対しては、財界・政治屋に「祟り」がないとおかしいと思う。

 岡留氏が小沢無罪の判決に素早く対応し、氏のブログに□待ちに待った小沢一郎公判で無罪判決が下った。権力の横暴を批判してきた小沢氏の正義が認められたことは、東京地検特捜部と10年裁判を闘った筆者としてもうれしい限りだ。恣意的な国策捜査を仕掛けた検察の完敗であり、検察審査会の不透明なやり方も今後は大いに問題になるだろう。検察というこの国の正義の砦は、いまや腐りきっているというのが、筆者の見立てだ。検察の大改革を主張してきた小沢氏の無罪判決で大慌てなのは、反小沢で固めた民主党野田執行部、霞が関官僚、自民党以下の野党、財界、大手メディア、米国政府だろう。
(略)
 驚いたのは在日米軍再編の新たな共同発表が延期された時の野田政権の対応だ。米国上院議員の軍事委員長であるレビン軍事委員長らが、共同声明に待ったをかけたのは、環境問題や費用の問題がクリアーになっていないことがその理由だった。実に真っ当だ。ところが、日本政府は、予定通りの方針で行くと早々と明言。本来ならば、日本が米国政府にクレームをつけるのが筋だろう。29日の野田訪米のパフォーマンスが何よりも第一なのだ。オスプレイをどうするつもりだ!!やはりここは、メディアを含めて既得権益体制の総スカンを食うかも知れないが、日本の防衛は米国第七艦隊で十分という基本的姿勢をもっている小沢一郎の出番ではないか。筆者は自信をもってそう断言したい。とある。
 小沢氏に対してはアレルギーを持っているが、ま、裏事情に精通している岡留氏のことだから根拠があってのことだろう。ここで歴代政権の沖縄に対する考え方、とくに初期の吉田茂を見てみる。1952年8月発行の東京『沖縄新報』(永岡智太郎)第16号に「去る6月6日、本土視察のため上京中の那覇市長又吉康和氏と吉田首相との会見の際『日本はまだ受入れ態勢が出来ていないからすぐに復帰ということは困る。今まで通り米国に協力して辛抱して貰いたい、米国に見離されてソ連が入って来たらどうするのか』という全琉百万同胞の悲願をふみにじった吉田首相の暴言」とある。私も積年の反米感情でどうも批判の対象をアメリカに向けてきたが、どうやら時の日本政府の「沖縄差別」が大きな問題のようである。それを許した沖縄側にも当然問題がある。それに関連して『琉球新報』に連載されている伊佐真一氏の伊波普猷批判が参考になる。
 宜野湾市長選挙で話題になった真部沖縄防衛局長が沖縄の新聞でなにやら記事になっていた。米軍の兵隊には選挙権が当然ながら無いが、自衛隊員にはあるから相当罪深い。最近は与那国島にも自衛隊員が居る、創価学会票と同じく、自衛隊票は石垣パクリ市長などの票にもなっている。基地反対と言いながら安保には触れない首長が増える元となっている。基地問題に触れながらその元の安保に触れないのは大手メディアも同じだ。

2012年4月26日の所感
 本日はひよりの誕生日、1歳である。昼、沖縄大学により宮城先生紹介で大学図書館に『青い海』創刊号と、沖縄関係資料室が載っている10号を寄贈する。帰途、那覇市歴史博物館によって、5時から久茂地・抱瓶の高橋淳子さんのお別れ会に参加。壁には淳子さんの写真が所狭しと貼られていた。アルバムには喜屋武真栄氏や西平守良さん、喜納昌吉、大田昌秀、具志堅用高、新城亘、儀間比呂志、ひさみ夫妻の諸氏らが淳子さんと収まっているのもある。私は1973年頃、高円寺・球陽書房の西平守良さんに近くの「きよ香」に連れていかれそこで淳子さんを知る。知るといってもそれが最初で最後の出会いであった。会場の抱瓶にはひさみ夫妻らが居られた。1時間半ごろ経って大田昌秀氏、岡留安則氏や沖縄大学のO教授、S氏らが参加し故人が好きだった民謡で追悼した。しばし大田氏、岡留氏と懇談する。岡留氏に東郷健の消息を尋ねた。(4月26日の新報、タイムスに同性愛者の差別撤廃運動で知られた東郷健の死亡記事が顔写真入りで報じられていた。)→2012年4月19日

 岡留氏のブログに□東京高円寺で沖縄居酒屋「抱瓶」や「きよ香」など5店舗を経営して成功を収めた高橋淳子(本名=清)さんがなくなった。東京の自宅マンションの風呂場で発見されたという。死亡推定日は4月7日。高円寺の抱瓶グループは長男の貫太郎君に任せて、高橋さんは3年前から那覇市久茂地で、沖縄居酒屋「抱瓶」那覇店を経営していた。最近は元照明マンの仕事をしていた光太郎君が母親の片腕となり、親子で店を切り盛りしていた。死因は細かく聞いていないが、享年73歳だった。高橋さんの苦労人生からサクセスまでの人生は「ただ、誠を尽くして浮世を渡る」(日本社)という一冊の本にまとめられている。
 筆者は高円寺の「抱瓶」にも何回か顔を出したことはあるが、高橋さんが沖縄に来てから本格的な付き合いが始まった。筆者が新宿の「ロフトプラスワン」に出演した時には長男の貫太郎君ともどもよく見に来ていたというので、沖縄での初対面以来、意気投合しての付き合いが始まった。何回も呑む機会があったが、自分の人生に自信と誇りを持っていたためか、頑固なところもあった。石垣島出身の高橋さんの早すぎた突然の死に合掌しておきたい、通夜・告別式は東京で済ませて、沖縄では「送る会」が4月19日午後5時より沖縄抱瓶2階で開かれる予定になっている。

『噂の眞相』左、2004年4月ー休刊記念別冊「追悼!噂の眞相」


2006年10月 サイゾー別冊『噂の眞相 闘論外伝 岡留安則VS12人の論客』インフォバーン

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Posted by: ryubun02
 徐台教 | ソウル在住ジャーナリスト 2020-4-9 韓国NGO「国防費を削減しコロナ支援に」...新型コロナで問われる'人間の安全保障'「私たちに重要なことは、すでに溢れかえる最先端の武器よりも、良い雇用、しっかりとした社会安全網、持続可能な環境といったものだ。しかしこれまで私たちの税金はそういった所に使われず、限定された資源は『国家安保』に優先的に配分されてきた」→これはジャパンにも当てはまる。

1983年8月31日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未病を治す』」

 東洋医学を実践している病院で、調理師を8年やっていたので『素問』とか『傷寒論』という古典はある程度知っているつもりである。『素問』(もとのものを引き出すという意味)のなかに、黄帝が天師(岐伯)に「今時の人は50歳になると、よぼよぼしてくるのは何故か」と。これに対し岐伯は「昔の人で道(宇宙自然の法則)を知っている人は、陰陽(自然環境としての変化)によく対応し術数(次々に連なり、おこってくる変化の順序法則)によく調和するように自分の行動を規制している。ところが今時の人は酒はガブガブ飲むし、生活のリズムも失っている。色欲にかられて自制もなく欲望のままに精根を使いはたしている。健康に生きてゆくためには一定の緊張が必要であり、節度が大切であるのに、こうしたことを知らないまま、その時その時の欲望のままに生活しているために、人生の本当の楽しみ、生きてゆく喜びを求めようとしない。これでは50そこそこで衰えるのは当たり前である」と答える。

 病院の医師らが中心となって山紫水明の土地、名張市赤目に「赤目健康学園」を計画したのが1977年であった。しばらくして私も息子と「山の家」づくりに参加するようになった。東洋医学のなかに「身土不二」(その人の生活する土地でとれる食物を主に食べる)と、「一物全体」(生物である食物を丸ごと全部、不必要なアクぬき、皮むきをしない)という二つの原則があるが、赤目では農作業を通じて実践している。農業を行うことによって食物についての知識と考えを深めることができる。増大する一方の医療費の抑制は一部の連中の主張するように自個負担を増やすという安易なケチな方法は考えるべきではない。予防と軽症のうちに生活・習慣を見直して治療するという古くて新しい方法をとるべきだ。しかも根本的にはこれしかない。

○WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)



ロートシュー『医療の原理』より引用
1974年4月 丸山博『食品公害とたたかう』有害食品研究会、1981年7月 丸山博 編『資料 小島勝治と「浪華の鏡」』/1975年5月 中川米造『医療的認識の探求-増補改題-』医療図書出版社

1975年 『季刊 創造の世界』№20 立川昭二「病気からみた日本の歴史」、湯川秀樹・市川亀久彌・吉田光邦・中川米造・鯖田豊之・立川昭二「シンポジウム 文明としての病気」

三谷和合
 私が勤めていた病院の三谷和合院長は「漢方の正しい健康保険の適用をすすめる準備会」の丸山博会長、相沢秀一副会長らと親しく一緒に運動していた。丸山会長は桜沢如一を師と仰ぎ衛生学を専攻。相沢副会長は京大で河上肇に学んだ最後の学生で、大阪市大、立命館大、大阪経済法科大の教授を歴任。
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三谷和合の本 1997年5月ー三谷和合『続保険歳時記』木津川厚生会□念仏踊は、夏季、お盆を中心に災厄退散、また亡魂鎮送のため、太鼓、鉦を打ちならしながら、踊躍歓喜する踊りの総称です。念仏を口中に唱えながら踊ることから、この名があります。
平安時代、空也上人が念仏の功徳を庶民に知らせる方便として始められたのが起源といわれています。しかし、踊りの形態に仏教的な雰囲気は全くなく、基本的には在来からあった原始宗教的な行動を示したものといえます。つまり、古くから行われていた村々の祭の行動に、念仏信仰が加わったものです。


