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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

写真ー2012年9月11日ー左から写真史研究所の仲嶺絵里奈さん、山田實氏、東京都写真美術館の金子隆一氏①


2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん

①金子 隆一(かねこ りゅういち )は、1948年生まれ。写真評論家、写真史家、写真集コレクター。本業は僧侶。立正大学文学部卒業。元東京都写真美術館学芸員。武蔵野美術大学非常勤講師。日本写真史、特に日本の芸術写真(ピクトリアリスム)を専門とし、東京都写真美術館の企画展はもちろん、国内の様々な写真展を企画している。主な著書として、写真集を写真撮影してアーカイブした『日本写真集史1956-1986』(2009年、赤々舎)など。芸術写真に限らず、写真史のその他の分野にかかわる著作も多い。1985年のつくば写真美術館'85の企画にも参加。→Wikipedia

2015年5月21日ー山田實さん宅に遊びに行くと下記の写真があった。

1972年 沖縄三越カメラコーナーで山田實さん


写真前列左からー金城棟永、不詳、屋良勝彦、山田實、津野力男、安里盛昭、金城幸彦、平井順光
後列左からー大城弘明、坂井一夫、高野生優、東邦定、小橋川哲、上地安隆、大嶺信雄、不詳、大城新吉

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2022年5月19日 ギャラリー・サハスラーラ「東邦定写真展」左から東邦定氏、屋良朝信氏、新城栄徳
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2016年3月25日 沖縄県立博物館・美術館「那覇市文化協会 第24回 あけもどろ総合文化祭 琉球王朝禮楽・空手文化」
~王朝禮楽部会演奏 山内盛彬 生誕126年~

王府おもろ 安仁屋眞昭□「おもろさうし」は琉球王府で編纂された古歌謡集である。内容は、開闢神話から琉球王朝の祭政一致時代の祝詞をはじめ、天体讃歌、英雄賛歌、歴史的事象、航海安全の祈り等を含む叙事詩である。殆どの「おもろ」に節名が付いていて、かっては、メロディを持ち謡われていた。大和の万葉集も謡われていた歌もあったといわれているが、編纂の時にはメロディの記載はなく(曲の記録方法が確立していなかったのであろう)歌詞だけの記録集になった。「おもろさうし」メロディもほとんど伝わっていないが、王朝の儀式・祭礼「おもろ」のうち、五曲が伝承されているだけである。王府に「神歌主取」(オモロ ヌシドゥイ)という役職を置き、「おもろさうし」の管理と儀式・祭礼の時、「オモロ」を謡う任務とした。安仁屋家が代々世襲で「神歌主取」を務め、明治の初め琉球王朝廃朝の時まで続いた。初代は1616年生まれの安仁屋親雲上で最後の「おもろ主取」は1837年生まれの安仁屋眞刈(~1916年)である。「王府おもろ」として伝承されている五曲の「オモロ」は、大正元年に安仁屋眞刈から山内盛彬(1890年~1986年)に伝授され、1978年に山内翁から私・安仁屋眞昭(安仁屋眞刈は曾祖父)に伝授されて以来「おもろ」紹介に努めているところである。


首里クェーナ

山内盛彬 作曲「ひやみかち節」「屋嘉節」琴演奏と歌 山内貴祐


安仁屋眞昭・琉球王朝禮楽部会長(右)、新城栄徳
2016年3月 山口栄鉄『英人バジル・ホールと大琉球』不二出版□まだ舞台の上にいる私(山口栄鉄)の前に、旧琉球王朝時代の正装、真っ白いあごひげ姿の安仁屋眞昭さんが現れました。私の親友で、琉球国の聖典おもろさうしの伝承者第15代目の安仁屋さんの出現に一瞬驚き、また感涙を抑えんと懸命の私に、安仁屋タンメーは、講演会出席の皆さんに、おもろの正式唱法を紹介したいと申し出たのです。(略)私がおもろさうしの発見者がほかでもない、キャプテン・ホールのお孫さんのバジル・ホール・チェンバレンだとの説明に納得したようでした。(とまりんフェスタ 2012年9月)


空手文化部会空手演武小論文

開式のあいさつをする與儀清春・空手文化部会長

本部御殿手/上地流


劉衛流 / 剛柔流


小林流

小林流、剛柔流、劉衛流、上地流、本部御殿手
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1983年 雑誌『青い海』№119~126 名嘉睦稔「表紙」


1983年12月 雑誌『青い海』№119 「対談・沖縄の未来を語ろう/名嘉睦稔×金城明一『今、自分達で表現する』」


沖縄・北谷 ボクネン美術館
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1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 田名真之「歴史にみる中国と沖縄」


2017年11月 沖縄県立博物館・美術館『海の沖縄ー開かれた海への挑戦ー』田名真之「沖縄にとっての海」


2016年4月5日 沖縄県立博物館・美術館館長室ー田名真之氏


2014年9月11日ー田名真之氏

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2013年5月18日 博物館文化講座「首里王府の史書編纂事業『中山世譜』から『球陽』まで」



2008年3月 田名真之『クニンダ人物志1 蔡氏』久米崇聖会〇蔡譲は国書を抱いて海に浮かび万死一生を得た。そこへどこからともなく大きな亀が現れ蔡譲を背中に乗せて泳ぎだした。さらに2匹の鮫が左右に寄り添うように付き従った。どこへ向かっているのか見当もつかないまま丸2日間が過ぎた時、漸く岸に着いた。上陸してみるとそこは何と南京の地であった。蔡譲は亀と鮫に対して、あなた方は私を助けてくれた。その恩に報いる術はないが、もし無事帰国できたら私の子孫に今後永久にあなた方の肉を食べてはいけないと教えましょう。といった。亀と鮫はしっぽ振りながら泳ぎ去った。
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田名真之の本

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那覇市歴史博物館2021-11-19 外間政明氏、田名真之氏、小野まさ子さん

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1972年ー石野朝季『沖縄と南西の島々』山と渓谷社
1977年『青い海』5月号 「女人登場ー石野桂子さん」
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写真上ー石野宅で新城栄徳、石野朝季氏
写真中ー石野朝季氏、とかしきただお氏、仲宗根将二氏(新城栄徳撮影)
写真下ー石野朝季氏、鎮西 直秀氏( 画家)

写真左が石野朝季氏、桑原守也さん

写真左から知念良秀氏、石野朝季氏、新城栄徳

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2016年3月23日 沖縄県立博物館・美術館ミニ企画展「沖縄の昔話・伝え話ー沖縄伝承話資料展ー」

安里進沖縄県立博物館・美術館館長(右)に「民話テープ」を手渡す沖縄伝承話センター理事長の照屋寛信氏


寄贈の挨拶を述べる照屋寛信氏


民話資料


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1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。


