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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
「東京琉球泡盛商一覧」(1933年3月5日ー大宜味朝徳『南島』第三号)
麹町区
飯田町1の9-嵩原安智/丸の内丸ビル2階264-恩河朝健
神田区
淡路町2の15-宮城清/錦町3の16-鵜木清治/北神保町17-二幸商店/松富町1-前里宗恭/五軒町35-亀島靖治/鍋町201-比嘉林繁/美土代町1の2-加納太三次/今川小路1の1-瀬長カナ/榮町2-儀間偸/西小川町2の5-吉岡宏/北神保町17-高島喜代治
日本橋区
鉄砲町24(眞人園)-山田眞山/蠣殻町(うるま)ー松山清之丞
京橋区
槇町3の5龍宮園ー宜保友厚/八丁堀4の2-渋谷三郎/八丁堀3の6-嘉手苅信世/月島通り1の7-新垣清次郎/湊町1の6南国屋ー伊藤辰巳/湊町1の3の3-入江藤五郎□「私は琉球泡盛を取り扱ってから30余年になるが、(略)何といっても泡盛の黄金時代は明治30年ごろから明治38,9年の日露戦争直後の頃であった。日露戦争の時には泡盛を火薬の原料にすると云うので僕は海江田の代人として三萬圓の保証金を陸軍に供託して泡盛を陸軍に納入したのであるが其のときは容器が不足し阪神から酒樽を買い集めて沖縄に送りそれに泡盛を詰め込んで直航船で輸送したものである。火薬の原料であるから色とか香には頓着なく45度の度さえあればどしどし納入出来たものであるから愉快なものであった。(略)泡盛が今日の如く盛大になったことは鹿児島商人の力もあづかって大きい。初め東京に鹿児島の商人の手を経て売り込んだもので、鹿児島の商人は沖縄の酒造家に米を供給し其の代償に酒を受け取っていたので応でも之を売り捌かねばならぬので、盛んに宣伝したものであった」/新富町2ー田島清
芝区
新橋7の2-北浦未次郎/琴平町31-宮城邦英/金杉町4の10-田里丕顕/浜松町2の2-小堀幾志/浜松町市電停留所前ー未廣屋泡盛店/浜松町13の7-根路銘安昌/札ノ辻市電終点際ー宇崎市蔵
麻布区
龍土町32-森川清次郎
小石川区
江戸川町1春海ー宮城新保/新諏訪町1-有岡豊次郎/柳町11うるまー渡邉亀吉/大塚坂下町187三喜ー坂本トヨ/音羽町1の8-石川甚太郎
本郷区
駒込蓬莱町5-大宜味朝徳/駒込千馱木町218-山口光輝/台町2-漢那朝常/駒込曙町17-本部朝基/元町ー太田洋酒店/根津八重垣町20三金ー關ハル/真砂町37-和田榮次郎
下谷区
金杉下町105-亀島商店/竹町131-崎原嘉子/上車坂2-三島支店/御徒町1の56-松永美三/竹町12-儀間新/谷中初音町4の187-松島泡盛店/上根58-王冠泡盛店
浅草区
東仲町7-道政清次郎/北清島町25-小泉元松/七軒町2-外間則榮/山谷4の5-國吉眞善/千束3の146-三島支店/吉原裏門前ー佐原屋洋酒店/向柳原町1の11-小笠原ヒロ子/田中町72沖縄屋-矢賀宗友/新谷町12-スタンド呑樂/松清町4-寺田庄一

本所区
松井町2の1-平敷安用/亀澤町3の1ー川原田歳雄/緑町274-浦崎政永/江東橋町1の4寶屋ー久馬清光/吾妻橋2の1-宇辰重直/石原町4の26-小關信四郎
深川区
安宅町7電本1235-川村禎二/牡丹町3の11-新垣商店/東森下町40-山田利喜造/東森下町109-崎山喜昌/石島町163-平良幸盛/永代町1の10-屋宜盛繁
豊島区
巣鴨町2の34-金城時男/駒込6の535-山川喜蔵/駒込市電車庫下うるまー原口三次/巣鴨町3丁目ー増田屋泡盛店/池袋891-越中屋ー清水安次郎/駒込ー北島藤光
品川区
大井権現町3724-砂川泰教/東大崎居木橋際うるまー玉川庄右衛門
澁谷区
幡ケ谷本町679-仲本宗厚
中野区
打越25-上里参治
板橋区
清水町163-石川静子
淀橋区
東大久保290-河村高矩 /戸塚町3丁目うるまー杉本信夫/百人町うるまー北島三代吉/目黒区上目黒2の1963-照屋林仁
足立区
千住中居町6-小島金康
荒川区
南千住2の78-小林友次郎/北千住本町2の5-山盛泡盛店/南千住町2の76-鈴木長吉/日暮里旭町2の92-折原由太郎
瀧ノ川区
田端町380-八藤勅山/西ヶ原694-島田正義
荏原区
戸越350-大久保志郎
江戸川区
小松川2の60-今井清松/小岩町1の1288-三島支店

