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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1935年11月 写真館の見習いであった土門拳は『アサヒカメラ』掲載の求人広告に応募して日本工房の門をたたく。□→2006
年2月 毎日新聞社『名取洋之助と日本工房[1931-45]-報道写真とグラフィック・デザインの青春時代』

柳宗悦・第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。
1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。

□那覇市歴史資料室収集写真に坂本万七「与那原の瓦窯」がある。それには山里永吉と土門拳が話しこんでいたり、柳宗悦が瓦を見ている、左上の方には????宮城昇が撮影の坂本を見ている光景が確認できる。

1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1892年4月 島袋源一郎、今帰仁尋常小学校入学
1896年4月 島袋源一郎、名護の国頭高等小学校に入学
1904年10月20日 『東京人類学会雑誌』第223号 鳥居龍蔵「沖縄人の皮膚の色に就てー余は本年夏期、沖縄諸島を巡回せしが、其那覇滞在中、首里なる同県師範学校、及び高等女学校に於て、男女学徒の皮膚の色を調査なしたり。(助手は伊波普猷で、師範学校の学徒に島袋源一郎・今帰仁間切20歳、仲原善忠・久米島18歳、比嘉春潮・首里21歳、徳元八一・玉城間切20歳、宮城栄昌・久志22歳、諸見里朝清・首里20歳山城篤男・高嶺間切17歳,
新垣信一などの名前がある。)

□当山正堅「時の図画の先生は日本画に堪能な山口瑞雨先生でありましたが、あの頃から洋画も課さねばならなかったので、先生は予め其の描写法を授けることなしに漫然と首里城を写生して来るようにとの日曜宿題を命ぜられたのであります。すると、島袋源一郎氏は唐破風の棟上に登って屋根の大きさから、両端の龍の胴体、髭の長さを測り更に瓦の数まで一々数えて来てから構想を練って描写に取りかかったと云う熱心さに先生も同級生一同も驚いたと云うことでありました。」

1907年3月 島袋源一郎、沖縄県師範学校卒業。 4月 名護訓導
1926年8月 那覇松山校に於いて西村真次「家族国家としての日本」講演
1927年1月 那覇尋高に於いて嘉納治五郎「柔道の原理と精力善用」講演

1927年4月 『沖縄教育』161号 「教育参考館の建設に就いて」「教育参考館記事」
1927年8月26日~4日間 松山小学校で小原國芳「教育道」講演

1928年3月

名護東江小学校卒業式ー前列右から5番目が仲原照子(源一郎の妹)、2列目左から7番目が島袋源一郎(当時校長)→1997年4月 仲原照子『想いの中からー随筆・短歌・俳句など』「戦前の郷土博物館ー首里城内の正殿に向かって、右側南殿があり、左側に博物館に使われた北殿がありました。北殿はかつて冊封使の歓待に利用されたところで中国風の造りになっていました。館内の柱は、円柱の大木が使われ左端に昇り龍、右端に降り龍が彫られ、朱色とややくすんだ赤色が塗られていました。館内には尚家の宝物をはじめ、紅型・陶器・漆器・三味線・書画・馬具・龕などが所狭しと展示されていました。」 
1928年10月 城青年団同人雑誌『創造青年』創刊号 島袋源一郎「(略)余は只諸君個人個人が各自自己を完成し生まれた価値のある立派な人となり、更に社会的に何か貢献し死後も地球に足跡を印刻し得る偉大な人物になられんことを冀望して擱筆する次第である。」
1929年3月 『南島研究』島袋源一郎『名護城史考』
□(略)沖縄の祖霊崇拝教では之を信じて居るのである。此の宗教は多神教の程度迄発達しているが種々の障碍の為に停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる宗教意識に導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入ることが出来るのである。
1936年7月 『沖縄教育』第239号(表紙・琉球組踊「銘苅子」の天女) 島袋盛敏「琉球芸能感想記」/上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」

1912年10月8日 『琉球新報』伊波普猷「明治聖代紀念事業(本県に於いて如何なる事業を実行す可きか)・博物館が一番よいー明治時代の紀念事業としては博物館が一番よいと思ひますそして其処には主に教育の参考品を集めついでに沖縄の古物も集めたい壁には明治時代に輩出した名高い政治家軍人実業家教育家文学者宗教家美術家俳優等の肖像を掲げついでに明治時代に輩出した沖縄の名士の肖像迄は掲げるやうにしたい」

1916年2月8日『琉球新報』「大典紀念事業ー首里区では旧城『西ノ殿』に大修理を施し以って公会堂を設置すべく其の経費1千円圓を計上して愈愈5年度より2ヵ年継続を以って起工する事になっている。」

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1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎
□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。

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島袋源一郎
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1932年10月23日ー南山城址南側を歩く。写真左から島袋源一郎、宜保、山崎正董、とねく →『写真集 懐かしき沖縄』琉球新報社2000年11月 
1937年11月 沖縄師範学校龍潭同窓会『會報』 □仲吉朝睦(県社沖縄神社社司)「惟神の大道」/袋源一郎(沖縄県教育会主事)「同窓の誇と悲」/知念亀千代(東京市月島第一小学校訓導)「手工教育より観たる吾が郷土」
1938年8月28日 午後ー昭和会館で沖縄生活更新協会発会式。式は沖縄県教育会主事島袋源一郎司会のもと進められた。理事長・大城兼義、/理事・當間那覇市助役、勝連首里市助役、上原、眞栄城、新垣各島尻町村会役員、玉井、宮平、伊佐各中頭町村長会役員、仲宗根、山城、池原各国頭町村長会役員、石原宮古町村長会長、大濱八重山町村会長、吉田県社会事業主事、諸見里県社会教育主事、川平女師一高女校長、志喜屋海南中学校長、宮城島尻教育部会長、渡嘉敷中頭教育部会長、比嘉国頭教育部会長、島袋図書館長、金城県農会技師、當眞朝日社長、又吉琉球主筆、親泊日報理事、大城兼義、島袋源一郎、当山正堅、湧上聾人、親泊康永/監事・島袋源一郎、親泊政博/主事・当山正堅/顧問・淵上知事、尚順男、伊江男、平尾貴族院議員、漢那、伊禮、仲井間、崎山、小田各代議士、金城那覇、伊豆見首里両市長、嵩原県会議長、照屋宏、宜保成晴、我如古楽一郎、仲田徳三、盛島明長、長野時之助

1939年3月 沖縄生活更新協会『新生活』(当山正堅)
島袋源一郎□須らく勇往邁進せよー今は我ら大和民族の同胞が八紘一宇の大理想の下に、世界的に飛躍すべき重大な時機に際会している国民の一人一人が最善を尽くして皇国に貢献すべき時である。我等は日本人たるの誇りを持って勇往邁進しなければならぬ。退嬰・卑屈・消極・卑下は禁物である。我等沖縄人は人種学、血清学、言語学、風俗、土俗其他有ゆる角度から考察しても立派な大和民族であり、其の一地方集団であることは各方面の学者が証明している。何を自ら卑下する必要があるか?。然も我等の祖先は激浪と戦って此の南島に渡って来た丈けに実に勇剛であり、驍健であった。四世紀ばかり前欧州人がマラッカ海峡以東に進出して来なかった時代迄日本本土から朝鮮、支那、安南、シャム、呂宋、ボルネオあたり迄の所謂東洋貿易の覇権を掌握していたのは実に我が琉球人であった。西暦1454年以来琉球王は其の港を東亜貿易の一大市場にしょうと努力していたという。

天文の頃葡萄牙人は琉球を「黄金の島大琉球」と称し日本を「銀の島ジャパン」と称していた。目下眞教寺に吊るされている大鐘「中山王殿前に懸くる鐘」の銘に、
琉球國は南海の勝地にして三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為し

1939年3月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』創刊号

1939年5月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』第2号

1939年10月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『眞生活』第3号

1939年5月 沖縄生活更新協会『新生活』第2号(当山正堅)
□最近改めたる県内名士の復姓
勝連盛常→山田盛常
嘉数詠俊→日高詠俊
饒平名紀腆→長田紀腆
玻名城長好→山田長好
勢理客宗正→町田宗正
我謝昌饒→重久昌饒
渡嘉敷唯秀→新川唯秀
仲兼久吉盛→宮里吉盛

□式場隆三郎 しきば-りゅうざぶろう
1898-1965 大正-昭和時代の精神医学者。
明治31年7月2日生まれ。静岡脳病院院長などをへて式場病院をひらく。昭和21年ロマンス社社長となり,「ロマンス」「映画スター」などを発行。ゴッホ研究家,放浪の画家山下清の後援者としても知られる。昭和40年11月21日死去。67歳。新潟県出身。新潟医専卒。著作に「ヴァン・ゴッホの生涯と精神病」など。(→コトバンク)



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Posted by: ryubun02

宮城桃幸ー西宮・自宅書斎にて
宮城桃幸は戦前から戦争中にかけての沖縄県物産販売大阪斡旋所長、戦後の1951年7月に沖縄連盟兵庫県本部会長、1952年の沖縄協会兵庫本部会長(~54年10月)などとして、県、および関西の沖縄同胞のために力を注いだ代表的な先達。明治39年に沖縄県唯一の農学校「国頭郡各間切組合立農学校」に入学、校長の黒岩恒、教頭の宮城鉄夫から教訓を受けた。卒業後、園芸研究のたま興津園芸試験場練習生を経て徴兵、大正9年に中国山東省の青島に赴任した。林務署園芸主任として11年まで勤める。その間に末弟の桃郁を呼び寄せ、中学から東京医学専門学校までの学費の面倒をみた。

4年間の宮崎県立農事試験場勤務をおえて15年6月、沖縄農事試験場へ出向する。園芸作物試験費が農林省から交付されたため、その事業を担当することになったのだ。成果や当時の記録などは昭和54年に刊行委員会から発行された『昭和沖縄園芸発達史』にくわしい。

園芸研究から販売斡旋、販売開拓に力を注ぐため大阪の斡旋所に赴任したのが昭和15年。以来、終戦をはさんで23年11月まで所長として任務を全うした。大阪大空襲で事務所が焼失すると、西宮の自宅で執務にあたったことも。とくに戦後の混乱期に、桃幸の努力で在関西の沖縄県人に罹災証明書(沖縄での)を発行、23年の1年間だけでも1万5千人の県人が2千250万円の戦災給与金を受けた。一戸に千500円は、生活に苦しむ県人をうるおしたという。

退官後は”消えた沖縄県”に代って県人会活動に力を入れ、故郷のための、とくに復帰運動や渡航問題などに積極的にとり組み、各界から高く評価された。57年6月、91歳で惜しまれて永眠する。□→『やまとの群星/関西に生きる沖縄の県人たち』(琉球新報1987年8月)。


1987年8月 『やまとの群星/関西に生きる沖縄のたち』琉球新報社






1939年7月 沖縄日報、松村実記者を中支・漢口へ特派
1940年1月 石川正通夫妻、来阪

1940年7月29日『沖縄日報』

1940年8月2日『沖縄日報』

1940年8月 関西泡盛販売業組合結成。組合長・嘉手納順吉、副組合長・金城南邦
          金城南邦、戎座で真楽座(大宜見小太郎)興行

この頃  真喜志康忠、来阪
1940年11月 大阪高島屋で「尚順男爵家御所蔵品展観」
1940年12月 宮城桃幸、沖縄県大阪物産斡旋所所長
1941年5月 宮良高夫、毎日新聞大阪本社・社会部(宝塚詰)
1942年4月 仲井眞元楷、琉球歌舞団主宰、戎座で公演
1944年月 大阪港区の浪花劇場で金城南邦一座、仲井眞元楷の琉球歌舞団合同公演  
1945年3月 大阪夜間大空襲ーB29約90機が約7万個の油脂焼夷弾投下で19区の大部分焼失、死者3115人/3月 ニミッツ元帥、海軍軍政府布令第1号(日本政府の沖縄への権限停止)/井伊文子夫妻、彦根に疎開/山口國雄、京都帝国大学法学部卒業

「1945年5月25日、沖縄新報の私たち一行は豊平良顕君、具志堅政冶君(妻子同伴)、前田宗信君に牧港篤三、大山一雄、稲嶺盛国、仲本政基、島袋俊一、与儀清三君らが加わって首里城から脱出した。(略)捕虜になるー私の知人で首里第一国民小学校の教頭だった座波嘉永氏が米軍の命令を受けて学校を開いていたので、これさいわいと頼み込んで豊平君を始め牧港、島袋俊一君らを教員に引きとってもらった。(略)沖縄タイムス創刊ー発行日の二日前に上間正諭、牧港篤三、大山一雄、仲本政基、稲嶺盛国、島袋俊一君らは編集の作業をすませた」。高嶺朝光『新聞五十年』(沖縄タイムス社1973年)

1945年10月 比嘉正子、鴻池主婦の会発足させ、主婦の店をつくり消費者運動の草分けとなった
1945年11月 尼崎中学校で尼崎沖縄人連盟結成大会/11月11日、東京丸の内の沖縄県事務所で          沖縄人連盟創立総会/11月26日、中之島公会堂で関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄

1946年1月26日、中央大学講堂で沖縄学生会発足、会長・山川武正、評議員・上地栄、神村朝堅、 金城和彦
      1月28日、関西沖縄人連盟大会(尼崎難波自由市場内)徳田球一を招く。
      2月24日、日本共産党第五回党大会「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」
      3月、『関西沖縄新報』創刊
      4月1日、沖縄人連盟(沖縄大島人連盟)関西本部結成大会。会長・幸地長堅 副会長・翁長義隆、大江三子雄、大山朝繁、宮城清市、屋良朝陳
      4月、関西沖縄青年同盟結成大会。委員長・大湾宗英  顧問格・高安重正  執行部・屋良       朝光、山田義信、高良武勇
      8月4日、沖縄人連盟兵庫県本部結成大会。会長・大山朝繁  副会長・赤嶺嘉栄、安里嗣福、大城清蓮  書記長・上江洲久

空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。

1946年8月 沖縄人連盟兵庫県本部結成大会
1946年9月 大阪毎日会館で帰還惜別沖縄芸能公演ー真境名由康、金武良章、池宮城喜輝ら参加
1947年2月 大阪市文化会館で沖縄青年同盟結成大会

1951年8月 沖縄タイムス西部支局(松村実自宅)/琉球新報関西支局(塩浜政光の自宅)

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1956年9月 『写真で見る日本 第4巻 近畿篇(大阪)』世光社
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布施市/布施駅前/府下最高を示す映画の看板/小阪本通商店街
 
1957年6月 『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯」/10月、『琉球新報』石野朝季「商都に生きる」(儀間比呂志、島晴美、宮城良浚、比嘉正子)
1959年2月 『琉球新報』石野朝季「大阪と那覇あまくま」(スケッチ・儀間比呂志)/沖縄タイムス鹿児島支局の」新川明記者、関西支社の島袋俊一記者と入れ替わり赴任。
1961年8月 津野創一、琉球新報関西支局に赴任


1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)
1960年1月 戦後初の大阪からの観光団52名、日航機をチャーターして来沖。団長・徳大寺実篤平安神宮宮司、蜷川虎三京都府知事から兼次那覇市長へのメッセージ朗読

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1961年5月20日 球友会(瑞慶覧長康会長)主催「朝日座公演」

1962年4月 石原昌家、入学で来阪
1966年12月8日『沖縄新報』創刊(編集発行・島袋俊一)

 1963年6月30日の『沖縄タイムス』に「関西の郷土地図」がある。3面にわたっての特集である。関西の住人大いに語るとして翁長良孝(淀川映画興行社長、羽地村出身)、比嘉正子(関西主婦蓮合会会長、首里出身)、宮城清市(大阪沖縄県人連合会会長、羽地村出身)、上江洲久(兵庫沖縄県人会会長、尼崎市会議会副議長、久米島出身)、伊差川寛(大正区沖縄県人会青年会長、大正区生まれ)が座談会に参加している。司会は沖縄タイムス関西支社長の松村実がつとめている。
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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
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1963年11月3日 沖縄顕揚会(砂川一会長)機関紙『顕揚』創刊号

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1966年5月22日『琉球新報』「にぎわう”名古屋の沖縄〝文化展・観光と物産展」

 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。そして10月19日、佐藤首相が所信表明演説の最中の衆議院本会議場で、沖縄青年同盟3人が<沖縄返還協定粉砕>を叫びビラをまいた。これも「基地つき返還」にたいする当然の行為であったが、3人には裁判で前科がついた。今の沖縄の現状は青年たちの危惧したとおりアメリカ軍の無法状態が続いている。その後、沖縄青年たちは「ゆうなの会」を結成、1975年9月、川崎市鶴見区潮田公園で「第1会エイサーの夕べ」(真久田正のアイディア)を開催している。同月、大阪でも「がじゅまるの会」が大正区千島グラウンドで「第1回沖縄の青年の祭り エイサー」が開催された。


1972年5月15日 大阪沖縄県人会連合会主催「沖縄県日本復帰記念式典」大阪西区・厚生年金会館/当時の在阪新聞社の記事○『朝日新聞』「大阪 古典音楽など織り込み式典/兵庫 21日に身分証明書焼捨て」○『日本経済新聞』「黒田了一知事を突き飛ばすー反対叫ぶ 沖青友の会など」○「このあと黒田了一知事は『理想的な復帰ではなく(アメリカ基地付き)、私も複雑な気持ちだが、豊かで明るい平和な沖縄づくりに、みなさんと手をたずさえていきたい』と挨拶して引揚げた。若者たちは『デイゴの会』『沖青友の会』『関西沖縄差別問題研究会』の会員、『基地つきで、いつ戦争にまき込まれるか分からない復帰で行われた日を、歌や踊りで祝うべきではない』」□今のオキナワの現状を見通した青年(現・前期高齢者)たちの当然の行動であった。今はオキナワ現地でも「基地つき復帰」したことに不満を持つ若者も増え「独立」を唱えるものが増えている

 『石の声』10号を出して休刊した。この頃から、それぞれが結婚し、子育てに忙しく沖青友の会も役目を終える。1975年1月26日に、新たな関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」(会長・玉城利則)発足。大阪沖縄会館での発会式には、青年会のOBということで私も参加した。9月には機関誌『がじゅまる』が創刊された。歴史はくりかえかえすという事であろうか。

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1982年7月 川上三郎『人生到るところ青山あり』関西図書出版/1986年2月19日 大阪『毎日新聞』「サムじいさんー川上三郎」

1983年2月 大正区地域振興会 沖縄研修視察旅行 桐山克己大正区長も参加

1984年4月 大城真栄『私の役員生活五十年』あゆみ写植印刷

1989年6月ー宮城清市『回想録 八十余年の歩み』

1991年3月 『大阪春秋』第63号<特集 港区・大正区> □西口忠「大阪と沖縄」

 1994年に出た国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』の最初のところに守礼門の写真がある。それとシーサーと那覇の大綱引きの写真もある。1986年1月から「ヤマトに生きる・東京沖縄県人会」のタイトルで『沖縄タイムス』に連載したものを補筆加正したものが本書である。東京沖縄県人会の機関紙『おきなわの声』のところに「4面は投稿されてくるエッセー、詩、和歌・琉歌などが中心。新年号は珍しくそれが少なく、『県がこども未来館を計画』『西表開発友の会が記念誌発行』と自主取材もの。また大阪の沖縄関係資料室を支えた新城栄徳(在大阪)が『琉文手帖』を3号まで発行した、と近況を伝えている。月刊『おきなわの声』の創刊は1979(昭和54)年12月10日で、紙名も『東京沖縄の人』(城間得栄編集長)だった。いまの紙名に改称したのは1981年10月である」と記している。

 この沖縄タイムスの連載は大阪でも1987年から「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」として連載された。担当は沖縄タイムス関西支社の幸地建一記者で、私も島晴美さんを紹介、大正区などには同行した。連載の27回目が大正区①で沖縄そばやの小橋川豊正・幸子夫妻らが紹介されて「現在の大正区は那覇より風情があるのではないか」との感想も。

大正区②は本部出身の平岡行秀三味線製作の大湾政一、三味線弾きの名手の金城清範、仲村昇の諸氏が登場。大正区③はユタも健在と山下ヨシエ、仲里トミ子が紹介されている。琉舞の大城豊子(私の妻の師匠である)、野村流古典音楽保存会関西支部長の与那嶺福松、関西を代表する琉舞の金城康子、玉城義隆、空手の福元英吉の諸氏が紹介された。④には関西沖縄文庫、大正区沖縄会館が紹介されている。⑤は大城真栄、新城重光、渡慶次恒徳、仲尾清の諸氏が登場しているが、仲尾以外は私は皆会っている。

1999年12月 宇多滋樹『豚の神さまー渡慶次恒徳の半生』

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Category: 01-人物名鑑
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1924年12月18日『沖縄タイムス』上間草秋「末吉安恭君を悼む」

1955年4月19日『琉球新報』上間朝久「琉球舞踊雑観」(1)

○琉球歴史は既に郷土研究の先哲 伊波普猷先生を初め、真境名笑古、末吉麦門冬、東恩納寛惇、島袋全発の諸家に依って解明されたが、中にも琉球古文化の研究という点に於いては、郷土史家の鬼才 末吉麦門冬に負うところ多大であった。


上間正雄(1890・6・29~1971・4・12)
別名ー草秋、朝久
実父上間正富は松山王子尚順の守役であった。後に那覇上之蔵の亀山朝奉の養子となる。沖縄県立中学校在学中から詩や歌を作り、1910年に同人誌『雑草園』を発行。同年上京。帰郷して樗花、夏鳥、梅泉、正敏のペンネームで新聞雑誌に文芸・美術・芸能の評論や創作を発表する。特に12年に『三田文学』に発表した「ペルリの船」は注目された。14年琉球新報歌壇選者、16年琉球新報記者、19年沖縄時事新報記者、20年沖縄タイムス編集長。→1991年1月 新沖縄文学別冊『沖縄近代文芸作品集』「上間正雄」
Category: 04-書の森
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翁長良明コレクション
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〇山里永吉編『松山王子尚順遺稿』(1969年8月)に「古酒の話」が載っているが、上記の山里永吉「琉球南蛮と泡盛」には尚順の泡盛古酒壺の写真がある。