さらに私は詫遊の遊と云うのに舞踊の意味のあることを考えさせられるのである。琉球語の「あそび」と云うことは、唄をうたい、舞うことを意味することは誰もよく知っているとおりである。「あやぐ」を交遊と書くのも村芝居をあそびと云うのも、その意味を現したものの一つである。琉歌に 遊びかとまうきやる踊りがどもうきやる歌もうたえらで遊でたぼれ とある遊びはすなわちこの遊びである。 春や花ごとに色まさりまさりでかけやうおしつれて眺め遊ば の遊びは遊賞の意で、それと前者とは違うのであるが、 とりの伊平屋島や浮やがて見ゆる遊で浮やがる我玉黄金 の遊びはたしかに舞踊でなければ意味をなさぬ。琉球語の遊びと云う言葉は二様の意味があり、舞踊の意味が本源的のものであろうと思う。


(略)
今日の演劇舞踊の起源は神前にて足ふみととろかし神懸りして舞う神舞であることは、各民族に共通するものであるからだ。歌舞伎の元祖といわるる出雲の阿国ももとは巫女であったと云うのである。巫女から歌舞伎の生まれたのは卵から鶏の生まれたそれに近いものではなかろうか。しかして神事と舞踊との関係が最も著しく現れているものは琉球のものであるから日本の古代を研究するにも、琉球□他のものが参考になると同じくまたその舞踊も大切な研究資料ではあるまいかと思うのである。

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玉城朋彦の本
玉城朝彦『沖縄放送研究序説ーテレビ報道の現場から』出版舎Mugen
本書の第1章の沖縄放送断面史に「平和通りの奥でなるみ堂という骨董店をオープンした翁長良明さんは県内屈指のコレクターだ。テレビの『なんでも鑑定団』にも登場したから、すでにご存知の方も多いことだろうが、彼の収集の中心の陶器や書画と並んで、大きなジャンルは県内の『紙』である。たとえば1955年発行の『RBC社報』や新聞、辞令書、『入社試験問題』等の普段は見捨てられてしまうような『紙』も集めている。私もRBC在職中に社報編集委員をしていたが、昭和三十年の社内報など保管されてもいなかった。社内報が社外にあるのも面白い。でもこのような個人の収集に頼らざるを得ないのが、沖縄の放送史と放送資料の現状の一端なのだ」とある。」

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玉城朝彦の著書

□なるみ堂・〒900-0013那覇市牧志3-2-40 電話098-987-5530
最近、翁長良明コレクションの絵葉書をパネル(横40cm縦28cm)にして千円で販売。戦前の沖縄風景、電車が走る那覇市場通り、崇元寺や宮古の博愛記念60周年の絵葉書、豚(アグー)、琉球美人などの絵葉書がある。戦前のこの風景をパネルにしてほしいとリクエストするとそれがパネルになる可能性も十分ある。

玉城朝彦『沖縄放送研究序説ーテレビ報道の現場から』出版舎Mugenー佐野眞一氏の誰にも書かれたくなかった沖縄戦後史を見て思うのが本書の「沖縄の薔薇族ー心やさしきホモの世界を訪ねて」である。これは『青い海』№122(1983年5月号)に平良弘のペンネームで書かれたもの。ついでに『青い海』同号の特集<ここまできたおきなわの性風俗>で、ピンクサロンや大人のおもちゃ、ポルノショップ、ストリップ劇場などがカラー写真で紹介されている。また「社会時評」を書いている伊江秀雅は琉球新報記者のペンネームである□→「月刊薔薇族HP」/薔薇族は、日本初の男性同性愛者向け雑誌(ゲイ雑誌)『薔薇族』から来ている。伊藤文學率いる第二書房より1971年7月に創刊された。(孫<ひより>を抱っこしながら記す)


自宅の玉城朋彦氏


2013年2月5日ー玉城朋彦氏

2016年2月26日『沖縄タイムス』嘉数啓「玉城朋彦君を悼むーキレある名キャスター」

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石川寅治
洋画家。高知県生。小山正太郎の不同舎に学び、太平洋画会を起こす。のちに示現会を創立。初期は婦人像を描いたがのちに風景画へ移行し、印象派風の明るい画風を示した。美術教育にも功績がある。日展参事。帝展・新文展審査員。日本芸術院賞恩賜賞受賞。昭和39年(1964)歿、89才。 →コトバンク

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2024-2-12 『琉球新報』広告「BOOKSじのん」

1912年2月」16日『琉球新報』


石川寅治「大島の豚小屋」


石川寅治「琉球の龍舌蘭」


石川寅治「首里の士族町」

1912年3月『みづゑ』86号 石川寅治「沖縄土産」□図書館があって館長は沖縄県人の文学士伊波普猷と云ふ方です、山口瑞雨氏は沖縄に15年以上も住まわれ館長と共に美術の事を非常に奨励され美術の書類は鹿児島の図書館よりも、遥かに多くスッヂオ始め様々の美術雑誌が供えて有りました。

1913年8月 『美術新報』石川寅治「琉球の風景と人物」


2016年3月20日『沖縄タイムス』「100年前 石川寅治が描いた『琉球風景』、漁民が神事を行った龍宮神などが描かれている。」
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1924年
6月13日ー土方与志、小山内薫「築地小劇場」開設

7月『マヴォ』第1号(表紙・山里永吉作品)
<1925年
秋ー仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)、伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

□1930年9月ー『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」、10月『フォトタイムス』「写檀人ニックネーム一覧表 ????宮城昇(東京)インチョウ」、12月『フォトタイムス』伊達良雄「東京写真学士会第1回展覧会に就いてー宮城氏の作品六点は何れも旧作であるが、一貫した感覚が漂って居り、殊に少女や少年を撮ったものには深い愛が感じられた。」、1931年1月『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」「或る写真価値」、2月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(5)ースケッチに就いて」、3月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(6)」、4月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(7)ー風景に就いて」、5月ー????宮城昇「肖像写真価値の一つ」、9月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(9)ー静物に就いて」


写真上ー1933年1月ー嵐山事件とオイル事件の闘士たち(国吉宅で)、右から宮城清一、大城永繁、上地一史(戦後・沖縄タイムス社長)、平良良松(戦後・那覇市長)ー国吉真哲撮影/写真下ー国吉真哲、マリ子夫妻(自宅で)、写真は何れもバックに築地小劇場のポスターが写っている。

1937年5月ー仲吉朝興『観光沖縄案内』向春商会印刷部□太田潮東郷土協会長「序」
1939年4月ー柳宗悦ら民芸一行(????宮城昇が写真撮影で参加)



写真ー1939年4月17日、久米島にて後列左から柳悦孝、河井寛次郎、柳宗悦、芹沢銈介、喜久山添采、喜久里教宣(具志川村村長)、濱田庄司
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嘉数能愛