1977年11月 此花区四貫島・此花区民ホール「第三回おんど~れ祭り」。新城栄徳は安藤昌益①を演ずる。
 ①安藤昌益の思想は、42歳頃から約15年間を過ごした八戸で誕生したといわれ、主著『自然真営道』101巻93冊も八戸で書かれたことが分かっています。そのきっかけとして考えられるのが、飢饉の頻発です。この地方特有の冷たい東風(やませ)により、当時の八戸では凶作と飢饉が猛威をふるっていました。中でも大豆生産のため焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇」いのししけがじ(「けがじ」=八戸弁で「飢饉」の意味)は、昌益に大きな衝撃を与えたと思われます。
 刊本『自然真営道』「大序」には、「非命にして死せる者のためにこれを記す」、つまり、不幸にして天寿をまっとうできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれています。食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がないという現実。この社会の矛盾を目の当たりにしたとき、昌益は、町人の身体を診る町医者から、社会全体を診る思想家へと変貌を遂げたのではないでしょうか。八戸で書き上げたとされる主著『自然真営道』には、昌益の思想が体系的に記述され、「大序」巻、24巻「法世物語」、25巻「良演哲論」では、厳しい社会批判が展開されています。
 昌益は、武士が支配する封建社会を「法の世(ほうのよ)」として批判し、貧富の差も支配関係もない平等な社会を「自然の世(しぜんのよ)」と名付け、理想の社会として掲げています。自ら生産労働をせず搾取することを、「不耕貪食(ふこうどんしょく)」と称して批判し、その対極にある、自然の循環の中で自ら正しく農耕を行う生活を「直耕」と名付け、このような労働の中にこそ、人の人たるゆえんがあるという主張をこめました。江戸時代に幕藩体制や身分制度を明確に否定したのは唯一昌益思想のみであり、しかも、江戸から遠く離れた八戸でこの著作が誕生したことに、大きな意義があります。→「安藤昌益資料館」所在地: 〒031-0086 青森県八戸市八日町3 時間: 本日営業 · 11時00分~16時00分
電話: 0178-20-8109

2010年6月 吉田徳寿『安藤昌益 直耕思想いま再び』東奥日報社

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2020-5-18 屋上小庭園


2020-5-17 左、県立博物館・美術館/右、泊小学校/中の橋方面

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1983年10月11日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未来』」〇当時の平和美術展で対馬丸遭難の絵に「イカダが多すぎる」と新聞紙上にあった。

 中学3年のころ、写真左下のアーサー・C・クラーク 福島正美・川村哲郎訳『未来のプロフィル』早川書房をよく読んだ。このクラークの科学エッセイ集は1958年から1962年にかけてアメリカの『ホリディ』『ホライズン』『サイエンス・ダイジェスト』『プレイボーイ』などに書いた記事をまとめたもの。中に、バートランド・ラッセルの挽歌を引いて「・・・・・あらゆる時代のあらゆる労働も、あらゆる献身も、あらゆる霊感も、あらゆる天才の白昼のごとき明晰さも、太陽系の死と同時に滅亡の運命にあること、そして人類の建設したすべての寺院が滅びゆく宇宙の廃墟の下に埋もれてしまわねばならぬということーこれらすべてのことが、かりにまったく論議の余地がないわけではないにしても、ほとんど確定的であるため、それらを否定しようとするいかなる哲学も存立する望みは持てないのである。  これはまさしく真実であるかもしれない。が、それにもかかわらず、宇宙の滅亡は、思量すべくもない遠い未来に属するので、われわれ現代の種の直接的な関心の対象とはなりえないのだ。」原子に就いて、「物質のエネルギーを解放するために必要だったのは、化学的燃焼に相当する原子の”火”だった。そして、ウラニウムの核分裂こそ、それだったのである。一度、これが発見されれば、原子力の利用は時間の問題だったーただし、もし戦争という圧力がなかったならば、その開発に、ほぼ一世紀はかかったかもしれないけれども。」

 新城□2010年12月28日ー妻の実家の読谷楚辺へ行った。父を見舞った帰途、赤犬子宮を訪ねると管理されていないのか入口を車が塞いでいた。釈渚善さんの言うていた大湾の真常寺を思い出し訪ねた。そこで京都全体マップで親鸞聖人ゆかりの地が載っている近畿日本ツーリスト発行の「親鸞聖人ーお念仏の道をたずねて」「大谷光真パンフ」を貰った。(去年暮れに書いたものを移動)


1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号〇上原良三「初秋の京都北山へーそもそも諸準備の為、京都に勤める新城君の職場(某食事処食堂)で米や、スープンの調達のついで、コーラやコーヒーを御馳走になったのも一原因かも知れない。」

 2011年10月12日午後ーJR永和から大阪駅、駅舎もだいぶイメージが変わった。新快速で京都駅。途中、茨城と高槻でイオンの看板を見かける。かつてこの路線から「今日も元気だ煙草か(ママ)うまい」の大きな広告が見えていた。そう、濁点が剥げ落ちていた。京都タワー (「お東さんのろうそく」とも呼ばれているが、本来は灯台をモチーフにしたもの)が見えた。帰ってきたという気分だ。私の22,3歳は京都駅八条口近鉄名店街の「紅屋」で働いていた。東寺などはよく遊びにいったが、西本願寺や東本願寺もよく遊びにいってはいるがこれといった印象は少ない。どちらの寺も雰囲気も同じだから名前も西、東取り違えて記憶していた。東、西の違いは、「南無阿弥陀仏」をお東は「なむあみだぶつ」、お西は「なもあみだぶつ」と称えるという話はよく聞く。
 京都駅烏丸中央口を出て左の方に歩いて、しばらくすると、元植柳小学校に「ご縁まちマルシェ」会場があった。入ると色々な売店があり、京の銘品、仏具の店が並んでいた。地方の特産品の店には、沖縄からも首里の「美南島マーケット」が出店していた。会場で出て伊東忠太設計の伝道院(テーマ館)を見る。『本願寺新報』を貰う。宗祖親鸞聖人七百五十回忌ということで通りは大勢の人たちで混みあっていた。ほとんど地方からの団体だ。西本願寺の甍が見えてきた。中に入るとやはり混雑していた。売店で「安穏」という水を買った。混雑を避け国宝の書院を見る。襖絵や柱は黒光りし年月を感じさせ、庭はソテツが主役だ。次の国宝飛雲閣は銀閣寺の雰囲気である。国宝の唐門は唐破風で豪華な装飾彫刻が施されている。西本願寺を出るとすぐ隣りの興正寺による。
 大谷光真門主は、新宗教(右翼)の指導者を除けば、歴史ある巨大宗教教団「浄土真宗本願寺派」の最高指導者としては例外的に社会問題に積極的な発言をしてきたことで知られているが、『本願寺新報』10月特集号の発言に「人間の欲望と知恵のバランスが崩れてしまい、人間に扱えないようなものによって欲望を満たしてきました。恐ろしいものには恐れをもって対処するというようなことが欠け、傲慢になっていたと思います。(略)今のままでは原発との共存は難しいと思います。現状は、薄い氷の上に乗っているような感じですね」と口先社会科学者顔負けの発言である。すべからく指導者はこうあらねば。虚言妄言ウスノロ内閣(→10-12『日刊ゲンダイ』命名)に爪の垢でも煎じて呑ませたい。またそんなノロノロ内閣でも国民をバカにした悪政(増税、年金改悪、政党助成金)だけは得意とみえる)それを一緒にやっているのが労働貴族の連合である。古賀会長のごときは「私は原発『脱依存』とは言ってない」とは、コロコロ総理と同じだ。 
 浄上真宗本願寺派の沖縄開教は、1879年大河内正念師(宮崎県、願心寺)の来島に始まる。98年より亀井慈雲師(鹿児島県、善行寺)の13年に亘る開教の跡を受けて、1910年鹿児島県川内市光永寺の菅深明師が大谷光端宗主の特命を受けて大島郡徳之島説教所より転任来島し、那覇市上之蔵に湖城宅を借りて那覇説教所を設置して布教伝道を始めた。翌年の11年7月には、同説教所を松下町1丁目71番地(現在地)に移して、寄留商人や官吏を中心に布教を行い、漸次地元の沖縄の人々へも教化の手を進めていった。1916年5月、大正天皇即位の御大典を記念して、本堂及び庫裡を建立し「聖徳山大典寺」と寺号を公称して、開基の菅深明師が初代住職となった。爾来、与那原、嘉手納、西表、八重山、渡久地と布教所を開設、各方面へ教線を拡げると共に、非行少年の更生保護のため、沖縄少年感化院(後に球陽学園と改称)を設置する。更に子女教育のため沖縄家政女学校(後に積徳高等女学校と改称)を創設して、活発な教化伝道を展開していたが、去る沖縄戦でこれらすべてを焼失した。(□→「聖徳山大典寺HP」)□大谷光端「食を精ならしめんと欲せば,先ず材料を撰(えら)ばざるべからず」
 東本願寺は行事でないせいか、西本願寺に比べたらだいぶ人出が少ない。入り口にハトが多い。最近は糞害のためハトに餌をやらないようにと、表示されている公園が多い中、ここでは餌を売っている。御影堂にのぼると20人の人が座っていた。瞑想。御影堂は世界最大の木造建築。親鸞聖人の御真影が安置されているところから御影堂と呼ぶ。出るとき正面に見えるのが御影門で京都三大門の一つである。ちなみに三大門とは、洛西の仁和寺二王門、洛東の南禅寺三門、洛東の知恩院三門を指す。また、仁和寺二王門の代わりに洛中の東本願寺御影堂門を数える。沖縄那覇市西町にある真教寺は浄土真宗東本願寺派の寺。1876年、田原法水により布教が開始され、84年創建。はじめは東本願寺講義所と称したが、大谷派琉球別院と改称、92年に真教寺に改めた。
 大谷本廟に向かう。途次、あちこちで観光土産なのかシーサーをよく目にする。文子天満宮、塩竈山上徳寺、仏性山本覚寺による。本覚寺境内には江戸中期、浮世草子の版元・八文字屋自笑の墓がある。ソテツもある。六波羅蜜寺は今までに何回もよっている。951年、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。現存する空也上人の祈願文によると、963年、諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。1183年、平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。(□→「六波羅蜜寺HP」)

 五条坂の大谷本廟手前の円通橋(通称「めがね橋」橋脚、敷石板、欄干など総て花崗岩の切り石を用いている)を渡ると右側にソテツが見え、左側には親鸞聖人像が見える。仏殿を参拝。かつて本廟に、親鸞聖人の木像を安置するようになったのは、1295年頃からといわれている。大谷本廟は、親鸞聖人の末娘である覚信尼と、東国門弟の協力によって建てられたものだが、敷地は覚信尼の所有。覚信尼は、敷地を廟堂に寄進し、廟堂守護の役目(留守職)を、みずから引き受け、以後尼の子孫の中の適任者が門弟の承認を得て、就任することになった。これが後年の本願寺の血統相続の基となりました。大谷の廟堂が、親鸞聖人の墓塔を覆う屋舎から、聖人の彫像を安置する影堂へと移行したのも1295年頃。そして、三代目覚如上人によって、本尊阿弥陀如来を安置する寺院へと移行した。五条坂近くに河井寛次郎記念館があるが5時なので閉館していた。
 2006年10月発行の『大坂春秋』に宮元健次「豊臣秀吉による寺町の形成」が載っている。それに「1591年秀吉は、本願寺門主顕如に『下鳥羽より下、淀より上の間、何れの所なりとも御好次第』と伝え、本願寺は迷わず現在の六条の地を選んだ。というのも現在の地は、本願寺にとって聖地というべき浄土真宗の開祖・親鸞の聖廟・大谷本廟のもとあった場所の真東にあたるからに他ならない。興味深いのは、その東西軸上に、阿弥陀ヶ峰が位置し、その山頂に秀吉の霊廟である豊国廟が位置していることだろう。また同軸線上に秀吉を神として祀る豊国神社が位置することも注目したい」と記す。つまり秀吉は生前より死後の世界を保証するという阿弥陀如来信仰を応用し自らが神に再生する計画をしていたとする。