古美術なるみ堂 ☏098-987-5530
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Category: 01-人物名鑑
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1886年11月  在京沖縄学生「勇進社」結成。(1888年3月沖縄学生会と改称)

前列向かって右から宮平良応、大宜見朝英、小橋川朝重、渡慶次柴起。2列目ー和宇慶良忠、仲吉朝助、高宮城朝文、花城長清、新城安定、高嶺朝教、諸見里朝鴻、比嘉。3列目ー富永實益、富島良功、糸満盛三郎、富川盛睦、岡崎、嘉数詠清、花城、山口全述。後列ー真境名安宏、大田朝敷、渡久地政勗、護得久朝惟、桃原良得、高嶺朝申、百名朝申、百名朝計、謝花昇

護得久朝惟(1868・9・5~1923・7・30)
中学時代、大田朝敷、仲吉朝助とともに又吉全道に漢学を学ぶ。中学を中退し上京。慶応義塾で学ぶ。1887年旧藩王尚泰の長女と結婚。89年帰郷。93年5月『琉球新報』を義兄弟の尚順を発起人代表にし、奈良原県知事から「目付」として送りこまれた野間五造を主筆に発足。専従の編集人には護得久一門の大田朝敷をすえた。野間が退社すると自ら主筆となって経営し、公同会(愛国協会)運動を展開する。その挫折後は尚家の財政的支柱である丸一商店、広運会社の経営に専念。1914年衆議院議員。



富川盛睦(1869~1930)
琉球王府最後の三司官富川盛奎(1882年中国亡命し90年没す)の4男として首里儀保に生まれる。1886年17歳で慶応義塾に学び、帰郷して『琉球新報』記者。1911年に渡口政成、仲里朝敦らと共同経営する丸三活版所から『古今琉歌集』を再刊。12年ごろ琉球新報社を退社。41歳で妻と5人の子供を残して渡米。皿洗いなどで生活しながら毎月家族に送金。ロサンゼルスでは邦字新聞記者の仲吉良光に会い、ニューヨークでは小橋川朝重に写真を撮ってもらっている。アメリカで死去。
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Category: 04-書の森
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2007年10月、第4回沖縄コレクター友の会合同展示会が9月25日から10月7日まで西原町立図書館で開かれた。会員の照屋重雄コレクションの英字検閲印ハガキが『沖縄タイムス』の9月29日に報道され新たに宮川スミ子さんの集団自決証言も報道された。10月4日の衆院本会議で照屋寛徳議員が宮川証言を紹介していた。重雄氏は前にも琉球処分官の書簡で新聞で話題になったことがある。

照屋重雄さん

合同展の最終日は読谷の義父の米寿祝いがあった。途次、息子の運転で母も連れ合同展を見た。上原会長、翁長副会長、宮城図書館長に息子を紹介した。米寿祝いは読谷「体験王国むら咲むらククルホール」であった。友の会副会長の翁長良明氏は36年間「芸大」近くで、なるみ弁当を営んできたが2007年に車道拡張で立ち退きを迫られ廃業に至った。本人は至って意気軒昂で古美術商の免許も取り第二の人生スタートと張り切っている。10月放送の「なんでも鑑定団」に出演したが10月3日の『沖縄タイムス』ダーヴァにテレビ出演の予告と「戦中のお宝ざっくざっく」と題してコレクションの一部が紹介された。10月5日の『琉球新報』に翁長氏は「戦後の象徴『石川』(東恩納博物館)」を書いた。

 ここで沖縄コレクター友の会の歩みを示す。
 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。

 同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

  2002年2月、会員の真喜志康徳氏が南風原文化センターで「真喜志康徳の世界展」を開いた。5月には会員の上原実氏が糸満中央図書館で復帰30周年特別記念展として「上原実コレクションに見る沖縄の人々と祖国復帰」を開いた。同月、リュウボウ沖縄広告協会創立20周年記念事業「沖縄の広告展」には会員5名がコレクションを出品した。2003年に会員の伊禮吉信氏が運営する諸見民芸館で「懐かしのガラスビン展」が開かれた。

 2004年8月、会員の翁長良明氏が宜野湾市立博物館で「世界のお金展」、沖縄県立博物館で友の会の第一回合同展「沖縄歴史を綴る秘宝展」、壷屋焼物博物館で翁長氏出品の「沖縄の酒器・沖縄の古陶コレクション」が相前後して開かれた。2005年5月、新城栄徳、上原実出品「琉球弧の雑誌展」が沖縄タイムスロビーで開かれた。6月、諸見民芸館で「あの時、あのころ、なつかしのレコード展」、8月には西原町立図書館で第二回の合同展「コレクター収集資料展」、10月に琉球新報本社で真栄城勇、上原実出品「号外に見る沖縄戦後60年」が開かれた。

 2006年2月、宜野湾市立博物館で伊禮吉信出品「パッチーの世界」、8月の宜野湾市立博物館の「あわもり展」には会員5名が出品した。9月には沖縄市立郷土博物館で第三回の合同展「私のコレクション」を開催した。12月、名護市立中央公民館で翁長氏の講演「私のコレクション」があった。

 沖縄コレクター友の会の新城栄徳は、1988年の緑林堂書店発行『琉球弧文献目録』No.6に「沖縄出版文化史ノート」を書き諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真も入れた。緑林堂店主の武石和実さんの紹介で新城は、古書店の業界誌『彷書月刊』(1990年2月)に「沖縄に来た画家たち」、「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾」を2006年5月に書いた。後の古書店紹介では、古美術・観宝堂(TEL:098-863-0583)と諸見民芸館(TEL:098-932-0028)も取り上げた。諸見民芸館館長の伊禮吉信さんは沖縄コレクター友の会のメンバーである。

 2007年のコレクター友の会の例会に県立芸大の粟国恭子さん、浦添市美術館の岡本亜紀さんが参加し「沖縄の金細工展実行委員会」にコレクター友の会も参加を要請された。8月、浦添市美術館での「沖縄の金細工ー失われようとするわざ・その輝き」に会員有志が出品した。

 沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明氏は、2008年9月13日~23日まで沖縄市・沖縄こども未来ゾーンのワンダーミュージアムでふるさと園ちゃーがんZOOまつりの一環として「沖縄のお金、世界のお金展」の開催に協力した。翁長氏は首里の雨乞森にあったテレビ塔を持っている。無論、鉄骨全部の保存となると部屋いっぱいになる。肝要な部分と、写真、内部文書を所蔵している。それらのモノは生きた沖縄放送史の証言者ともなっている。翁長氏は戦時中の伝単(宣伝謀略ビラ)や、『ウルマ新報』創刊号を始めとして、新聞人の手書きの原稿(伊江朝助、池宮城秀意)、内部文書などを所蔵している。

 那覇市の平和通りから壷屋焼物通りに抜ける界隈は古美術なるみ堂や、成美堂(TEL:098-862-0041)、琉球文化屋(TEl:090-9656-6155)などが集まっている。旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。

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Category: 04-書の森
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1922(大正11)年
3月30日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<12>ーおもろ双紙の焼失」
3月31日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<14>ー首里城の回禄」
4月1日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<15>ー火災と文献」
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4月2日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<16>ー喜安日記と為朝伝説」
4月4日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<17>ー喜安日記と為朝伝説」
4月5日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<18>ー喜安日記と為朝伝説」
4月7日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<20>ー鎧武者」(『中山世譜』)
4月8日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<21>ー鎧武者」
4月9日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<22>ー鎧武者」
4月11日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<23>ー倭寇と鎧」
4月12日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<24>ー倭寇の兵力」
4月13日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<25>ー倭寇の戦法」
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4月14日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<26>ー古琉球の鎧」
4月15日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<27>ー神話と海寇」
4月17日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<28>ー神遊は神舞」
4月18日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<29>ー詫遊は神舞」(『琉球神道記』)
4月19日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<30>ー詫遊は神舞」
4月21日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<32>ー詫遊は神舞」
4月22日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<33>ー詫遊は神舞」

4月23日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<34>ー琉球の戦舞」/「中央に紹介さるる沖縄の武術ー東京博物館に於いて開かれる文部省主催の運動体育展覧会へ本県より沖縄尚武会長 富名腰義珍氏が準備整え県を介し発送。書も本県一流の青年書家 謝花雲石氏に依頼・・・・」

4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」
4月28日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<38>ー仕合」/「本県農業の大恩人 甘藷金城を紹介ー龜島有功翁の苦心」
4月29日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<39>ー古琉球の政治」

5月6日   『沖縄朝日新聞』「家扶 伊是名朝睦、内事課長 伊波興庭は老体の故もって辞職、総監督の尚順男は引退。今後は護得久朝惟、会計課長 百名朝敏が尚家家政を掌ることとなる。」
1922年6月 佐藤惣之助(詩人)来沖

1922年6月23日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「葉隠餘滴ー昔の道路取締」

1922年6月23日『沖縄タイムス』莫夢生「葉隠餘滴ー昔の道路取締」

8月 『日本及日本人』842号 麦生「支那古代の埋葬法」 

8月22日   鎌倉芳太郎、麦門冬の紹介状を持って首里儀保の華國・長嶺宗恭を訪ねる。
1922年9月15日『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片ー慎思九(中)」

〇新城栄徳ー私は1991年12月『真境名安興全集刊行だより№、1』の「笑古漫筆の魅力」で、笑古漫筆には「久米村例寄帳」から抜き書きが多く貴重であると書いた。麦門冬も本随筆で久米村例寄帳から引用している。道路での子どもの遊び、泊阿嘉物語の放歌者は駄目というのがある。
9月  平良盛吉『沖縄民謡集』(上巻)刊
9月 許田普敦『通俗琉球史』(序文・末吉安恭)



10月15日  『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片(37)ー琉儒と道教」
10月19日  『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片(39)ー琉儒と道教」



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1922年  『沖縄タイムス』末吉莫夢「琉球画人伝」(表題は本朝画人傳を念頭に鎌倉芳太郎が付けたもの)を鎌倉が筆記したもの。

11月 富名腰義珍『琉球拳法唐手』(序文・末吉安恭)

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2月 関西沖縄県人会結成
2月 比嘉静観、ハワイで『赤い戀』(實業之世界社)発行
2月 伊佐早謙(米沢図書館長)、上杉茂憲の事跡調査のため来沖 


2月27日 『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」(エンゲルス「家族私有財産及国家の起源」)
2月29日 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「八重山藝術の世界的価値ー近代藝術に於る新しき指針」
3月 沖縄県人同胞会(関西沖縄県人会)機関誌『同胞』(ガリ版)創刊

3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。
1924-3
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原稿ー麦門冬が題字を揮毫したもの


4月 琉球歌人連盟発足(会長・山城正忠)
5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

5月 『科学画報』宮里良保「飛行機ものがたり」
6月23日 岸本賀昌、神村吉郎、宜保成晴、和歌山紡績会社で沖縄女工に対し講演
7月 田島利三郎『琉球文学研究』(伊波普猷・編)青山書店
7月1日 アメリカで日本人移民らを全面的に締め出す「排日移民法」実地
7月3日 『沖縄タイムス』莫夢生「地蔵漫筆ー水に住む蛙」
7月5日 フランス艦アルゴール号、那覇入港
7月8日 『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅ー仏蘭西と琉球」
7月  山城正択、(財)生活改善同盟会から「時の功労者」の表彰状

7月25日ー伊東忠太、東京出発。7月29日ー開聞岳は古来海上交通の目標として薩摩半島の南端にそびえ、三角錐の美しい山容から「薩摩富士」の名を持ち、錦江湾の入口にあたる海門にあることから海門岳とも呼ばれ、舟人たちに大きな安堵感を与えていた。7月30日ー大島。8月1日ー那覇・首里「守礼門」「園比屋武御嶽石門」「歓會門」「「久慶門」「瑞泉門」「漏刻門」「百浦添御本殿」。8月2日ー「波上宮」「聖廟(浦添朝顕邸内)」「辧嶽」。8月10日ーデング①ーがやっと治ったばかりの身体で首里に赴き円覚寺、尚順邸、小禄御殿の石垣を見る。8月11日ー高等女学校で伊東忠太 講演「本県の建築に就いて」。8月14日ー暴風雨の中、鎌倉芳太郎と識名園、識名神宮を見る。中城城は中途で止める。
7月28日 関西沖縄県人会、那覇市公会堂で演説会
8月22日 第四回ふたば会絵画展覧会(那覇尋常高等小学校)
8月25日 黒板勝美、基隆丸で帰京


1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会

1924年9月1日ー『日本及日本人』55号□末吉麦門冬「似せ涙」(南方熊楠と関連)
 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。


1924(大正13)年2月27日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「サボテンー本県の姓名について」
□そんなら母系家族制度とは、どんな社会であるかと云うに、これに対する答を得るにはモルガンの古代社会論を若しくはない。モルガンの「古代社会論」は今私も之を読んでいないが、エンゲルスの「家族私有財産及國家の起源」と云う書に引いた分だけでも母系時代が如何なる社会状態であったかと云う一般は知らるるのである。其の家族制度という章中に下の一節がある。(以下略)

2022-2-3沖縄県立博物館・美術館横の新城良一さんから1974年2月発行『銀座百点』№231を借りた。中に里見弴×渋沢秀夫「続・大正時代」で、渋沢が「私は一高寄宿舎にいた。新渡戸稲造先生が校長。あるとき徳富蘆花が来て『明治維新で封建諸侯が天皇のもとへ統一されたごとく、自分はクリスチャンだから、将来天の神様のもとに世界各国が統一されることを信じてる』『反逆者として井伊大老に処罰された吉田松陰が、現在は神社に祭られてる。だから幸徳秋水も遠い将来神社に祭られないとだれがいえるか』ということですよ。それをあんた、明治時代にいったんですからね。」
 幸徳秋水は末吉安恭がいつも気にしていた人物だ。1912年の「沖縄毎日新聞」元旦号に麦門冬は鑿(のみ)と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢(ろう)破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書いているが本人も後年、那覇港で沈んでしまった。
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12月 『琉球と鹿児島』莫夢「薩摩関係の琉球五異人」

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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は????宮城昇であろう)

第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海岸の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海岸の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

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編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳

首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
○国難が愈々具体化し、学徒出陣の強い羽搏ちは洵に歴史的壮観であり、全国民の覚悟を新たにした。此の時、此の島に於いて由緒深い首里城正殿の巨鐘を元の御城に迎へ郷土博物館に安置することが出来たのは戦勝の前兆であり、大東亜共存共栄圏建設の暗示であらねばならない。

 荒井警察部長が仲吉市長と鐘銘に三嘆したと云ふ晩、偶々或る会場で一緒になり、部長は余程感激したと見へ重ねて大鐘の由来を諮かれたから、親泊政博君と二人で交々その経緯までもお話し、尚ほ国民精神の昂揚に資すべく眞教寺から首里城内に還元するやう御尽力を願ったところ、数日の後親泊壮年団長の案内で実物実見に及び一入感銘を深くし、早速非公式に交渉したら、田原住職を始め信徒総代も快諾された。(略)東恩納先生が喜ぶであらう。源一郎君が生きて居たらと全発君等と話し合って法悦に浸た。回顧すれば昭和8年東恩納教授は英独佛に調査研究を命じられたが、希望して支那及び南洋諸国に変更されたことは一大見識であらねばならない。その鹿島立に際し「私は之から祖先の偉大なる魄を迎へにまなんばんへ参ります」と郷土の人々にメッセーヂーを送られた、其の偉大なる魂は此の鐘銘にも躍動している。

追記 伊江男と東恩納教授から左記の如き祝辞と感謝の御芳書を戴いた。
 鐘を無事に元の御城に美御迎へしたことは近来の大快亊ですから尽力せられし各位に衷心より感謝と敬意を表します。(伊江朝助)
 豫々念願の大鐘漸く旧棲に戻り候趣落花流水其根源に帰し候段本懐至極偏に御尽力の責と感謝に不耐第一回の御書面は17日落手その為に祝意間に不合遺憾に存居候何卒諸君へもよろしく御伝声被下度願上候(東恩納寛惇)

梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26

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1914年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 鼠の句」
○俳諧 鼠の句ー子年に縁みて鼠の句を集めて見た。参考書が少ないので沢山は集め得なかった今人の句は成可く採らぬことにして主として古人のを採ったのは句の巧拙を以て論せずに古いのが有難いといふ骨董味から出た為めである。それから新年の鼠に嫁が君と云ふ異称があるが、それは俳諧では独立の題になっているので茲にはわざと省いたのである。


1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
711日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」
8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」
8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」
8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」

8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」
8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」

9月2日『琉球新報』「我海軍の精華▽悉是れ良智驍勇」「常設活動写真帝国館ー女馬賊」
9月4日『琉球新報』「太平洋に於ける独墺洪海軍力」
9月5日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写着色・ベルサイユ宮殿」
9月6日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・黒金座主(電気応用)、踊り・七月ゑひさあ、歌劇・可憐児(継親念仏)」
9月12日『琉球新報』「球陽座ー琉球史劇・琉球と薩摩」「常設活動写真帝国館ー実写・ピスピユス山噴火」
9月14日『琉球新報』「本社記者 渡口政成退社し沖縄民報社に入社」
9月15日『琉球新報』「『月刊雑誌 五人』ーダヌンチョの死せる街ー嘉手川重利/白き血ー山城正忠/脚本時計ー上間正男/小説題未定ー安次嶺栄裕/芭蕉の恋ー末吉麦門冬/本県婦人観ー美鳩楓渓/希臘思想ー仲吉良光/音楽論ー矢野勇雄/小説帽子ー池宮城寂泡/題未定ー漢那浪笛/サヨリ釣ー潮東庵主人/完成の人孔子ー山田有幹」
9月18日『琉球新報』「粟国事情」「斎藤用之助島尻郡長令弟、中頭郡書記・斎藤熊太郎死去、」

9月26日『琉球新報』素位「泡津海記ーテラの岩屋、日本一の墓、マハナ崎」「球陽座ー琉球史劇・普天間権現之由来記」
10月3日 『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・ノールウェ汽車旅行」「球陽座ー喜利 狂言・伊賀の水月(荒木又右エ門武勇伝)渡嘉敷守禮脚色 」
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史」①
10月11日 『琉球新報』「三越の新館成る」「常設活動写真帝国館ー実写・伊多利シシリー市街」」「球陽座ー琉球史劇・大濱赤八」
10月15日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(1)ー我が情我れの衣につつみ行くシャンタヌ王の面白きかな/この河を渡らん人に舟漕かん王者も渡れ乞食人も/絶ち難き情の絆王もなほ黒き瞳の忘れかねつも/天人は樂を奏しぬ花降りぬ若きピスマの願ひの浄きに/仙人の神通力もいかにせむ美人を見て破れけるかも/呪はるることの恐ろしサチヤワチは岸の浮草靡かんとする/十万の矢を空中に射返して流れを下る婿選ひ舟」

10月17日 『琉球新報』「悲惨極まるラサ島移民①」「球陽座ー大喜利・英雄ト美人ーナポレオン(真境名由孝土産)」
10月21日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(2)ーカミアカの森に入りぬる一千の宮女の群よ夕日春●/五王子は雲を支へて立てるてふサミが木ぬれに刃隠しぬ/あはれなるドラウバテイの艶なるに王妃はめでぬ且つ嫉みつつ/美しき者にともなふ禍を神よ解き去れドラウバテイに/兄嫁の為めにはかりて猛きピーマ敵を取りぬ肉丸にして/アルジユナは怖るる所ろ更にな●一騎手に持つカンデイワの弓/クリシナは高く叫びぬ天神地祇我と共にあり愚かなもの哉/武士の魂さこうカルナ行かず仕ふる家と運を共にせむ」

□『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が、4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方に傾いたためである。→ウィキペディア

10月31日 『琉球新報』「秦蔵吉、樺山氏主宰の沖縄社に入社」

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1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月3日『琉球新報』笑古「初夏遊奥山」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
7月7日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選」
7月11日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月26日『琉球新報』麦門冬「弔薬師楽山君-

7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」、琉球歌壇ー草秋選 らくこう『球陽座を見て』」
8月3日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選 らくこう『中座の「さんげ劇』を見て』」

8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」

8月16日『琉球新報』「俳紫電」
8月18日『琉球新報』「俳紫電」
8月19日『琉球新報』「俳紫電」

8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」「俳紫電」
8月21日『琉球新報』「俳紫電」

8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」「俳紫電」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」「俳紫電」


8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」「俳紫電」

8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」「俳紫電」
8月29日『琉球新報』「俳紫電」

8月30日『琉球新報』「俳紫電」


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 2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』□新城栄徳ー沖縄写真史散歩ー前に写真家・山田實さんから、父山田有登とその沖縄県立中学校同窓の山川文信、翁長助成、山城正好、宮里良貞、????宮城宗倫が写っている1907(明治40)年の識名園園遊会での写真①を見せてもらった。中のひとり????宮城宗倫の息子が????宮城昇である。他に1904年の同窓生は川平朝令、志喜屋孝信、比嘉徳、久高将旺が居る。昇は東京写真専門学校在学中の1927(昭和2)年に東京写真研究会主催の展覧会に応募、入選するなど意欲的に写真に取り組んだ。沖縄に帰り写真館・昇スタジオを那覇市上之蔵に開業。明視堂写真部と共催で写真展を開いたり、新聞に作品を発表したり、短編小説を<時計の宣告>と題し「今日は昨日の連続である。人生は瞬間の連続である。その瞬間をいかに朗らかに楽しむか」などを発表した。とにかくいろいろな表現を試み写真も芸術写真を志向したー。

①識名園遊会での写真






1919年9月ー『鹿児島新聞』で「古き薩琉親善の家門」として????宮城家当主の宗倫が紹介され「宮城宗倫といって、長崎医専の出身で、今は薬種商を営み(略)訪古採訪の客を請じてその家譜や在番奉行請待の客室や、当時薩藩の名士よりもらい受けたる書簡、刀剣、茶器等を一切開放して閲覧せしむるー」と出て一般に家宝を公開していることがわかる。下の写真は????宮城宗倫を中心に左に真境名安興、右に冨名腰義珍も見える。