????宮城昇は南島美術協会展に出品する作品を撮ったりして若い美術家たちを応援した。

1939年10月『工藝』百号「琉球の風物ー追記・撮影に努力された????宮城昇氏にも厚く御禮を述べたく思います。」

1940年1月1日『琉球新報』国威宣揚之新春ー皇紀二千六百年広告「昇スタヂオー上ノ蔵大通り 電話395番」

2011年2月ー◇東京の奥間政作氏から????宮城昇の文章が掲載されている『フォトタイムス』が送られてきた。1929年9月号ー宮城昇「時代は移る」、田村榮「新らしく進む路(6)」には親友の宮城昇君が出てくる。11月号ー宮城昇「人物とバックの関係」には昇の作品(花柳はるみ、松本旭一光)も掲載されている。12月号ー「人物とバック」の2回目、昇作品(支那服を着た花柳はるみ、寛子さん)、1930年6月号ー「ベストカメラ禮讃」これにも花柳はるみがモデルの昇作品が載っている。1931年1月号ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(4)」「或る写真価値」が載っている。1931年5月号ー宮城昇「肖像写真価値の一つ」、10月号ー田村榮「近況を語る」に昇が故郷で写真館を開業のため上京されていると、紹介されている。また1936年6月発行の『東京写真専門学校一覧』も送られた。

2011年4月12日『琉球新報』□東京空襲で亡くなった那覇市出身の写真家、????宮城(ぐしみやぎ)昇氏(1906~45年)の作品が、没後から66年、新たに3点見つかった。那覇市に住む男性から琉球新報に持ち込まれた写真を那覇市歴史博物館に照会したところ、写真に????宮城氏の写真館「昇スタヂオ」の刻印があることなどから、同氏の撮影した写真であることが分かった。写真には、1939年に沖縄を訪れた日本民芸協会一行の調査などが収められている。同博物館は「????宮城が日本民芸協会の調査を撮影したことを再確認できるいい資料だ」と評価している。????宮城氏は東京写真専門学校(現東京工芸大学)を卒業し、31年に那覇市上之蔵に昇スタヂオを開業した。肖像写真を中心に撮影しながら、戦前に行われた那覇大綱挽など県内の歴史的な行事をフィルムに収めてきた。2010年夏ごろに建築物の廃材の中から同写真を発見した解体業の知人から託された浦崎直恒さん(58)=那覇市=が「昔の沖縄を写した貴重な写真かもしれない」と写真15点を琉球新報に持ち込んだ。

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島袋百恵 画「末吉麦門冬」

 麦門冬・末吉安恭は1886年5月に首里儀保で生まれた。沖縄師範附属小学校を卒業後の1902年上京した。杉浦重剛の日本中学や、神田の英語学校に通いながら演説会に行ったり、図書館で好きな本を読んで抜書きしたりして新しい知識を貪欲に求めた。1904年に一時帰郷し、名護真松と結婚。1905年再上京、弟の安持と同居。1906年、長男・安慶が生まれると帰郷。
 麦門冬(龍の鬚・ヤブラン藪蘭)とは俳号のことで、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と色々と使い分けていた。麦門冬も身内(先祖)の毛鳳儀を1919年の『沖縄朝日新聞』に「王舅・池城毛公」として長期連載している。
 末吉麦門冬家は毛氏池城一門で、その始祖は新城親方安基、俗に<大新城>といい、トーナーは毛龍○<口+全>である。一門は八重山でも繁盛していて1928年9月の『先島朝日新聞』には「八重山毛氏一門の美挙 当地毛姓には本年大祖大新城親方の三百五十年忌に相当するを以って門族相図り記念運動場南の墓地に大祖の記念碑を建設し去る2日盛大に其の三百五十年祭を挙行せり」として毛姓・池城安伸の祭文まで記されている。

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いつ降りるの?いまでしょ!一即一切・一切即一○分かりやすい例としてー個人は父母2人、さらに父母併せて4人の親が居る。10代前にさかのぼると2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=1024人となる。/三千大世界=須弥山世界は小世界と云う。小世界が千集まれば小千世界。小千世界が千集まれば中千世界。中千世界が千集まれば大千世界。これらを総称して三千大世界という。

おのおのがかけがいのない個になればなるほど、互いに関係しあい、豊かな世界が成立する(竹村牧男)
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かまくら‐の‐だいぶつ 【鎌倉の大仏】
神奈川県鎌倉市高徳院にある、高さ3丈5尺(約11.39メートル)の阿弥陀如来の銅の鋳像。建長4年(1252)造立。室町期に仏殿が倒壊し、今日まで露座のままである。長谷の大仏。ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。→コトバンク

1916年1月22日『琉球新報』「山田画伯と語る」
○昨日朝日の寂泡、民報の尚球両君と共に山田画伯を其の寄寓せる徳田氏宅に訪ねた。山田氏は一見美術家らしい容貌を具え或る理想に憧れたような瞳を動かしつつ慇懃に語られるよう▲赤い瓦と常盤木が当地へ参った第1の印象です。上京してから支那に行く途中一度はチト寄った事がありますが七年前の事ではあるし今度始めてのような感じします、気候は随分変わりますがそれとて又冬装束も出来ますし、外套も着られます識名へ参りますと蛍が居ました、-年中育ち居ると見えます、マァ▲五月でも咲きそうな気候ですね。材料ですか実に豊富ですな私は彫刻と絵と両方やる積りです始めは彫刻の方から入りました、帝劇の鳩ですか、はい私がやったのです私は従来の日本の彫刻を甚だ貧弱に考えまして殊に洋館には不調和なることを感じましたので▲募集が有りましたから応じましたら私がやることになりました、鳩が五十羽孔雀が二羽それに花が溢れる所を彫刻したのであります。絵の方も始めは想像的でありましたが、今は進んで来て古墳を研究し西・や希臘等を参酌して描く事になって居ます例えば▲神武天皇を描きにしても今迄の神武天皇でなく希臘の古武士に見るようなものです。(略)岡倉覚三氏は沖縄は平安朝時代の▲絵巻物を見る心地がすると申して居ります、小学校の時琉球人と云うので随分恥も掻きましたが芸術家に着目されてからは歴史に於いて沖縄人たる事を誇りにして居ります。


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1953年 左から金城安太郎、山田眞山、柳光観
1954年1月 米国民政府情報教育部『新沖縄』「琉球の山田(真山)画伯ー山田眞山氏は沖縄が生んだ最も卓越した画家の一人である。画風は古典派で古琉球とその優秀なる文化を主材にしている。彼の偉大なる技能は永い間国際的名声を博し、特に彼の作品である明治神宮の壁画”琉球藩設置”は画界に於ける呼物となっている。・・・・・彼は沖縄の首里に生まれ、その後幼年期は八重山で育ち、後に日本で教を受けた。」
1959年2月 『今日の琉球』山田真山「表紙・樹木」