「伏見稲荷から豊国廟へ」(inoues.net/family/fushimi_inari.html)
 国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏


京都駅 右に蘇鉄/「新福采館本店」「本家第一旭」
 帰途、何時ものように京都駅近くの塩小路の中華そば屋による。京都から帰宅する前は必ずよるのが慣わしとなっている。22,3歳のころもよく食べにいった。「新福采館本店」と「本家第一旭」はまだ健在だ。当時は駅前でも中華そばの屋台があった。屋台の暖簾には「贈・中島連合会(→現会津小鉄会)」の文字があったのが今でも印象に残っている。最近では新福も第一旭もネットで賑やかだ。新福はHPも開いて全国展開している。どちらも1947年に店舗を構えた。新福は休みだったので第一旭に入った。青春時代の懐かしい味だ。腹ごしらえも済み、京都市南区東九条にかつて間借していた家を訪ねた。家はそのままだが、冷やし飴を売っていた店はとっくに壊されビルになっていた。向かいに図書館ができていた。


寮は南区/近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
〇2020-5-17 朝、テレビで「目撃!にっぽん 『番地のなかった街で在日コリアン2世 最後の語り』」でこの地域が報じられていた。今はGoogle地図で東九条を散歩できるが、動画を見るとネトウヨ視点で「東九条コリアタウン」などとやっている。  

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Posted by: ryubun02
 「くろねこの短語」2020年5月20日ー(前略)トンデモ答弁を繰り返す検察逃げたの森君を、TBSの金平君が「法匪」(法律を詭弁的に解釈して、自分に都合のいい結果を得ようとする者)と呼ばわっていたが、いやあこりゃまた言いえて妙で、納得しちまった。それはともかく、検察庁法改悪がうまくいかなかったからなのか、今度は国民投票法改正案を成立させようという動きが出てきたってね。検察の次は憲法か。それにしても、次から次へと余計なこと考えるものだ。そんなんだから、マスクひとつ満足に配れない無能ぶりをさらけ出しちまうんだね。
 自民党国対委員長のおばさん顔の森山君は「憲法審査会でずっと継続審議になっているのは、立法府としていかがなものかと懸念する。結論を出してほしい」ってのたまってくれてるが、憲法審査会で何を議論してきたんだ。それこそ生煮えのままの状態で、これもまた火事場泥棒っとことだ。時の政権が世の中の空気をこれほどまでに読めなくなっているかと思うとちょっとゾッとする。これって、思考能力を失った大本営と同じで、このままだと悪夢の再現になりますよ。国民投票法改正案の他にも、日本の農業を壊滅的な状況に追い込みかねない種苗法改正案の成立もペテン政権は狙っているから、まだまだ気を引き締めて抗議の声を上げていかないと大変なことになりますよ。


大濱聡 5-21

大濱聡 5-20

 【サンパウロ時事】5-19 ブラジル保健省は18日、新型コロナウイルスの累計感染者数が25万4220人、死者が1万6792人になったと発表した。前日から感染は1万3140人、死亡は674人増えた。感染者数は英国を抜き、米国、ロシアに次ぐ世界3位となった。

 「ディリー」5-19 池田清彦氏は山口二郎法政大学教授のツイートを引用。山口教授は維新について、「維新のやり口」と投稿。「公務員を敵視し、保健所・衛生研究所をリストラして、コロナ危機で医療キャパシティが足りなくなると、雨がっぱの供出や寄付を呼び掛け美談を作り、あほなメディアを操りつつ市民に自己陶酔的感動を与え、結局実体的な仕事は何もしない。究極のマッチポンプ」としている。

 「神戸新聞」5-18 「ウイルス出現 温暖化も要因」長崎大熱帯医学研究所教授(国際保健学)山本太郎氏
 グローバル化の中、飛行機などによる移動が増え、世界同時多発的にパンデミックが起きている点は、過去の感染症とはかなり違う特徴だ。(略)
 新しい感染症が近年増えてきた背景には、開発でヒトが野生動物の生態系に入ったこと、地球温暖化で野生動物の生息域が狭くなったことがある。野生動物の中で生きてきたウイルスが、生き残りをかけたかのように人間社会に広がっている。生態系の多様性や野生動物の生存を確保することで、新たな感染症が発生する頻度は減らせる。そうしないと、われわれの社会の存続が危ういということが分かってきた。
 次にどんな社会をつくるか想定することが重要だ。社会は大きく変化する。例えば、10年や20年という単位で進んでいたであろう情報技術革命が1、2年で進む。グローバル化が進んだニューヨークなどの地域が今回、大きな影響を受けた。格差を広げないベーシックインカムのような考え方も含め、都市と地方のあり方やグローバル化をどうしていくか。ウイルスとの共生とは、パンデミックを社会でしなやかに受け止めていくことも含むのかもしれない。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-18日本時間 3月19日に外出禁止令が出て、2か月以上が過ぎますが、明日からロスアンゼルスも段階的に徐々に、外出禁止を解除するとのことで、明日18日から第一弾目の解除は工場関係から、弊社の原料工場も2か月ぶりの再開となります。コロナ禍でアメリカの中小企業も、甚大な被害を被っていますが、中でも大企業では1902年創業の、全米網で展開していました、庶民派の米百貨店大手JCペニー(JC Penney)が、15日に米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請し、経営破綻しました。もともとネット通販の台頭により経営不振に陥っていた様ですが、新型コロナウイルスに伴う営業停止が追い打ちをかけたようです。5月に破綻した衣料品チェーンのJクルー(J,CREW)、また1907年創業の高級百貨店ニーマン・マーカス(Neiman Marcus)に続き、米主要小売業で3例目の破綻となります。
 日曜日の南カリフォルニアは気温は朝12度ほど日中は昨日よりいくらか暖かく24度ほどです。母の日に1輪咲いた庭のクジャクサボテンが、外出禁止解除を祝うがごとく、豪勢に咲いています。三日間ほど咲いて楽しませてくれていますが、まだまだツボミを沢山持っているので、次からつぎと開花してくれるでしょう。月下美人にも葉の形状や花の形は同じですが、クジャクサボテンは僅かに葉に小さな刺を持っています。月下美人の花は一夜の命ですが、このクジャクサボテンは昼に咲き、3日ほど咲きます。日曜日の午後をまったりとクジャクサボテンの花を愛でながら、コーヒーを飲んでおります。

 「リテラ」5-19  「橋下徹の時代から、裏で安倍政権に協力して自分たちの政策や権益を後押しもらうというのが維新の常套手段。今回は、国民の声が予想以上に大きかったため計算違いと結果になったが、維新としてはいつものように、条件をつけたふりして強行採決に協力し、与党に恩を売るというのが最初からのシナリオだったんだろう。そういう意味では通常営業ですよ」(全国紙政治部記者)。実際、これまでも、維新は、安倍政権の数々の無理筋法案に附帯決議や修正協議などエクスキューズをつけながら賛成してきた。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪、TPP、働き方改革、入管法改正……安倍政権が出してきた数々のデタラメ法案をまともに議論せず、法案の欠陥や、立法の根拠となるデータに間違いや改ざんが判明しても、そのこと一切無視して、強行成立に全面協力してきた。そして、その見返りとして、安倍政権からカジノ法案制定、大阪万博誘致など、“金のなる木”利権拡大を後押ししてもらってきた。

 「くろねこの短語」2020年5月19日ー(前略)でも、これで終わったわけではないんだね。「先送り」はあくまでも「先送り」で、コロナ対策が一段落するような気配が見えた時点で、一気に強行採決ということは十分に考えられる。油断は禁物なのだ。なんてったって、ペテン総理は「忘れやすい国民」と舐めきってますからね。さらに言えば、官邸の代理人・黒川君の定年延長は続いているわけで、このままだと場合によっては8月には検事総長就任の目が残っている。法案が先送りになったからには、黒川君の定年延長の違法性を徹底的に追及する必要があるんだね。メディアの報道では、この視点がけっこう抜けている場合が多いから注意が必要だ。とにもかくにも、「先送り」で抗議の声を弱めることなく、さらにボリュームアップして廃案になるまで、そしてペテン総理が進退窮まるまで戦い抜くのだ・・・てなことを囁きながら我が家のドラ猫に空気を入れるしのつく雨の火曜の朝である。



〇橋下徹5-18 「特定秘密保護法、共謀罪、平和安全法制などこれまでも賛否が激しかったものがあったが、それらには『国家のため』という政治意思を感じた」とつづった上で「今回の検察庁法改正は賛否が激しい割にはそれを感じることができなかった」。

 「くろねこの短語」2020年5月17日ー(前略)これは、官邸の代理人・黒川君の定年延長について、「法務省の官房長が官邸に持ってきて頼んだということも、これは本当ですか?」というネトウヨの女帝の質問に答えたもので、つまり法務省のせいだって言ってるんだね。これは大問題で。森友学園疑獄の公文書改竄と同じ言い訳で、へたすると責任おっかぶせられた官僚の中から悲劇的な結末を選択せざるを得ないひとが出てくる可能性だってあるんじゃないのか。
 さらに、官邸の代理人・黒川君との関係については、こんなことのたまってます。「私自身、黒川さんと2人でお目にかかったこともない。個人的な話もしたことも全くない」この発言も見事に瞬殺されちゃいました、なんと、2018年12月11日の「首相動静」には、2人で会っている記録が残ってたってね。「息を吐くように嘘をつく」のはペテン総理の生まれながらの性格とはいえ、ほとんど口先だけのポンコツ詐欺師といった体ではあります。
 〇軍畑先輩 まだよく生きてる途中だけど、今夜安倍が櫻井よしこの言論テレビに出演して「黒川の定年延長は法務省が言い出した事。我々はそれを承認しただけ」と言い放って、まずいと思ったのか櫻井よしこがYouTubeのアーカイブ非公開にしたから、当該部分上げとくわ


2020年5月『月刊琉球』№76 琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947  
下地ヒロユキ「表紙絵」/真喜志好一「普天間飛行場の危険性除去のために即時運用停止と返還を」/大城冝武「風刺画からみる アメリカ統治下の琉球の世相」/しもじけいこ「宮古IN 宮古バブルからコロナ禍へ」

平良勝保「戦前-戦後歌謡懐旧雑録⑥サンフランシスコのチャイナタウンと苦力と豬花」/河合民子「蒼き狼、琉球へ行く④」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑯」/土岐直彦「権力私物化・コロナ対策迷走の『アベ政治』ー首相の存在自体、日本の『緊急事態』」