1926年1月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。
1936年
1938年
9月ー『アトリエ』<二科会特集>藤田嗣治「孫」、藤川栄子「琉球のキモノ」、加治屋隆二「糸満の井戸」
11月ー大阪阪急百貨店で「琉球漆器陳列会」

1939年
5月17日ー日本民芸協会一行、尚順邸で歓待を受ける。
5月19日ー又吉康和の招待で辻正鶴楼で歓迎会
11月ー『月刊民芸』<琉球特集>□尚順「古酒」、比嘉景常「石」、山田有邦「芝居」、島袋源一郎「郷土博物館」、仲里誠吉「市場」、世禮國男「三線」、島袋全発「童謡」、石野径一郎「うた」、比嘉春潮「衣・食・住」

1940年3月ー『月刊民藝』水澤澄夫(国際観光局)「沖縄の風物と観光」□1月7日ー午後、那覇市公会堂で、「観光座談会」が催された。両市(首里・那覇)の主だった人達はじめ県警察部長、師範学校長、図書館長、大阪商船支店長等が地元から出られ、こちら側からは柳(宗悦)先生はじめ濱田庄司氏、式場隆三郎博士、日本旅行協会の井上昇三氏、わたしなど十人余り出席した。話は崇元寺前の折角の美しい石門の風致を害する電柱の取りつけのことから端を開き、わたしは、四日間だまって見物して得たところを材料として、1、開発していただきたいもの、2、保存してもらいたいもの、3、禁止してほしいもの、これら3者について具体例をあげて希望を述べた。すなわち、旅館、道路、下水の問題、標準語の問題、勝地に於いて風趣を損ずる立札等の問題(糸満白銀堂の寄進名表、満座毛のコンクリートの鳥居と卓、首里城々門下の井戸柵など)。結局沖縄は観光地として資源の上から十分発展の可能性がある。現下の世界情勢において急に国際観光地として立つわけには行くまいが、国際観光事業は「見えざる輸出」として貿易外収入の道として忽せに出来ぬ事業であるから、御考慮願いたい。このことは国内観光事業の場合、一県を主体にとって考えれば同じ趣旨が成り立つものである、というようなことを言った。

この会ではわたしの持ち出した標準語問題と式場博士の言い出した墓保存の意見とがはしなくも論議の種になり、御数日は賑やかな沖縄ジャーナリズムの問題となった。標準語問題というのは、女学校の壁に張られた県で募集した標準語励行当選標語に、「沖縄を明るく伸ばす標準語」「一家そろって標準語」「いつもはきはき標準語」などというものがあり、県当局の意向も判りはするが、少し行きすぎたところがありはしないか言い出したのに端を発する。標語というものは概していくらか滑稽なところがあり行きすぎがちなものである。そして、その割に効果少ないものである。この問題も県としては重大な問題に相違ないが、実際的な正しい効果をあげる方法は多分他にあるのではなからうか。前にもしるしたように沖縄語は一方言としてとりあつかうにはあまりに古格のある言葉である。人は郷土の言葉にこそ生き生きした息吹を感ずる。標準語は方便である。沖縄の人も冷静に考えればこのことは十分判ることであろう。わたくしの言から緒を発した県当局の意見と柳先生の論旨とは根本的に論拠がちがうのである。そのことを県の人々も一般人士も気づいてほしい。観光的観点から見れば、言葉も亦郷土色を彩る重大な要素の一つである。切に沖縄語の正しい保存を希求して止まない。墓の問題も同然、論点が異なるのである。式場博士の説を十分に咀嚼してもらいたいと思う。

出立の前日人づてに尚順男があいたいと言って来られたので首里桃原の邸に伺った。尚順男は現尚侯爵の叔父に当たる方で69歳、嘗ては貴族院議員として又銀行頭取として県下に威を振った人である。いまは博学多識な老紳士として、しかもなお衰えを見せぬ県内第一の人物である。話は男の経営にかかる那覇市西新町の埋立地に関してであった。現在約六千坪であるが3年後には約3倍の面積に達する。ここに小公園を置き、水族館を設ける予定であるが、更にホテルを築造してはどうかと言われるのである。-相当の室数と宴会場を持ったホテルは実際那覇にとっては必要なのだ。ここには辻という特殊な花街があるが、そこは待合娼家旅館料理屋宴会場を兼ねている。その組織も独特なものである。それが現在旅館の少ない那覇の不備を補っているし、宴会といえば知事の招宴でもここを用いなければならない。しかも一方、県当局はここの廃止を企てたりする。これは現在の状態においては一つの矛盾ではないか。そこで私は宴会場をもったホテルを提唱するのである。そこにはステージをつくって沖縄舞踊の見聞に便ならしめ、琉球料理、洋食、支那料理を設備する。沖縄においても最も簡単に出来るのは材料の関係からいって琉球料理はともかくとして西洋料理である。又、遊覧の為には那覇湾頭珊瑚礁には約二千種の魚介類が棲息するから、、ガラス底の船を出して之を見せる。

一里程離れた小湾は最もよい海水浴場であり、尚侯、尚男の別荘がある。そこへサンドイッチくらい持ってドライブするのもいいだろう。又山の方は桃原農園にもっと、熱帯植物を養殖して一大植物園とし、ホテルの別館を置くのもいい。ゴルフ場も出来るし、例えば恩納岳に螺旋状自動車をつくるのも面白いと思う。沖縄はよき観光地である。殊に冬季は絶好の避寒地である。-男の話は雄大であり、実際的であり、傾聴すべき意見であった。古稀に垂れんとする老紳の熱情をかたむけての話をわたくしはゆるがせには聞けなかった。しかもその老紳士たる、沖縄においては声威並びない人なのである。この人の夢が実現しない筈がない。わたくしは微力ながら出来るだけの努力は惜しまない旨答えて辞去したのであった。

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 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。


1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。

1940年3月1日『大阪球陽新報』金関丈夫
1940年8月、台湾で川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞が編集して『南島』第1輯が野田裕康(台北市兒玉町3ノ9野田書房内)より発行され須藤利一の「アダムスの那覇見聞録」が載っている。1941年、須藤は那覇で発行されている『月刊 文化沖縄』にも「w・ビーチ 琉球記」を連載。1942年3月『南島』第2輯には口絵に「バジル・ホール肖像」、中村忠行が口絵解説(バジル・ホール略傳)をなしている。

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1943年3月 金関丈夫『胡人の匂ひ』東都書籍台北支店

金関丈夫 かなせき-たけお
1897-1983 昭和時代の人類学者,解剖学者。
明治30年2月18日生まれ。九大,鳥取大などの教授をつとめ,のち手塚山(てづかやま)学院大教授となる。弥生(やよい)遺跡出土人骨を研究して日本人渡来説を主張。昭和53年朝日賞受賞。昭和58年2月27日死去。86歳。香川県出身。京都帝大卒。筆名は山中源二郎。著作に「木馬と石牛」「日本民族の起源」など。(コトバンク)



1944年2月 須藤利一『南島覺書』東都書籍


金関丈夫編集『民俗台湾』

□金関丈夫「琉球の旅」ー1928年12月29日、京都駅を発する夜行列車で西下。1930年1月5日、左舷に巨大な島影を見る。これが沖縄本島である。那覇の散策ー沖縄の劇場1・2・3ー黒田理平庵訪問ー沖縄県立図書館ー京都帝国大学教授 武田五一博士ー首里  1月16日ー帰路図書館に立寄って、鎌倉芳太郎氏撮影の琉球古美術写真数十種があるのを知る。これを借用して、先日来預けておいた書籍、人骨等とともに宿に運ぶ。夜は西本町の活動写真館をしばらく覗く。河部・大河内の「弥次喜多」というのをやっていた。9時、宿に帰って写真を見る。
 琉球古絵画としては、筆者不明の歴代王像いわゆる「御後絵」や、円覚寺、天久宮、首里観音堂等の仏画の他に、著名な画家の手になるものも多い。欽可聖城間清豊自了(1616~1644)はその最たるもの。冊封使杜三策が顧愷之や王摩詰に比したというのもヨタすぎるが、狩野安信が友とせんといったくらいの値打ちは十分にある。自了と伝えられるものにはほぼ2風ある。一つは玉城盛朝氏所蔵の高士逍遥図や、図書館所蔵の李白観瀑図のように、まず梁楷風のもの、これには落款あるいは印章がある。他は臨海寺渡海観音や、尚順男爵家の陶淵明像のような描線やや繊細のもの、いずれも伝自了である。
 自了以後で見るべきものは殷元良(座間味庸昌1718~1767)であろう。遺品、屋慶名氏蔵、松下猛虎図、比嘉氏蔵山水等はいずれも佳品である。ややおくれて呉著温(屋慶名政賀1737~1800)、向元湖(小橋川朝安1748~1841)および毛長禧(佐渡山安健1806~1865)がある。中でも呉著温は山水に巧みで、最も傑出している。自了以下すべて日本画の影響がむしろ大なるものあることは注意すべきである。他に画師査秉徳(上原筑登之親雲上)康煕14年の銘ある久米聖廟の壁画も注意すべきもの。ただしこれは同55年呉師虔というものの修飾を経ている。八重山画家大浜善繁(1761~1815)、喜友名安信(1831~1892)、山里朝次(1848年頃)等の板障画も面白い。彫刻は建築物付属の石刻の他に、仏像、天尊像、古陶人像等あり、手腕は一般に絵画よりも一段優れている。

1939年12月、台湾詩人協会『華麗島』創刊号□川平朝申「幼年思ひ出詩抄」(版画「守礼門」)
1968年、金関丈夫博士古希記念に『日本民族と南方文化』が刊行された。国分直一、須藤利一、三島格らに交じって川平朝申も「さーじ考」を寄稿。那覇市中央図書館の沖縄資料には、川平と台湾で懇意であった金関が台湾から引き揚げのとき「日本には持ち帰れないから」と琉球資料(曼珠沙華艸蔵)を川平に託したのも多い。川平は当時、沖縄同郷会連合会を組織し疎開者救援運動にも関わり、沖縄県立図書館の再建を目指し献本運動も展開していた。

遊学の松岡正剛がブログで「金関丈夫がむちゃくちゃおもしろいということを、どうやって説明したらいいか、困る。ともかく読み耽りたくなる。なかなかの南方熊楠でも、こうはいかない」と金関を紹介している。

3月18日、東京の日本経済評論社から来間泰男『稲作の起源・伝来と”海上の道”』がおくられてきた。本書でも、金関丈夫と宮良當壮の間で展開された起源論争についてふれている。本書の結論はこうである。沖縄では「弥生文化の影響を受けながらも『弥生時代』はなく、農耕が始まっても『農耕中心の社会』にはならなかったのである」。これらをふまえて、沖縄型農耕は「日本型農耕とは異なった、熱帯島嶼的農耕と共通性の強いものとなって展開してきたし、今なお展開しつつある」とする。

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Category: 01-人物名鑑
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比嘉朝健(1899年11月22日~1945年)
1899年向氏亀山、比嘉カナの間に比嘉次良(次郎)妻はカマド。朝健は父次良、母は辻の女。

1900年7月『琉球新報』「広告ー1、唐茶類 1、銅鑼かね 其他種々ー小生儀此迄諸品買入の為福州へ渡航滞在候處這般帰県右品々廉価に差上げ申候間続々御購求被成下度偏に奉希候也  茶商 比嘉次郎 那覇警察署後通西詰」

1911年1月26日 『琉球新報』「亀山朝恆儀転地療養ノ為メ実父所国頭郡金武村字漢那ニ於テ静養中薬石効ナク去ル二十日死去致シ候此段生前巳知諸君ニ謹告ス  亀山朝奉/朝矩/朝摸/比嘉次郎/朝盛」

沖縄県立第一中学校中退
「女学校の三年生のころ、私はある裕福な家の息子(比嘉朝健)と縁談が進み、卒業までにウブクイ(結納)もとりすましていた。これは松山小学校の教師時代と思うが、解消した。当の婚約者も組合教会に来ていて、私とは話も交わしたりしたが、どうもピンとこない。とっかかりもひっかかりもない感じなのだ。もうこのころ私は、恋愛をへない結婚なんてあるものかとはっきり思っていたので、自分の気持ちが動かないのに困惑した。(略)私は意を決して、二人はどうも合わないと思うので、結婚はやめた方がいいのではと、自分で婚約者に申し出た。ところが相手は母親とは生さぬ仲だったので、自分の方からはどうしても言い出せないから、君の方から直接言い戻してくれという。」金城芳子『なはをんな一代記』(沖縄タイムス社1977年9月)

1920年    沖縄タイムス記者

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1924年12月16日『沖縄タイムス』比嘉朝健「末吉安恭君を悼む」

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1926年3月、那覇市役所庶務課
1927年6月20日、帝国大学文学部史料編纂掛雇(~1932年1月)  
             □同僚に森銑三.史料編纂官ー中山久四郎(東洋諸国史料調査)  

1937年3月『沖縄教育』第247号/仲吉朝宏「雲海空青録ー博物館たより」
□3月5日帰省中の比嘉朝健氏来訪、之で第2回目である。氏は多年東京に生活せられ、芸術方面の蘊蓄の深い人『陶器講座』第2巻に「琉球の陶器」を紹介せられ、嘗ては自己所有の殷元良の「墨山山水図」を帝室博物館に寄贈せられた特志の人である。今帝室博物館年報の殷元良の記事を録すると
  隼者、殷元良は琉球の代表的画人であって、清朝、乾隆帝時代に活躍し、その画風は宗元画風の影響に成り、墨   画彩絵ともに能くした。本図の如きは琉球画の山水図として逸品といふべく、その趣致また日本画と一脈相通ずるも  のあるは、日支間に位置する琉球の芸術として感興深きものである。  
殷元良の面目躍如たりである。又氏は今迄多数の人が疑問にしていた首里城正殿前の龍柱についても、その作者が謝敷宗相なること、石材が瀬長島海岸から採掘したものなることを、已に大正10年頃に発表せられたとのこと。日支琉の古代芸術の逸品などについて語らるる豊富な話題には只目をみはるのみである。『沖縄などには逸品はありませんよ』と捨台詞のやうな言葉を残して、佐敷方面へ殷元良の先生であった山口呉師虔の子孫を訪問すべく出かけられました。

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Category: 04-書の森
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 1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。


 瀬長亀次郎は戦後も沖縄人民党行事としてこの碑(人民解放戦士真栄田一郎君に捧ぐ)の前に集い団結を誓った。瀬長亀次郎「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」→1991年8月『瀬長亀次郎回想録』新日本出版社
 
1954年6月 沖縄県学生会編『祖國なき沖縄』日月社
ーなちかしや沖縄戦さ場になとて 世間おまん人(ちゅ)ぬ流す泪ー この本を祖国日本と沖縄の同胞に捧ぐ

写真ー米軍家族住宅(ずけらん)/日本復帰活動の帰省学生の宣伝隊/これが今なお各地にある小学校校舎である。/第一号線軍用道路/平和を訴える琉球大学生、これがいわゆる琉大事件の発端となった/踏みにじられた稲田に乱立する鉄塔、農民達の訴えをよそに/琉球列島米国民政府長官オグデン少将と握手する琉球政府比嘉任命主席/見るかげもなく破壊された首里高校(旧沖縄一中)/無残にも破壊されたままになっている旧那覇市の廃墟。前方に見える鳥居は波の上神社跡。
悲憤の島オキナワの記録・・・・中野好夫
○あらゆる意味において、オキナワは日本の縮図だとは、オキナワから帰ったすべての人の口から、わたしの直接聞いた言葉である。物質的生活の極度の困難から、やむなく精神的荒廃にまで追い込まれてゆく大多数の庶民、それらの犠牲の上にのっかって私腹を肥やす一部少数の追随的権力盲者、利権屋、享楽業者、そしてまた火事場稼ぎ組の渡来日本人、-まさしくこれは日本の縮図でなければならぬ。(略)わたしは本書にあって、一人でも多くの日本人が、悲しみの島オキナワの実情と、その県民の熱望とを、自分たちの問題として知ってくれることを、もう一度あらためて心から祈る。
郷土愛の結晶・・・・・・・神山政良・沖縄諸島祖国復帰促進協議会会長
善意の記録として・・・・沖縄県学生会
○またこの書の刊行に多大な支援を寄せられた宮城聰、神山政良、比嘉春潮、金城朝永の諸先生に感謝いたします。殊に金城先生には玉稿をいただいてお礼申し上げます。なお、この書の監修に当たられた新日本文学会員の霜多正次兄、同じく当間嗣光兄、それに城間得栄兄に感謝します。殊に当間兄には終始御尽力を煩わしました。
第一部
拳銃におののく村/百鬼夜行/琉球王国を夢みる人たち/ひき殺された二少年/琉球古文化財の行方/帰省学生の日記/沖縄の子供たち/売春の町/沖縄基地図/海なき海人
第二部
土地なき民/労働者と労働組合/ドルとB円経済のからくり/琉球大学事件/日本復帰への道
島の歩み(琉球の歴史と文化)・・・・・・金城朝永
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当間嗣光
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1959年3月『琉球新報』写真と文・石野朝季、スケッチ・儀間比呂志「大阪と那覇 あまくま」
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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子
 
『沖縄年鑑』「文化・絵画ー儀間比呂志 第三回個展は5月16日から三日間タイムスホールでひらかれた」/1961年8月『琉球のあゆみ』 

1963年
      
7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」

1965年12月『沖縄春秋』「去る22日正午、 カメラマン岡村昭彦氏が本社を訪れ、およそ1時間にわたって(大城宗憲と)懇談した。」
1968年11月 東京沖縄県学生会『祖国なき沖縄』太平出版社
○沖縄百万同胞の苦悩の歴史を知るためにー『祖国なき沖縄』の再刊にあたって・・・・・・・中野好夫
○悲憤の島オキナワの記録ー初版序文・・・・・・・・・中野好夫
○売春の街ー女中からパンパンへ/悪魔のような仲介人/借金のある女が使いやすい/収入は半分わけ/妻はパンパン/夫は居候/パンパン街を育てるもの
○解題『祖国なき沖縄』以後の14年…・・・新里恵二
○『祖国なき沖縄』の再刊にあたってー初版の監修者として…・・・・当間嗣光
○即時祖国復帰をたたかいとるためにーあとがきに代えて・・・東京沖縄県学生会

1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      2月『月刊タウン』「岡村昭彦ヒューマン報告 №2ハワイ 観光地の裏側」
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 
      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」 
      
       1967年11月 『物語青年運動史ー戦前編ー』日本青年出版社


      12月・3日『毎日グラフ』笠原友和「東京から飛んで3時間だが遠のく島」
    1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒り」

1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」/1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)

伊波廣定氏と新城栄徳

1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      
 
1970年7月『アサヒグラフ』「被爆直後の広島・長崎」(山端庸介撮影)山端庸介 1936年 - 法政大学中退。父が経営するジーチーサン商会(サン商会を改称)にカメラマンとして就職。ジーチーサン商会は戦時中に山端写真科学研究所(□1943年ー????宮城昇も勤めた)と改称。1943年に東京有楽町の日劇および大阪高島屋の正面に掲げられた100畳敷写真大壁画「撃ちてし止まむ」の撮影・制作に関わったことで知られる。その後敗戦にともない解散。(→ウィキペディア)
     8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 


 1970年5月8日 写真家・杉山吉良来沖/1977年 杉山吉良『讃歌Ⅱ』
1971年

1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」
      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実            態」/「『四月の炎』創刊を祝す」
      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる             反対運動」
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1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳

       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」
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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」
      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたか                い」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」
1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫


 
1972年 1月1日 『人民』 沖縄県民のみなさん 1972年 あけましておめでとうございますー蜷川虎三京都府知事・黒田了一①大阪府知事・美濃部亮吉東京都知事」  
      1月22日『人民』 山田英盛「戦前の社会運動ー本のなかに『赤旗』が」
      2月5日 『人民』 国吉真哲「戦前の社会運動」
 
1972年5月 『歴史地理教育』№196<特集・沖縄県に学ぶ>儀部景俊「これからの沖縄問題」、金城正篤「沖縄史のとらえ方」、田港朝昭「沖縄学習の意味」、金城弘子「沖縄の子どもたち」、西里喜行「近代沖縄の歴史と差別問題」、来間泰男「沖縄に関する文献案内」/早乙女勝元「東京大空襲と紀元節」

1072年7月 日本民主青年同盟『青いしぶき』小渡清孝「発刊にあたって」

写真ー中列左から小渡清孝氏、→阿里山森林鉄道/沖縄人民党中央委員会書記局『沖縄基地の実態と機能』
1973
       1月27日 『人民』「話題の人ー竹田秀輝さん」
       4月7日 『人民』 「沖縄人民党第17回党大会の成功に期待する」

1973年6月 永田久光『赤旗戦略』講談社

右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと1968-72年』岩波書店、福木が、あとがきで表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


『人民』1973年4月7日「科学的社会主義の党への発展をめざす」/『人民』1974年1月1日「炎の街」(題字・仲松庸全)作・源河朝良 さし絵・青山恵昭


1974年1月 『沖縄思潮』創刊号  島袋光裕「題字」 宮良瑛子「表紙絵」 城間喜宏「目次カット」 安次嶺金正「とびらカット」
☆私が写真機を手にするようになったのは息子が誕生(1974年)したときで、成長ぶりを記録しょうと住吉大社近くのカメラ屋さんで中古のオリンパス一眼レフカメラを購入したのが最初である。
1974年11月20日~25日 那覇・八汐荘「写真学校WORKSHOPin沖縄」 