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1962      三重県立博物館「沖縄文化展」沖縄展後援組織委員会 鎌倉芳太郎、東恩納寛惇・・        
           4月ー三重県立博物館で「沖縄文化展」(沖縄民謡観賞会、空手演武)



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1994年9月 三重県立美術館『年報』/1991年3月 三重県立美術館『研究論集』第3号

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2016年3月12日ー屋部夢覚さん(那覇市文化協会書道部会長)、作品


1750年代ー東風平親方朝衛「上下の綾門関の戸もささぬ治まとる御代のしるしさらめ」

前出の琉歌を書家の屋部憲次郎氏に書いてもらったもの


2018年8月4日 屋部宅にて屋部憲次郎氏
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1920年5月ー『沖縄時事新報』莫夢生「平敷屋朝敏の事共」
序言
同人上間草秋君の新作「或る恋歌」は本紙に連載されて好評を博したが、今度若葉団で上場することとなり、目下評判になりつつある。私も初日と二日と二回続けて見たが、平生と違い俳優一同車輪になって働いているので、観客も緊張しているようであった。その劇評は同人の紅華君が遣ったから屋上屋を架することは罷めて、私は上間君と兼々約束もあいてあったし、茲に主人公平敷屋朝敏の事を一寸書いて見よう。平敷屋朝敏の伝記は真境名安興君が先年物されたのがあって彼の事蹟に就いては殆ど尽されているようであったから、私はそれに洩れた逸話並びに彼に関する断片的事実を集めることにする。大田先輩が本紙に連載された「与勝半島」の中にも、私は一寸筆を執って与勝半島に関係した彼のことを書いたから、それも重複を避けることにした。
朝敏の幼時
平敷屋朝敏の父は向文徳禰覇親雲上朝文と云い、母は湛氏とある。父朝文には室馬氏幸地親方良象の女真加戸樽と云うのがあるから、馬氏は前妻で、朝敏の母湛氏は後妻であったのであろう。父朝文は我が宝永三年四月十三日、に不幸享年二十九で没したのであるから享保十九年十一月二十三日生まれの彼が数え年僅かに七歳にして父に別れたこととなる。彼は姉の真加戸樽と妹の思乙金、弟の禰覇の三人の同胞があった。父を失った兄弟姉妹は母の手一つに育てられたのであるから、家計は裕ではなかったことと想像さるる。裕福な家に育たなかった彼が人一倍苦学力行したことも又窺い知られるのである。
國の字の点  少年時の師  龍洞寺心海
心海の神通力(一)  心海の神通力(二)  秘密の古墳  
朝敏の頓智  酒と恋愛  此歌の別説  「或る恋歌」
美貌と香臭
平敷屋の美貌は人口に膾炙することであるが又彼には躰に一種の香臭があったとのことである。これ□□小姓時代のことだそうだが、同僚の者が何時も不思議に感ずるのは朝敏が座に就くと何とも云えぬ香ばしい匂いが漂うことであった。いづれもこれを不審なりとし遂に評判になった。或者はそれは彼が匂い物を身につけた為である。衣服の洒落なら兎に角男子として匂い物を身につくるなどとは余りに若気過ぎたざまであると誹り或いは面責してやろうと云う者もあったがそれよりも彼に沐浴を勧めてその性躰を慥むるに若くはないと云うことになり態々風呂を沸かして彼を招き何気なく入浴を勧めた。平敷屋も計略のあるとは夢にも知らず勧めらるるままに湯に入りやがて上がりぬれた躰を
拭く時に一同どやどやと入り来り検査を始めた。所が驚くべし馥郁たる香臭はいつもよりは甚だしく自然に彼の皮膚から醗酵する所のものだあったことが分かった。一同も漸く其の邪推なりしことを悟り實を打開けて遂に大笑いになったとのことである。これを或人は腋香の一種だと云ったがそうかも知れない。美男子美女には往々異性を誘惑する体臭があるとのことだが平敷屋も香水要らずのよい物を持っていたものだ。この話は誇張された虚談なりとしても彼が稀有の美男だったということはこれ等の話があるのでも類推さるるのである。
速筆と強記  他所目忍ぶな                    
妻女かめ                                                                                           世の伝ふる所に依ると、下の歌は平敷屋夫婦唱和の歌と云うのである。  夢に夢蔵お側並べたる枕、吹きよおぞますな恋の嵐
上の句を朝敏が詠むと、細君が下句をつけたと云うのである。さてかような歌を詠んだ、平敷屋夫人はどんな才媛であったか、今知る由もないが、其の作ったという下の句の凡手にあらざるを見ても、其の人柄が偲ばるると共に、夫婦仲の円満なりしことも思い遣らるるのである。しからば彼女は如何なる素性の人かと云うに、南山王の系統を引いた阿姓であって、父は阿天壽、知花親方守壽、母は向氏仲田親方朝重の女眞犬金と云い、彼女は名を亀と称し長女であった。元禄13年8月11日の生まれで、夫と同年であるが、月から云うと彼女が長じていた。平敷屋との間に女子一人、男子二人をもうけた。平敷屋が刑死し、其の二人の男の子も流罪に処せられ、家は破滅、憂き困難、其の為に生命を縮めたのか元文4年12月28日即ち夫に別れてから5年の後、享年40歳で彼女も没した。阿姓佐久田家の家譜には   長女亀康煕39年庚辰8月11日生嫁平敷屋、雍正12年甲寅6月26日平敷屋得罪於安謝港八付、島並系記御取揚欠所ニ付貶百姓、乾隆4年巳未12月28日死、享年40號ばい心とある。平敷屋という美男の且つ粋人の妻であるから、彼女も又才貌双絶の佳人であったに違いない。

○私の聴いたこの歌の説は以上の通りだが、故恩河朝裕氏(熱心な琉球の故実研究家であった)の随筆には下のように伝えてある。・・・
○蔡温ー其の性格を儒者一流の弁を以て粉飾するの傾きがある為め門閥を以て一種の誇りとし、自ら文化的、趣味的に於いて優秀なりとした。・・・
○護得久朝常翁の手控本に沖縄の歌人歌学者の姓名並びに生死年代があるがそれに依ると屋良親雲上宣易は順治十五年戊戍の生まれで雍正七年已酉に卒す在世七十二年とあるのである。・・・
文若と朝敏(一)  文若と朝敏(二)
蔡温弾劾落書 千松明蝋燭  東風平親方  屋良親雲上  騎馬の曲者
判官へ助言  朝敏等の判決  罪人の子等  最後の髪結ひ