 斎藤 陽子(Walnut, California)5-15日本時間  【思い出のアルバム】我が青春時代どっぷりとハマったエレヴィス・プレスリー(Elvis Presly 1935年~1977年)を貴方はご存知ですか。プレスリーは史上100人のシンガーの中で第一人者といわれ、キングオブ・ロックンロールと言われていますが、今では彼を知らない若者も居るようで、時代の流れに驚いています。彼は42歳で亡くなったのですが、プレスリーが13歳から育ったメンフィス・テネシー州の自宅裏には両親のお墓に囲まれたプレスリーのお墓に2008年に行きました。
 
 ジョージア州アトランタからロスアンゼルスに向かう6000キロのドライブ途中に、テネシー州メンフィスに立ち寄った時の写真です。
 プレスリーは世界的にも超人気歌手の位置を確立しながら、アメリカ陸軍の志願徴兵制度で志願し、陸軍一等兵になりドイツに駐留したころ私は高校生でした。当時は休み時間になるとクラスの男性は教室のホウキをギターがわりに持って、今で言うエヤーギターでプレスリーのモノマネをするほど、当時の沖縄の若者やティーンは米軍に囲まれていた影響から、アメリカ音楽文化の影響が強く、みなプレスリーにイカレテいたものです。
 なんと皆がメロメロになっているプレスリーが、軍人として勤務していた赴任地のドイツから、沖縄嘉手納基地内の格納庫でコンサートをするとのクチコミ・ニュースは高校生を沸き上がらせ、クラス全体が授業をサボって行くという珍現象が起き、クラスのほとんどが欠席する事態となり、翌日私もお灸をすえられたのも、今では懐かしい思い出です。〇あの頃はいろいろな催しがあり、米空軍が持っている各国で演奏旅行している「シンフォニー・オブ・ザ・エヤ―」などの大交響楽団など、その都度一般人も入れました。
 長距離トラックの運転手からスーパースターにのぼり詰めた、アメリカン・ドリームの象徴のような人生を送ったプレスリーですが、一人娘のリサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソンと2年間結婚していたことでも有名です。このプレスリーの家は、プレスリー・ファンにとっては「聖地」といった所で、熟年夫婦の見学者でいっぱいです。プレスリーの家は1991年に国定歴史建造物となっています。プレスリーはよほど田舎のメンフィスが好きだったとみえて、有名になってもハリウッドには豪邸を作らずに、頑固に自家用機を使い田舎のメンフィス・テネシー通いをしていた様です。今ではメンフィスもプレスリーで有名な観光地となり、ここへ観光で来る世代も60,70代と高齢者が目立ちます。日本の小泉総理もプレスリー・ファンだった様で、このプレスリーの館を訪れています。ロックはもとよりスローバラード、カントリー・ソング、ゴスペルと全ての分野をそれぞれの雰囲気で歌い分け、今も彼の歌唱力を超える人はいないと信じている私は、相変わらずプレスリーにイカレて、車ではいつも彼の曲を流してます。



 京都のS学長 5-14 安倍首相が犬を抱いてお茶を飲む動画も、自国民が何百人と感染すれば眠れないほどの悩みになるはずで、国民への気持ちはその程度だと宣言したようなものに思われてしまった。本当に国民を思うなら、自分のクビが飛んでもいいくらいの覚悟で大胆な政策を発表してほしいと、国民は期待しているはずです。

 「くろねこの短語」2020年5月14日ー(前略)そしてまた、この行革担当大臣とやらがふざけた野郎で、「本来なら法務省からお答えすべきこと」「法務省の職員でないので具体的に言えない」とのたまい、しどろもどろの答弁したあげくに「法務省に聞いてもらった方が詳しい」だとさ。検察官定年延長の是非以前に、こんな国民を舐めきった答弁に終始する委員会のあり様そのものが問題だろう。法案審議以前に、ペテン政権は議論そのものを拒否しているわけで、再び青臭いこと言えば、議会制民主主義の崩壊を目の当たりにしていると言っても過言ではない。
 さすがにこんな委員会に疑問を投げかける声が自民党からも上がった。異議を唱えたのは元新潟知事の泉田君なんだが、あっと言う間に委員を外されちまいましたとさ。いやあ、あまりにもわかりやすい自民党の対応には笑うしかありません。初老の小学生・ペテン総理は、この法案が成立しても「恣意的な人事の懸念はない」って強弁してたけど、昨日の内閣区委員会で政府が特例で定年延長を認める際の運用基準を問われて、おふざけ行革担当大臣の武田君は「今はない」って明言しちゃいました。てことは、「恣意的人事」も可能ってことだろう。語るに落ちるとはこういうことを言います。

 2020年5月14日4時30分 息子夫婦。大阪・聖バルナバ病院で予定日より2週間早く、孝汰郎(3000グラム)誕生。〇『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。子息にバトラー歯科医院の山田有勝、写真家の山田實が居る→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。

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 「密約復帰の思い出」1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」/1972年 沖縄関係資料室「暑中お見舞いハガキ」/1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

 ディリー 5-13 立教大学特任教授で慶応大学名誉教授の金子勝教授は「【アベ恐慌が来る】」とし、「アベと維新の唯一の成長戦略であるカジノも終わりだ」と投稿。「米ラスベガス・サンズは、日本で統合型リゾート(IR)にカジノを設立する計画を断念。すでにシーザーズ・エンターテインメントやウィン・リゾーツも計画を撤回。かくて成長戦略は何もなくなった」と指摘した。

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2003年9月29日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー沖縄の年表とその周辺」


1953年10月 有高巌『図説世界史年表』山海堂この本は前島小学校図書館で出会った。後に京都銀閣寺近くの千原書店で見て懐かしさもあって入手した。カラー図版は「タイ軍カンボジアの軍艦を攻撃」の1枚だけである。


1957年5月ー佐久本嗣康『沖縄郷土史年表』
この年表は小学4年のときに出会ったもので大分難しかったが島袋全発先生校閲というのが印象にある。当時は郷土史資料を持っているだけで満足しときおりザッと見るだけで内容は詳しくは知らなかった。その内容は古代史、吾が祖先の歩み、沖縄の孤立、南洋貿易を始める、両属政治、現実に即した明るい歴史を作れ、鳥井龍蔵氏の人類学的研究、年表、俚諺集、沖縄戦概略史となっている。この年表の最初のものは1949年12月に沖縄出版社(崎原久)から謄写版で出ている。1974年4月、石野三樹(朝季)と『沖縄歴史年表ー戦前、戦後ー復帰』を出した。この年表には山田真山が「推賞のことば」を寄せ、佐久本氏が40年前の真人園の同志であったことを記した。

1960年9月ー新城徳祐『干支入・琉球歴史年表』
この本は中学生のとき安里の琉映本館近くの土産品屋で入手した。表紙が黒色で金文字。内容は歴代王統、置県以来歴代長官、歴代摂政、冊封使渡来年表、年代表となっている。このときの本はボロボロになり紛失、今のものは2代目である。

 
1983年4月 宮城栄昌・高宮廣衞 編『沖縄歴史地図 歴史編』柏書房/1998年1月 小成隆俊『日本 欧米 比較情報文化年表(1400年~1970年)』雄山閣出版株式会社

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2020年4月『沖縄民権』第2号 沖縄民権の会〒210-0847 川崎市川崎区浅田3-9-6座覇光子方

島袋和幸「沖縄・伊江島 米軍・LCT爆発事件」
2019年2月『沖縄民権』再刊第1号 沖縄民権の会〒210-0847 川崎市川崎区浅田3-9-6座覇


2019年2月 『沖縄民権』再刊第1号 沖縄民権の会(〒210-0847 川崎市川崎区浅田3-9-6 座覇光子方 ☎044-355-0073)
〇島袋和幸「『沖縄民権の会』についての思い出」


〇小波津清昇「誇りに思う」/「沖縄民権の会会報『沖縄民権』総目次(抄録)」
2001年4月『民権の火よ永遠にー小波津英興追悼集ー』沖縄民権の会(座覇光子)


1983年6月 古波津清昇『沖縄産業史ー自立経済の道を求めて』文教図書
1990年9月 古波津清昇『起業の心得帖-チャンスを生かせ』ブックボックス壷川店
兵庫沖縄県人会事務所で拓伸商事社長の宮城幹夫氏に出会ったことがある。氏は1940年の沖縄県大阪物産斡旋所所長だった宮城桃幸の子息。


1968年2月城間武松『鐵と琉球』金秀鉄工株式会社/1982年5月『鉄と共に三十五年』金秀鉄工株式会社
又吉真三さんと懇意であった崎間麗進さんは元金秀建設専務、山里銀三氏も金秀建設社長を勤めて居られた。

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 FB友の戸澤裕司さん(元週刊朝日グラビア班専属カメラマン 写真家作家藤原新也助手)の師匠・藤原新也氏の著『日々の一滴』を思い出して5月11日にジュンク堂那覇で買ってきた。私は文庫本愛好家であるから文庫になっている藤原氏のものは大概もっている。同著には石田 昌隆氏、戸澤裕司さんの写真も使われている。

 石田 昌隆 2020年3月24日 · 『日々の一滴』は、タイトルがエモすぎて大丈夫かなと危惧していたのだが、できあがったら『空から恥が降る』以来と思える傑作になっていた。まずぱらっと見た瞬間に、デジカメで撮影したものがほとんどであるにも関わらず、ひと目で藤原新也調とわかる写真になっていて、ファンなら感涙であろう。ところがこれが、懐古的なものではなく、写真を世に出す主流の媒体となっているインスタグラムに相対しつつ、今の時代をきっちり捉えた紙の本になっていた。
 ライカM(type240)サファリにノクチルックスをつけて大久保の路上で撮影した伊藤詩織さん、カルロス・ゴーンの制限住居、「忘却の10年。いまだ川は流れる セシウムの船を浮かべて」という文字が載った川が光っている写真、孤独死した知人の話、房総の里山の美しい風景、戸澤くんから借りたキャノンで撮影した小保方晴子、香港の路上でばったり会った黄之鋒くん、香港でホームヘルパーとして働いているインドネシアの女性たち、辺野古の大浦湾側の海、2015年に国会前で撮影したデモ、AKB48、熊本地震の跡、古き良き築地、1989年にカリフォルニアの白人ばかりが住む住宅地で撮影した写真を再利用して「風景がひとつの肌の色で独占されることの不気味さ」という文を載せたページ、房総で出会った軽ワゴン車で旅する老夫婦と老犬、去年パリのモンマルトルのアパートに数日滞在したときにライカSLで撮影した風景、安田純平さんと藤原さんが並んで笑っているツーショット(これだけ、ぼくが撮影した)、大久保のタピオカドリンクの行列、孫を抱いた玉城デニーさん、川崎通り魔殺人事件の現場、石牟礼道子さん、瀬戸内寂聴さん、などの写真と話で構成されている。