1976年『中央公論』12月号 濱谷浩「昭和女人集ー玉城美千代(大城政子琉舞道場)/大宜味静子(小太郎夫人)/糸数カメと愛弟子の仲宗根玲子/島袋光史と高良ベテイ/久高恵子(民謡クラブ)/エイサー謝苅青年会/カチャシーの与那城カナ(82)/藤村玲子紅型工房での玉那覇弘美、伊佐静子、堀川文子/宮平初子染織工房の具志堅清子/新垣栄三郎の妹・菊/吹硝子の宮城嗣俊夫人・静子/菓子天ぷら揚げの照屋林徳夫人・千代/市場の女性たち/市場の一角の化粧品店/守礼門前の宜保清美/東京コンパの武美、アキ/コンパバブロの絹江/那覇まつり・第一回ミス那覇選出大会/国際通りを口笛を吹いて歩く老女/斎場御嶽の中村美津」(敬称略)同誌には上原栄子「辻(くるわ)の女たち」も載っている。」

1978年6月『オキナワグラフ』「6月1日・写真の日/7人のカメラマン」

1978年10月 『たげぇに ちばやびら』瀬長亀次郎後援会



1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社/1979年2月 『戦後沖縄写真集 0ゼロからの時代』那覇出版社

☆1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」


1983年10月 『坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和10年代』新星図書

1983年10月 『こんにちはセナガ亀次郎です』瀬長亀次郎事務所

1984年8月『島空間からー1984年・沖縄・反核・反戦文学アンソロジー』沖縄・文学を通して反核反戦を考える集い(編集委員・あしみねえいいち,大湾雅常,国吉真哲,新城太石,芝憲子,瀬底月城,知念清栄,知念光男,仲松庸全,牧港篤三,安嶋涼人/編集委員会事務局・加勢俊夫,来間富男,芝憲子,富山嘉泰,宮城義弘)
〇私たちの、日常の営為は、それは本来的に単なる日常でしかありません。しかし、今や私たちは核時代に生きています。「破滅か、救済か、何とも知れぬ未来に向かって人類は邁進して行く」(峠三吉)こうした日常は、解き放つことのできない矛盾と無力感に掩われています。
 いまから40年前、沖縄であった戦争の影を背負っている者にとってはなおさらのことです。
 文学をする私たちにとって本来的には、もはやこうした虚構の中では、文学行為を半ば喪っているかも知れません。なぜ考え且つ書き、創るのか、誰に向かって何を伝え、そして言おうとしているのか。私たちの自由を奪い、個人の死をも無意味にする突然の大量死、ぢりぢりと用意されていく戦争をフィクションの世界に押し込めてよいものでしょうか。
 米ソの核軍拡競争の谷間で、核攻撃指令機能をもつ米軍基地をかかえる沖縄は、日本でもっとも危険な地域だといってもよいと思います。自衛隊の演習もエスカレートしています。沖縄戦の苦い体験をもち、今もこのような現状の地で、文学にたずさわる私たちは、私たちの仕事を通じて、平和へのねがいを訴えたいと思います。芸術家だからといって、目をつぶってはいられない危機的な時期にきていると思います。過去の15年戦争時代、多くの詩人、歌人、俳人、作家らは、時代に流され、戦争を讃美するような戦争協力の作品を書きました。私たちは、あの過ちをくり返したくはありません。「殺されるときはいっしょ」という、戦争のような強大な動きに対しては、芸術分野でも、個々人の力を合わせないと対抗できないと思います。個々人がテーマも題材も全く自由に創作し、それらを「反核反戦」のタイトルのもとに、ここにアンソロジー『島空間から』を出版致しました。                   1984年8月15日


『コミックおきなわ』1987年に創刊された沖縄初の月刊まんが雑誌。B5判、約200ページ。第23号より隔月刊。90年の第30号の後休刊。新里堅進、田名俊信、大城ゆか等、県内20人余のまんが家の作品を掲載する他、新人も発掘した。

1980年3月 那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ』


那覇出版社1990年3月 『写真集 沖縄戦』/1984年9月『写真集 沖縄●失われた文化財と風俗』 /1986年5月『写真集 沖縄戦後史』


1985年1月21日『沖縄タイムス』
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1985年ー那覇市役所にて写真中央・親泊那覇市長、その右・秋山庄太郎、新垣典子、右端・山田實
1985年5月 『政界往来』小板橋二郎「激写で勝負する『フォーカス』と『フライデー』の完全比較」

1985年11月 『沖縄人民党の歴史』日本共産党沖縄県委員会

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2013年3月 前泊博盛・編『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社

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第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海岸の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海岸の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

1941年7月『茶わん』蘭郁二郎「琉球のぞ記」寶雲舎
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「茶わん」は陶芸愛好家向けの専門誌で、創刊は昭和六年三月。編集発行人は秦秀雄となっているが、実務は小野賢一郎がとりしきっていた。秦に代わって昭和七年五月号から編集発行人として遠藤敏夫の名がクレジットされる。編集部は芝区三田功運町六番地、聖坂を登り切った辺りにあった。(会津信吾「蘭郁二郎の生涯」)



1941年8月『文学建設』蘭郁二郎「琉球ある記」
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蘭郁二郎 らん-いくじろう 1913-1944 昭和時代前期の小説家。
大正2年9月2日生まれ。「探偵文学」同人となりミステリーをかくが,科学冒険小説に転じ,SF小説の先駆者のひとりとなった。海軍報道班員として台湾にわたり,昭和19年1月5日飛行機事故で死去。32歳。東京出身。東京高工卒。本名は遠藤敏夫。著作に「地図にない島」「地底大陸」など。→コトバンク



1942年9月『朝日新聞』「カメラ腕比べー尚謙・護得久朝章」

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2008年7月 『五十周年記念誌ーおきなわの声を伝えて半世紀』東京沖縄県人会



東京/2016年11月13日『沖縄タイムス』「東京沖縄県人会60周年記念特集」/2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」


2007年12月 川平朝清『わが家の子育て記録 犬はだれだ、ぼくはごみだ』岩崎書店


2013年3月30日 川平朝申の児童文学を研究している齋木喜美子さんと川平朝清氏(東京沖縄県人会7代会長)
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2011年3月ー『児童教育学を創るー福山市立大学開学記念論集』齋木喜美子「山之口貘の児童文学」児島書店/2004年1月ー齋木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房



2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」/県外の県人会

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
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11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」


『おきなわの声』と新城栄徳
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1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

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沖縄新聞・機関紙相関図


 
『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

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写真上ー1995年の第二回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏、新城栄徳/写真下ー2001年の第三回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏(東京沖縄県人会4代会長)、福地曠昭氏(撮影・新城栄徳)

1951年6月 雑誌『おきなわ』通巻12号 山城文盛「抑留生活の思い出」

1984年1月25日『琉球新報』「山城文盛さん(1978年 東京沖縄県人会2代会長代行) 東京の県人会機関紙 50号目を発行」

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1882年に第一回県費留学生の山口全述を調べる
過程で山口全則を知り、やがてその子息で東京沖縄県人会会長の山口國雄氏を知る。

2015年1月 雑誌『おきなわ』新城栄徳「総目次」不二出版


2015年1月 『雑誌『おきなわ』解説・総目次・索引」不二出版

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1969年8月 山里永吉『松山王子尚順遺稿』(㈱)第一法規出版


写真ー尚順(昭和14年)


写真ー尚順と柳宗悦(昭和14年)

尚順の「鉄斎コレクション」

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2016-11-29 あけみ

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□1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)
1947年7月ー沖縄美術家協会結成
1947年8月ーギャラリー設置


沖縄美術家協会会則



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1949年7月2日、3日ー沖縄タイムス社コンセット社屋「沖縄美術展覧会(沖展)」




山元恵一 作品

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1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
「華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代」もあったと安恭は記しているが、この美術家の夢は弟の安久によって実現された。

また大正末期、沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルの最中、麦門冬の友人たちは後継館長に麦門冬と運動していた。山里永吉の叔父・比嘉朝健は最も熱心で、父の友人で沖縄政財界に隠然たる影響を持つ尚順男爵邸宅に麦門冬を連れていった。かつて麦門冬が閥族と新聞で攻撃した当人である。しかし麦門冬の語る郷土研究の情熱を尚順も理解を示し料理で歓待し長男・尚謙に酌をさせるなど好意を示した。それらは麦門冬の不慮の死で無に帰した。これも弟・安久が戦後、沖縄県立図書館の歴代図書館長に名を連ねている。

麦門冬・末吉安恭の弟/末吉安久(1904年4月26日~1981年3月31日)


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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄

写真左から末吉安久、桃原思石、許田重勲

1944年ー夏  学童疎開の引率で宮崎に

1946年ー秋  首里高校美術科教官に就任するや沖縄民政府文教局にデザイン科の設置を要請し首里に伝わる紅型の復活を図りたい」と嘆願し実現に導いた。
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右端が末吉安久

1949年3月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年4月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年5月  『月刊タイムス』№4□末吉安久「表紙・カット」

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末吉安久「閑日月」
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末吉安久「子供達」


1950年8月  朝日新聞社『鉄の暴風』末吉安久「装幀」/牧港篤三「挿絵」
1950年9月  末吉安久、首里図書館長就任(1957-4)
1951年11月 琉米文化会館「第3回沖縄美術展覧会」末吉安久「子供達」/金城安太郎「楽屋裏」

1952年1月1日『沖縄タイムス』末吉安久「思うたまで」

1952年1月1日『琉球新報』末吉安久(Q)「漫画漫詩」

1953年1月1日『沖縄タイムス』「漫画アンデパンダン展」末吉安久「乾かすのか掲げるのか」



1954年12月に写真集『基地沖縄』が東京新宿市ヶ谷加賀町の大日本印刷で印刷され沖縄タイムス社から発行された。編集は豊平良顕、上間正諭、牧港篤三、金城久重で、装幀が南風原朝光、末吉安久であった。零よりの出発と題して農夫の写真が掲載されていて、説明文に「戦争の破壊は、とにかく地上の人間の営みを根こそぎ奪い去った。戦後の復興はすべて零よりの出発と云ってよい。この老農夫の姿そのままが、零のスタート・ラインに立った終戦直後のオキナワを象徴している」とある。

1955年3月  第7回沖展に末吉安久「花」「サバニ」「静物」「金魚」
1956年3月  第8回沖展に末吉安久「黄色の部屋」「魚」「静物」
1956年8月15日 『沖縄タイムス』末ひさし「居タ居タ鳩ダ」

1956年8月19日 『沖縄タイムス』末ひさし(Q)「静かなデモ」


左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)
1956年11月 『沖縄タイムス』島袋盛敏「新遺老説傳 沖縄むかしばなし」末吉安久(Q)・絵
1957年3月  第9回沖展に末吉安久「静物」

1958年3月  第10回沖展に末吉安久「黒い月」「漁師たち」
1959年3月  第11回沖展に末吉安久「魚」「月」「大学の丘」「死せる生物」
1960年3月  第12回沖展に末吉安久「石」「根」「花」「珊瑚礁」
1961年3月  第13回沖展に末吉安久「作品」「墓場」
1961年3月  『養秀』養秀同窓会□養秀「表紙装丁カット」「金城紀光氏に聞くー聞き手/末吉安久」

1962年3月  第14回沖展に末吉安久「墓地A」「墓地B」「墓地C」



末吉安久/表紙絵 1962年8月『今日の琉球』58号「琉球の玩具」

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写真ー末吉安久氏と大城皓也画伯

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沖縄県立図書館の左側には「安冨祖流楽祖之碑」がある。安冨祖流絃聲会が1964年1月18日に建立しものだが、設計は末吉安久である。ちなみに、揮毫は島袋光裕、刻字が安里清謙、施行が安里清福である。沖縄県立図書館の館長室には歴代図書館長の一人として末吉安久の写真も飾られている。

1969年2月 『新沖縄文学』第12号 末吉安久「貘さんに る幻想」
1975年1月28日 山之口貘詩碑建立期成会発足(宮里栄輝会長、末吉安久副会長)
1975年7月23日 与儀公園で山之口貘詩碑除幕式
1975年9月7日 那覇文化センターで山之口貘記念会発足
1976年12月 『沖縄風俗絵図』月刊沖縄社□末吉安久「ケンケンパー」「足相撲」「ビー玉」「イットゥガヨー」「ジュークーティ」「クールーミグラセー」「クールーオーラセー」□末吉安久紅型「醜童舞い」「浜千鳥」「馬」「桃売りアングヮー」「カンドーフ売り」 

1977年11月29日『沖縄タイムス』「佐渡山安健『名馬・仲田青毛』末吉安久宅に」

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1978年8月 『季刊 南風』№2 末吉安久・絵と文「続・無題」

2015年10月16日『沖縄タイムス』大城冝武「沖縄マンガ史34(末ひさし)末吉安久/大嶺信一」

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2018年6月10日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人③親泊朝省(軍人) 日本従属の精神体現」

2003年11月8日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網⑩親泊朝擢」
戦後、一家心中した「親泊大佐」のことを大城立裕氏や豊川善一氏、井川良久氏、澤地久枝さんが書かれているので、私はその祖父と父について紹介する。『沖縄大百科事典』の親泊朝擢はかつて台湾に居た川平朝申氏が執筆している。1916年の『沖縄県人事録』に朝擢が北谷尋常高等小学校長として掲載され、1937年の『沖縄県人事録』には無く弟の朝輝が小樽市助役として掲載されている。

朝擢は1875年、父朝啓、母ウトの二男として首里大中に生まれる。父の朝啓は伊江朝助の随筆に「時の評定所は浦添朝昭の大虎の下に、虎小(グワー)と称する秀才があった。外間完薫、親泊朝啓、諸見里朝奇、比屋根安栄である」と出てくる。このうち浦添と朝啓は設置されたばかりの沖縄県庁に勤務。朝啓が丸岡莞爾知事死去に際しての追悼歌「月花につくす心はいく千代もふみのかかみに見ゆる君かな」。

笹森儀助『南島探検』に「1893年9月2日、県庁編纂主任掛親泊朝啓(琉球人)来訪ス、談、武器及其沿革ニ及フ」と朝啓のことだ出ている。ちなみに同書は琉球新報創刊にもふれている「9月23日、去ル15日ヨリ『琉球新報』ヲ発兌セリ、東京ヨリ記者2名来リ(略)開筵ノ式ニ招待状アルヲ以テ、本日答礼セリ」。

幣原坦は、1894年に来沖し、その著『南島沿革史論』の「南遊史話」に「沖縄県旧慣取調嘱託員親泊朝啓君には多く質問を試み」と出てくる。朝啓は旧慣に精通している。だから97年、佐々木笑受郎が公同会運動を復藩党として『大阪毎日新聞』に運動が成功したあかつきの「内閣名簿」に朝啓の役割を司法大臣に、内閣総理が尚順で太田朝敷を書記官長と準えて通信している。

朝擢は沖縄県師範学校を卒業後、仲吉ウシと結婚。北谷、首里の小学校の訓導を経て1901年、大宜味尋常高等小学校の校長となる。この年に朝啓が死去。2年後、長男の朝省(親泊大佐)が生まれている。11年、県学務課に勤務傍ら『沖縄教育』編輯主幹となる。このころから『沖縄毎日新聞』に蓬莱庵の名前で「人物月旦」を連載した。→『沖縄教育』誌上のペンネーム/素位学人、沖の島人、しののめ生、幻、編輯子

朝擢は『沖縄教育』編輯主幹を第60号(11年4月)から102号(15年7月)まで担当した。11年8月の64号は「偉人傳」で、巻頭には「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり」と記され、岸本賀昌が「我琉球」とあいさつで始まり、当真嗣合の「琉球人の胸中に蘇生して・・・」で終わっている。

朝擢は『琉球見聞録』『沖縄県案内』『沖縄県写真帖』も刊行した。その功績は大宜味小学校の像とともに刻印され消えることはない。

1911年8月 親泊朝擢・編集発行『沖縄教育』第64号 本会創立二十五記念<偉人伝>
巻頭「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり。ニーチェ」
○序・・・・・岸本賀昌・沖縄私立教育会長「我琉球廣袤小なりと・・・」 
○口絵「首里城趾」「中城趾」「護佐丸之墓」「大和御神」「蔡温筆跡」「宜湾朝保肖像及筆跡」「宜湾朝保筆跡」「程順則筆跡」「儀間真常之墓」「野國總管之墓」「總管野國由来記」「自了筆」「殷元良筆」
○沖縄の代表的政治家ー向象賢 蔡温 宜湾朝保・・・・・・・・・・・・・伊波普猷
○産業界の二大恩人ー儀間真常 野國總管・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○名護聖人程順則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合
○二大画伯-自了と殷元良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○劇詩家玉城朝薫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○三山統一の英主尚巴志王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親泊朝擢
○南島の忠臣護佐丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合

○1917年8月 親泊朝擢『沖縄県写真貼』小沢書店
□名筆ー蔡温  程順則  宜湾朝保  尚温王  尚育王 
□名画ー自了 殷元良 小橋川朝安 筆山


1913年ー写真中央が横山健堂,、右より伊波普猷、当真嗣合、伊江朝助、親泊朝擢、太田朝敷、崎浜秀主

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前列右から、嵩原安冝、神山政良、漢那憲和、尚昌、太田朝敷。他に親泊朝擢、東恩納寛惇、上運天令儀、山田真山らが居る。1915年「尚昌侯爵帰朝祝賀会」東京沖縄県人会

1920年、親泊朝擢上京し、東京高等師範附属小学校書記。


1933年7月 仲宗根源和『沖縄縣人物風景寫眞』同刊行会〇写真左から親泊朝省陸軍騎兵中尉、漢那憲和海軍少将、長嶺亀助陸軍大佐

1934年、親擢の子が朝省である。第一子の長女ツルは、 テレビなどで活躍した料理研究家の岸朝子の母と書けば親泊家もその時代もすこし身近に感 じられるだろうか。朝省と朝子は叔父と姪の間柄になる。長女ツルが嫁いだ宮城新昌(しんしょう)は、国頭(くにがみ)農学校卒。移民を引率してアメ リカに渡り、カキの養殖を志しカナダで日英合弁の水産会社をおこして重役になるなど、事業 家肌の人であった。1913年に帰国し、カキの養殖で「世界のカキ王」とも呼ばれた。 垂下式カキ養殖法を考案し、宮城県石巻市で実用化に成功し、種ガキの生産と技術者の養 成につくした。宮城の産み出した垂下式は、縦に長く吊り下げる事により深海での養殖も可能 となり狭い海域でも大量の生産が出来る事から東北のリアス式海岸にマッチした養殖法は全 国にも広がった。沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌の従弟にあたる。

岸秋正と岸文庫(県公文書館)
20歳になったばかりの宮城朝子は、叔父朝省の肝いりで、朝省の香港攻略戦以来の仲で あった、岸秋正と見合いに続き朝省・英子が仲人をつとめ結婚した。(朝省はガダルカナルで の岸秋正の中隊長としての行為に感服・感動していた。) 岸秋正は愛知県出身、陸士51期。宮城朝子は東京高等師範附属小学校から府立第三高 女に進み、女子栄養学園で学んだ。 岸秋正は戦後、沖縄関係資料の収集家として知られ、1995年に没したが、1997年、妻の朝子により、蔵書11,000冊が沖縄県公文書館に寄贈された、岸文庫と命名された蔵書には『琉球神道記』や『中山伝信録』『沖縄法制史』など希書が多数含まれている。

みどり風通信「親泊朝省の生い立ち」「みどり印刷」←iここをクリック

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1989年11月30日『琉球新報』松島弘明「琉球新報初代主筆・野間五造の著書や論文発見」
 私は1989年11月に、琉球新報初代主筆の野間五造の経歴を発掘したことがある。大阪府立中之島図書館で、たまたま講談社創立者の野間清治のカードを繰っていたら、琉球新報の野間五造を思い出しカードで調べた。著書が次々出てきた。『縦横公儀録』(1912年)、『日支合邦論』(1913年)、『立法一元論ー貴族院無用論』(1926年)などがあった。岡山県出身ということも分かった。岡山市立中央図書館に岡本月村(画家)と共に問い合わせると野間の写真、新聞記事、人名簿などのコピーを送ってくれた。
『中国新聞』によると、「桜痴時代の新聞記者として健筆をふるった五造は、若い血潮にまかせてシナ、琉球、タイワン、満州ととびまわり巨万の富を築いた実業家でもあった」とある。五造は1898年、30歳のとき、若さと金にものをいわせ木堂派の憲政党公認で衆議院に出て当選した。1900年から01年にかけて欧米、インド、北津、ロシアなどを視察して帰国。次いで02年の衆議院にも再選された。政界を引退し満州にわたり水運公司をおこし財をなして07年に帰国。銀座や明石海岸に大邸宅を構え政界を放浪し日夜、遊里で大尽遊びを続けていた。
1911年1月発行の雑誌『グラヒック』に美人論と題し「今日のように新橋全盛の世と移りかわっている。その新橋でも江戸っ子芸者から名古屋の金城美人の全盛を迎え、今は北越種を加味し来り。此のぶんで進めば台湾の生蕃や琉球のアンガが飛び出す時代もくるであろうと思われる」と書いている。五造の女性の好みは知らないが、最近のテレビなどに毎日のように沖縄のアンガが出ていることを
教えてあげたいものだ。


『文學界』(ぶんがくかい)は、1893年(明治26年)1月から1898年(明治31年)1月まで58冊発行された、明治期のロマン主義の月刊文芸雑誌。ほかに、臨時増刊の『うらわか草』(1896年5月)が1冊ある。北村透谷、島崎藤村、平田禿木、樋口一葉、上田敏、田山花袋らが書いた。/創刊時の同人は、星野天知(当時31歳)・戸川秋骨(22歳)・島崎藤村(21歳)・平田禿木(20歳)らで、間もなく馬場孤蝶(24歳)・上田敏(19歳)が加わり、北村透谷(25歳)・樋口一葉(21歳)・戸川残花(38歳)、遅れて、田山花袋・松岡国男・大野洒竹らも書いた。経営・編集には星野天地が当たり、弟の星野夕影が手伝った。→ウィキ

 1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。



 1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。
 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。