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03/03: 日米誌②

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」


1940年5月 伊藤郷平『外国地理 北米』研究社学生文庫510◇サンフランシスコ/ー油田と映画・果物のロサンゼルス/この地方は又本邦人発展の最後のとどめを打った地で、ロサンゼルスの驚異的な大膨張と共に日本人の進出も著しく、現在では本市を中心に約3万人が活躍している。市内には北米最大の日本人街がつくられ、本願寺も建てられている。

アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 

1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)

○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 


1947年4月 『現代アメリカ読本 政経篇』コバルト社◇細入藤太郎「新聞」/坂西志保「教育」

 1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ

1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 『ペリー提督日本遠征記』はペリー提督自身の日記とその部下の日誌や報告書などから編集された記録。同書には、琉球や小笠原諸島、浦賀や横浜、下田や箱館での様々な出来事が記され、多くの石版画や木版画の挿絵が掲載されている。挿絵は、艦隊に従軍した写真家のエリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影したダゲレオタイプや、画家のウィリアム・ハイネらが描いた絵をもとに作成されたもの。エリファレットが当時撮影したダゲレオタイプは数枚の現存が確認できるのみで、ほとんどがいまだに発見されていない。石版画や木版画には、ダゲレオタイプをもとに作成された鮮明な画像が描かれている。→JCIIフォトサロン2019年7月

左、復刻版、右、『ペリー提督日本遠征記 』1856年アメリカ政府発刊



講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている。

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1857年年9月、横山由清訳『魯敏遜漂行紀略』。川上冬崖の色刷木版挿絵


ミシシッピ号(USS Mississippi)は、米国海軍の蒸気外輪フリゲート艦である。名前はミシシッピ川に由来する。マシュー・ペリー代将の個人的な監督の下、フィラデルフィア海軍工廠で起工。1841年12月に就役した。嘉永6年(1853年)のペリーの日本来航の際の四隻の黒船の1隻。 →ウィキ

□左の石版画より右の方が末吉安扶に似ていると思われる。
1981年9月 山口栄鉄『異国と琉球』本邦書籍□付録「琉球を語る」ー師弟交信録より(外間政章先生との往復書簡)
外間ー私は先日首里儀保在住の末吉安久氏を訪ねました。氏は元首里高校の美術の先生だった方で、この方の祖父が毛玉麟のようであります。那覇長官を勤めた人は安久氏の祖父安扶だったとのこと。(略)安久氏の長兄安恭は麥門冬と号し新聞記者で有名な作家でしたが、那覇港での事故で溺死された方です。安恭氏は存命中、ブラウン(ペルリ提督一行)の描いたあの威厳のある琉球人の肖像画を見て、これは自分達のタンメーを描いたものといつも話していたそうです。(1901年6月ー末吉安扶没)
 末吉麦門冬の甥で「江戸上り」研究家・佐渡山安治氏は本邦書籍発行の『江戸期琉球物資料集覧』第4巻に「琉球使節使者名簿」で1850年(嘉永3)の琉球使節の正使・玉川王子尚愼、副使・野村親方 向元模、儀衛正・魏國香ら99名の一人賛渡使・末吉親雲上を安扶としている。中に後の三司官・与那原良傑も居る。

牧志朝忠 生年:尚灝15(1818)没年:尚泰15.7.19(1862.8.14)幕末期の琉球国末期の首里士族。当初は板良敷,次いで大湾,のちに牧志と称した。中国語や英語に堪能で異国通事となる。開化路線を展開した薩摩藩主島津斉彬 から目をかけられ,尚泰10(1857)年には軽輩出ながら表十五人(首里王府の評議機関)の内の日帳主取にまでのぼった。しかし,斉彬の死(1858)を契機に,首里王府内の守旧派は斉彬によって罷免された三司官座喜味盛普の後任人事をめぐる疑獄事件の首謀者として牧志,御物奉行恩河朝恒,三司官小禄良忠を逮捕・投獄した(牧志・恩河事件)。事件は牧志が鹿児島で座喜味を誹謗したことや,その後任選挙において贈賄などによる画策を図ったとの風聞に端を発していた。首里王府の守旧派は,フランス艦船購入の対外政策や斉彬路線に難色を示す座喜味の追放,国王廃立の陰謀を企てたものとの嫌疑をかけたが,明白な証拠をあげることができず,すべて牧志の自白によって審理が展開された。その結果,牧志は久米島へ10年の流刑,小禄は伊江島の照泰寺へ500日の寺入れ,恩河は久米島へ6年の流刑とされた。だが恩河は尚泰13年閏3月13日に獄死。牧志は薩摩藩によって英語教授役とするため保釈されたが,鹿児島への途上,伊平屋島沖合いで投身自殺したとされる。<参考文献>金城正篤「伊江文書牧志・恩河事件の記録について」(『歴代宝案研究』2号) (豊見山和行)






金武番所/



→琉球切手




画家ハイネが実景から写生したものを、黄・淡藍・墨の3色刷の砂目石版に複製した「下田の公衆浴場の図」



1934年3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」/沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」