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1993年6月 藤原新也『南島街道 沖縄』スイッチ・コーポレイション書籍出版部
○藤原氏は本書で、28歳の頃八重山の島々を2カ月ほど渡り歩いたという。○藤原「外洋を旅している回遊魚がこのくちだな、やつらは一生のうち何十万マイルもの海を泳ぎ続ける。海が荒れれば底にひそみ、疲れれば流れ藻の下で休み、魚の群に当たればおそろしいスピードでその中に突進し、来る日も来る日も泳ぎ続けるんだ。やつらは旅の間にさまざまないい体験をするだろう。旅の途中でまるで楽園みたいなリーフや巨大な龍宮城みたいな隠れ磯のとりこになる。しかし、残念なことによい場所を見つけてもやつらの性格は一カ所にじっとしておれないたちでね。つまり旅するうちにものごとを較べたり計ったりする厄介な能力が身についてしまったんだな。だからその海の向こうにもうちょっとよい場所がないものかとすぐその場を離れてしまうんだ。そうこうしているうちに年月がたちゃあ、歳をとり体も弱ってくる。やつらはそれで、全身傷だらけ疲労困憊して自分の生まれた場所にいそいそともどって行く。そしてそこで死ぬ。」


藤原新也の本


2015年2月27日~3月12日 ブライトフォトサロン(〒104-0043 中央区湊1-8-11 ライジングビル4F ℡03-3523-0545)「島の記憶(ⅰ)戸澤裕司・写真展」

写真左から大城弘明氏、戸澤裕司氏、新城栄徳
2013年5月5日ー戸澤裕司写真展打ちあげ□海鮮亭ちひろ(店主・島袋憲広)

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1972年9月 沖縄の雑誌『青い海』16号 山城善三「暴風と沖縄の県民性」 

1937年6月『沖縄教育』米国三郎(顔写真)「ストライキ組を語る」

1953年3月 雑誌『おきなわ』与那国善三「1954年 沖縄の動き(上)」


山城善三
沖縄タイムス発行『沖縄年鑑1967』から「観光・戦跡」が掲載されている。それに「観光事業のはじまり」がある。沖縄の観光事業にはじまりについてくわしい記録はないが、修学旅行が最初だといわれている。□1893年(明治26)の9月、沖縄師範学校の生徒が本土の社会、文化、歴史などを勉強するため初めて九州旅行している。その翌年1894年(明治27)2月に那覇市の主催で那覇で「九州沖縄連合共進会」が開かれ、3月には「沖縄県教育品展覧会」も催され、九州各地や東京方面から多数の参加者が来島している。(以下略)『沖縄年鑑』1970年版には「観光ー観光協会の発足」が載っている。
1954年1月9日 社団法人「沖縄観光協会」設立(事務局・那覇市役所勧業課内)


1953年1月ー与那国善三『最新沖縄歴史年表』
1954年1月に社団法人「沖縄観光協会」が設立された。2月に那覇市役所勧業課内に事務局を置いた。57年4月、事務局を琉球政府工交局内に移転。59年は那覇市楚辺の与那国(山城)善三宅に事務局、会長は大田政作で副会長ー儀間光裕、親泊政博、専務兼事務局長ー山城善三、監事ー白石武八郎、大城嘉盛となっている。ほかに顧問6人、理事22人、評議員26人、参与が14人居る。

1988年12月20日『那覇市史だより』第34号
□故山城善三氏資料の寄贈について/故山城善三氏資料寄贈目録(文化振興課受贈の分)
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2019年11月20日 『沖縄の軌跡』〔『琉球大観』著者・石野瑛の沖縄〕213号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952

石野瑛
1914年12月 石野瑛『琉球へ』三笑堂書店
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左1915年6月『琉球大観』(表紙・石野隆)三笑堂書店/1916年4月『南島の自然と人』(表紙・山田真山)三笑堂書店
『琉球大観』太田朝敷〇序ー琉球大観の発行大いに好し矣。歴史の概要、風土・気候・人口戸数より産業・交通・経済・娯楽等に至るまで、誠実に事実を集蒐せるは更に好し矣。元来外来者にして正しきレンズを以て琉球の正体を見たるもの至って稀なり。是畢竟弓張月、竜宮物語の如き極端なる浪漫的レンズを透して眺むる故、見るもの聞くもの殆ど奇談怪説に化せざるものなし。我輩之を遺憾とすること久し。今琉球大観の著あり。現在の事実を集蒐分類して来遊者の栞と為さんとす。今後本県に遊ぶもの、此の正しきレンズを透して見ば、自ら本県の正体を知るを得ん。/伊江朝助〇序/伊波普猷〇序

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1928年10月ー石野瑛『考古要覧』横浜文化協会

 武相中学校・高等学校ー1942年(昭和17年)、考古学者で歴史家でもあった石野瑛が、青少年教育の重要性を感じ、神奈川県横浜市港北区篠原町富士塚に旧制武相中学校創立。その後、生徒と共に原野であった松風台(現・武相台)を開拓し移転。当時この場所は見晴らしが良く、旧国名の武蔵国と相模国が一望できたことからその頭文字を一字ずつ取って校名にした。校名の由来ともなっている高台(武相台)は昭和17年当時非常に見晴らしが良く、横浜港はもちろん、遠く丹沢や富士山、房総半島も望むことができ、文字通り武・相両州が一望できたという。→ウィキ

1952年ー1961 石野瑛『神奈川県大観』(「自然と人文」、「横浜・川崎」、「鎌倉・三浦・湘南」、「湘東・湘中」、「湘西・湘北」)武相出版社

1960年1月 石野瑛『沖縄大観』武相学園

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

2020-4-18昼 沖映通り/国際通り
 
2020-4-18昼 市場本通り/むつみ橋通り/平和通り/古美術なるみ堂

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2019年3月 尖閣諸島文献資料編纂会『尖閣諸島盛衰記 なぜ突如、古賀村は消え失せた?』
〇尖閣諸島文献資料編纂会(E-mail:senkakudmcaa@gmail.com URL:http://senkakudmca.zouri.jp )
〒902-0066 那覇市大道40番地 ☎098-884-1958
 
2018年9月 尖閣諸島文献資料編纂会『尖閣研究ー尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告-沖縄県の漁業関係者に対する聞き取り調査ー』
〇尖閣諸島古賀村の昔と今 
新納義馬「久場島古賀村跡の遺構・生活跡調査を」/編集部「魚釣島・南小島古賀村盛衰考-急ぐべし 南小島古賀村跡 遺跡調査もー最後に重ねてお願いする。国や県は、尖閣諸島古賀村跡の遺跡群を、急ぎ調査し、日本近代化産業遺跡群に認定するなどして、保全策を講じてほしい」


2013年9月 尖閣諸島文献資料編纂会(〒902-0068 那覇市大道40番地 TEL/FAⅩ098-884-1958)『尖閣研究ー尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告』

尖閣諸島とは
Ⅰ尖閣諸島の漁業概要
Ⅱ聞取り編
1章 沖縄本島地区/2章 宮古島地区/3章 八重山地区/4章 漁場保全、領海警備

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原爆ー1969年11月ー沖青友の会機関誌『石の声』第1号□[もしも沖縄で爆発したらこのようになる]□真栄田義秀「日本国憲法第九条」/「沖縄にあるB52は24メガトンの水爆を積むことができる(広島の1,200倍) もしも沖縄で爆発したらこのようになる。!▲150~570キロ以内の住民半分が即死し、生き残った人も4カ月以内にはほとんど死亡する。▲爆発にともなう地震津波がおしよせてくる。▲水や食物も多量の放射能を浴びて生き残っても奇型児や発育不能な人間が生まれてくる。▲北は奄美大島、鹿児島迄も被害は及ぶ。-沖縄の住民は今日も原爆をかかえて生活をしている。」

関連ー「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号「平野部の”70%„が米軍基地の沖縄」。アベ政治が辺野古に拘る一因か。

 関連ー2019年【5月16日 AFP】国連(UN)のアントニオ・グテレス(Antonio Guterres)事務総長は16日、核実験で生じた汚染物を投棄するため20世紀に建設されたコンクリートのドームから、放射性物質が太平洋へ漏出することへの懸念を表明した。太平洋の島国フィジーを訪れ、学生らを前に演説したグテレス氏は、マーシャル諸島のエニウェトク(Enewetak)環礁に建設されたこのドームについて、冷戦(Cold War)期の太平洋における核実験の遺物であり、「一種のひつぎ」だと表現した。さらにグテレス氏は、マーシャル諸島のヒルダ・ハイネ(Hilda Heine)大統領と同様に、このドームに封じ込められている放射性物質の漏出の恐れを非常に懸念していると述べた。
 同環礁の一部を成すルニット(Runit)島に1970年代後半に建設されたドームは、核実験で生じた放射性汚染物質の投棄場となっている。放射性物質を含んだ土や灰が、クレーターに運び込まれ、厚さ45センチのコンクリート板で覆われている。当時は一時投棄との位置付けで、クレーター底面には何らの加工もされていないことから、汚染物の海洋流出の危険性が指摘されている。何十年も経過したドームには複数のひびが入っており、サイクロンが直撃した場合には崩壊しかねないと危惧する声もある。グテレス氏はドームへの対応策には直接言及しなかったものの、太平洋の核の歴史は過去のものではないという見方を示した。(c)AFP

1971年4月 大阪市北区で あすの沖縄をつくる若い広場『青い海』創刊
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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沖青友の会機関誌『石の声』

 『石の声』10号は、1972年11月に発行されていて、新城栄徳、嘉陽宗博と新里金福の往復書簡が載っている。新里「沖縄も日本に復帰したのだから、沖縄人も日本人になる努力をしなければならないという説もあります。が、それは戦前、すでに破産した発想にすぎません。沖縄の人々は日本人の同化の努力のはてに、より収奪を強化され(ソテツ地獄)、文化的にも破壊され(方言撲滅運動)、そしてついに沖縄戦を迎えました。そして沖縄戦では<それでもお前らは日本人か>といわれて、日本人のあかしをたてる為に死地に沖縄人はおもむきました。つきるところ、沖縄人にとって、日本人になろうという努力は、自滅しかもたらさなかったのです」、嘉陽「沖縄と本土を往来し沖縄を理解したかのような口振りで<悲劇の島>とか<基地の島>とか、エトセトラのレポートを書いた大和人の知識人ち呼ばれるインテリゲンチャのなんと多いことよ。沖縄を食いものにする、沖縄をテコにして“日本を見つめよう”“己を問い直そう”等とほざく利用主義者の厚顔無恥(知)、エセ文化人を徹底的に糾弾する」、新城「僕らはこういうヤマトーの人間達をふやさぬためにも最後にはテロも辞さぬつもりですが、論には論で行った方が正当かと思われますので新里先輩の手でひとつよろしくお願いします」とある。