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1972年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書13』「石川啄木 田岡嶺雲 F・ブリンクリ 鹽井両江 木村正辞」
 ◇フランシス・ブリンクリー(Francis Brinkley、1841年11月9日 - 1912年10月22日)は、イギリスのジャーナリスト、海軍軍人。1841年、アイルランドのミーズ県の名門貴族の家に生まれた。1867年に香港を経由して日本駐屯イギリス砲兵中尉として横浜に来日すると、勝海舟らに見いだされて海軍省のお雇い軍人となった。日本の海軍砲術学校の教師に就任、1871年には『語学独案内』(Guide to English self-taught、1875)という本を著述、好評を博した。ブリンクリーはのちに工部大学校の数学教師となっている。その後、ジャーナリストに転じ、1881年にはジャパンウィークリーメール紙(1870年創刊)を買収、経営者兼主筆となって、以降、親日的な態度により日本の立場を擁護しつつ、海外に紹介している。また、寄書家に広く紙面を解放していた。→ウイキ

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。
 1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった。5月には沖縄県令として鍋島直彬が長崎出身官僚32人をともない着任した。前後して、琉球藩王・尚泰は東海丸で那覇港を出帆。6月4日には神戸で2泊。6月6日に新潟丸で東京に向けて神戸港を出帆。
 
2018年12月 鹿島市民生涯学習・文化振興財団『史料が語る初代沖縄県令鍋島直彬』鹿島市/2018年11月 鹿島市民生涯学習・文化振興財団『鍋島直彬と鹿島の蔵書文化』鹿島市
 1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』には、「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。
 1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。
 1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮参詣。西村は中井弘滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。4月には大迫貞清が沖縄県令として赴任。11月、在京沖縄県学生会・勇進社が結成された。


西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24)
没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。 (コトバンク・長井純市)
 1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。
  塙保己一については『群書類従』『続群書類従』の編纂者として余りにも著名で「塙保己一史料館・温故学会ホームページー公益社団法人 温故学会〒150-0011 東京都渋谷区東2-9-1」を見てもらうことにして沖縄に関りがある保己一の曾孫・塙忠雄についてふれる。1996年8月26日『琉球新報』に「明治の世相、風俗克明に」と紹介され、斎藤政雄温故学会長が温故学会誌に注釈つきで発表したコメントしている。祖父・塙忠宝は、江戸幕府老中安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府による外国人待遇の式典について調査するも、孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとの誤った巷説が伝えられ、勤皇浪士達(伊藤博文と山尾庸三)を刺激。12月21日、幕臣中坊陽之助邸(駿河台)で開かれた和歌の会から帰宅したところ、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に襲撃され、翌日死去した。→ウィキ。伊藤博文のテロリストの側面が伺える。 
 父塙忠韶 (はなわ-ただつぐ)1832-1918 幕末-明治時代の国学者。天保(てんぽう)3年生まれ。塙保己一(ほきいち)の孫。塙忠宝(ただとみ)の子。文久2年父が暗殺されたため家をつぎ,幕府の勘定格,和学講談所付となる。維新後は修史局御用掛などをつとめた。大正7年9月11日死去。87歳。江戸出身。初名は保忠。通称は敬太郎,太郎。またチェンバレンが自己の蔵書整理をあたらせたこともある。那覇市歴史博物館の横内家古文書には塙忠雄書簡がある。
  写真ー『群書類従』『続群書類従』
  写真ー那覇市歴史博物館の横内家古文書
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 『琉球新報』の創刊は一八九三(明治二十六)年九月十五日だが、実はそれ以前にも新聞発行の動きがあったことが分かっている。一八九〇(明治二十三)年十二月十三日の『官報』に「沖縄新聞、隔日、琉球国泉崎村九番地、沖縄新聞社」と記されているが、この新聞は計画だけで終わった(新城栄徳「琉球新報」九三年四月二十日)。
■明治23年7月6日『九州日日新聞』「沖縄県に一新聞起るー行なきより近来時勢の進歩に連れて其必要を感する者日に増加し先頃来頻りに計画奔走中の者ありし由なるが今度同県庶務課属華族戸田敬義氏等の発起にて準備○○は整頓したるに依り愈々近日より一新聞を発行す○の○合なるが主筆には戸田氏自ら當る筈なりといふ」→國吉まこも氏提供

 1890年9月、東京で『沖縄青年雑誌』が創刊される。編集員は富川盛睦、仲吉朝助、謝花昇、諸見里朝鴻であった。1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。
 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。
 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。
 同年9月23日、『読売新聞』は「琉球新報-かねて噂ありたる琉球新報は去十五日第一号を発兌せり吾人は之より琉球が社会上の問題として並びに経済上の問題として天下に紹介さるるを喜ぶ」と報じる。 同年9月26日、『朝野新聞』は「琉球に新報起れリ-昔は絶海の孤島、今は沖縄県の奔蒼裡に、喜ぶべし開明の一機関なる新聞は起これり。今や計画準備全く整頓して、琉球新報と題名し、去る十五日を以って第一号を発兌したりという。発起人は尚順氏の代表者、島按司護得久朝惟、商人芝原佐一、按司高嶺某、同親方豊見城某、宮井悦之助、野間五造の人々にて、発行兼印刷人は伊奈訓氏、編集人は太田朝敷氏、校正は諸見里朝鴻氏なり。印刷機械は従来沖縄県庁に備え付けありしものを七万圓にて払い下げ、維持費には同県庁の公布式を引き受けし年額二千圓余を充つるはずなりとぞ。因に記す、新聞の発行は当分隔日なる由」。27日の『国民新聞』は「琉球新報は去る十五日那覇西村琉球新報に由て発刊せられたり曾て慶応義塾に遊学しつつありたる琉球人の筆になる云ふ」と報じられた。


1917年9月24日『琉球新報』「本紙創刊第一號」

               
1893年9月15日『毎日新聞』                          『郵便報知新聞』

               
1893年9月15日『時事新報』                          『東京朝日新聞』


1893年9月22日『日出新聞』                 


1893年9月26日『朝野新聞』

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 私にとって、絵本は保育園や幼稚園を連想する。敗戦前の那覇市内の幼稚園をみる。1876年に東京に官立の「東京女子師範学校附属幼稚園」が設立されている。那覇では遅れて、1893年に天妃尋常高等小学校附属幼稚園が設立された。1907年4月、真教寺の田原法馨らが真教幼稚園を設立している。同年1月の『琉球新報』に森柳子が「愛花幼稚園生に就いて」を書いている。翌年11月の『琉球新報』には「森柳子主宰になれる那覇区内字久米安仙坂の善隣幼稚園は元愛花幼稚園の改称せしもの」とある。1930年に永田ツルが愛泉幼稚園、32年に那覇市が上山幼稚園を設立した。33年には八重山でヤエマ幼稚園が設立されている。
□→2004年1月 斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房
 沖縄県立沖縄図書館の初代館長は言うまでもなく伊波普猷であるが、厳密には嘱託館長で正式な館長になったのは12年後である。伊波の図書館には当時としては画期的な児童室があった。ここで、その背景をみてみる。1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。

1885年10月 湯浅半月(本名吉郎)『十二の石塚』(一大長編叙事詩)湯浅吉郎
 1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。
 1900年9月、伊波普猷は京都の第三高等学校に入学。01年夏に京都でコレラ流行、伊波は一時東京に避難したという。このころ極度の神経衰弱で、気を散らすため考古学会に入り宇治辺りまで出かけた。また西本願寺の仏教青年会主催の講義や平安女学園音楽講師だったオルドリッチ女史のバイブルクラスにも出入りした。伊波は03年7月に第三高等学校を卒業し9月、東京帝大文科大学に入学した。
 1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館( http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている。
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京都府立図書館長

 1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。
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奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。 1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。



2014年1月8日~20日 沖縄県立図書館「奈良県立図書情報館交流展示」

「戦争体験文庫」は、奈良県立図書情報館3Fの戦争体験文庫コーナーで公開。戦中戦後の体験に関する資料群で、全国の方々からの寄贈によって成り立っています。現在約5万点の資料を収集しています。 「戦争体験文庫」が当時の人々の思いや生活を知る手がかりになることを願っています。→奈良県立図書情報館

□1910年7月、伊波普猷は関西において比較的規模の狭小なる奈良県立図書館を視察し、湯浅京都図書館長のアドバイスを受けて沖縄県立沖縄図書館の図案を調製し其の筋へ提出したと、新聞に報じられた。私は、2008年5月8日に奈良県立図書情報館を初めて訪ねた。2Fで「Yahoo!」と「Google」の日本、アメリカでのサービス開始時期をみる。いずれも1990年代である。3Fで司書の人をわずらわして同図書情報館の前身で1909年に開館した奈良県立図書館の建物の写真を調べた。建物は戦後も図書館として使われたが、奈良県文化会館・図書館建設にともない。大和郡山城内に移築された。図書情報館の帰途、郡山城を訪ね、旧図書館の建物が今も健在で教育施設になっている。初期のころの奈良県立図書館長は奈良県内務部長が兼任していて、初代館長が小原新三、2代目が川越壮介であった。川越はのちに沖縄県知事となる。伊波普猷がアドバイスを受けた湯浅京都図書館長は湯浅吉郎(半月)といい明治・大正期の一流の文化人であったことは、1998年10月発行の京都府立『総合資料館だより』に詳しい。1909年4月に京都府立図書館の新館が岡崎に開館した。設計者は武田五一で湯浅館長は早くから児童閲覧室を設けていた。

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湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。 
 1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。
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1910年7月31日『沖縄毎日新聞』


丸岡莞爾と「琉球史料」
丸岡莞爾1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)を沖縄県属として赴任させる。丸岡知事在任中、琉球塗の監獄署にての改良、夫人による養蚕の奨励、歌人として護得久朝置、朝惟らと歌会での交友。そして「琉球史料」の編纂をさせた。1892年7月 沖縄県知事を解任され、故郷の高知県知事に転出。

<資料>1992年4月 南西印刷出版部『地域と文化』第70号 池宮正治「丸岡莞爾沖縄県知事の演説(速記録)」
1992年8月 南西印刷出版部『地域と文化』第72号 望月雅彦「丸岡莞爾関係資料にについて」

丸岡桂 まるおか-かつら
1878-1919 明治-大正時代の歌人,謡曲研究家。
明治11年10月17日生まれ。丸岡莞爾(かんじ)の長男。歌誌「あけぼの」「莫告藻(なのりそ)」を創刊する。明治36年板倉屋書房を創立し,義弟松下大三郎と「国歌大観」を刊行。のち謡曲研究に専心,観世流改訂本刊行会を設立し,大正3年「謡曲界」を創刊した。大正8年2月12日死去。42歳。東京出身。号は月の桂のや,小桜など。→コトバンク
丸岡明 まるおか-あきら
1907-1968 昭和時代の小説家。
明治40年6月29日生まれ。丸岡桂(かつら)の長男。昭和5年「三田文学」に「マダム・マルタンの涙」を発表。戦後「三田文学」復刊につくす。能楽の普及と外国への紹介にもつとめた。昭和43年8月24日死去。61歳。東京出身。慶大卒。著作に「生きものの記録」,「静かな影絵」(41年芸術選奨)など。→コトバンク

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薬師寺:奈良市ホームページ

1971年11月ー琉球新報社、沖縄、那覇、名護の青年会議所と共催で文芸評論家・村岡剛と薬師寺管主・高田好胤を招き「文化講演会」開催。
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高田好胤と真喜志康徳
高田好胤 たかだ-こういん
1924-1998 昭和-平成時代の僧。
大正13年3月30日生まれ。昭和10年12歳で奈良の薬師寺にはいり,橋本凝胤(ぎょういん)に師事。戦後薬師寺参観者のガイド役をつとめ,修学旅行生らに説教をつづける。42年同寺管主,43年法相宗管長。金堂の再建を計画し,100万巻般若心経写経勧進をおこす。51年落慶,のち西塔も再建。平成10年6月22日死去。74歳。大阪出身。竜谷大卒。著作に「心」「愛に始まる」など。
【格言など】やたらに忙しいのはどんなものでしょう。「忙」という字は「心が亡びる」と書きます。→コトバンク
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薬師如来、右が日光菩薩、左が月光菩薩

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1929年8月16日『沖縄朝日新聞』知念武雄「タゴールの印象」

1936年11月『沖縄教育』243号 源武雄「記紀の神名、思金及麻良に就て」
〇はしがきー此の一篇の論旨から述べてみたい。南島の命名の民俗及び人名の原義を研究する為めに私は各地方各島々の人名、童名を出来るだけ採集した。それを採集しているうちに古事記及日本書紀、萬葉集、風土記を始め我国の古典に出て来る神名や人名の「名の本義」を独自の立場から研究してみることにした。その結果はどうであるか。先づ私を最も驚かしたことは吾々南島人の珍妙な童名は嘗て吾が日本民族が広く愛用したもので決して琉球人独特の珍名ではないことを看破したことである。何れこれに就ては稿を改めて報告したい。次に名の本義を研究していると、之迄発表されている古典研究者国文学者などの説に疑問を持つに至ったのである。そうして、之はどうしても吾々民俗学を研究しているものの仕遂げねばならぬ研究だと思い、ここに民俗学徒の立場から記紀の神名人名を考察することにした。先づその手始めに記紀の天岩戸の所に出て来る思金神及天津麻羅の名の本義を明らかにし世上流布されている古典研究者国文研究者の見解に再吟味を煩わしたいと思う。 
(略)
以上記紀の神名、思金神及天津麻羅の名の本義に就て在来の学者の説を批判し検討した結果その誤なるを指摘し、南島民俗の資料を以て之が再吟味をなし、自己の新しき説を提示したのであるが、振り返って何故に之迄の国文研究者が之等神名の本義をつかむことが出来なかったかに就てよく考えてみる必要がある。私は在来の学者が記紀の物語を批判する心構えが不足している結果ではないかと思う。即ち記紀にある民俗をもっとも古いものとして、それ以前の考察を怠っている結果ではないか。記紀が決して古いものでない証拠には神名に沢山の民間語源説がつきまとうて、それで物語を構成している民間語源説話の出来る時代には既にそのものの原義が不明になっていた時代になっていたことを意味している。記紀の物語はそんな時代に生まれたものであって、決して原始的な本然の姿を吾々には伝えていない。故にこれら神名の原義を突き止めるには先づ記紀の物語に脚色を打破し、民間語源説話を全然離れて独自の自由な立場からその真相をつかむようにすべきであろう。

1942年5月『沖縄教育』309号 源武雄〇棺を蓋ふてその人を知るー(略)いつ会っても盛沢山の計画を胸中に描いて居られたことである。その計画を聞くことだけでも愉快であった。部落調査の話をよく聞かされたが、実はあの仕事は大変なものであった。私も二三ぺん実地指導らしいものを受けたがいや実に骨の折れる、そのうえ頭を使う仕事であった。之を一二箇所の部落でなしに全県下に及ぼそうといふ遠大な計画で実は命が一つ二つでは足りないと心配していた。しかし、之が出来上がれば沖縄の癌であるユタ、三世相は徹底的に沈黙させることが出来るのだといふのが、源一郎さんの悲壮な決意であった。ユタ、三世相を根本的に駆逐するには部落調査によって各氏族の系図を正さねばならぬ。といふのがその意図する所であった。部落調査をやっているうちに、沖縄歴史の記録に対しても意見があったらしく新しい沖縄歴史を書いてみたいと洩らしてゐられた。鬱勃たる念が胸中を去来していたのであった。こんな忍耐を要する、しかも金にならぬ仕事は源一郎さんの外にはちょっと手が出ない(以下略)


1958年3月 東恩納寛惇『沖縄今昔』南方同胞援護会「著者近影ー自宅にて郷土史研究家・源武雄君と」(外間正幸君撮影)


1965年2月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社□上の挿絵は金城安太郎/末吉安久(麦門冬弟)「表紙画」


1972年3月 『琉球の文化』創刊号 源武雄「結婚と貞操」


1972年3月 真栄田義見・三隅治雄・源武雄 編『沖縄文化史辞典』東京堂出版


1973年10月 『琉球の文化』第四号 源武雄「朝薫の人及び芸術についての覚書」


1981年3月3日~5日『琉球新報』源武雄「首里城復元とその意義」


 1983-8-19『琉球新報』源武雄「鎌倉芳太郎先生と首里城復元」


1992年8月10日 『沖縄タイムス』湧上元雄「源武雄氏を悼む」

沖縄県立芸術大学でー湧上元雄氏(右)

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1908年9月ー愼氏我部家7代目・我部政榮葬儀/1929年9月1日『沖縄朝日新聞』「昭和5年1月、三越において本県物産の展覧会を開催することについては斡旋者たる我部政達氏・・・」(この頃、三越に1919年入店の瀬長良直が居る。1934年、銀座支店長。1937年、大阪支店長)


1955年7月1日『琉球新報』我部政達「本土に散在する郷土文化財について」
 1973年3月ー『琉球の文化』第三号<特集・琉球の伝統玩具/琉球の塗物>□琉球文化社〒902那覇市安里425丸清ビル2階/コザ支社(城間喜宏)/関西支局(沖縄関係資料室・新城栄徳)/神奈川出張所(平良秀夫)


<50年前の琉球の玩具>我部政達が1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」に出品したもの。

特集Ⅱ・琉球の漆器
  琉球漆器考(再録)ー石沢兵吾
  文献にみる琉球漆器の古さー山里永吉
  漆に魅せられてー前田孝允
  琉球独得の漆芸「堆錦」についてー編集部
  沖縄漆工芸の現状と将来を考えるー伊差川新
  沖縄の漆器素材と漆料の問題ー多和田眞淳
  琉球の漆工芸・郷土玩具に関する文献ー新城安善 
  現代沖縄の工芸家ー漆芸家・前田孝允さん


左のカラー図は、崎山嗣昌「闘鶏」/古倉保文「首振りトラ」、


1974年9月 『月刊 歴史手帖』名著出版「地方史雑誌・文献目録ー◇琉球の文化 第三号」

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
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「二十日正月踊」のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」



山田真山・住所変遷
山田泰雲君は元篆刻てんこく師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許しを得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。→青空文庫/高村光雲「幕末維新懐古談・その後の弟子の事」
1916年   東京府下日暮里谷中本1017
□石野瑛『南島の自然と人』表紙・山田真山画「オメントー」
1918年   東京市下谷区三崎南町60
1929年   東京市外井萩町上荻窪963
□2001年3月『新生美術』山田博「具志堅(聖児)先生の思い出」
□真山家族ー妻・博子(小堀鞆音の娘)、長男・真、次男・博、長女・栄子、3男・光三
小堀鞆音 こぼり-ともと
1864-1931 明治-昭和時代前期の日本画家。
文久4年2月19日生まれ。川崎千虎(ちとら)にまなび,歴史画を得意とした。明治31年日本美術院の創立に参加。41年東京美術学校(現東京芸大)教授。大正8年帝国美術院会員。門下に安田靫彦(ゆきひこ),川崎小虎(しょうこ)ら。昭和6年10月1日死去。68歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。旧姓は須藤。本名は桂三郎(けいざぶろう)。作品に「宇治橋合戦」「武士」など。(→コトバンク)
1937年   名古屋市中区米野町居屋敷52

1937年7月18日『琉球新報』「工房を開放し太田翁の胸像 本日、一般へ観覧さす」
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山田真山、太田朝敷像制作
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比島移民翁・大城孝蔵立像
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先月、芸大の小林純子准教授研究室に遊びに行くと山田真山資料がまとまってあった。沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館には真山の下絵、スケッチ、平和祈念像の構想図が、1986年に遺族から寄贈された。今回、その整理が終わったので報告を書いているのだと小林さんは言う。小林純子「山田真山による下絵資料について」に真山の略歴がある。私も以前、那覇市が真山の日本画、彫刻作品を購入するにあたって参考資料を提供したことがある。

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3月21日『沖縄タイムス』末吉麦門冬「池宮城寂泡君の郷土文学叢書発行の序に代へて」
○池宮城君!君の郷土文学叢書発行の企ては誰も考えていて実行の機会を得なかったもので、至極賛成です。文学普及の為め其の効果頗る大なるものがあろうと思います。どうぞ根気よく続けて下さい。さてこれに序を書いて呉れとの御頼みですが、何を書いてよいものでしようか。此間御話したようなものを書きましょうか。私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬかと云うことは、私も考えないではありませんでした。一口に云うとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思います。本当の沖縄と本当の沖縄人が出て来なくてはなりません。而してこれを得るには、殊更に私達が郷土の色を深めよう濃くしようなどと意識的に努力しては駄目です。そうすると却って他国若しくは他県の者が、私達及び私達の環境を描いたものにあるような、●種の誇張され、歪曲されたものと似通ったものになります。それには私達の持とうと望んでいる或物が如実にあらわれません。似ても似つかぬものとなってしまう恐れがあります。殊更に他人に見せるようなものであってはならぬ、吹聴や宣伝では否ません、見せびらかしではない。・・・


3月23日『沖縄タイムス』伊波普猷「池宮城寂泡君の郷土文藝叢書発行に序す」
4月23日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(上)」
4月24日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(下)」
5月24日『沖縄タイムス』「琉球音楽界の長老 大田徳裕翁永眠 享年66歳」

6月 那覇の新天地でニコニコ大会メトロ社映画/バスターキートン主演「案山子・文化生活一週間」上映
○バスター・キートンは、アメリカの喜劇俳優、映画監督、脚本家。本名はジョセフ・フランク・キートン。チャーリー・チャップリンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。 ウィキペディア

◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」

7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着


1924年6月29日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(1)」
1924年7月10日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(10)」
◎1844年3月11日ー仏船アルクメーヌ号、那覇に寄港し、和親・交易等を要求、3月19日同船宣教師フォルカード①・清国人通事オーギュスタン=コウを残して那覇を離れる。  ①フォルカード Forcade, Théodore Augustin 1816-1885 フランスの宣教師。
1816年3月2日生まれ。パリ外国宣教会から派遣されて1844年(尚育王10)琉球の那覇に来航。布教には成功しなかったが,琉球語をまなび,「琉仏辞典」を執筆。日本代牧に任命され長崎にむかったが,鎖国のため上陸できず香港をへて帰国した。1885年9月12日死去。69歳。ベルサイユ出身。→コトバンク