1982年3月 『ペリー来航関係資料図録』横浜開港資料普及協会

1982年3月『沖縄県史料 前近代2 ペリー来航関係記録1』沖縄県教育委員会

2003年5月30日『琉球新報』「ペリー来琉150周年」

 1849年に始まる”ゴールドラッ シュ”に唯一、日本人として足 跡を残したのはジョン万次郎 だといわれる。1841年、14歳の とき漁に出て足摺岬沖で漂流、 鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨 船に救出されその後、捕鯨船長 他の庇護もありアメリカ暮らしと なる。当時は鎖国政策のため、 うかつに本国に戻れなかった時 代だ。望郷の念、止みがたく、帰国 に必要な資金を稼ぎ出すため ゴールドラッシュの噂を耳にし た万次郎はカリフォルニアを目 指した。金鉱で働き二カ月余り で600ドル(当時)の金を得て 1 8 5 2 年 に 首 尾 よく 帰 国 を 果 た す 。
  アメ リ カ 移 民 の日 本 女 性 第 1 号ー 同じころの日本、1868年秋、 会津藩が薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍に攻め入られ 鶴ヶ城が陥落した。翌年の春、会津に見切りをつけ、新天地カリフォルニアに渡った藩の一団があっ た。当時、会津藩に使えていたオランダ国籍のヘンリー・シュネル という人物が、農園をつくるため カリフォルニアに土地を購入「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」と名付け、養蚕やお茶な どの栽培を計画したのだ。藩士と 家族37名が、開拓団に加わった。 長らく知られていなかったが、こ の一団にシュネルとその子どもの 世話係として加わった”おけい”と呼ばれる少女がいた。横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った 一行は、サンフランシスコに到着。 そこからは蒸気船でサクラメント 川を遡り、さらに荷馬車でゴールド ラッシュに沸くコロマ村のゴールド ヒルという原野に落ち着いた。天候 不順(干ばつ)や資金不足から、わずか2年でこの事業は失敗し解体に至る。一説には鉱山作業の影響 で近くの水源が「鉄分と硫黄」に 汚染されていたためともいわれる。
 若松コロニーの存在の風化とともに人々の記憶から遠ざかる。コ ロニーも消滅して40年余が過ぎ た1915年(大正4年)の初夏、現地で農園を経営する日本人と邦字新聞「日米新聞」の記者によって, この墓が発見される。最初はなぜこんなところに19歳 の日本人女性の墓があるのか分か らなかったが、近くに住むビーアカ ンプ家を訪ねたところ、そこでおけいの存在と若松コロニーのことを知る。コロニーがなくなった後、おけいはこのビーアカンプ家に引き 取られ働き、同じように引き取られた日本人の桜井松之助らが、おけいのために現地に墓を建てたこ ともわかった。翌年、日系新聞の記 事が掲載され、大きな反響を呼び 世間の知るところとなった。訪れる人もいない墓には、「OKEI」と刻まれていた。「In Memory of OKEI Died 1871, Aged19 years, (A Japanese Girl)おけいの墓 行年一九才」。 2014年 12月、友人とコロマを訪ねた折におけいの墓のある ゴールドヒルに立ち寄った。 コロマから南に8キロほどか。
 
関連右〇おけいは、会津藩軍事顧問のプロシア人、ヘンリー・スネル家の子守役でした。戊辰戦争後、スネルをリーダーとする会津藩士らとともにカリフォルニアに入植しましたが、開拓に失敗、移民団は離散してしまいました。残されたおけいは、アメリカ人に引き取られましたが、熱病にかかり、19歳の短い生涯を終えました。カリフォルニア州ゴールドヒルと同様の墓が背あぶり山にたてられています。 →会津若松観光ナビ

 ゴールドラッシュ時代、数多い絞首刑が行われたので、「ハングタ ウン」とも呼ばれるプラサビルへ の途中の田園地帯だ。移民団入植 から100周年を迎えた1969年には、 当時カリフォルニア州知事だった ロナルド・レーガンが若松コロ ニーの跡地をカリフォルニア州の歴史史跡に指定。同年、ゴールド・ トレイル小学校に隣接する敷地に 「日本移民百周年記念碑」が建立された。カリフォルニア州エルドラ ド郡の小学4年生は読書プログラ ムの一環で、日本からカリフォルニ アに来たおけいの生涯を伝える本 「Okei-san: A Girl’s Journey, Japan to California, 1868-1871」を読むという。 記念碑を訪ねた後、すぐ先のゴー ルドヒルに向かった。入口には倉庫 と思しき大きな木造の家があり、 Okeiに因んだフェスティバル開催 のポスターがあちこちに貼られてい た。30代ぐらいの青年と行きあっ たので”地元の方か?”と聞くと” ここに土地を借りて住んでいるが、 特段おけいとのつながりでここに いるわけではない”とのことだった。 さぁ、だいぶ先に見える丘の上まで30分とみて頂上に向かった。途中、ぬかるみや藪道もあったがのんびり歩き進むうちに丘の上についた。
  丘の上にある大木は、元は150年前 に、若松コロニー開拓団が日本から 持参し植えたケヤキの苗木が育っ たものだという。西に向かって遥か 先にサンフランシスコ湾、太平洋を 挟んでその向こうが会津だ。サン フランシスコ湾まで200-300キロか。 晴れていれば海を望めるだろう。 おけいはビーアカンプ家に世話に なっていた時にもこの丘の上まで 足を運んだ。ひとしきり登り道を歩 いて汗をかいた。四方を見渡して 150年前も今もこのあたりの風景は あまり変っていないのかも知れな いと思った。 補遺;2019-6-19日本から最初 にアメリカ本土に入植した移民団 がカリフォルニア州北部ゴールド ヒルにアメリカ本土初の日本人入 植地「若松コロニー」を形成してから8日で150年を迎えた。同日、跡地では記念式典が行われ、日米にいる移民団の末裔や関係者らが 出席。会津松平家の末裔も日本から訪れた。→『鍍金の世界』2019年11月号 屋良朝信「旅の記憶」