 『琉歌集 琉歌百控乾柔節流 』初頁に「此の歌集ハ友人恩河朝祐君の公務を帯ひて伊平屋島に出張せし折に同島の某家所蔵の古本より寫して特に予に贈りたるものなり 仲吉朝助記(この歌集は友人の恩河朝祐君が公用にて伊平屋島に出張したときに同島の某家の所蔵の古本から写して私に贈ってくれたものである)」とあり、最終頁に「大清乾隆六十年乙卯正月十日 撰寫より書 壬子 旧六月十五日 寫之」とある。またそれに続く朱書から、大正14年3月10日に伊波普猷に贈られたことがわかる。/『琉歌疑問録』解説 明治33(1900) 1冊 16枚。玉山とは恩河朝祐のことである。琉歌や組踊集についての疑問を箇条書きで書き並べたもの。→琉球大学
 恩河朝祐(1864~1917年)
 1891年、第3回 沖縄中学校卒業
 1892年、知事・丸岡莞爾、那覇役所(長・護得久朝常)兼島尻役所勤務~1900年
 1914年10月7日『琉球新報』「恩河朝祐 宮古在勤中死去 奥平幸昌 屋部憲通 仲吉朝助」
 1914年10月8日『琉球新報』真境名安興「恩河玉山兄を憶ふ」→『真境名安興全集』第四巻
 1920年5月ー『沖縄時事新報』莫夢生「平敷屋朝敏の事共」
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1920年7月20日『沖縄時事新報』に白浪庵(末吉安恭)「龍舟」30が載っています。残念ながらこの1回分しか残っておりませんが、麦門冬の内面が垣間見えるものです。
□汪応祖は腕組みをして独語す。北谷大屋子しばし躊躇して進まず。汪応祖「今俺はたしか刀の柄に手を掛けた。それはあの両人の者を斬ってしまおうと云うのであった。それにしてはこの俺に似合しからぬ料簡ではないか。俺は血腥い戦乱を鎮め、世の中を平和にしたい而して人民の生活を文化的に向上させたい。すべての罪悪をこの社会より根絶させたい。一の理想国をこの南の島の中に実現させたい。こんなことを始終思っている身ではないか。




1915年2月 『琉球新報』末吉麦門冬「琉球饑饉史」
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○古琉球人は多神教であった「冨津加久羅神は天神なり儀来河内は海神なり君手摩神は天神なり荒神は海神なり浦巡神は天神なり與那原召亊は陰陽之神なり月公亊は天神なり河内君真神は海神なり五穀の神は五穀を護衛の神なり」と云う。これらの神が婦人二夫に接せざる者に乗り移って遊び給ふと信ぜられて五穀の神などは節々に出現して人民に福を授け給ふと云うのである。・・・
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麦門冬は真境名安興から貰った『中山世譜』の神名を引用している。
□この文章の下に「円覚寺の建築」の記事が載っている。□県議事堂建築の為め来県忠の工師氏家重次郎氏は此の程県内の古建築を見て廻ったが首里の円覚寺の建築を見て大変気に入り俄かに研究心を刺激したと見えその視たる儘を語りて曰く円覚寺の創建は四百年前のものに係るようだが建築構造すべてが足利時代の特徴を発揮し兎に角見事なものである。伽藍などに少々缼漏のあるのは火災等の為に原型を失ったのでは無いかと思う。山門の石欄等足利時代の産物たる特色を呈している。寺鐘は佛殿前の小なる者が年代古く八百年前のものらしい同寺建築すべてが今は尚家の私有であるが保存上遺憾なからしむには是非国宝にして維持費を要求せなければならぬが自分の見る所では充分国宝たるの価値を有すると思う早く其の手続きをして国宝に編入されたがよい。今のままに打棄って置くのは実に惜しいものだ云々


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冨名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真

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アバサンゴ、ひより




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新城栄徳(博物館 ふれあい体験室・渡部貴子撮影)


手元にあるアイヌ民族資料
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左が新城あけみ
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萱野茂【かやのしげる】
アイヌ文化運動家。北海道生れ。アイヌ文化の伝承・保存に努め,1972年にシシリムカ二風谷アイヌ資料館(のち二風谷アイヌ資料館)を設立し,館長(2006年退任)。(1926-2006) →コトバンク

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2016年3月4日 パレットくもじ前でーひょうごツーリズム協会などで組織する観光キャラバン一行の「はばタン」(兵庫県の魅力をPRする観光名誉大使)、新城栄徳
[ひょうごツーリズムガイド: 兵庫県観光情報サイト]
兵庫県(神戸・姫路・城崎・淡路など)の観光情報を発信しているひょうごツーリズム協会(旧兵庫県観光連盟)の公式サイトです。観光スポット・温泉・イベントの情報満載。

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裏辺研究所 日本の旅・鉄道見聞録「姫路城」


1952年9月 雑誌『おきなわ』表紙・神戸・沖縄会館
沖縄県人会兵庫県本部 住所: 〒660-0805 兵庫県尼崎市西長洲町2丁目26−12 中央ビル 電話:06-6487-0545




□「神戸」資料
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写真左から赤嶺昌樹氏、梅崎晴光氏(スポーツニッポン新聞社東京本社・専門委員)、石川和男氏

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『みどり風通信』[僕のふるさとの山は 運玉森ウンタマモリ(西原)」
 運玉森は71年前、沖縄戦で焼き尽くされました。 運玉森は(北海道の部隊が守備をしていましたが多くの人が戦死しました。 「北海道の塔」は西原町字翁長にあります。沖縄戦で首里の32軍の司令部を中心に北に向かい西のウイング(翼)がシュガーローフ(新都心)であり、東のウイング(翼)が吾が運玉森だったのです。

 20年前、山火事で戦後何度目かの火事がありました。僕が38歳の頃でした。「かわいそうにな~」 と思うならばもう一度、木を植えよう! という、 平凡、且つ非凡な考えが芽生えました。沖縄の在来の木々7~8種を植えました。5年計画で1200本の植樹を敢行しました。 西原と与那原の少年・少女達と・・・ 僕の力強い友人達・・・。最終年には「運玉植林隊」は120人にもなりました子ども達の父母が参加したからです・・・


右ー左が石川和男氏

阿波連本啓氏が死去/琉舞の伝承・創作に功績 2001年1月14日 『琉球新報』

戦前戦後を通じて精力的に琉球舞踊の保存伝承と創作に情熱を傾けた阿波連本流啓扇会家元、阿波連本啓(あはれん・ほんけい)氏が13日午後4時37分、虚血性心疾患のため那覇市立病院で死去した。97歳。那覇市首里出身。自宅は那覇市首里山川町一ノ17。告別式は16日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は長男本勇(ほんゆう)氏。

本啓さんは13歳の時、御冠船踊りの伝承者・川平里之子親雲上朝美に師事。以来、80年余にわたって琉舞の道を歩んできた。創作舞踊の分野で大きな功績を残した。作品数は50演目を超える。戦前の無声映画時代、松竹の専属役者として活動した時期もある。