1924年7月8日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(1)ー仏蘭西と琉球ー唯一の外交史料」
  1924年7月25日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(11)ー仏蘭西と琉球ー唯一の外交史料ー・・人類 もと一組より出て昔 遡れば皆同胞兄弟であるから、四海皆兄弟は人類の理想である。同胞兄弟おのおの父の家から分かれて 相拒み相絶つことを得ない。天下の兄弟も亦た然り 各々其の住むべき土地を分有しても、天下の大道は通行自由でなければならぬ・・・」



8月2日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論・琉球人が答ふ 神村弔魚氏へ 」
8月6日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論・正体を見よー排日法案」


8月12日『沖縄タイムス』「昨日女学校で伊東忠太博士の講演ー本県の建築に就て」


8月18日『沖縄タイムス』「伊東忠太博士の悦びー熱心な視察振に尚順男爵も感心」


8月19日『沖縄タイムス』「一昨夜、風月で昇曙夢 歓迎会」


8月26日『沖縄タイムス』「黒板勝美博士談ー首里城及び其の付近一帯を國寶として保存」

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2019年9月7日14:00~15:30 沖縄県立博物館・美術館 美術館講座室 講師・金城美奈子「金城安太郎展 ギャラリートーク」


入口で名古屋の阪井芳貴さん(左)と出会う。/金城美奈子「金城安太郎展 ギャラリートーク」





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金城安太郎画「新城栄徳」

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1937年9月『月刊琉球』山城正忠「麦門冬を語る」
○けふは旧の7月13日、所謂精霊を迎える日であり、初秋の風に、盆灯篭のもの淋しくゆれる孟蘭盆である。そのために、私の心には麦門冬が今に会いにくるような気持ちになるまでに、なつかしい彼の面影がよみがへって来ている。今。麦門冬。思いがけなくも、あまりに世を早く去った彼、年齢からいふと、わたしより弟分でありながら、生意気に本を読み過ぎいささか頭のよかったキヤツ、私は無理と知り乍らも、今一度奴を現実にひき戻したくて仕方がないのだ。麦門冬。即ち』末吉麦門冬である。親のつけた戸籍面では末吉安恭。元来、麦門冬は彼の俳号であった。私の知っている範囲内で、その頃の沖縄俳壇に、名実共に俳人らしい俳人といったら、末吉麦門冬ともうひとり、これも物故したが、壷屋出身の高江洲三念であった。三念に就いては、今頃知る人も少なかろうが目下、中京名古屋の舞踊界で活躍している、南条舞踊研究所高江洲康宏君の兄である。したがって、麦と三念の間にはわれわれにもうかがひ知れない緊密な俳交があった。それから麦門冬には莫夢山人といふ号があり、それもよく随筆なぞを物していたのは、未だ記憶している人も多かろう。

その代わり、落紅といふ歌号は十中八九知らないだろうと思ふそれを特に私が知っているのは少し理由がある。といふのは例の新詩社の「明星」が百号で廃刊し、それに代わる「昴」が森鴎外博士を主格に、与謝野夫妻を顧問として、北原、吉井、茅野、大田(木下杢太郎)、平野それから一代の才人石川啄木君なぞによって発刊された、当時彼が落紅の筆名で、しばしば短歌の一般投稿欄のトップを切っていた折あたかも在京当時の私がその雑誌の同人格で果敢ない命脈を繋いでいたからである。とにかく、麦門冬といふ男はある一時、新聞記者といふ立場に於いて反対党の或政敵からは「化け者(モン)とう」といい囃された程、得体のわからない豪ら物だった。そもそも、末吉安恭が書斎から街頭に出た当初は、何の変哲もない一文学青年に過ぎなかったが、天稟と努力による彼の行くとし可ならざるは無き学殖と端倪すべからざるその才能は、いつしか県ソウコ界の寵児たらしめたのであった。おそろしく筆まめの男で、編輯締切間際になって記事が不足し、他の記者が徒に騒いでいる時でも彼は悠然として神速に、何かを書き上げてその穴を埋めていた。しかもそれが良い加減のものではなかった。酒と来たらそれこそ眼がなかった。飲むと矢鱈に煙草を吸ひその吐き出す煙で相手を巻くように能弁になり、雄弁になる彼であった。ふだんは割合におとなしかったが、酔ふとトラになって、武を演ずることが往々有った。(以下略)



山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○崖言ー黙っているのも能ではあるまい何か書いて見たらと、灰雨①にそそのかされて、久方ぶりに、筆を執り、研に親しんでみる気になった。それだけでも、私としてはよほどの発心である。もちろん、文をつづるわざに、関心を失ったわけではないこれでも絶えず、その方面に念がけているが、人に示す程のものがかけないからといふ心に、鞭うてない例の怠りである。そこで、案に向って見たものの、これといった腹案がないため、やはりいけない。よんどころなく、筆を投じ、数年来珍蔵している、寄書屏風に対座して見た。何かそれによって、暗示でもうけたいと思ったからである。
①灰雨ー國吉眞哲

夭々たる桃花と微吟したい陽春三月の光をうけて、銀の色がややすんでいるのもどことなく落付きがあって、いいものである。そこには一面に、先輩や友人たちの芳名が録されてあり、なほ、各自の心境と気魄の横溢した、書画がひしめき合っている。数にしざっと百名を越すであらふ。すべて、茅屋に駕を枉げていただいた方々の記念に残されたサインである。こうして見ていると、おのづから、いろいろの顔が浮かんで来るし、更らに、ことなった声がきこえるやうな気がして、何とはなしに、「閑忙至楽」といふ句が思ひ出される。試みに、その中から、特に異色のあるものを拾って見やふ。

「浄華雲」、敏とあるのは、暁烏敏②(以下敬称を省く。又他意なし)である。これを見ていると、あの極度の近眼鏡と、若い夫人の品やかな手が思ひ出される。「首里の青天、なはのへきれき」とつつましく書かれているのは、折口博士の事、釈ちやう空のである。薄墨の色にも、氏の人柄が窺はれて頭がさがる。「山原船」の絵は春陽会の山崎省三③。「笊を頭にのせた女」の絵は帝展の三宅凰白。これには句が賛してある。曰く。物売りの言葉わからず梯梧散る。踊を象徴したやうな「踊」の字は石井漠④。その署名をとりまいて、圓舞するけしきに見えるとりどりの署名。八重子、洋子、みどり、静香、恵美子。因云。八重子は石井夫人である。これだけは旅館でかいてもらった。佛文はアグノエル⑤、露文はセルゲーエワ嬢。

②暁烏 敏は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 ウィキペディア

③山崎省三 やまざき-しょうぞう
1896-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年3月6日生まれ。日本美術院研究所にまなぶ。大正5年院展に初入選。村山槐多(かいた)とまじわる。11年春陽会創立会員。昭和12年より新文展に出品。山本鼎(かなえ)らと農民美術運動をすすめた。昭和20年6月7日ハノイで戦病死。50歳。神奈川県出身。作品に「午砲の火薬庫」など。→コトバンク

④石井漠いしいばく
[生]1886.12.25. 秋田,下岩川
[没]1962.1.7. 東京
舞踊家。本名石井忠純。日本の現代舞踊の父といわれる。文学を志して上京したが,のちに石井林郎の芸名で帝国劇場付属管弦楽部員,同歌劇部第1期生となり,ジョバンニ・V.ローシーにバレエを学ぶ。 →コトバンク

⑤シャルル・アグノエルは日本・朝鮮の言語・文化を担当したパリ大学教授。1924年から八年間日本に留学し30年に沖縄を調査。沖縄に関し「琉球における死の表象の特徴について」などの論文があり、著書「日本文明の起源」(56年)が久高島の風葬などを報告した。→森田琉大学長

短冊型に輪郭をとった中に柳につばめの模様を描き、「宵闇を明るくするや、小夜楽」と句をかいたのは田谷力三。「ほのぼのと明け行く白き朝霧につつまれて着く那覇の港や」は北村季美子。紙数に制限があるから、以下友人のをぬいてみやふ。「鶏啄木」の宮城長順。「銀椀裡盛雪」の島袋全発。「喜神招福」の謝花雲石。心如水一の谷本誠。「多情無為」の上間正敏。等々。何れも其性格があらはれてほほえましくなる。その他「月橘花白ろ」の故国吉寒路。「首里城明渡し」の山里永吉、これは俳句と戯曲の題書である。一寸変わり種では石川正通の英文ゲーテの句、イブラギムのトルコ文字。ネファ。ヴアンチュウルの吉野光枝といったところ、それに島袋光裕の書と、宮城能造の絵を追加したい。大書きされて眼につくのは、時君洞の蒼勁三武郎の典雅、反対に小書きされて眼につかないのは、川俣和と藤井春洋。両氏共、国学院の出身で、折口門下であるのも、此場合、偶然の対照で面白い。
書いているうちに、紙数が尽きたから、他は割愛することにして、次回から、此欄を藉りて、私なりの考証や観察といったやふな、随筆を連載させていただく事にする。

1936年4月 山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○一茶と琉球人ー良寛と一茶とは、私にとって、もっとも嬉しい人生の旅人であり、又、遺された句や歌を通じて、知合になったいい途連れである。しかし、ここではその一茶に就いてのみ、かきとめておく。「一茶旅日記」ーこれはその名の示す如く自ら「革命の年」と呼んでいる。彼の42歳から46歳までの5年に亘る句集を兼ねた日乗である。島崎藤村先生は、江戸の仮住居の侘しい行灯のかげなぞでその日その日に書かれたらしい心覚えの手帳だと、いみじくも追想されている、越後入村家の襲蔵に係る稀こう本で、大正13年6月18日、斯道の権威、勝峰晋風氏の解説によって遍く世の同好者に頒れたもの、私は友人川俣和氏に借覧して思ひがけない眼福を得た次第。その中から事琉球に関するものだけを抜粋して、取り敢えず手控へにしたい。左記。
     文化三年十二月十三日の条に、晴。北風。品川岡本屋にて琉球人を見る。砂明と外三人一座なり。
     同二十三日。琉球人登城。同三十日琉球人上野に入。同十二月四日。晴。行徳川岸大阪屋に泊る。琉球の医師葬。
以上。これによって、江戸上り琉球使節一行の唐人行列が、如何に江戸市民に好奇心を以て迎へられたかといふことがよく窺はれる。(以下略)

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」
 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

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2015年8月「福島旅名人」

2017年11-5 名嘉幸照氏と金城実氏(後ろ向き)/名嘉幸照氏と金城実氏
【琉球新報電子版】2016-1-14
沖縄の魅力を県内外にPRする県の「美ら島沖縄大使」に、原発メンテナンス業者、東北エンタープライズ会長の名嘉幸照さん(74)が就任した。安慶田光男副知事が14日、県庁で認証状を交付した。
 名嘉さんは伊是名村出身で、福島県いわき市に在住している。原発技術者として、福島第1原発の運転開始直後から業務に携わってきた。福島沖縄県人会の前会長(現在顧問)、WUB東京会員として、福島と沖縄をつなぐ交流事業に関わり、東日本大震災後には福島から沖縄に避難した人たちとの交流や情報交換を行っている。名嘉さんは「基地問題などで苦しむ沖縄と原発問題を抱える福島には多くの共通点と共感がある。両県がこれまで以上に交流を深められるよう尽力したい」と抱負を語った。


1977年1月 福島県高等学校社会科研究会『福島県の歴史散歩』山川出版社/磐梯山噴火/会津の特産物/袋中上人誕生地の碑/福島第一原子力発電所

袋中上人
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1938年3月ー檀王法林寺『袋中上人餘光』/寧王院袋中寺、念仏者
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1936年3月ー檀王法林寺『琉球と袋中上人』/1936年3月ー写真上・正面・信ヶ原良哉僧正、写真下・正面・尚順男爵(1958年再版)
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1988年4月ー京都国立博物館『袋中上人と檀王法林寺』/『琉球神道記』、袋中上人像

袋中上人の資料
1918年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡に「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。
1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。
1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。・・・
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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。
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京都で琉球民謡を聞く
2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。



1991年7月 星新一『夜明けあと』新潮文庫/1978年8月 星新一『明治・父・アメリカ』新潮文庫□沖縄に渡ると、そこの新聞社に行って自分の抱負を話すと、そこでも記事にしてくれた。(古本の)売上げをのばすこともできた。新聞の効果というものに、星は一段と興味を持ったのだった。沖縄で仕入れた特産品を売りながら、九州を北へと旅した。長崎へむかってである。」
星一 ほし-はじめ
1873-1951 明治-昭和時代の実業家,政治家。
明治6年12月25日生まれ。星新一の父。明治44年星製薬を創立,モルヒネの国産化に成功し,日本の製薬王といわれた。41年衆議院議員(当選4回,民主党)。昭和22年国民民主党から参議院議員。また星製薬商業(現星薬大)を設立。昭和26年1月19日死去。77歳。福島県出身。高等商業(現一橋大)卒,コロンビア大卒。 【格言など】人民は弱し 官吏は強し(コトバンク)

1913年5月27日『琉球新報』の星製薬の広告

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null10月31日~12月23日 那覇市歴史博物館「石澤司コレクション展/郵便で見る沖縄史-琉球処分から日本復帰までの郵便物」


写真左から石澤司氏、真喜志康徳氏

米国からヘンリー・E・アモア宛の葉書


大東諸島の郵便物

尚順の手紙と、名刺封筒

新垣恒政宛の手紙と、新垣著『医療宣撫行』

真喜志康徳氏の郵便資料

昼のNHKニュースで那覇市歴史博物館「石澤司コレクション展/郵便で見る沖縄史-琉球処分から日本復帰までの郵便物」を報じる。


琉球切手のすべて

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青年・謝花雲石

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雲石・謝花寛剛(1883年4月1日~1975年2月21日)
1911(明治44)年朝鮮に渡り、朝鮮総督府臨時土地調査局に務めるかたわら、海岡・金圭鎮に師事し王義之の書法を学ぶ。22年沖縄県庁に書記として務める。この頃「大本瑞祥会」に入会し「人は神意を実行する機関としてつくられたものであり、神の理想たる天国のすがたを地上に実現することが人生の目的であり使命である」ことを人生観にする。35年昭和神聖会沖縄支部相談役、戦後には大本琉球主会の会長を務めた。「日本に書き方はあっても書道はない」と言いきる。(1997年1月『近代日本社会運動史人物大事典』新城栄徳「謝花寛剛」)


謝花雲石・大本沖縄支部長


1972年 うりずん若夏社『LOGOS


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2009年6月9日『沖縄タイムス』「謝花雲石 戦前の書ー写真家山田實さんの兄保管」




昭和19年4月28日 雲石道人書「営州刺史・高使君・懿候碑」

泰山のはがきエッセイ
次第に寒くなってきました。今年もあとわずかです。
風邪などひかぬようお過ごしください。

 沖縄県庁の表札 
 来年は沖縄返還から四十年。新生沖縄県の発足に際しそのシンボルとして現在の輝石安山岩の沖縄県庁の表札が設置された。その表札の文字を揮毫したのは、今は亡き謝花雲石翁である。尚順、山城正忠とともに沖縄昭和の三筆と言われ、その正忠をして日本の五指に入ると畏敬させた雲石翁は、無欲一徹、九十三歳の生涯をひたすら書道研鑚に邁進した沖縄の誇る書道家である。
 揮毫を依頼した琉球政府最後の文書課長の故照屋栄一氏は、門札に雲石翁の雅号記載を進言所望した。ところが雲石翁は「沖縄県庁の表札は沖縄県民の合作だ」と言って聞き入れなかったと語っている。沖縄県復活は米軍の圧政にひるまず闘った県民みんなの努力の成果だからというのがその理由だ。そして、翁自らの思いを「葉和凄雨」の言葉に託したという。「葉は凄雨に和す―沖縄の木のように暴風雨は吹くにまかせよ。ひどい雨もやがて止み、雨に洗われた緑葉はまた輝く。復帰によってまた違った豪雨になろうが、その試練を沖縄の成長の糧にしよう」との意である。斎戒沐浴して一気に書いたという雲石翁の文字を、照屋課長は「石に彫ってみると、荒々しいというか、沖縄がこれからの荒波を乗り切る若さが表現されている」と評している。
 昨今の日本政府の問答無用とばかりの沖縄への対応を見るにつけ、沖縄県庁の表札にまつわるこうした事などをあらためて思い起こすのである。
(沖縄タイムス 茶飲み話 2011.12.10 掲載)



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沖縄新聞・機関紙相関図

 2011年2月7日昼前、沖縄県立図書館で垣花稔さんに出会った。那覇と題する映画フィルムを見せてもらった。映像資料は沖縄県公文書館が熱心に収集しているので垣花さんと同行した。公文書館では小野さん、久部良さんがいた。フィルムは垣花さんが公文書館に寄贈した。そして小野さんから『沖縄毎夕新聞』を見せてもらった。
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 1937年11月ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』海外研究所に宮城清が紹介されている。□泡盛商 神田区淡路町2ノ5(電話神田2357番)、島尻眞和志村與儀の産、明治28年2月14日生、大正3年県立一中を卒業、大正8年沖縄朝日新聞社に入社、主として経済方面を担任5年間勤務す、大正12年同志故瑞慶村智慧氏と計り沖縄経済新聞を創刊す、之れは沖縄県に於いて最も必要なことは沖縄と他府県との経済的関係を明らかにし商取引其他経済上の利害得失を究明し母県の政治上経済上将た社会上あらゆる方面に新生気を注入せんとする信条のもとに企画されたのであったが1年にして廃刊となる。これ沖縄に於ける純経済紙の最初のものであった。後大城彦五郎、伊仲晧の3氏共同にて沖縄毎夕新聞を創刊し社務に従事傍ら県会書記を嘱託さる。大正13年沖縄タイムス社に転す、当時村治刷新自治振興運動にも奔走す、大正14年沖縄救済運動のスタートとして沖縄経済振興会が組織されるや氏は幹事に推され庶務一切を担任して沖縄産業助成運動に参画す、同年末沖縄物産東京斡旋所が設立されるや羽田内務部長の推薦に依り同所最初の東京勤務となり、沖縄物産の東都進出、販路開拓に尽力す、昭和6年9月官を辞し独立して泡盛卸業を開始して今日に至る。(以下略)

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2021年11月 大城辰彦氏、新城栄徳/2019年10月 安仁屋政昭著・大城辰彦監修『反戦平和の源流 近代沖縄の民衆運動』あけぼの出版


1959年3月 『沖縄・小笠原関係団体名簿(抄)』南方同胞援護会



1965年9月 『東京沖縄県人会名簿』東京沖縄県人会(神山政良)

在日沖縄学生会機関紙・誌




1972年5月 堺沖縄県人会『会員名簿録』歴代会長・高良善吉(1914年、本部備瀬)1968年就任/並里良助(1913年大宜味上原)1970年就任/久米武善(1912年那覇高橋)1972年就任
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1972年12月28日 『堺沖縄県人会報』第5号 編集責任者・嘉陽勤/1974年9月8日『堺沖縄県人会報』第9号 編集責任者・嘉陽勤
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1992年7月 嘉陽勤『地獄極楽わかれ道』

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
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11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」



1980年5月『那覇会会員名簿』真栄田三郎(東京都中央区勝どき5ノ4ノ18ノ108)

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1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
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1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

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1987年8月 東京沖縄県人会『三十周年記念誌』由井晶子編、新崎盛敏編集委員長、大城辰彦委員、委員17人「座談会ー三十年を顧みて今後の課題を語るー歴代事務局長」大城辰彦7代目事務局長 



1988年3月 大城辰彦(編集責任者)『創立十周年記念誌(1978年~1988年)』板橋区沖縄県人会(会長 阿波根朝計)

1988年3月 大城辰彦編『写真でつづる松本三益のあゆみ 年譜・著書・論文目録、資料ー』
 
2008年4月『オキナワグラフ』新城栄徳「『オキナワグラフ』50周年に寄せて/創刊者(崎山喜昌)の横顔など」


「沖縄の雑誌略年表」(作成協力・新城栄徳、上原実)
表紙「Cocco」〇本誌『オキナワグラフ』(以下グラフ)は、1958年4月に創刊された。発行人は崎山喜昌、編集人が神村朝堅。創刊者の人物像は余り知られてないが、崎山は名護に生まれ11歳のときに父を亡くしている。15歳で上京し、神田の中学に入学、チンドン屋、新聞配達のアルバイトをしながら苦労して日大夜間部に入るが、胸膜炎にかかり帰郷する。1928年に沖縄物産販売の目的で再び上京し、鶴見に泡盛卸商を開業する。31年、東京深川に進出。一時、佐久田昌章と沖縄物産商会を経営したこともある。 
 崎山は泡盛で得た資金で37年、那覇西新町に高級旅館「那覇ホテル」を経営する。戦時中、軍命で南洋パラオに渡り、戦後、引揚げ南洋群島引揚沖縄人援護会を組織し理事長となり南洋庁沖縄人関係残務整理事務所の嘱託、南洋群島共助義会理事を経てドイツ製のカマでパン製造の朝日製菓株式会社を創立した。その朝日製菓の住所と電話番号は後に沖縄映画配給株式会社(国場幸太郎会長、宮城嗣吉社長)の東京支社となる。グラフが初期のころ映画や沖縄物産の宣伝に力を入れていた背景には崎山の経歴によるものがある。後に生地跡に「崎山図書館」を寄贈し、名護市立図書館の母体となった。(以下略)
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崎山喜昌


2008年7月 『五十周年記念誌ーおきなわの声を伝えて半世紀』東京沖縄県人会

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2009年10月 「鄕友会・県人会関係資料展展示目録」沖縄県立図書館



東京/2016年11月13日『沖縄タイムス』「東京沖縄県人会60周年記念特集」/2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」