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Category: 04-書の森
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2016年11月15日、年賀状を書いている渡口彦邦氏

2016年11月28日、渡口彦邦氏とあけみ、ひより

2016年12月5日 城谷一草「印」を捺す渡口彦邦氏

2017年2月28日 沖縄県立博物館・美術館で渡口彦邦氏(左)と田名真之館長

那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展

2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」/写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏、大城宗憲氏、那覇市民文化部の島田さん。



写真上は泊高橋近くの安里川沿の渡口萬年筆店の広告/下ー毎年発行の手帳の巻頭に記されている。


1955年3月 大林天洞 筆「渡口商店々訓」

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「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)

渡口ファミリー
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2010年11月ー渡口彦信『我が人生に悔いなし』比謝川ガス株式会社

本部半島の先端に位置する備瀬集落は八つの班から成っていて、一班から七班までが道筋によって分けられ、集落の主要部を占めて本字と呼ばれていた。八班はタカラバル(高良原)と称され、やや離れて東側にある小集落である。渡口家は備瀬集落の最南端にあって、屋号「イチャラヤー」と呼ばれていた。集落の入口に位置し、最初に行き合う家(イチャラヤー)であるところから新愛の意味を込めてつけられた屋号であろう。

渡口家の遠い祖先は、250年ほども前に、本部間切の健堅より備瀬に移り住んだようである。元家(ムートゥヤー)の屋号である「キンキンヤー」からもそのことが十分にうかがえる。系図によれば、元家の5男が分家して家建てをし「いち渡久地」を名乗り、私どもの直接の祖先となっている。そして「いち渡久地」の長男が渡久地孫一郎で、その子孫の一人として祖父の彦蔵が出生しているのである。彦蔵の長男が彦榮で、私は彦榮の二男として生を受けたことになる。

沖縄日傘愛好会
先日、NHKの全国ニュースによると猛暑で「日傘」の売り上げが2割伸びているという。沖縄には数年前か沖縄日傘愛好会が話題になっていた。日傘はもともと19世紀のフランスで文化として花開いた。フランスの印象派の画家、クロード・モネも、日傘の女性を描いている。現代のヨーロッパではなぜかその習慣が廃れ、日本で定着している。

渡口氏は沖縄日傘愛好会会長である。

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Category: 01-人物名鑑
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沖縄の雑誌『青い海』1971年5月号 徳田安周「私の青春/あゝ女性たちよー毛遊びに失敗した若き日の想い出ー」

1973年10月 『琉球の文化』第四号 徳田安周「琉球古神道への旅」


1975年8月 徳田安周『沖縄てんやわんやー気楽に読める沖縄の世相風俗史ー』沖縄文教出版社(神山吉光)

川平朝申
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1960年ごろ料亭松の下にて野町良夫牧師(1937年、那覇日基教会牧師)歓迎会。前列右から3人目・当山正堅夫人、野町夫妻、古賀善次。後列右・山田實、4人目・川平朝申、大嶺政寛、一人置いて天願俊貞、一人置いて当山堅一。徳田安周も居る。

1951年11月 第3回沖展(琉米文化会館) 川平朝申「西陽射す頃」「思い出の丘」

1955年3月 第7回沖展(壷屋小学校) 川平朝申「旧知事官舎」

1958年3月 第10回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「みーにし」「影」

1959年3月 第11回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「河童」「古都の石畳道」「ビルとドブ川」「晩秋」

1960年3月 第12回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「或る踊り」「暮色の国際通り」

1963年3月 第15回沖展(壷屋小学校) 川平朝申写真「富士とチャンパ葵」

1963年5月 『沖縄芸能マガジン』川平朝申「沖縄演劇の将来を思う!-現役俳優へ希うこと!」
○私は若い頃から郷土史や郷土の民俗、土俗に就いて深い興味をもっていた。それは私が中学の頃、台湾に移住し、郷土に対する郷愁が、こうして私の心を郷土の総てに愛着をよせるようにしたのかもしれない。とりわけ郷土の演劇に対しては私の心をすっかり、とりこにしてしまった。それと云うのも私の父が非常に芝居好きで、よく父に連れられて辻町のはたみちの芝居に行ったものである。「球陽座」「中座」等、芝居がはねると父はきまったように楽屋まで足を運び、幹部俳優に挨拶をし、「今日の芝居は上出来だった!」等と激励をしていた。