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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。
   『石の声』九号に「沖青年譜」があるので沖青友の会の歩みを紹介する。1969年4月20日に大阪城公園にて50名参加して発足、会長・宮城晃で11月には『石の声』一号を出している。「沖縄子供の国」資金カンパや、女子高生刺傷事件の署名カンパ、1970年6月は仲宗根正順(マンガ家)さん捜しに取り組む。兄弟団体の三和同郷青友会(尼崎)、南風サークル(大正区)との六甲山登山やソフトボール大会で交流。また、映画「水俣病」、「沖縄列島」上映会にも参加した。
 1971年12月11日、沖青友の会会員9名が初めてのテレビカメラのライトを浴び、あがってしまいながらの「関西テレビ土曜イブニングショウ」の沖縄討論に参加。司会は、栗原玲児、上原「最近よく沖縄について語られているけれども、安易な気持ちで語ってもらいたくないですね」、喜納「沖縄が返還されても我々は沖縄解放の闘いを続ける」、三郎「沖縄人としての自立を踏まえて沖縄人としての思想を構築していく」、新城栄徳「沖縄は経済的に自立できるかということを考えた上でなければ沖縄を語る資格はないですね」というと、司会者が「語る資格はあるかないか別として、自分の話で恐縮だけれども沖縄に関する司会をするのは十三回目です」、紀美枝「自らのことも出来へん状態で沖縄に連帯、連帯とそんな簡単に言えるべきもんではない」、比嘉「私達は皆さんが沖縄のことに口に出す場合、日本の歴史の中から、どうして現在の沖縄ができたんか考えてから」などと発言した。

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1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』所載『青い海』の紹介。
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1973年3月 『琉球の文化』第三号<特集Ⅰ 琉球の伝統玩具> 琉球文化社

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階/関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)

西平守晴/阿氏南山の末裔。『青い海』津野創一編集長は同郷(八重山)。南西印刷の西平守栄は従兄弟。久子夫人の母と川平朝申の母は姉妹。

1972年
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上左・1972年11月ー『青い海』18号所載の『琉球の文化』広告/『琉球の文化』編集発行人の大城精徳は、首里高教師時代に『青い海』津野創一編集長を教えている。

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Posted by: ryubun02
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『朝日ジャーナル』1971年3月26日号<特集・ミニコミ71ー奔流する地下水>

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1977年2月ー田村紀雄『ミニコミ 地域情報に担い手たち』日経新書



1971年ー万博も終わり静けさを取り戻した京都。大阪の沖青友の会機関誌『石の声』8号の装丁デザインを考えていた。河原町の書店で松岡正剛編集の『遊』創刊号(1971年9月)を見た。伏見桃山で会ったばかりの稲垣足穂の文章もあった。その表紙デザインを『石の声』の表紙に取り入れたのは言うまでもない。以来、松岡正剛の名前はついて回ることになるが、肝心の編集だけは身につかなかった。本ブログを見ても解るように元もと整理は苦手である。


 押入れを整理したら1998年発行の朝日新聞社『scias』スクラップが出てきた。 渡辺保史の「デジタルメディアの生態史--コンピュ-タと人間の20世紀-1-モ-タリゼ-ションからデジタライゼ-ションへ」というものだ。著者を検索、渡辺保史(わたなべ やすし、1965年12月24日 - 2013年6月15日)北海道函館市出身。 弘前大学人文学部卒業。業界新聞社に記者として勤務(東京)し、1992年 フリーランスのメディア・ジャーナリストとなる。2002年 函館圏の「地域コミュニティの未来デザイン」を検討するオンライン・グループ「node:0138 ハコダテ」を立ち上げる。情報デザインを中心に、サイエンスから情報テクノロジー、現代思想、デザイン、ビジネス論、都市・コミュニティ論、情報教育などのフィールドで取材、調査、執筆、企画、講演などの活動が主。(株)ソシオエンジン・アソシエイツ・ジェネラルプロデューサーNPOヒューマン・センター・デザイン・イニシアティブ理事。7年前に故人になっている。

ジュンク堂那覇で渡辺保史『情報デザイン入門―インターネット時代の表現術』2001年(平凡社新書)を買った。


2001年4月 寺島実郎『「正義の経済学」ふたたび』日本経済新聞社〇この先50年経っても、この国に外国の軍隊が今のまま駐留していても平気だと考えているような国民が国際社会で一人前の存在として認知されることは期待できないのである。

手帖ー情報整理
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Posted by: ryubun02
 斎藤 陽子(Walnut, California)5-10日本時間 ♫~♡~~♪ 母の日おめでとうございます ♪~~♡~♫昨夜の南カリフォルニアの満月のお月さまの見事なこと、その光は眩しい程でした。

写真は久しぶりに雨に濡れた、わが家の玄関口から見た駐車場です。今年も「母の日」がやって来ました。最近はスマホの時代ですが、固定電話の時代にはアメリカでは一年間を通して「母の日」が電話通話使用が最も多い日だと、アメリカの電話会社が報告していましたが、今は固定電話は余り使わなくなったご時世で、その辺の事情はどうなっているかは分かりません。
 ベトナム戦争の真っ盛りの70年代、「母の日」のフライトで当時運航していたロスアンゼル・沖縄直行便に乗って、沖縄の実家に帰国した日のことを思い出します。その頃のロスアンゼルスからの、沖縄直行便の乗客の90%は沖縄経由で、ベトナム前戦に向かう米兵で、機内は埋めつくされていました。現在のように携帯電話も無い固定電話の時代、空港ロビーには沢山の固定電話が並んでいて、全ての電話はベトナムの前戦に、出発する前の米兵が使用し、彼らは家族や恋人に戦場に向かう前の、最後の電話をかけているのか、大半の兵士が泣きながら電話に向かっている姿は今でも忘れることができませんあの兵士たちはベトナム前戦で戦ったあと、無事に故郷に帰還できたのか・・・と「母の日」が近づくと、今でもあの日のロスアンゼルス空港ロビーの光景が脳裏を横切ります。

 「くろねこの短語」2020年5月9日ー(前略)コロナ・パニックで忘れてしまっかもしれないけど、検察官定年延長が国会でスッタモンダしている時に、この法務大臣は頓珍漢な答弁を繰り返して、いたずらに国会を混乱させてたんだよね。法案が審議入りするなら、それを改めて質そうとするのは当たり前のことなんだね。法案の所管大臣への質疑を拒否するってのは、まともに議論をするつもりはないって言ってるようなもので、その理由を説明する責任が自公にはある。「野党審議拒否」なんてことより、「法務大臣の出席拒否」こそを報じるのが、ジャーナリズムってものだろう。って、イヌアッチイケーに何言ってもムダなのはわかってるんだが・・・。
 それは他のメディアも同じようなもので、そもそも検察官定年延長の審議入りをまともに報道してませんからね。コロナの裏で何が進んでいるか。それをしっかりとチェックしないと、国会放火事件のどさくさを利用して全権委任法を成立させたドイツの二の舞になりかねませんよ。おっと、そう言えば、「ナチスの手口に学べ」って言い放った口のひん曲がった野郎がいましたっけ・・・てなわけで、今日のところはお後がよろしいようで。

 「くろねこの短語」2020年5月8日ー(前略)こういう対立の構造を、政治家が作り出していることに何の違和感も持たなくなるどころか、それこそが強いリーダーシップであるかのように錯覚していくことがどれほど恐ろしいことか。そして、メディアがそれをまた煽る。パチンコ店がダメなら満員電車はどうなんだって議論なんかまったく出てきませんからね。新型コロナウイルス問題への対応で最も評価する政治家のアンケートで、ネズミ男・吉村君がトップなんだと。維新の支持率も上がっているってんだが、メディアが無批判にネズミ男の「やってる感」満載の映像を流し続けていることも一役買っているのは間違いない。
 それはともかく、パチンコ店に対する松戸市の高圧的態度は、ユダヤ人や朝鮮の人々への差別を育んだ邪魔者を排除するという思想に酷似しているってことをしっかりと認識しないと大変なことになりますよ。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-7日本時間 日本は大型連休がいよいよ最終日となりましたが、コロナ禍の中での自粛生活で、家庭中心のお休みが取れましたでしょうか。こちらカリフォルニアは罰則もある外出禁止が50日にもなりました。庭のアマリリスが太陽に向かって、真っ赤に咲いています。2017年マーガリンバターについての投稿を再投稿いたします。さて、日本ではバターが市場で不足したり、バターは米国に比べて日本では高価格な様ですが、ちなみに写真下段のバター1個(8㌢X3.5㌢ 113㌘)の米国のお値段は80円です。
 きょうは食卓のバターの代わりに使用しているマーガリンに関しての、大切なお話です。米食品医薬品局(以下FDA)はトランス脂肪酸について、2018年6月以降に、食品への添加を原則として禁止すると発表したニュースは米国の食品業界に大きな衝撃を与えています。私たちが問題にしているトランス脂肪酸は、工業的に植物油を脱臭のために高熱処理したり、水素を加えて「硬化油」に加工したりする過程で生成されています。代表的なものはマーガリン、ファットスプレッド、ショートニング、クリームなど極めて身近なもので、マーガリンは菓子パンやケーキなどに見られます。
 今回の発表に踏み切った最大の理由は心臓病の原因と指摘されていることにあり、FDAはトランス脂肪酸について科学的見地からの検討の結果、食品に使うことは「安全とは認められない」と結論づけ、「毎年数千件の致命的な心臓発作を防ぐことができる」と説明しています。トランス脂肪酸の規制は既に世界的に広がっています。FDAは、2013年11月にトランス脂肪酸を含む硬化油を食品添加物(グラス物質)から外す決定をしていました。デンマーク(2003年)、スイス(08年)、オーストリア(09年)では、100g当たり2g以上のトランス脂肪酸を含んだ油脂の国内流通を禁止しています米国、カナダ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、韓国、香港、台湾、中国では、食品含有量表示を義務付けており、いかにこの物質が健康に有害なものかがわかります。ちなみに日本はトランス脂肪酸についての厚生省などの規制はなく、事業者任せとなっているのが現状です。大丈夫でしょうか。
 