出身地の首里をこよなく愛し、首里の庶民の古い風俗も創作の主題にした。
1996年、93歳の高齢で芸歴75周年記念公演を開催。軽快な動きで八つの創作を上演し、大勢のファンを魅了した。主な作品に「築城」「郷土子守歌」「桃売り乙女」「鏡」「綱引き」などがある。92年県文化功労賞、96年に第32回新報賞を受賞した


2016-11-29 石川和男氏、あけみ

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2017年3月 沖縄県立博物館・美術館『山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム』


2017年2月8日沖縄県立博物館・美術館で左から新城栄徳、板橋区立美術館の弘中智子さん、豊見山愛さん

1956年2月 金城唯恭 編『新沖縄文化史』郷土誌研究会□山元恵一「古琉球の絵画」
1957年3月『琉球新報』森英夫「夢いつわらず」(画・山元恵一)
1957年3月『琉球新報』森英夫嘉陽安男「異本 運玉義留」(画・龍界寺惠=山元惠一)

写真前列右端が山元恵一


1972年9月 『琉球の文化~歴史・民俗・考古・美術・工芸・音楽・舞踊・演劇・文学の総合誌~』琉球文化社



1993年10月 『山元恵一作品集』那覇市文化振興課
星雅彦「山元恵一の軌跡」/「作品図版」/「俳句と随筆」/「山元恵一写真アルバム」/「山元恵一年譜」/「山元恵一作品目録」

1955年3月12日ー沖縄タイムス主催「芸術祭」ゴッホ劇、現代版「中城若松」

1955年3月ー写真向かって右から 前列 大城皓也、大嶺信一、安次嶺金正、安谷屋正義 後列 大城貞成、南風原朝光、島田寛平、榎本政治、大嶺政寛、豊平良顕、山元恵一 南風原朝保


2016年3月19日~4月17日 沖縄県立博物館・美術館「パブロ・ピカソ『ゲルニカ タピスリ』沖縄特別展」

 1973年4月14日『沖縄タイムス』山元恵一○パブロ・ピカソが8日、南仏ムージャンの画室でなくなられた。世紀の巨匠がついにその偉大な生涯を閉じられた。91歳という高齢で、世界中の芸術家が悲しんでいるだろう。カメレオンのように画風の変わる作家ともいわれた。父もマラガの州立工芸学校の美術教師で、ピカソは14歳から無類の天才ぶりを発揮しはじめた。パリに出た頃ロートレックの影響をうけ、次にグレゴの影響をうけながら有名な青の時代(23歳頃まで)、赤の時代(35歳位まで)、つづいてマチスと会い野獣派(フォーヴ)の時代が始まる。日本の萬鉄五郎らも影響をうける。翌年ブラックに会い28歳頃から立体派の時代が始まる。この運動はイタリーに入ってマリネッティらの未来派運動、ドイツ、ロシアの表現派。青騎派(ミュヘン)の運動には自身も加わる。フランスでは立体派と並んでピュリズム(ル・コルヴィジェの名で建築家でもあったジジャンヌレの主唱)、レジエ等の力動派」(エモーショナリズム)、音楽主義(アンリ・ヴァランシ)等20世紀初のこれらの一連の新運動はピカソとブラックの立体派宣言に端を発したものと言っても過言ではない。(略)1930年頃からシュール・レアリズムの一連の作品を残し、ピカシズムと呼ばれる。眼が顔の片側に集まる例のデフォルマシオンの時代が始まる。「ゲルニカ」まで続いていく。
 8日は私はタイムス・ホールの「現代の幻想絵画展」を見た。福沢一郎先生の「牧神とニンフ」の大作がいきなり眼にとびこんで来る。美しい。福沢先生も日本に於けるシュール・レアリズムの最初の紹介者の一人である。私は東京に出た翌年、春鳥会で偶然この展示会を見た。エルンストの灰色の中のオレンジの線の抽象的な作品を忘れることが出来ない。(略)香月泰男兄も2期先輩である。古沢岩美、麻生三郎氏らも池袋では、色々歓談したものである。それで今回の催しに非常な感激を覚えたのだが、引き続いて翌日ピカソの訃報である。何とも落ちつかない。


1973年4月 沖縄=タイムス主催 後援=朝日新聞社


福沢一郎「牧神とニンフ」


古沢岩美「コルドバの朝の幻想」


麻生三郎「ある群像」


香月泰男「業火」
1973年4月12日『沖縄タイムス』城間喜宏「『幻想絵画展』を見て<1>懐かしい出会い 福沢一郎『牧神とニンフ』」
1973年4月13日『沖縄タイムス』安次嶺金正「『幻想絵画展』を見て<2>すばらしい展覧会」
1973年4月15日『沖縄タイムス』安次富長昭「幻想絵画展への招待ー幻想絵画展が示す現代絵画の一つの方向」

1973年4月23日『沖縄タイムス』山元惠一「大ピカソ展」


1973年4月24日~5月6日 沖縄三越「大ピカソ展」

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 2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』□新城栄徳ー沖縄写真史散歩ー前に写真家・山田實さんから、父山田有登とその沖縄県立中学校同窓の山川文信、翁長助成、山城正好、宮里良貞、????宮城宗倫が写っている1907(明治40)年の識名園園遊会での写真①を見せてもらった。中のひとり????宮城宗倫の息子が????宮城昇である。他に1904年の同窓生は川平朝令、志喜屋孝信、比嘉徳、久高将旺が居る。昇は東京写真専門学校在学中の1927(昭和2)年に東京写真研究会主催の展覧会に応募、入選するなど意欲的に写真に取り組んだ。沖縄に帰り写真館・昇スタジオを那覇市上之蔵に開業。明視堂写真部と共催で写真展を開いたり、新聞に作品を発表したり、短編小説を<時計の宣告>と題し「今日は昨日の連続である。人生は瞬間の連続である。その瞬間をいかに朗らかに楽しむか」などを発表した。とにかくいろいろな表現を試み写真も芸術写真を志向したー。

①識名園遊会での写真






1919年9月ー『鹿児島新聞』で「古き薩琉親善の家門」として????宮城家当主の宗倫が紹介され「宮城宗倫といって、長崎医専の出身で、今は薬種商を営み(略)訪古採訪の客を請じてその家譜や在番奉行請待の客室や、当時薩藩の名士よりもらい受けたる書簡、刀剣、茶器等を一切開放して閲覧せしむるー」と出て一般に家宝を公開していることがわかる。下の写真は????宮城宗倫を中心に左に真境名安興、右に冨名腰義珍も見える。