1968年3月 第20回沖展(壷屋小学校)  川平朝申写真カラー「夕陽その1」 前原基男「旧家」
                            西村貞雄「S子の首」

1968年8月 沖縄タイムス社ホール「川平朝申作品展ー写真とスケッチ」

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Category: 01-人物名鑑
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1892年4月 島袋源一郎、今帰仁尋常小学校入学
1896年4月 島袋源一郎、名護の国頭高等小学校に入学
1904年10月20日 『東京人類学会雑誌』第223号 鳥居龍蔵「沖縄人の皮膚の色に就てー余は本年夏期、沖縄諸島を巡回せしが、其那覇滞在中、首里なる同県師範学校、及び高等女学校に於て、男女学徒の皮膚の色を調査なしたり。(助手は伊波普猷で、師範学校の学徒に島袋源一郎・今帰仁間切20歳、仲原善忠・久米島18歳、比嘉春潮・首里21歳、徳元八一・玉城間切20歳、宮城栄昌・久志22歳、諸見里朝清・首里20歳山城篤男・高嶺間切17歳,
新垣信一などの名前がある。)

□当山正堅「時の図画の先生は日本画に堪能な山口瑞雨先生でありましたが、あの頃から洋画も課さねばならなかったので、先生は予め其の描写法を授けることなしに漫然と首里城を写生して来るようにとの日曜宿題を命ぜられたのであります。すると、島袋源一郎氏は唐破風の棟上に登って屋根の大きさから、両端の龍の胴体、髭の長さを測り更に瓦の数まで一々数えて来てから構想を練って描写に取りかかったと云う熱心さに先生も同級生一同も驚いたと云うことでありました。」

1907年3月 島袋源一郎、沖縄県師範学校卒業。 4月 名護訓導
1926年8月 那覇松山校に於いて西村真次「家族国家としての日本」講演
1927年1月 那覇尋高に於いて嘉納治五郎「柔道の原理と精力善用」講演

1927年4月 『沖縄教育』161号 「教育参考館の建設に就いて」「教育参考館記事」
1927年8月26日~4日間 松山小学校で小原國芳「教育道」講演

1928年3月

名護東江小学校卒業式ー前列右から5番目が仲原照子(源一郎の妹)、2列目左から7番目が島袋源一郎(当時校長)→1997年4月 仲原照子『想いの中からー随筆・短歌・俳句など』「戦前の郷土博物館ー首里城内の正殿に向かって、右側南殿があり、左側に博物館に使われた北殿がありました。北殿はかつて冊封使の歓待に利用されたところで中国風の造りになっていました。館内の柱は、円柱の大木が使われ左端に昇り龍、右端に降り龍が彫られ、朱色とややくすんだ赤色が塗られていました。館内には尚家の宝物をはじめ、紅型・陶器・漆器・三味線・書画・馬具・龕などが所狭しと展示されていました。」 
1928年10月 城青年団同人雑誌『創造青年』創刊号 島袋源一郎「(略)余は只諸君個人個人が各自自己を完成し生まれた価値のある立派な人となり、更に社会的に何か貢献し死後も地球に足跡を印刻し得る偉大な人物になられんことを冀望して擱筆する次第である。」
1929年3月 『南島研究』島袋源一郎『名護城史考』
□(略)沖縄の祖霊崇拝教では之を信じて居るのである。此の宗教は多神教の程度迄発達しているが種々の障碍の為に停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる宗教意識に導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入ることが出来るのである。
1936年7月 『沖縄教育』第239号(表紙・琉球組踊「銘苅子」の天女) 島袋盛敏「琉球芸能感想記」/上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」

1912年10月8日 『琉球新報』伊波普猷「明治聖代紀念事業(本県に於いて如何なる事業を実行す可きか)・博物館が一番よいー明治時代の紀念事業としては博物館が一番よいと思ひますそして其処には主に教育の参考品を集めついでに沖縄の古物も集めたい壁には明治時代に輩出した名高い政治家軍人実業家教育家文学者宗教家美術家俳優等の肖像を掲げついでに明治時代に輩出した沖縄の名士の肖像迄は掲げるやうにしたい」

1916年2月8日『琉球新報』「大典紀念事業ー首里区では旧城『西ノ殿』に大修理を施し以って公会堂を設置すべく其の経費1千円圓を計上して愈愈5年度より2ヵ年継続を以って起工する事になっている。」

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1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎
□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。