在京沖縄県人会機関紙





1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛 大阪の沖縄』

1997年6月 大阪沖縄県人会連合会50周年記念誌『雄飛 大阪の沖縄』


辺野古新基地NO

2015年4月10日『琉球新報』新崎盛暉「菅氏の欺瞞性を指摘ー(略)沖縄の平和な未来を、『運用年数40年、耐用年数200年』(米国国防総省報告書)の辺野古新基地建設によって閉ざしてはならない。」



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 「くろねこの短語」2021年1月31日 イギリスで発生したコロナ変異種が、埼玉県のある職場で集団感染したってね。イギリスへの渡航歴がないことから、どうやら市中感染が起きているんじゃないかというんだが、日本は世界でも変異者感染が多いんだよね。特高顔のカス総理は「市中で一例でもあったらそこ(の国からの入国)は即停止したい」って得意げにのたまってたんだが、いまではEUに日本からの渡航禁止されちゃうんだから、ペテン師・シンゾーがほざいていた「日本モデル」って何だったんだろうね。
 そんな中、組織運動本部職員がコロナに感染したってんで、自民党が全職員のPCR検査をするってさ。「正確性に難がある」ってdisりまくって、これまでさんざんPCR検査を抑制し、あげくに感染爆発の引き金を引いてきたくせに、足元に火がついたらこれだ。しかも、自民党には政党助成金という税金が入っているわけで、考えようによっては一般大衆労働者諸君が汗水流した金で職員のPCR検査をするのと同じだろう。妄想だけど。
 最後は金目のノビテルの無症状入院に続いて、ああ、やっぱり上級国民優遇なのねって声がネットで飛び交っているけど、「今だけ金だけ自分だけ」の自民党ならではのゲスの極みってことだ。

 立川談四楼1-30 「自民党本部の全職員にPCR検査を」って、二階さんは思い切ったことをやりますな。国民が検査を受けようにも体制が整ってないのに、自分のところだけですか。順序を間違えてませんかね。医療施設や老人を始めとする介護施設が先でしょうが。デリカシーの欠片もねえな。国民を怒らせることが目的かよ!
 「くろねこの短語」2021年1月30日 (前略)なんでも、大阪市には民間企業に委託する「総合就職サポート事業」があり、その特約条項に次のような記載があるんだとか。「▽受給者が就職し、生活保護廃止になった場合▽保護申請中の人が就職し、受給に至らなかった場合―に1人当たり6万1111円が委託料に加算されます。また、職場に定着した場合は、さらなる加算も。逆に、支援を受けた人の就職率が50%未満であれば、基本委託料から割合に応じた減額があります。」
 つまり、「委託料とは別に生活保護打ち切りに結びつけば、成功報酬1件6万円まで払っていた」(宮本岳志全衆議院議員)ってことだ。でもって、業務委託を受けていた民間3社ってのが、パソナ、アソウ・ヒューマニーセンター、パーソナルテンプスタッフだとさ。何か匂うようね。そう、パソナは言わずと知れた竹中平蔵の会社で、アソウ・ヒューマニーセンターはひょっとこ麻生の弟が会長をつとめる麻生グループの人材派遣会社のひとつでしたとさ。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2021-1ー30 気温は10℃ 夜中は4℃と寒い日が続いています。夜半に滝のように降った、ロスアンゼルスの雨はきょう一日だらだらと降り続けていますロスアンゼルスからサンフランシスコ方面へ行く、高速道路は積雪で通行がが閉鎖状態で、ロスアンジェルス市内各地では地崩れの被害も起こっています。カリフォルニアはコロナ患者の減少に成功し、今週から外出禁止命令もゆるくなり、閉鎖を余儀なくされていた飲食業も開店していいとの事です。小中学校の長い期間のリモート授業も、2月から対面授業に切り替え、児童はやっと登校できるようで、去年からの長い自宅待機リモート授業に児童も父兄もよく耐えたと思います。

 『京都新聞』1月29日 近畿日本鉄道と近鉄レジャーサービスは29日、マンボウの飼育で知られる水族館「志摩マリンランド」(三重県志摩市)の営業を3月末で休止すると発表した。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2021-1ー28 夜中に降った雨は明け方には止みましたが、放射冷却現象で寒い朝の南カリフォルニアです。今日一日はカリフォルニア晴れのようですが、また明日から週末まで雨の日々になるとのこと、8ヶ月ぶりの恵みの雨は嬉しいのですが、夏に火災にあった山裾の住土砂崩れの危機にさらされているとのことです。十分に降った雨は彼方の山の裾野近くまで真っ白に雪で覆われて、自然が与えてくれた美しさに見とれています。今年も鉢植えの「河津桜」が2年続きの満開を迎えています。わが家の河津桜ははるばる異国に来て咲くからか、新芽の葉も花とが同時に出ると言う昨年と同じ珍現象ですが、夫婦二人でのカリフォルニアの花見には充分満足な桜です。
 東京はオリンピックが決まった時、道路上にある電柱を全て地下に埋めると小池都知事が宣言していました。これは美観はもとより、災害時の電柱の倒壊などを避ける目的とのこと、訪日する度に目障りなことが一つ解消すると期待していますが、果たして東京の電柱は地下に潜ったのでしょうか。もう一つオリンピックまでに何らかな方法を考えなくてはならないのが、東京のごみ問題です。日本へ行くと、歩道横にポリ袋に入ったゴミ袋の山を見かけます。NHKのニュースでスーパーラットなる殺鼠剤に耐性した、しぶといネズミが繁殖し、中国ではネズミから媒介された病気で死者がかなり出ているとのニュースをし、その関連から日本では特に渋谷、銀座などの深夜過ぎの繁華街に、沢山のネズミが出没している現状ニュースを放映してました。
 気になることは、渋谷、銀座などの深夜過ぎの繁華街などの歩道横にポリ袋に入ったゴミ袋の山を見かけることです。ネズミが来て袋からゴミを食べる事を気にしていない風で、これではネズミも増えることでしょうし、早朝にはカラスなどがごみ袋をつついて、ゴミが散乱している風景など良く見かけます。早急にこのポリ袋の捨て方のシステムの検討もしなければ、オリンピックに向けての美観の観点からも問題となることでしょう。
 カリフォルニアの各市によって、幾らかシステムが異なりますが、ロスアンゼルスの「家庭ゴミ処分事情」は一週間に一度、月にすると4回、市から委託された、このようなゴミ運搬車が来ます。指定された日に、各家庭は支給された写真の様な200リッターの大きさの、蝶つがい状になった蓋つきのゴミ入れ容器を指定されて曜日に、週に一度 歩道へ出して置くと、市が契約したゴミ取り運搬業者がきて、フォークリフトの様に機械でゴミ箱をはさみ、ゴミ運搬のトラックにゴミが投げ混まれる仕組みになっており、全て運転手1人の仕事でその作業は済まされます。このゴミ捨て代金は市からの援助もあり、一軒当たり月2000円のゴミ捨て代金が請求されます。ブラウン色の容器には、台所から出るゴミは分別せず(生ゴミ、紙類、ガラス、プラスチック類)すべて一緒に廃棄し、日本のように焼却はせず(焼却の際に出る有毒ガスなどの環境問題から)、砂漠や谷間などに埋められます。
 庭から出た枯れ葉や剪定した木々などはグリーンの容器に入れて、指定日に歩道に出せば、収集車が持って行き、切り刻み肥料などに還元される仕組みのようです。なお、アルミ缶(1㌔約500円で買い取ります)、ガラス瓶(1㌔100円ほど)の買い取りのスタンドも各所にあります。また訪日した時に一人暮らしを体験した時に、過剰包装の日本では一週間に出るゴミの量が、アメリカ生活に比べて多いのには驚いたものです。エンゲル係数が高いとゴミの量も多くなるようで、「ゴミ問題」を征する都市こそが、真の文化都市と言えましょう。 
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1987年8月 編著 ラブ・オーシュリ・上原正稔 監修 照屋善彦『青い目が見た「大琉球」』ニライ社/2021年1月27日~28日『沖縄タイムス』後田多敦「ギルマール写真と首里城正殿」。図版は『青い目が見た「大琉球」』ニライ社に紹介されている。図版のもとになった写真を確認したということだろう。

 東スポWeb 2021/01/26 森会長の失言がIOC内で不満を買っているという(代表撮影)〝失言王〟への不満がついに海外でも爆発だ。新型コロナウイルスの感染爆発で今夏の東京五輪開催がピンチを迎える中、大会組織委員会の森喜朗会長(83)が国際オリンピック委員会(IOC)をはじめとした海外の五輪関係者から「もうしゃべらせるな!」と怒りを買っている。

 M・T 1-25 自衛隊水陸機動団の辺野古キャンプシュワブへの配備常駐の自衛隊と米海兵隊の極秘合意、これは憲法違反どころかシビリアンコントロールという近代国家の大原則を踏みにじった軍の暴走だ。外交努力より集団安保で軍事力を優先させた安倍政権の暴走、そこに隠されていた軍事秘密だった。これで辺野古は普天間の代替施設ではない米軍と自衛隊の共同軍事基地という これまでにない新しい性格の日米集団安保の軍事基地であることが明白となった。政府の説明が国民を騙し続けてきたことが暴露された。併せて今種子島の馬毛島の基地建設計画との関連も明白になる。それだけに 那覇軍港移設、馬毛島新基地建設が争点になっている 浦添市長選 西之表市長選の意義は一段とはっきりしてきた

  「くろねこの短語」2021年1月23日  (前略) そもそも、感染症において自宅療養なんてのは家庭内感染につながるだけで、なんの解決にもならないんだよね。だからこそコロナ感染者を保護・隔離する施設を整えるのが急務なわけで、そうした状況を踏まえてオリンピック選手村の活用が専門家の間では議論されてきたんだね。ところが一向に国が動かないのはどうしてなんだろうと思ってたら、なんと特高顔のカス総理が強く拒否していたそうだ。フジテレビ『とくダネ』に出演した二木芳人昭和大学客員教授によれば、「ともかく診断された人を現場現場でその都度判断するのではなくて全部どこか大きな宿泊療養所とか待機所みたいなものをつくって、いったんそこに入って頂いてそこで正確な判断をしながら振り分けをしていくと。第1波の時から言っているんですが五輪の選手村を使ってはどうだって話をして、ずいぶん叱られましたけど」
 オリンピック選手村をコロナのための施設として活用するという案をカス総理やフリップ小池君が無視し続ける裏には、選手村がオリンピック後は分譲マンションとして販売される計画があるからなんだね。コロナのための施設なんかに使われたらマンションとしての資産価値は大幅に下がる可能性があるのがその理由に違いない。妄想だけど。カス総理やフリップ知事の考えそうなことで、ようするにコロナより利権が大事ってことだ。そんなんだもの、この非常時にもGO To トラベルについて担当大臣が「新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底するなど必要な見直しを行い、事業の再開を目指したい」なんてクズ発言するわけです。

 ABCニュース1-22 大阪メトロが民泊事業を目的に購入した物件を開業前に売却して、多額の損失を出していたことがわかりました。大阪メトロはおととし、民泊事業への参入を目指し、大阪市浪速区の通天閣近くにある13階建てマンションを約20億円で購入しました。来月から営業を始める予定でしたが、新型コロナの影響で外国人観光客が激減し、事業の見通しが立たないことから去年12月、売却しました。

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1月22日、偶然映画のパンフが出てきた。個性的な悪役で知られる戸浦六宏(1993年、62歳没)も出ている、地井武男(2012年、70歳没)、佐々木愛が出ている。1970年1月『劇映画「沖縄」』/津嘉山正種「地井ちゃんの事」津嘉山氏は最近は瀬長亀次郎役/1月24日『赤旗日曜版』「この人に聞きたいー佐々木愛」/フェイスブックに大里康永をアップしたのも偶然ー1970年3月5日大里康永氏 帰省歓迎会及び出版祝賀会で瀬長亀次郎の祝辞を受ける。

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1936年8月 泊図書館開館準備/1982年7月 大里康永『自由への歩みーわが思い出の記』沖縄時事出版→書評、新報は真栄里泰山氏、タイムスは山城善光氏

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2021年1月20日ー昼、弟がムーチー供える/むつみ橋通り/平和通り/国際通りー臨時休業が目立つ

 ジュンク堂那覇店「第4回新春古書展フェア」に行く。今日の当番は櫻井伸浩さん(ちはや書房)。久しく見なかった、伊波普猷解題の山村耕花編『古琉球紅型』1928年がある。この図録の大半は上里参治が八重山で収集したもので、1928年1月銀座の松屋呉服店、4月京都の大丸呉服店で展観した。
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 自公政権幹部と、その政治家たちは政治資金パーティーで5人以下会食規制も適用外、それなのにコロナ感染抑制だと国民に罰則規定を設けるなんて・・・ふざけるな!「しんぶん赤旗」日刊紙1月16日号電子版

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2021年11月『琉球』(隔月刊)№80 <追悼 崎原盛秀さん>琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947  
下地ヒロユキ「表紙絵」/崎浜盛喜「崎原盛秀先生から沖縄の未来へのメッセージ!!」/大城冝武「風刺画からみる アメリカ統治下の琉球の世相㉙」
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しもじけいこ「宮古IN どうなる?市長選 ・・・自民党への復党を目論む下地幹郎衆議院議員や、保守中道を掲げる国場幸一グループが事務所を構えるなど、4年前とは色合いの違う選挙となっている。片や、候補者選考でバタバタしたオール沖縄側は『自前の候補者』を擁立できず、保守系で前県議の座喜味一幸氏を保革の統一候補者ととし、『ワンチームミャーク』を結成して選挙戦を展開している。」→当選確実の報を受け、支持者と万歳する座喜味一幸氏=17日午後10時50分、宮古島市の選挙事務所/土岐直彦「『任命拒否』菅首相の強権手法ー対学術会議、対沖縄に見る」/島袋マカト陽子「東京琉球館便り70-首里城消失が私に伝えたこと 旧日本軍第32軍司令部壕 1877年の首里城正殿 伊東忠太と伊藤博文・・・沖縄神社について、新城栄徳さんの研究成果『琉文21』は鹿児島新聞の記事を掲載し伝えている」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑳」
 参考ー眼の瞳はウナーを見下ろしいる /1910年10年3月 シーモン/1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」/1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」◎宮里朝光氏□開会の挨拶ー百浦添御殿と言うすばらしい固有名詞があるのに首里城正殿とヤマトゥは言う。識名御殿も識名園と云い世界遺産にも識名園と登録している。
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『新婦人しんぶん』2020-5-21の切り抜き。

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1月15日ー天気がいいので、渡口さん、山田勉さんを訪ねる。那覇市歴史博物館にも行く。
1月14日ーなるみ堂に遊びに行くと、翁長氏から大嶺薫資料のリスト、海洋博資料のリストを見せてもらった。並河善知「復活した琉球泥藍の古法」を見たので、沖縄県立博物館・美術館で「沖縄の藍」展をやっていたので博物館に同行した。

  「くろねこの短語」2021年1月15日  (前略) そもそも、「Go To イート」で外出を奨励したくせに、それが感染爆発につながったとたんに飲食店に対して営業自粛を強要するというポンコツ政策こそがすべての元凶なんだよね。飲食店にしてみれば、「時短要請」に続いての「ランチも自粛」ってのは、営業妨害以外の何物でもない。そりゃあ、サイゼリアの社長ならずとも啖呵のひとつもきりたくなろうというものだ。やっぱり、補償あってこその休業要請でなくてはならないんだよね。カス政権のコロナ対策がどこかピンボケなのは、経済的な支援がとことん抜けているからなのだ。
 持続化給付金や家賃給付金も早々と締め切りになるし、定額給付金についてもまったく見向きもしない。そのくせ、何百億円もかけてアベノマスクなんて不良品をばら撒くんだから、お話になりません。最後に、特高顔のカス総理が朝のホテル会食自粛でストレスがたまってるってさ。馬鹿言うんじゃないよ。コロナによる失業者が巷に溢れ、自殺者だって増加の一途を辿ってるってのに、ホテル会食できないくらいで泣き入れるんじゃねえ。読売もこんな記事書いてる場合じゃないだろうに、ったく。

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Posted by: ryubun02
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 2021年10月 上江洲儀正『島を出るーハンセン病回復者・宮良正吉の旅路』水曜社(新宿区)
 10歳の少年は、兄に連れられて故郷の石垣島を出た。病気がなおればすぐに帰れると思っていた。長い旅のはじまりだった。1956(昭和31)年、島を出た宮良正吉(みやらせいきち)は現在76歳。大阪で暮らし、ハンセン病関西退所者原告団「いちょうの会」の会長である。いまだにやまないハンセン病への差別・偏見の解消をめざし、回復者の語り部として各地で自身の体験を伝えている。ハンセン病の歴史は悲惨である。患者はらい病と呼ばれて差別され村の外へ追いやられ、隔離された。療養所内では男性に断種手術を施し、妊娠した女性には堕胎を強要した。「この病気は死んだら喜ばれる」……。
 回復した正吉は大阪の印刷会社で働いた。社会は荒波だった。恋人ができた。プロポーズの時に回復者だと打ち明けた。「それがどうしたの?」。その言葉にあたらしいふるさとができた。ふたりの子どもに恵まれた。娘に元患者だったと告白してから5 年後、新聞記事で公にカミングアウトし、ハンセン病語り部の道を歩みだした。本書はロングインタビューの積み重ねにより、ひとりのハンセン病患者の半生を「生の声をできるだけ生のまま」「わたし(著者)自身に教えるように」ハンセン病問題の歴史をかさねあわせて書かれた「長い旅」、その現在進行形の経過報告でもある。
 宮良 正吉(みやら・せいきち)1945 年7月沖縄県石垣町に生まれる。小学4年身体検査でハンセン病罹患が判明。翌年、沖縄本島のハンセン病療養所愛楽園に収容のため島を出る。1961年患者専用列車で高校入学。1965 年高校卒業後大阪で就職。2001年らい予防法違憲国家賠償請求訴訟原告団に加わる。2008年はじめて自身の体験を語りはじめる。

 
大濱 聡 2021年11月■「過去の思い出を振り返ってみましょう」として2017.11.10の投稿が。「日本最南端の出版社」南山舎と、代表の友人・上江洲儀正さん(現会長)についての紹介でした。■1987年の創業以来、八重山をテーマに数々の良書を世に送り出してきましたが、このたび初めて自身の本『島を出る―ハンセン病回復者・宮良正吉の旅路―』(水曜社刊)を出版。2019-20年の2年にわたって、南山舎発行の『月刊やいま』で自ら10回連載したルポ「島を出た八重山人」に加筆修正してまとめたものです。
■ハンセン病患者として10歳の幼い身で親元を離れ、島外の療養所でひとりで生きていかねばならなかった人生――〈一人の元患者の半生とハンセン病問題の歴史を重ねあわせて書かれた、現在進行形のノンフィクション〉(新聞広告より)■〈島を出る。島人にとってこのことばは特別な響きがある〉〈島を出るのは、若者にとって宿命のようなものである。しかも一度出てしまうと、島に働く場はそう多くはないから、なかなか戻ることはできない。したがって、「島を出る」ということばには、覚悟、希望、別れ……などさまざまな思いが入り混じる〉(あとがきより)読み応えのある本です。お薦めします。

週刊誌は個人で保存するには限界がある。後に雑誌図書館・大宅壮一文庫が開館したときは早速に訪ね整理法を学んだ。そのときは西沢昌司氏が応対してくれた。次に行くと、八重山出身の上江洲榕氏と出会った。『琉文手帖』2号の東京連絡所が大宅文庫(http://www.oya-bunko.or.jp/)となっているのは上江洲氏が引き受けたからである。
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 上江洲儀正氏との出会いは1976年。『週刊ポスト』に「雑誌図書館『大宅文庫』活用の手引き」が載っていて雑誌17万冊を辞典のように利用できると紹介されていた。早速、京都駅から新幹線で上京。文庫を訪ね西沢昌司氏に会い「大宅壮一と沖縄」を話題にして歓談した。その次に尋訪ねると上江洲氏が居たので書庫を見たり大宅の生前の書斎で上江洲氏の仕事が終わるのを待ち新宿の沖縄料理屋へ繰り出した。そのうち上江洲氏から自分の小説が載っている『早稲田文学』『じくうち』が贈られてきた。手元にある『大宅壮一文庫索引目録』の扉には彼に押して貰った文庫の印がある。そのときの名刺には「財団法人大宅壮一文庫事務局次長」とあった。彼は『じくうち』の同人で4号に東京とシマをテーマに小説「二ーラン神の島」を書いている。5号に「肝苦さんさあ」、6号に「義足」、7号「人形」であった。私は彼が文庫に居る時、松島記者担当の『琉球新報』落ち穂欄にエッセイを書いてもらったが今では良い記念となっている。数年後『八重山手帳』や『情報ヤイマ』創刊号が贈られてきた。那覇で会ったときの名刺には「企画・出版・情報処理・南山舎」とあった。

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Posted by: ryubun02
1924年
6月13日ー土方与志、小山内薫「築地小劇場」開設

7月『マヴォ』第1号(表紙・山里永吉作品)
<1925年
秋ー仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)、伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

□1930年9月ー『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」、10月『フォトタイムス』「写檀人ニックネーム一覧表 ????宮城昇(東京)インチョウ」、12月『フォトタイムス』伊達良雄「東京写真学士会第1回展覧会に就いてー宮城氏の作品六点は何れも旧作であるが、一貫した感覚が漂って居り、殊に少女や少年を撮ったものには深い愛が感じられた。」、1931年1月『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」「或る写真価値」、2月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(5)ースケッチに就いて」、3月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(6)」、4月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(7)ー風景に就いて」、5月ー????宮城昇「肖像写真価値の一つ」、9月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(9)ー静物に就いて」


写真上ー1933年1月ー嵐山事件とオイル事件の闘士たち(国吉宅で)、右から宮城清一、大城永繁、上地一史(戦後・沖縄タイムス社長)、平良良松(戦後・那覇市長)ー国吉真哲撮影/写真下ー国吉真哲、マリ子夫妻(自宅で)、写真は何れもバックに築地小劇場のポスターが写っている。