1926年1月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。
1936年
1938年
9月ー『アトリエ』<二科会特集>藤田嗣治「孫」、藤川栄子「琉球のキモノ」、加治屋隆二「糸満の井戸」
11月ー大阪阪急百貨店で「琉球漆器陳列会」

1939年
5月17日ー日本民芸協会一行、尚順邸で歓待を受ける。
5月19日ー又吉康和の招待で辻正鶴楼で歓迎会
11月ー『月刊民芸』<琉球特集>□尚順「古酒」、比嘉景常「石」、山田有邦「芝居」、島袋源一郎「郷土博物館」、仲里誠吉「市場」、世禮國男「三線」、島袋全発「童謡」、石野径一郎「うた」、比嘉春潮「衣・食・住」

1940年3月ー『月刊民藝』水澤澄夫(国際観光局)「沖縄の風物と観光」□1月7日ー午後、那覇市公会堂で、「観光座談会」が催された。両市(首里・那覇)の主だった人達はじめ県警察部長、師範学校長、図書館長、大阪商船支店長等が地元から出られ、こちら側からは柳(宗悦)先生はじめ濱田庄司氏、式場隆三郎博士、日本旅行協会の井上昇三氏、わたしなど十人余り出席した。話は崇元寺前の折角の美しい石門の風致を害する電柱の取りつけのことから端を開き、わたしは、四日間だまって見物して得たところを材料として、1、開発していただきたいもの、2、保存してもらいたいもの、3、禁止してほしいもの、これら3者について具体例をあげて希望を述べた。すなわち、旅館、道路、下水の問題、標準語の問題、勝地に於いて風趣を損ずる立札等の問題(糸満白銀堂の寄進名表、満座毛のコンクリートの鳥居と卓、首里城々門下の井戸柵など)。結局沖縄は観光地として資源の上から十分発展の可能性がある。現下の世界情勢において急に国際観光地として立つわけには行くまいが、国際観光事業は「見えざる輸出」として貿易外収入の道として忽せに出来ぬ事業であるから、御考慮願いたい。このことは国内観光事業の場合、一県を主体にとって考えれば同じ趣旨が成り立つものである、というようなことを言った。

この会ではわたしの持ち出した標準語問題と式場博士の言い出した墓保存の意見とがはしなくも論議の種になり、御数日は賑やかな沖縄ジャーナリズムの問題となった。標準語問題というのは、女学校の壁に張られた県で募集した標準語励行当選標語に、「沖縄を明るく伸ばす標準語」「一家そろって標準語」「いつもはきはき標準語」などというものがあり、県当局の意向も判りはするが、少し行きすぎたところがありはしないか言い出したのに端を発する。標語というものは概していくらか滑稽なところがあり行きすぎがちなものである。そして、その割に効果少ないものである。この問題も県としては重大な問題に相違ないが、実際的な正しい効果をあげる方法は多分他にあるのではなからうか。前にもしるしたように沖縄語は一方言としてとりあつかうにはあまりに古格のある言葉である。人は郷土の言葉にこそ生き生きした息吹を感ずる。標準語は方便である。沖縄の人も冷静に考えればこのことは十分判ることであろう。わたくしの言から緒を発した県当局の意見と柳先生の論旨とは根本的に論拠がちがうのである。そのことを県の人々も一般人士も気づいてほしい。観光的観点から見れば、言葉も亦郷土色を彩る重大な要素の一つである。切に沖縄語の正しい保存を希求して止まない。墓の問題も同然、論点が異なるのである。式場博士の説を十分に咀嚼してもらいたいと思う。

出立の前日人づてに尚順男があいたいと言って来られたので首里桃原の邸に伺った。尚順男は現尚侯爵の叔父に当たる方で69歳、嘗ては貴族院議員として又銀行頭取として県下に威を振った人である。いまは博学多識な老紳士として、しかもなお衰えを見せぬ県内第一の人物である。話は男の経営にかかる那覇市西新町の埋立地に関してであった。現在約六千坪であるが3年後には約3倍の面積に達する。ここに小公園を置き、水族館を設ける予定であるが、更にホテルを築造してはどうかと言われるのである。-相当の室数と宴会場を持ったホテルは実際那覇にとっては必要なのだ。ここには辻という特殊な花街があるが、そこは待合娼家旅館料理屋宴会場を兼ねている。その組織も独特なものである。それが現在旅館の少ない那覇の不備を補っているし、宴会といえば知事の招宴でもここを用いなければならない。しかも一方、県当局はここの廃止を企てたりする。これは現在の状態においては一つの矛盾ではないか。そこで私は宴会場をもったホテルを提唱するのである。そこにはステージをつくって沖縄舞踊の見聞に便ならしめ、琉球料理、洋食、支那料理を設備する。沖縄においても最も簡単に出来るのは材料の関係からいって琉球料理はともかくとして西洋料理である。又、遊覧の為には那覇湾頭珊瑚礁には約二千種の魚介類が棲息するから、、ガラス底の船を出して之を見せる。

一里程離れた小湾は最もよい海水浴場であり、尚侯、尚男の別荘がある。そこへサンドイッチくらい持ってドライブするのもいいだろう。又山の方は桃原農園にもっと、熱帯植物を養殖して一大植物園とし、ホテルの別館を置くのもいい。ゴルフ場も出来るし、例えば恩納岳に螺旋状自動車をつくるのも面白いと思う。沖縄はよき観光地である。殊に冬季は絶好の避寒地である。-男の話は雄大であり、実際的であり、傾聴すべき意見であった。古稀に垂れんとする老紳の熱情をかたむけての話をわたくしはゆるがせには聞けなかった。しかもその老紳士たる、沖縄においては声威並びない人なのである。この人の夢が実現しない筈がない。わたくしは微力ながら出来るだけの努力は惜しまない旨答えて辞去したのであった。

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発行所・戦争と平和を考える詩の会□〒143-0016大田区大森北1-23-11 甲田四郎(電話03-3761-8454

 
麦朝夫「年月日」□津波にも耐える民よ/平成も二七(にな)え年号/五三(ゴーサイン)と目暗ますライトの下/純な新人たちで血まつり 粋な米軍と集団で/さっさと沖縄の海などえぐって差し出し/泣けるヤス国目ざし また演れば どうなるか/どう日々が 肉片となって吹っ飛ぶか

堀場清子「ひとごと民主主義 わがことの民主主義」□(略)小笠原諸島の赤珊瑚を/中国の密漁船が根こそぎしても/海上保安庁は 一隻しか巡視船を出さなかった/辺野古の海には 五隻の巡視船が居座る (略)沖縄の痛みを わが痛みとし/フクシマの痛みを わが痛みとし/ヒロシマ・ナガサキの痛みを わが痛みとし/戦争で無駄に殺傷された万人の怨念を わが怨みとし/格差社会に潰される子供の貧困へ 手を差し伸べねば/わがことの民主主義には 到り着けない