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島袋源一郎
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1932年10月23日ー南山城址南側を歩く。写真左から島袋源一郎、宜保、山崎正董、とねく →『写真集 懐かしき沖縄』琉球新報社2000年11月 
1937年11月 沖縄師範学校龍潭同窓会『會報』 □仲吉朝睦(県社沖縄神社社司)「惟神の大道」/袋源一郎(沖縄県教育会主事)「同窓の誇と悲」/知念亀千代(東京市月島第一小学校訓導)「手工教育より観たる吾が郷土」
1938年8月28日 午後ー昭和会館で沖縄生活更新協会発会式。式は沖縄県教育会主事島袋源一郎司会のもと進められた。理事長・大城兼義、/理事・當間那覇市助役、勝連首里市助役、上原、眞栄城、新垣各島尻町村会役員、玉井、宮平、伊佐各中頭町村長会役員、仲宗根、山城、池原各国頭町村長会役員、石原宮古町村長会長、大濱八重山町村会長、吉田県社会事業主事、諸見里県社会教育主事、川平女師一高女校長、志喜屋海南中学校長、宮城島尻教育部会長、渡嘉敷中頭教育部会長、比嘉国頭教育部会長、島袋図書館長、金城県農会技師、當眞朝日社長、又吉琉球主筆、親泊日報理事、大城兼義、島袋源一郎、当山正堅、湧上聾人、親泊康永/監事・島袋源一郎、親泊政博/主事・当山正堅/顧問・淵上知事、尚順男、伊江男、平尾貴族院議員、漢那、伊禮、仲井間、崎山、小田各代議士、金城那覇、伊豆見首里両市長、嵩原県会議長、照屋宏、宜保成晴、我如古楽一郎、仲田徳三、盛島明長、長野時之助

1939年3月 沖縄生活更新協会『新生活』(当山正堅)
島袋源一郎□須らく勇往邁進せよー今は我ら大和民族の同胞が八紘一宇の大理想の下に、世界的に飛躍すべき重大な時機に際会している国民の一人一人が最善を尽くして皇国に貢献すべき時である。我等は日本人たるの誇りを持って勇往邁進しなければならぬ。退嬰・卑屈・消極・卑下は禁物である。我等沖縄人は人種学、血清学、言語学、風俗、土俗其他有ゆる角度から考察しても立派な大和民族であり、其の一地方集団であることは各方面の学者が証明している。何を自ら卑下する必要があるか?。然も我等の祖先は激浪と戦って此の南島に渡って来た丈けに実に勇剛であり、驍健であった。四世紀ばかり前欧州人がマラッカ海峡以東に進出して来なかった時代迄日本本土から朝鮮、支那、安南、シャム、呂宋、ボルネオあたり迄の所謂東洋貿易の覇権を掌握していたのは実に我が琉球人であった。西暦1454年以来琉球王は其の港を東亜貿易の一大市場にしょうと努力していたという。

天文の頃葡萄牙人は琉球を「黄金の島大琉球」と称し日本を「銀の島ジャパン」と称していた。目下眞教寺に吊るされている大鐘「中山王殿前に懸くる鐘」の銘に、
琉球國は南海の勝地にして三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為し

1939年3月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』創刊号

1939年5月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『新生活』第2号

1939年10月 沖縄生活更新協会(昭和会館内)『眞生活』第3号

1939年5月 沖縄生活更新協会『新生活』第2号(当山正堅)
□最近改めたる県内名士の復姓
勝連盛常→山田盛常
嘉数詠俊→日高詠俊
饒平名紀腆→長田紀腆
玻名城長好→山田長好
勢理客宗正→町田宗正
我謝昌饒→重久昌饒
渡嘉敷唯秀→新川唯秀
仲兼久吉盛→宮里吉盛

□式場隆三郎 しきば-りゅうざぶろう
1898-1965 大正-昭和時代の精神医学者。
明治31年7月2日生まれ。静岡脳病院院長などをへて式場病院をひらく。昭和21年ロマンス社社長となり,「ロマンス」「映画スター」などを発行。ゴッホ研究家,放浪の画家山下清の後援者としても知られる。昭和40年11月21日死去。67歳。新潟県出身。新潟医専卒。著作に「ヴァン・ゴッホの生涯と精神病」など。(→コトバンク)