1937年5月ー仲吉朝興『観光沖縄案内』向春商会印刷部□太田潮東郷土協会長「序」
1939年4月ー柳宗悦ら民芸一行(????宮城昇が写真撮影で参加)



写真ー1939年4月17日、久米島にて後列左から柳悦孝、河井寛次郎、柳宗悦、芹沢銈介、喜久山添采、喜久里教宣(具志川村村長)、濱田庄司
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嘉数能愛


????宮城昇は南島美術協会展に出品する作品を撮ったりして若い美術家たちを応援した。

1939年10月『工藝』百号「琉球の風物ー追記・撮影に努力された????宮城昇氏にも厚く御禮を述べたく思います。」

1940年1月1日『琉球新報』国威宣揚之新春ー皇紀二千六百年広告「昇スタヂオー上ノ蔵大通り 電話395番」

2011年2月ー◇東京の奥間政作氏から????宮城昇の文章が掲載されている『フォトタイムス』が送られてきた。1929年9月号ー宮城昇「時代は移る」、田村榮「新らしく進む路(6)」には親友の宮城昇君が出てくる。11月号ー宮城昇「人物とバックの関係」には昇の作品(花柳はるみ、松本旭一光)も掲載されている。12月号ー「人物とバック」の2回目、昇作品(支那服を着た花柳はるみ、寛子さん)、1930年6月号ー「ベストカメラ禮讃」これにも花柳はるみがモデルの昇作品が載っている。1931年1月号ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(4)」「或る写真価値」が載っている。1931年5月号ー宮城昇「肖像写真価値の一つ」、10月号ー田村榮「近況を語る」に昇が故郷で写真館を開業のため上京されていると、紹介されている。また1936年6月発行の『東京写真専門学校一覧』も送られた。

2011年4月12日『琉球新報』□東京空襲で亡くなった那覇市出身の写真家、????宮城(ぐしみやぎ)昇氏(1906~45年)の作品が、没後から66年、新たに3点見つかった。那覇市に住む男性から琉球新報に持ち込まれた写真を那覇市歴史博物館に照会したところ、写真に????宮城氏の写真館「昇スタヂオ」の刻印があることなどから、同氏の撮影した写真であることが分かった。写真には、1939年に沖縄を訪れた日本民芸協会一行の調査などが収められている。同博物館は「????宮城が日本民芸協会の調査を撮影したことを再確認できるいい資料だ」と評価している。????宮城氏は東京写真専門学校(現東京工芸大学)を卒業し、31年に那覇市上之蔵に昇スタヂオを開業した。肖像写真を中心に撮影しながら、戦前に行われた那覇大綱挽など県内の歴史的な行事をフィルムに収めてきた。2010年夏ごろに建築物の廃材の中から同写真を発見した解体業の知人から託された浦崎直恒さん(58)=那覇市=が「昔の沖縄を写した貴重な写真かもしれない」と写真15点を琉球新報に持ち込んだ。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1905年ー北大路魯山人、版下書きを志し、岡本可亭(伊勢の人。籐堂藩に仕えた儒者岡本安五郎の二男)に師事。福田可逸を名乗る。息子の岡本一平を知る。可亭のもとからの出向で帝国生命保険会社の文書掛となる。
1910年-岡本一平、かの子(21歳)、和田英作の媒酌にて結婚。8月31日入籍
1912年-岡本一平、朝日新聞社員となる。

1917年-岡本一平、かの子と植村正久を訪ねる。かの子、のちに親鸞『歎異鈔』に傾倒する。
1927年-岡本かの子、仏教研究家として世に知られる。

1938年
4月28日『琉球新報』「世界の藤田画伯来県」/『沖縄日報』「きのう雨の港大賑わい、ようこそ!藤田さんー久米町で借家住まい」
5月1日『琉球新報』「藤田画伯に物を訊く座談会」連載
5月10日『琉球新報』「二高女で藤田画伯講演『為にならぬ面白い話』」
5月15日『琉球新報』「南陽薬品で藤田嗣治画伯作品観賞会」
5月19日『琉球新報』「藤田画伯きょう帰京」
5月20日『琉球新報』藤田嗣治「沖縄へ送る讃美」
5月25日『琉球新報』我部政達「藤田先生と其の絵」連載
6月20日『帝国大学新聞』藤田嗣治「首里の尚順男」

1941年-11月6日ー銀座三越で「岡本太郎滞欧作品展」ーパンフレットに藤田嗣治の「岡本太郎君」

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1944年1月 「戦争美術展畫集」朝日新聞社

 岡本太郎『沖縄文化論ー忘れられた日本』□私が沖縄に強くひかれた、そもそものはじまりは、そういうクラシックを見てからだった。終戦後間もない頃、偶然の機会に、」その時分はまだひどく珍しかった沖縄料亭に案内された。そこで見た踊りに、すっかりイカレてしまったのだ。空間的で、自由で、優美、それは異様なリズムだった。しかしはじめてふれる私の心にも無条件に喰い入ってくる。(略)「沖縄」は私にとって踊りの代名詞のようなものであった。

1956年10月ー岡本太郎『日本の伝説』光文社
1958年2月22日『琉球新報』「パリの藤田嗣治画伯」
1959年11月17日『沖縄タイムス』「岡本太郎画伯、二科会沖縄支部の招きで来島ー沖縄はあこがれの島」(写真・大城皓也氏の出迎えをうけた岡本太郎氏)

1960年1月1日『琉球新報』「沖縄を料理するー毒舌ことはじめ大宅壮一・岡本太郎」/1月12日『琉球新報』岡本太郎「沖縄の再発見」@

1961年1月1日『沖縄タイムス』岡本太郎「絵と文・忘れられた日本」

1966年12月25日『琉球新報』「岡本太郎画伯が来沖ーイザイホーの研究で」/12月29日『琉球新報』「関係者の見たイザイホー 岡本太郎」

1967年ー福田清人/平野睦子『岡本かの子ー人と作品』清水書院/3月ー岡本太郎『今日をひらく 太陽との対話』講談社□日本発見ー神々の島 久高島

1968年2月ー岡本太郎『原色の呪文』文藝春秋□「何もないこと」の眩暈-沖縄文化論

1971年3月29日『琉球新報』「沖縄文化への提言ー岡本太郎氏を囲み座談会」(池宮城秀意、山里永吉)/3月30日『沖縄文化を語るー岡本太郎・豊平良顕』/10月28日『琉球新報』「沖縄で初めての潮講演会ー開高健、岡本太郎」(潮出版社・琉球新報社共催)

1980年7月24日ー那覇市山形屋で「岡本太郎の世界展」(沖縄タイムス社主催・琉球放送後援)/7月24日『沖縄タイムス』「目みはる作品ズラリー『岡本太郎の世界展』開幕」/7月25日『沖縄タイムス』「岡本太郎氏が来沖ー展示会通し沖縄を触発」/7月27日『沖縄タイムス』「沖縄タイムスホールで岡本太郎氏が講演ー藝術は全身で感じるもの」

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2001年4月ー岡本太郎『疾走する自画像』みすず書房

2006年
2月10日『沖縄タイムス』「藤田画伯の『孫』、沖縄県が約4千万で購入」

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2007年10月ー山田和『知られざる魯山人』文藝春秋/2008年5月ー林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』名古屋大学出版会

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2007年ー『沖縄文化の軌跡1872-2007』沖縄県立博物館・美術館□新城栄徳「麦門冬の果たした役割」/『沖縄・プリズム1872-2008』東京国立近代美術館

2011年1月1日『沖縄タイムス』「藝術は爆発だー岡本太郎生誕100年」/1月1日『日本経済新聞』「岡本太郎生誕100年」

null写真ー戦前の大城皓也作品

null写真上ー平野政吉美術館館長と新城栄徳/大城皓也の子息・青次氏と新城栄徳

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1928年11月 エグ・オグニヨフ著/饒平名智太郎・訳『ソウェート学生の日記』世界社
1928年11月『中央公論』饒平名智太郎「出版会のリーダー四人男 講談社の野間氏、改造社の山本氏、新潮社の佐藤氏、平凡社の下中氏其の人と事業の短評。 野間氏は僕の中学時代の国語の先生だ。其頃の野間氏は快活な放胆な、教育者といふよりは一個の遊子ローマンテイストだった。国語の時間に、よく八犬伝を聞かせてくれたものだ。氏の放蕩は、学生の間にも知れ亘っていたから余程遊んだものらしい。それの快打策として当時の中学校長だった大久保氏に世話して貰ったのが、今の野間夫人だ。(以下略)」
1929年7月  饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第一輯』世界社
1929年11月 饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第二輯』世界社

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
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「二十日正月踊」のジオラマ

1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」

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2019年1月8日~3月18日 那覇市歴史博物館「金武家資料展」


明治43年11月11日『萬朝報』「琉球歌の演奏」


沖縄最初の混声合唱団『玉声会』の小湾の尚家別荘での公演記念写真ー前列右から①尚順男爵、尚昌侯爵、神山政良、嵩原家扶、2列目右端が徳田安周の母の仲吉初枝、左端の少年は金武良章 右端上に尚琳、金武良仁、山内盛彬。大正4年


      
尚順


1930年7月18日ー金武良仁、良章、浅間丸(新垣松含一行と同船)で来布、布哇屋ホテルに止宿。
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1936-9-11 『琉球新報』尚順「追悼・金武良仁君」漢詩「題琉球絃歌」       
1951年12月 雑誌『おきなわ』尚琳「金武良仁氏を偲ぶ」


1955年10月15,16日 那覇劇場 金武良仁氏芸徳顕彰会主催「金武良仁二〇年祭追善芸能大会」
 10月14日『沖縄タイムス』仲良良光「金武良仁先生の思い出」/10月15日備瀬知範「金武良仁先生の思い出」/10月16日浜松哲雄「金武良仁先生の思い出」。『琉球新報』10月14日東恩納寛惇「金武良仁楽宗を憶う」/10月15日尚琳「金武良仁氏をしのぶ」


1983年12月 金武良章『御冠夜話』若夏社


ネット動画→「創作舞踊「いちゅび小」 金武良章作 踊り・大湾三瑠 」

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1926年4月ー明石染人(1887年~1959年)詩集『魂の傀儡師』鮮明社出版部(京都)
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1964年11月ー平凡社『世界大百科事典』明石染人「沖縄ー工芸」(左上ー尚順
明石国助 あかし-くにすけ
1887-1959 明治-昭和時代の染織工芸研究家。
明治20年5月6日生まれ。明石博高(ひろあきら)の3男。母校京都高等工芸(現京都工芸繊維大)の助教授をへて鐘淵(かねがふち)紡績にはいる。戦後,母校や京都市立美大の講師,文化財保護委員会専門委員などをつとめた。昭和34年1月27日死去。71歳。京都出身。号は染人。著作に「日本染織史」など。(→コトバンク)


資料・琉球芸能

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2019-6-28~ 9-2 那覇市歴史博物館「那覇のたかもの」

2017年9月1日~10月30日 那覇市歴史博物館「琉球・沖縄のイッピン~沖縄コレクター友の会展~」



仲里コレクション友寄喜恒作「三味線を弾く女性」/右ー冨永朝堂作「乙樽」
1924年11月2日『沖縄タイムス』
□きのふ開かれた朝堂氏木彫展 首里工業学校内でー来県中の青年彫刻家 富永朝堂氏の木彫作品展覧会は既報の通り昨日から首里工業内に於いて開かれたが本県では最初の彫刻展のこととて尚順男を初め市内の智識階級の人々多数の観覧あり木彫は10数点中には女優オトをモデルにした作もあり本県の赤木を多く使用してある因みに3日頃から那覇公会堂で開く筈
冨永朝堂(1897-1987ー12ー12)
 明治30年、福岡市下赤間町(現冷泉町)に生まれる。高村光雲の高弟山崎朝雲①に師事。
 大正13年の「雪山の女」帝展初入選。昭和7・8年の「五比売命」「踊女」帝展連続特選。代表作「谷風」(昭和13年)により日本木彫界に確固たる地位を築く。昭和19年、太宰府市観世音寺の地にアトリエを構え、自由な創作活動を展開。昭和50年、西日本文化賞受賞。昭和51年、第1回福岡市文化賞受賞。昭和60年死去。
 享年90歳。優れた彫技と高い精神性には定評があり、「木の中に棲むような彫刻家」といわれた。(→ブログ「太宰府市文化ふれあい館」)
①山崎朝雲 やまざき-ちょううん
1867-1954 明治-昭和時代の彫刻家。
慶応3年2月17日生まれ。仏師の高田又四郎にまなび,高村光雲に「養老孝子」がみとめられて入門する。明治40年米原雲海らと日本彫刻会を結成。芸術院会員。昭和27年文化功労者。昭和29年6月4日死去。87歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。本名は春吉。別号に羯摩(かつま)。作品に「大葉子(おおばこ)」「龗(たかおかみ)」など。(→コトバンク)


2001年11月ー「沖縄コレクター友の会発足」佐敷町ちゃんくすば
中央が真栄城勇会長,その左が新城栄徳/南風原レストラン「沖縄コレクター友の会例会」中列右端が新城栄徳、その前が真喜志康徳さん

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2003年7月4日『沖縄タイムス』新城栄徳(沖縄コレクター友の会)「わたしのバクさん」/2006年5月『彷書月刊』248号□新城栄徳(沖縄コレクター友の会)「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾編」


バーズ・アイ ~空からみた那覇~
那覇市歴史博物館企画展
バーズ・アイ ~空からみた那覇~


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2012年6月30日 那覇市歴史博物館企画展『セピア色の輝き~絵ハガキに写し出された戦前の沖縄~』

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2019年9月『月刊琉球』№69「幻の名著『沖縄の歩み』復刻記念シンポジウム」琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947

後田多敦「史窓・東恩納寛惇のメッセージ」/しもじけいこ「宮古IN・バブル・オーバーツーリズムって??観光地になるということはどんなこと?水は?

与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑬」/土岐直彦「安倍官邸『独裁』の不条理ー官僚支配・国会軽視・辺野古・・・」


大濱聡2019-7-15
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1973年4月ー国場幸太郎『沖縄の歩み』牧書店
目次-まえがき/1、けわしい戦争の雲ゆき/2、沖縄戦の悲劇/3、遠い昔の沖縄/4、江戸時代の沖縄/5、明治時代の沖縄/6、大正・昭和前期の沖縄/7、第二次大戦の沖縄/あとがき□主な参考文献・比嘉春潮『親稿 沖縄の歴史』三一書房、新里・田港・金城『沖縄県の歴史』山川出版社、太田昌秀『近代沖縄の政治構造』勁草書房、上地一史『沖縄戦史』時事通信社、沖縄県教職員組合編「これが日本軍だー沖縄における残虐行為」、平凡社刊『沖縄文化論叢』1~4、谷川健一編『叢書わが沖縄』1~6木耳社、中野・新崎『沖縄問題二十年』岩波書店、中野・新崎『沖縄・70年前後』岩波書店

2019年8月『月刊琉球』№68琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947

しもじけいこ「宮古島・住民は幸せ??」/渡久山ミライ「宮古島への陸自配備について」/楚南有香子「島の未来を思う」

すねしまさく菜「西表IN・『東京西表島郷友会』総会に出席してー32年ぶりの再会」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑫」/豊里友治「米軍による水道水の有機フッ素化合物汚染問題『太平洋のゴミ捨て場』にさせてなるものか」

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2019年8月30日『沖縄タイムス』文化欄「百名朝敏の人物像判明 北里蝋管収録『茶屋節』演奏」→言語学者の北里闌(たけし)(1870~1960年)が1920(大正9)年に沖縄本島や宮古、八重山で歌謡を中心に採録された「北里録音蝋管(ろうかん)」

『大典記念 沖縄人事興信録』「百名朝敏」(タイトルに県はない)装画・山田真山


那覇市史だより11世 百名朝起/写真 11世百名朝起ー十二世 五男・朝盛=オトの養子に朝敏。六男・朝計

1922年5月6日『沖縄朝日新聞』「家扶 伊是名朝睦、内事課長 伊波興庭は老体の故もって辞職、総監督の尚順男は引退。今後は護得久朝惟、会計課長百名朝敏が尚家家政を掌ることとなる。」

鎌倉方太郎第1回「琉球芸術調査事業」(1924[大正13]年5月~1925[大正14]5月]ー伊東忠太との共同事業で、財団法人啓明会から1か年3000円の補助を受けてのもので、その内の1000円でドイツ製写真機タゴールを入手した。 東京美術学校写真科主任であった森芳太郎教授の特別指導を受け写真技術を習得。 「琉球芸術調査事業」の開始―「鹿児島経由で南航し、三日目の早朝那覇着、早速首里市役所に出頭して、市長高嶺朝教氏に会い、市役所内に写真の暗室を作って貰うことを願い出て許可を受けた」。毎日昼間は写真を撮影して歩き、夜は乾板を現像、首里城の龍樋から水を引いた師範学校の浴場で一晩中水洗いし、翌日乾かした。
尚家(中城御殿)を初めとする首里・那覇の旧家に所蔵される美術・工芸品の調査。中城御殿については「家扶百名朝敏氏に会い、(中略)各種芸術の写真の撮影、文献の調査等についても侯爵家資料の公開が重要なのでこれを願い出て協力を依頼した」(『沖縄文化の遺宝』276頁)。真栄平房敬氏によると「ウグシク(首里城)を救ったということで、仲座ゲンタツ氏―尚侯爵家の侍従役―の先導で野嵩御殿―中城王子妃―と会った」こともあるという(1999年1月29日談)。
この調査の期間中、沖縄県師範学校の「図画科教諭の西銘生楽氏の後任の役を引き受け、特に上級四年生のためには毎週二時間の沖縄美術史を講義。この「組の級長が屋良朝苗氏であった」。(波照間永吉2018-11-15鎌倉方太郎生誕120周年顕彰例会)

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2020年4月 金子豊・編『岸本英夫事典および書誌ーその生涯と素顔をふり返るー』


2013年11月 金子豊・編『松山王子 尚順 全文集』榕樹書林


2013年12月11日『沖縄タイムス』


2015年6月 金子 豊 編『岸本英夫図書館関係著作集ー大学図書館のあるべき姿を求めてー』/写真・岸本英夫

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金子豊氏の著作

金子豊氏から近著がおくられてきた。金子氏は琉球大学図書館の事務長や武庫川女子大学の図書館長を歴任された方で、私との出会いは,金子氏が尚順資料を求める中、古巣(琉大)の知人たちから私を紹介されたようである。2009年5月にその成果である『尚順拾遺集』がおくられた。金子氏から最初におくられた著書は『大学図書館の近代化をめざして・その行方ー元東京大学附属図書館長・岸本英夫図書館関係論集・記録ノート』である。本書によれば岸本英夫(1903年6月~1964年1月)は宗教学・社会学者の岸本武太の子として兵庫県明石で誕生している。東京帝国大学を経て1930年にハーバード大学大学院入学。1947年に東京帝国大学文学部教授、1960年に東京大学附属図書館長就任となっている。

今回の『田辺広先生全著作目録ー卒寿記念』の田辺広も1952年に東京大学附属図書館に就職し、整理課長を経て千葉大学や一橋大学、富士大学の図書館や教授をつとめている。『二人の東京大学附属図書館長を顧みる』は、東京大学附属図書館長の岸本英夫、伊藤四十二の図書館関係論文などの業績を紹介。


2018年1月 金子豊編『「新・死を見つめる心」の世界ー岸本英夫の癌闘病著作を読むー』

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□金子豊 〒261-0004千葉市美浜区高洲4-12-4-801

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1972年9月 沖縄の雑誌『青い海』16号 山城善三「暴風と沖縄の県民性」 

1937年6月『沖縄教育』米国三郎(顔写真)「ストライキ組を語る」

1953年3月 雑誌『おきなわ』与那国善三「1954年 沖縄の動き(上)」


山城善三
沖縄タイムス発行『沖縄年鑑1967』から「観光・戦跡」が掲載されている。それに「観光事業のはじまり」がある。沖縄の観光事業にはじまりについてくわしい記録はないが、修学旅行が最初だといわれている。□1893年(明治26)の9月、沖縄師範学校の生徒が本土の社会、文化、歴史などを勉強するため初めて九州旅行している。その翌年1894年(明治27)2月に那覇市の主催で那覇で「九州沖縄連合共進会」が開かれ、3月には「沖縄県教育品展覧会」も催され、九州各地や東京方面から多数の参加者が来島している。(以下略)『沖縄年鑑』1970年版には「観光ー観光協会の発足」が載っている。
1954年1月9日 社団法人「沖縄観光協会」設立(事務局・那覇市役所勧業課内)


1953年1月ー与那国善三『最新沖縄歴史年表』
1954年1月に社団法人「沖縄観光協会」が設立された。2月に那覇市役所勧業課内に事務局を置いた。57年4月、事務局を琉球政府工交局内に移転。59年は那覇市楚辺の与那国(山城)善三宅に事務局、会長は大田政作で副会長ー儀間光裕、親泊政博、専務兼事務局長ー山城善三、監事ー白石武八郎、大城嘉盛となっている。ほかに顧問6人、理事22人、評議員26人、参与が14人居る。

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1966年4月 田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄□山城善三「田島氏のことー尚順男と昵懇の仲で常に尚順家に出入りしていた。(略)こういう関係から田島氏は琉球料理について、尚順男や、コックから見聞を広くし精通していた。戦後、那覇琉米文化会館長城間朝教氏は、文化会館を中心として琉球料理研究会を作り、希望者を集めて講習会を始めた。講師には田島清鄕氏を迎える事にした。田島氏の講習会でのメモ帖を何とか出版してほしいとの一般の要望ががあったので、氏は原稿整理中、病魔のため倒れた。その原稿を私が整理して、今回出版の運びとなった。」

1988年12月20日『那覇市史だより』第34号
□故山城善三氏資料の寄贈について/故山城善三氏資料寄贈目録(文化振興課受贈の分)
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