芝憲子「きょうの空模様ー能天気予報士」□南方海上で台風五五号が発生しました/目の中でジローさんが「おちます おちます」/台風は進路を北に取り/オールオキナワからオールジャパン/オール地球に発達するもようです/九〇〇ミリオバアで 大型 強力 お茶をのみます/スーパー台風 海上も会議場も大荒れ/辺野古の工事を吹き飛ばし 戦争法案を吹き飛ばし /日米両政府に大きな損害をあたえるでしょう/それではきょうも何か良いことがありますように/偏向のNHKが御見送りしました わたしのクビもこれで飛びます オキナワの二新聞社どうか拾ってください

金 水善「クレオパトラの泪」□(略)青くて 美しい地球の上/人類の歴史に/黒い線で/くっきりと/《意に反して 従軍慰安婦にさせられた乙女たちがいた》と刻みこまれた

ゆきなかすみお「理路不整然社会」□昨年十二月の総選挙、自民党は24%の得票で77%の議席を獲得。/70%以上の国民は自民党に投票していない!/いわば、死票の山が今の衆議院、参議院。/アホらし屋のカネが鳴ーる!

江部俊夫「右折は禁止です」□(略)どこかの国は喜んで/一緒に戦争ごっこをしています/その先にはゴッコではない/死が待っています

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写真ー左、吉田東吾『大日本地名辞書』「北海道、樺太、琉球、臺灣」冨山房/右、『冨山房五十年』
吉田東伍【よしだ・とうご】
生年: 元治1.4.10 (1864.5.15)
没年: 大正7.1.22 (1918)
明治大正期の先駆的な歴史学・歴史地理学者。4月14日誕生説もある。越後(新潟県)蒲原郡の旗野家の3男に生まれ,小学校卒業後,小学校教員になり,大鹿新田(新津市)の吉田家の養子となった。この間北海道に渡り,読書に励んだ成果などを新聞・雑誌に「落後生」などの筆名で投稿,特に『史海』への投書論考は,主筆田口卯吉の注目をひき,学界への登竜門となった。また親戚の市島謙吉に紹介され「徳川政教考」を『読売新聞』に連載し,日清戦争に記者として従軍。また『日韓古史断』を書いて,学界での地位を固めた。その研究は日本歴史の全分野にわたり,歴史地理学の分野で『大日本地名辞書』(全11冊),『日本読史地図』などが先鞭をつけている。社会経済史の分野では『庄園制度之大要』が,近代史の分野では『維新史八講』があり,現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史『倒叙日本史』(全12巻)もある。また『世阿弥十六部集』の発見は学界を刺激した。『海の歴史』『利根川治水論考』や,論文集『日本歴史地理之研究』の問題提起は今日でも注目される。<参考文献>高橋源一郎編『吉田東伍博士追懐録』 (松島榮一)
(→コトバンク)

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「琵琶湖周航の歌」の基礎知識 小口太郎の出身地、長野県岡谷市の諏訪湖畔の釜口水門河川公園に小口太郎像と歌碑(江崎玲於奈の筆による)がある。昭和63年 太郎生誕90年を記念し岡谷市が建造した。地元では小口太郎顕彰碑等保存会を結成して顕彰に努力されている。/吉田千秋の出身地、新潟市秋葉区(合併前の新津市)では「ちあきの会」を結成して活動している。千秋の父・吉田東伍の記念博物館(阿賀野市保田)でも千秋コーナーを設け資料を展示している。→滋賀県高島市

2016年2月 『月刊琉球』比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」
2016年2月 『月刊琉球』№32 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(1)
2016年3月 『月刊琉球』№33 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(2)
2016年4月 『月刊琉球』№34 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(3)

 大宜味朝徳の『南島』第4号(1933年)に上原美津子(沖縄日日新聞元記者)が清明祭と題して「琉球人は祖先崇拝の民族です」と書いている。琉球学の巨人・東恩納寛惇は祖先崇拝を「現在の殺風景な世態に寛容の情味を注ぎ込み、世界平和の基盤をつくるものとも云える」と書き、系図については「男系を本旨とし、女系には及んでいない。その欠点を補う」ものに内系図(編集本)があると記している。

先日、写真家の山田實氏から山田一門の山田有銘編集『霊前備忘録』(1930年)を借りた。前記の内系図の一種である。平姓家譜から説きおこし、新聞の死亡広告を貼り付けた系図補遺、拝所の読谷残波岬、屋敷や庭園、位牌、墓所などを図示、着色されビジュアルだ。實氏の父有登は医者で、兄の有勝は詩人。洋画家の有邦、社会福祉の有昴、社会運動家の有幹、教育者の有功などが山田一門から出ている。

漢那憲和の家系については那覇市歴史資料室が出している『那覇市史』「家譜資料(4)那覇・泊系」の人名索引で、憲和の父や祖父の経歴、昴氏であることが分かる。憲和の婿兄弟の神山政良の東氏では、昴氏が同門だという伝えもある。先日、中野利子さんと松居州子さん(憲和の孫)が見えられ同門の憲一郎作成「昴姓世系図」と「戸籍謄本」を恵まれた。これで憲和の母親の旧姓が玉那覇と分かる。





東恩納家系図

東恩納寛惇自筆履歴書


公的機関が作成した東恩納寛惇の経歴書

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写真上右ー1901年1月4日東京神田小川町・写真館美影堂(中村董)で沖縄中学校の同級生たち前の右から東恩納寛惇、崎浜秀主、国吉真徳、伊波興旺、後列右から赤嶺武太、小嶺幸慶、与那覇政敷。

写真中ー福州において東恩納寛惇が発見した5代目祖先の墓碑。その右ー1901年5月13日熊本市下通町上村嘉久次郎・写真裏に「地上の友なる国吉真徳大兄へー寛惇」

写真下ー1933年12月に東恩納寛惇が安南および福建より持ち帰った三味線、昭和会館に寄贈した。(1)ヤマト、(2)琉球、(3)安南、(4)安南


1933年12月ー東恩納寛惇は一中時代の同級生の比嘉盛珍(元内務省土木技師)、島袋慶福(陸軍少尉)、漢那憲英(海外協会)、崎浜秀主(商校長)、糸数青盛(那覇市税務課)、及び旧友の照屋那覇市長、島袋二高女校長、志喜屋二中校長、胡屋一中校長、當間那覇市助役、城間恒淳、千原成悟、山田有登、古波倉博士、新嘉喜倫篤らの諸氏と、久米蔡氏堂に立ち寄り仲良くカメラに収まって後、波の上医院のよ平名さんの案内で那覇でも1,2位を争うという自慢のよ平名家の庭で談話に耽った。


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寛惇が『童景集』を瀬長佳奈と甥の鈴木亨に贈ったもの。

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