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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1909年3月19日ー『沖縄毎日新聞』伊波月城「誓閑寺時代の回顧」(以って入社の辞に代ふ)9年前のことである。家兄が京都に行った後で、迷子同様になった自分は、当時國光社に居られた恩師田島隋々庵氏の京橋南小田原町の僑居に這入り込むことになった所が、元来閑静な所が好きな自分は、間もなく牛込は喜久井なる誓閑寺に、今の甲辰の校長東恩納氏と同居して自炊することになった。お寺に引越したのは8月の上旬である。日はよくは覚えていないが、恰度同郷の友人を誓閑寺の隣なる大龍寺の墓地に葬ってから2日目の夕暮れであった。お寺は浄土宗で、住職の外に、小学校に通う子供と仙台辺の田舎者だと云う婆さんがいた。その婆さんが住職の梵妻なので、住職より10歳も老けて見えた。自分は三畳の室をあてがわれた。室は南向きで風通しはよかったが、戸端から一間先に、墳墓が並んでいたのには、聊か閉口した。併し後では墳墓と親しむようになった。自分が今日墓畔を逍遥するを一種の快楽とするようになったのは詩人イプセンの感化ばかりでもないのである。10日位たつと当間浮鷗氏が其の親戚の外間氏と共に引越して来て仲間になった。それから間もなく諸見里南香氏が上京された。沖縄時論が解散したので、この10年間は郷里には帰れないといって居られた。南香氏は10日ばかりすると日本新聞の記者となられた。誓閑時は俄かに賑わったのである。
 8月中は、学校が休みなので、何れものんきに法螺を吹いて暮らしていた。朝は木魚の音と読経の声に目が覚める。総がかりで朝飯の支度をする。朝飯がすむと銘々で散歩に出かける。散歩から帰って来ると昼飯の用意に取りかかる。昼飯がすむと、下町の方に出かけるものもあれば、華胥の國に遊ぶのもいた。共同生活の快楽は一つ釜から飯を食べるということである。併し社会主義というものが、到底地上で行われるべきでないと思ったのはこの時である。一番戦闘力が強かったのは東恩納氏で、一番戦闘力が弱かったのは外間氏であった。外間氏は列強の略奪に遭って泣き出したこともある。浮鷗氏は此頃からの潔癖家である。東恩納氏は有名な無精者で、自分が座っていた2尺平方の掃除も碌にしなかった位である。南香氏は郷里で奮闘した結果、意気消沈してしまって、何らの特色も発揮しなかった。自分は其時からの酔漢で、5名のうちで酒屋の信用が一番重かった方である。
 木魚の音と読経の声は聞きなれると心持のよいものである。浮鷗氏が禅味を帯び始めたのもこの頃からであろう。自分が耶蘇に帰依したのも此頃である。誓閑寺時代は自分に取っては忘れることの出来ない時代である。今から考えて見ると誓閑寺の一隅は沖縄の社会の或る一部の縮図であった。9月になって皆下町の方に引越した。思えば昨今のことのようであるが、足かけた年になる。自分は依然たる呉下の旧阿の蒙である。
 毎日紙の発刊当時、自分は社友となって、いかがわしい翻訳物を出して世の物笑となって居る所に、去る15日の朝、當間氏から来て呉れとの手紙を受けて、早速いって見ると記者にするつもりであるが如何かとのことであった。自分は一人で決定が出来ないので、帰ってきて家兄と相談した後で承諾と云う意味の手紙を出した。所が文章一つ書けけない自分がどうして記者などになれる。家兄に聞くと君が平常使用している普通語で、君の思想感情を飾りなく、、偽りなくせんじつめて吐き出せ。形容詞も知らなければ知らないでいい。漢字も知らなければ知らなくてもいい。只だ耳障りにならないように書け、10年も書いたらいくらか物になるとのことである。自分は此教訓に遵って書くつもりである。
 新聞を起こして見ようということは誓閑寺時代から先輩諸氏が口ぐせのようにいっていたことであるが、10年後の今日この小理想は漸く実現せられて、自分までが編集室の一椅子を占めるようになった。さアこれから自分は、どういう方面に、どう働いたらよかろう?心配でたまらない。(をはり)
 ◇新宿区喜久井町61 亀鶴山易行院誓閑寺 深川靈嚴寺末
寛永七年靈嶋に起立、明暦大火後宗参寺領の内庚申塚に借地移轉。寛文六年七月喜久井町に移る。開山重蓮社本譽上人誓閑和尚、寛永二年五月十五日卒。舊境内借地二千百八十一坪、古跡年貢地済松寺領百三十三坪。境内に直径二尺六寸の大鐘があり、元和二年二月藤原兼長の作で、鐘銘に『荏原郡』と記入してあるので、史家の間に注意されたものである。書上に『境内小川あり、荏原郡と豊島郡との境なり、本堂のある方を荏原と云』とある。(「牛込區史」より)/夏目漱石は自宅すぐ近くの誓閑寺の鉦の音について、随筆「硝子戸の中」でふれている。今は近くに漱石山房記念館、草間彌生美術館。

1900年4月8日「東京・沖縄青年会ー平良保一君卒業記念」
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 〇伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。ちなみに外間現徳は前列左端、この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。私が最初にこの写真を紹介したのは1994年『沖縄タイムス』粟国恭子「末吉麦門冬」の8月8日。次いで1997年、那覇市文化局資料室の『おもろと沖縄学の父・伊波普猷ー没後50年』に収録した。


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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
 沖縄の伝統的な陶器に嘉瓶というのがあります。胴体が瓢箪型で、首の部分がやや長く、福よかな形をしている酒器です。現在も陶工たちがよく造っていて、壷屋焼のお店でもよくみかける、沖縄を代表する陶器の一つです。

さて、ここで話題にしようとするのは、その嘉瓶では無く、渡名喜瓶のことです。嘉瓶の兄弟分のような酒壷で、形態は嘉瓶にやや似ていますが下部の瓢箪型の丸みの中程から角ができラインが内側に入り込み上の丸みのラインにつながります。ラインはそのまま細長の首に続き、頂点の小さな口の返しで終わります。なかなかシャープな感じを受ける壷で、用途としては酒を入れる器ですが、まれには墓からの副葬品として小さな渡名喜瓶のビン付け油入れが出てきます。嘉瓶ほどではないにしても壷屋の陶工たちによって昔から造られてきました。