 写真上は113㌘のバターです、下方中央は今 日本で開花しているアマリリスと同時期に、申し合わせたようにカリフォルニアの庭でもアマリリスが今 大きく咲いています。
〇殺虫剤漬けで出来あがった規格品の様な綺麗な野菜が本物だとはき違えている日本人の多い事、その逆手を取って有機栽培ブームも出てきていますが、アメリカでは有機栽培を明記するには、いろいろなハードルを越えての有機栽培は認可制ですが、日本は自分勝手に有機栽培を銘打っていますが、その信憑性もあやふやなもので、完全な有機栽培は、自分で畑を耕して作るしか、有機栽培の信憑性はありませんね。
〇瀬名波  トランス脂肪酸の危険性、諸外国での規制については日本でもかなり知れ渡って来てると感じてます。しかしそれでも相変わらずスーパーには多くのマーガリンが並んでます。正直、国の規制を待っていても何も変わらないというのを今回のコロナで感じました。トランス脂肪酸の問題も消費者、メーカーから変えていかないといけないですね。

 「くろねこの短語」2020年5月6日ー夜中の電話・・・じゃなかった、地震にビックリ。コロナ・パニックの最中に災害に襲われたら、それこそお先真っ暗だもんね。避難所なんか3密の最たるもので、そんな最悪なシミュレーションを国はしているだろうか・・・してるわけないか。コロナ・パニックでさえ、精神論で乗り切ろうってんだから。そんな精神論を嘲笑うかのように、大阪府知事のネズミ男・吉村君が自粛解除の指針となる「大阪モデル」を公表した。本来なら、緊急事態宣言延長が決まった時に、初老の小学生・ペテン総理がすべきことだったんだよね。
 でも、「経済と医療の兼ね合いで作った指標。サイエンスとしてのエビデンスがあるわけではない」(大阪府専門家会議座長)という意見があることも忘れてはいけない。「人の命よりも経済」という視点は、ペテン総理もぼったくりバーのチーママ小池君も、さらには経団連などにも共通してますからね。だからこそ、『大阪モデル」なんて息巻いても、「休業補償」については一言も触れないんだよね。
 チーママ小池君なんて、昨日の会見でなんとかのひとつの覚えで、「誰かではなく、自分がやる。一人一人意識を持っていただきたい」と上から目線でのたまっている。いやいや、もう十分に一般大衆労働者諸君は危機意識持って自粛生活に耐えてますよ。まるで緊急事態延長が一般大衆労働者諸君のせいだって言ってるようなもんなんだね。んなことより、オリンピックにこだわり続けて、新型コロナウイルス対応をほったらかしにした責任を取ってみやがれ。人を小馬鹿にしたような馬鹿っ丁寧な物言いに触れるたび、殴りたくなる衝動に駆られる今日この頃なのだ。

  「くろねこの短語」2020年5月5日ー毎度のこととは言え、中身スッカラカンの「ポエム」なんてものじゃくてあれは単なる「たわ言」「うわ言」の類ですね。何がって、昨日の初老の小学生・ペテン総理の緊急事態宣言延長の記者会見だ。ダラダラと原稿読むだけだから、最も重要な給付の時期を読み間違えて、その後の質疑応答で訂正する醜態とあいなりました。でもって、結局のところ何が言いたいのかってなるんだが、ようするに「金は出さないけど自粛しろ」ってことなんだね。最後には、「絆があればウイルスの不安に打ち勝てる」「みんなで前を向いて頑張れば困難を乗り越えられる」って精神論でシャンシャン。いつの時代の話だよ。またしても竹槍でB29と戦うつもりか。
 そんな空疎な会見の中で、気になったのがこの発言だ。「コロナの時代の新たな日常を作り上げる」とさ。そのために「新しい生活様式」なんてのを専門家会議が提言したってんだが、何が「新しい生活様式だ」。そんなこと為政者に言われる筋合いはない。しかも、その提言ってのはこれまでの注意事項と何も変わっていないわけで、それをことさらに「新しい生活様式」とキャッチコピー化したとろに、何とも言えない「気持ち悪さ」がある。「治安維持法」や「国家総動員法」が頭の片隅をよぎっちまいましたよ。
・安倍首相の緊急事態宣言延長会見に愕然! 持続化給付金を「早くて8月」と間違え、追加補償も提示せず「絆があれば」のポエム「新たな日常」「新しい生活様式」・・・こんな言葉を何の疑問も抱かず、無批判に垂れ流すメディアもまた、そうとうに頭が腐っている。こうした不埒な文言は、今日からテレビのコメンテーターどもの口を通して、人口に膾炙されていくことになるのだろう。ひょっとこ麻生の「ナチスの手口に学べ」とはこういうことなのだと、我が家のドラ猫に言い聞かせるこどもの日の朝である。

 【悲報】安倍自民批判ツイートに対してTwitter社による凍結、削除報告が相次ぐ【言論弾圧】 - NAVER まとめ/自民党に投票してはいけません 2018 作戦変更しました(笑) でも覚悟はかわりません。自民党批判したらロックや凍結される可能性はありますから。(笑)ちなみに、凍結もロックも経験済みです(笑)暴れすぎは要注意です。/こるひど@cor_hydrae1999 @aiko 安倍批判をすれば凍結、しかし安倍に近けりゃ百田のように野党攻撃にヘイトやデマもお咎めなし。もうTwitterジャパンは自民党直営と思ってもいいかもしれないですよ。/おねえ@hero「自民党批判したら、twitterのアカ凍結された」「山本太郎を応援したらアカ凍結された」 twitterって、みんなが好き勝手に呟くところじゃないの?。

 斎藤 陽子(Walnut, California)5-4日本時間 コロナウィルス感染拡大予防から、外出禁止令が出て47日目の日曜日ですが、毎日が日曜日生活だと今さら日曜日も関係無い生活です。南カリフォルニアは気温が30℃にもなり乾燥がひどく、たっぷりと庭の花々に水をやり、ちょっと遅いブランチを小鳥のさえずりを聴きながら、庭のパティオで主人と二人きりで頂きました。庭いじりの大好きな人のことを英語でグリーンサム ( green thumb グリーンサムと言い、親指が緑色になるくらいに植物をいじっている人、園芸栽培の才能が有る人などの意味)と言います。コロナウィルスの脅威が迫ろうが、庭の花々は時が来ると正確に誠実に咲いてくれます。

 今年も裏庭の壁を覆うスタージャスミンの開花と同じくして、クジャクサボテンも豪勢に咲きました。初めてこの花の開花を見た時には、その情熱的なショッキングピンクに驚いたものです。三日間ほど咲いて楽しませてくれるクジャクサボテンですが、まだまだツボミを沢山持っているので、次からつぎと開花してくれるでしょう。月下美人にも葉の形状や花の形は同じで、見分けが付きにくいですが、クジャクサボテンはサボテンと名が付くだけあって、僅かに葉に小さなトゲを持っています。月下美人の花は一夜の命ですが、このクジャクサボテンは昼に咲き、3日ほど花を保ちますが、後ろの方にも沢山一斉に咲いています。
 漢字では「孔雀仙人掌」と書き、大輪の花が咲いたさまが羽を広げたクジャクの姿のように大輪の花を咲かせます。6年ほど前に友人の家の鉢植えから、5センチほどのサボテンの葉肉をちゃっかり爪でつまんで貰ってきて挿し木し、これをグリーンサムと言うのでしょう、今では堂々と1メートルほどに伸びました。月下美人と同じ仲間で、葉肉も月下美人に形は似ていますがサボテンと名がつき砂漠の植物のようですが、このサボテンは森林性サボテンで、メキシコやアルゼンチンが原産地の亜熱帯雨林が生育地とのこと、とても水の好きな植物です。多分、湿度の多い沖縄あたりでも繁殖していると思います。花の色は他に、白、オレンジなどがある様です。梅も収穫の時を迎えていますので、梅干し作りの体制を整えます。

  斎藤 陽子(Walnut, California)5-3日本時間 いつの間にか今年も5月を迎えていますが、カリフォルニアでは罰則も伴う外出禁止令が出て、自宅待機も46日となりました。忍耐強いと自負している私でも、いささか限界に来ていますが、今までは自宅待機に協力的で素直に従っていたアメリカ人も、最近は不満分子が限界を訴え、自己主張を言い出す騒ぎも、ちらほらと報道されています。本来人間の持つ忍耐心の時間的な限界量というのは心理学の専門家が分析して、人間の自宅待機時間の限界量をはじき出していると思いますが、時間的なものに付随して、生活している上でそれぞれの経済的事情から来る、精神的な不安度も加算されますから、杓子定規的に人間の限界粋は特定できないものでしょう。
 GWのお休み真っ只中、安倍政権は緊急事態宣言を延ばしたようですが、日本の皆さんもこれからも忍耐の日々が続くと思いますが、皆さんもこの緊急事態を耐えて頑張ってください。こちらカリフォルニアも、すっかり30℃を越す夏日になりましたが、日本ではテイクアウトお弁当がこの非常事態の時、流行っているようですが、そろそろ夏を迎え湿度の高い暑くなるこれからは食中毒の季節になりますが、テイクアウトの食中毒などには重々お気を付け下さい。
 【思い出のアルバム】米国ハワイ州のホノルル国際空港は2017年5月1日、2012年に死去したハワイ日系上院議員の名にちなみ「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に改名されたと米メディアが報じています。2012年6月1日UCLAテラサキ・センターでの会合に、当時NHKに席を置きUCLAへ留学前に我が家に逗留中だった、NHKキャスターの堀 潤 Jun Hori さんと出席した会合で、お会いしたハワイ選出の上院議員ダニエル・イノウエ氏にお会いした時の写真です。イノウエ氏は第二次世界大戦にハワイから米国軍隊に志願し、日系二世部隊、第442連帯戦闘団に配属され、ヨーロッパ戦線のイタリーで戦い右腕を失い名誉除隊し、陸軍大尉となります。後に弁護士となり1963年ハワイより初のアメリカ日系議員となり、ワーターゲイト事件、イラン・コントラ事件などの上院特別調査委員長などを努め、50年にわたり上院議員に在任し、上院議員を9期務められ88歳の現役の上院議員の重鎮でした。

 写真はお亡くなりになる半年前の 2012年6月1日にUCLAでお会いした時、「ダニエル・イノウエ上院を尊敬して、次男の息子に同じお名前の Daniel ダニエル 名を頂きました」と話している私です。2012年12月17日にお亡くなりになり、今となっては貴重な写真となりました。この時 日系二世のイノウエ氏は日本語が出来るのかとの、確認をすれば良かったと、今になって後悔しております。日系社会のためには、戦時日系補償法の制定などに尽くして下さったことに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。なお、葬儀の日には上院議院議長でもあったダニエル・イノウエ氏の遺体棺は、アジア系では初めてアメリカ合衆国議会議事堂中央広間に安置されましたが、これは過去に数名しかいない、連邦政府の名誉ある扱いだと言われています。

  「くろねこの短語」2020年5月3日ー(前略)およそ、この国の政治家ほど、自国の憲法を蔑ろにし、罵詈雑言を浴びせる政治家は世界のどこを探してもいないのではなかろうか。ペテン総理の「みっともない憲法」発言がその最たるものなんだが、コロナ対策で無能ぶりを発揮する厚労大臣、マルチ商法の広告塔・加藤君も「国家は、国民があれば成り立つ訳でない。国家を支え、守る国民がいて初めて成り立つ」てなことを改憲派の集会でのたまってるんだね。
 「憲法とは国民の権利・自由を守るため国を縛るもの」という立憲主義の原点を、こやつらはまったく理解できていない。そんな輩に、そもそも憲法を語る資格なんてありません。「時代に合った憲法に変えていく」ってのも改憲志向の政治屋がよく口にするんだが、「憲法くん」のコメディアン・松元ヒロの鋭いカウンターパンチを食らってみやがれ。「憲法に合わなかったら、政府を変える!」 改めて主権者としての自覚に思いをはせる、憲法記念日の朝である。



 〇日本でコロナを出来るだけ早く終息させた方がいい理由は「日本は災害の多い国だから」なんですよ もし夏に大型台風が来たら?南海トラフみたいな大地震がおきたら?避難所生活せざるを得なくなったらそれこそ地獄。だからこそ今こそお互いを守る行動をしましょうよ!
 〇スペイン風邪(1918年)は日本でも多大な被害をもたらしました そして1923年に関東大震災ですからね おまけに世界大恐慌(1930年)と

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 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


 2020年06月01日 ショウセン-五反田駅 10数年前、勤め人時代のこと。営業で外回りの先輩から電話があり、五反田駅で待ち合わせすることになった。” 急遽、取引先と打ち合わせになったので、お前も出て来ないか” とのこと。五反田駅は地下鉄や私鉄の乗り入れもあり、”どの五反田駅へ行けばいいか?” と問うと” では ショウセンの五反田駅で待っている” との答えあり。 ””ん・・? ショウセン?”一瞬、??と思ったが先輩は私より二つ三つ年上、 そこで・・おっ、そうか。ショウセン(省線)のことね・・と合点したが、ショウセンなどという言葉をいまだに使う人がいるのかと驚いた。“先輩、まだ頭の中ショウセンが生きているのですか?” 電話の向こうで“ショウセンて今はなんて言うんだったかな、国電? 国鉄? ん・・E電かい?” というのでそこでまた吹き出してしまった。JRは思い浮かばなかったらしい。E電とはまたシブい。1987年日本国有鉄道民営化に伴い、「国電」に代わるものとして、決めた愛称だが一般には定着しなかった。国電/国鉄の前は「省線電車」(しょうせんでんしゃ)、略称-ショウセンと呼ばれていた。当時、国鉄という名称から抜け出せない人も多かったが、先輩の場合はさらにその前の呼び名を使っていたことになる。

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜旧東海道 かわさき宿 (2) 2020-5-1」
 さて”川崎宿”に戻るが地図に見えるように川崎宿には田中本陣と佐藤本陣跡が示されている。佐藤本陣は別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物だった。幕末には十四代将軍家茂が京に上る際に宿泊したという。確認できる記録は手元にないが江戸上りの一行が田中本陣、佐藤本陣に宿泊した可能性は高い。1890(明治23)年、旧佐藤本陣の後裔(こうえい)で詩人・佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。今でも多くの人に親しまれている「六甲おろし」「人生劇場」などの作詞家だ。惣之助は大正11年(1922)、31歳の頃、旅先の沖縄で琉歌に出会い、『琉球諸島風物詩集』を書いた。沖縄の風土、言葉や音楽など「沖縄のすべてが詩だ!」と語ったというほど沖縄にほれ込んだ。日本橋から西に向かって約17km、最初の宿泊地としては距離が短すぎるが、将軍家茂が京に上る際に宿泊したというから大行列ともなればその程度の余裕の旅だろうか。かわさき宿誕生400年の暁にはぜひともこの川崎の地で権力中枢に媚びない琉球王朝絵巻の大行列を見てみたい。
 
かわさき宿交流館/夕映えーかわさき宿 六郷橋/朝焼けーかわさき宿 六郷橋

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜旧東海道 かわさき宿 (1) 2020-4-29」
 旧東海道-かわさき宿が元和九年(1623)に誕生してから2023年で400年を迎える。川崎宿は、東海道五十三次の2番目の宿場である。武蔵国橘樹郡川崎領(現在の川崎市川崎区)に置かれた。最初の諸駅設定時に川崎宿はなかった。神奈川・品川両宿の伝馬継立の距離が長く伝馬百姓の負担軽減を目的として、その中間に位置する川崎に新駅を設置された。日本橋から約17.7km、品川宿からは約9.8km、神奈川宿へも約9.8kmの位置にある。




→「中原中也ジオラマDVD ダダさん You Tube URL」
 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜『中原中也-DVD作品ラフ・ミックス版プレビュー 2020-3-18』」
 ジオラマ/映像クリエーターの石井彰英氏が大正〜昭和にかけて活躍した詩人-"中原中也"の生涯を追ったDVD作品(映像/朗読/ナレーション/BGM)がほぼ完成に至り、制作参加メンバーの数人でひとまずの完成品プレビューに同席した。DVD映像は製作者の石井氏-手作りのジオラマをベースに撮られている。DVDリリース:2020年4月末。先々月から微力ながら私にとって未体験ゾーンである詩の朗読のお手伝いをさせていただいた。
 
  12月に中也が住んだとされる鎌倉-扇ガ谷・寿福寺周辺を歩いた際の記事をアップした。中也は鎌倉に住み始めてほどない1937年に、結核性脳膜炎を発症し、鎌倉養生院(現、清川病院)で亡くなった。先だって、本ジオラマDVD作品にも登場する中也・終焉の地である周辺を往時に思いを馳せて歩いた。清川病院は鎌倉駅から八幡宮に向かう若宮大路の東側の参道沿いにある。小林秀雄が最晩年に住んだ雪ノ下も清川病院の裏手にあり、歩いて5-6分のところだ。鞍馬天狗でお馴染の作家・大佛次郎が書斎や文士仲間の交流の場などに使った旧茶亭(築:1919年頃)も近い。ちなみに鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に大佛の墓所がある。

 中原中也と鎌倉 2019-12-09 中原 中也(1907年- 1937年); 現在の山口市湯田温泉の中原医院で生まれた。30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。中也が晩年、鎌倉に住んだことはよく知られる。JR横須賀線「寿福寺踏切」からすぐ近くの寿福寺敷地内(鎌倉市扇ヶ谷)に中也、晩年の住居があった。鎌倉駅西口(江ノ電側)を出て線路伝いに北鎌倉に向かって10数分歩いた左手に寿福寺がある。すぐ先, 右手に寿福寺踏み切りがあり、そのまま進めば海蔵寺だ。線路を渡ったあたりの地名も扇ケ谷だが、小林秀雄や大岡昇平らの住まいがあったという。調べてみるとどうやら小林の住まいは亀ヶ谷坂切通しへ向かう道の途中で、扇ケ谷3丁目7番というのが現在の地番らしい。切通しを抜けると長寿寺だ。長男を亡くし、不安定な精神状態に陥った中也は、小林秀雄など友人の協力を頼りに鎌倉の地に居を移した。寿福寺敷地内にあった住まいから小林宅まで、「在りし日の歌」1938年(昭和13),創元社刊の清書原稿を抱えて、中也がこの道を辿ったという。


 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜『“汚れっちまった悲しみに” 中原中也と川崎-大島界隈』  2020-1-30
 (前略)檀一雄が書いた中原中也(川崎行)という一文がある。たぶんに脚色がありそうだが実名で登場することから創作であってもおおかたは事実に基づいていると思われる。この中で壇が中原を伴って銀座から川崎の下町にある花街まで繰り出しその際に中也とひと悶着となり、果てに雪道に引きずり倒された中也が”汚れっちまった悲しみに”を低吟する場面が描写されている。その下町というのが我が隣町の川崎市-大島とはこれまた想定外でびっくり。昭和初年頃、すでに川崎市南部は工業地帯に変貌して内外各地からも労働者が集まるようになり料理屋・待合茶屋・芸者屋(置屋)が軒を連ねる「三業地」の様相を呈していたと思われる。
 以下、檀一雄が記した中原中也(川崎行);中原は太宰の消燈した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。「何だおめえもか」と、中原はその手を振りもごうとするようだったが、私は、そのまま雪の道に引き摺りおろした。「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。「わかったよ。おめえは強え」中原は雪を払いながら、恨めしそうに、そう云った。それから車を拾って、銀座に出た。銀座からまた、川崎大島に飛ばした事を覚えている。雪の夜の娼家で、三円を二円に値切り、二円をさらに一円五十銭に値切って、宿泊した。明け方、女が、「よんべ、ガス管の口を開いて、一緒に殺してやるつもりだったんだけれど、ねえ」そう云って口を歪めたことを覚えている。中原は一円五十銭を支払う段になって、また一円に値切り、明けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、汚れちまった悲しみに今日も小雪の降りかかると、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払ってもらったのではなかったろうか。文壇では中原中也の喧嘩っ早いことは有名で酔えば誰彼、見境なく喧嘩を売るような暴れん坊だったようだ。とはいえ小柄な体が災いして連戦連敗だったという逸話が切なくも可笑しい。
 以下、坂口安吾の手記; 中原中也はこの娘にいさゝかオボシメシを持つてゐた。そのときまで、私は中也を全然知らなかつたのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによつて大いに私を咒つてをり、ある日、私が友達と飲んでゐると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかゝつた。とびかゝつたとはいふものの、実は二三米メートル離れてをり、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スヰング、フック、息をきらして影に向つて乱闘してゐる。中也はたぶん本当に私と渡り合つてゐるつもりでゐたのだらう。私がゲラ/\笑ひだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめてゐる。こつちへ来て、一緒に飲まないか、とさそふと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になつた。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くやうになつたが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れてゐたのではなく、私と友達になりたがつてゐたのであり、娘に惚れて私を憎んでゐるやうな形になりたがつてゐたゞけの話であらうと思ふ。
 -汚れっちまった悲しみに- 中也は昭和初期、重工業都市へと変貌を遂げてゆく町・川崎の地に遊んだ。大島界隈には鋼管通り、ゴム通り、セメント通りといった何とも無味乾燥な名を持つ一帯があるが、近辺は嘗て洗濯物を外に干すと工場の吐き出すばい煙で黒く変色してしまうほどだった。 この一文の中で中也が低吟したという”汚れっちまった悲しみに”という印象的なフレーズも往時の油煙にまみれた川崎にこそ相応しいと思えてくる。

鶴見区の南東部、第一京浜国道から南に産業道路方面へ伸びるゴム通り

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