その渡名喜瓶ですが、なぜ渡名喜瓶と呼ばれるのか?、名前の由来が謎とされてきました。沖縄本島の西海に浮かぶ渡名喜島に関係していると思われますが、渡名喜島の人がその昔、壷屋の陶工に大量に注文したとか、渡名喜島のノロが使ったとかの諸説がありますが、どれも確証のあるものではありません。調査をされた方によりますと渡名喜島に特に渡名喜瓶がたくさんあるということでもないようです。では、なぜ渡名喜瓶と呼ばれているのか?。ここで私の仮説を述べてみたいと思います。
(下の図参照)
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上の図は渡名喜瓶を横にした図で、真ん中に一本線を引いてあります。この線を海の水平線としますと、上半分の黒く塗った胴体部分が、海上に浮かぶ渡名喜島の島の形に似ていることに気が付きます。
そうなんです。渡名喜瓶の名前の由来は、渡名喜瓶を横にした上半分が、渡名喜島の島の形に似ていることから、昔の人は、酒を酌み交わしながら親しみを込めて「トゥナチー」と、呼んでいたのではないでしょうか。

沖縄の昔の人々が、地形の特徴を、わかりやすい身近な物にたとえることは、よくあることでした。
たとえば、首里台地の東側、崎山町から南風原に向つて、地形が大きく落ち込みます。その場所は
ウフカクジャー(大きなあご)と呼ばれていて、人の顔のとんがったあごに、たとえています。
又、波の上宮は岬の突端の岩山にありますが、昔は、その岩山を花城(ハナグシク)と呼んでいました。花城は当て字で、本来は鼻グシクだと思われます。顔の真ん中で尖がって存在する鼻を、海線の尖がった岬にたとえたもので、文字があまり普及していない時代には、伝達の手段として、より解りやすく目に見える具体的な物や地形、又は身体の特徴などにたとえる、言語感覚があったようです。

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Category: 04-書の森
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1907年・第19回卒業ー安次嶺松蔵(在フィリッピン太田興業株式会社)、有留隆雄、安里積禎(後備歩兵少尉 在八重山)、安次嶺長徳(八重山登記所在勤)、新垣良盛(南風原小学校)、伊藤祐介(熊本九州鉄道管理局)、石川徳助(明大卒 西平織工場)、翁長良保(法学士 福岡県大里旭ガラス会社)、大宜味朝明、大村寛、金城慎義(神戸高商卒 在ブラジル)、金城順裕、金城肇、我那覇生茂(新聞取次業)、片山利久一(早稲田大)、兼島政忠(東洋協会出 在大阪)、垣花恵寛(那覇税務署)、嘉手川重利(那覇市役所)、嘉数良睦、川平恵守(明大卒 東京神田西小川町松濱旅館開業)、神山盛亮(在東京)、本将秀(泊小学校教員)、久場眞長(千葉医専卒 今帰仁開業)、桑江夢熊(沖縄銀行本店 那覇市議員)、小橋川照慶(典獄)、税所篤雄(五高卒)、崎山嗣朝(京大法学士 弁護士 県議 那覇市議)、島袋秀清(熊本商工卒 在満州)、柴田朝雄(熊本医専卒 八重山開業)、勢理客智勇(那覇区役所書記)、祖慶實徳(長崎医専卒)、玉城松助(大阪高医卒 在大阪)、玉那覇有宏、田中胖(工学士 大阪市北区上福島北1-160-1)、高嶺朝公(千葉医専卒 在東京)、高嶺朝保(千葉医専卒 千葉町開業)、平良加(法学士 在東京)、高橋武松(早稲田大)、照屋孚次郎(琉球酒造組合理事)、當間英憲(司法代理人)、友寄英偉(那覇市会議員 市役所)、永田榮蔵(東京高商)、永田長松、仲吉朝太(熊本医専卒 本県技手・保安課)、仲松彌仁(長崎医専卒 宮古開業)、名城嗣貞(県属・産業課)、仲村渠嘉貞(在米)、仲本正秀(外語卒 大連市南満州鉄道会社四洮鉄道計画課長)、仲田朝義(高等女学校教諭)、新田元孝、新田元隆(鹿児島高等農林卒 本県産業課)、饒平名紀明(在東京)、野原幸輝、平安山長義(医学士 福岡病院)、比嘉江長、東恩納寛仁(県属)、譜久村安建(在米)、宮良當智(八重山郵便局)、森安薫、山内國太郎(商船会社 在大島)、山田有慶(小学教員)、屋部憲傳(在米)、山城興昌(在米)、山城端典、山田有幹(那覇市議)、読谷山朝宣(千葉医専卒 在北海道)

1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)

1909年・第21回卒業ー安谷屋音房(川田小学訓導)、石川善盛(法学士 弁護士 代議士)、池畑浦悦(熊本医専卒 大島開業)、糸満盛重(那覇尋常高等小学訓導)、石原世昌(県属)、石原守規(屋良小学訓導)、浦崎朝臣(県属)、上原與吉(慈恵院卒 在布哇)、江藤盛一(東京東洋拓殖株式会社)、翁長林立(在台湾)、具志川朝宣(垣花小学訓導)、垣花恵常(東亜同文書院卒 奉天税関)、川崎良三(長崎高商卒 大連油脂工業株式会社)、川崎誠治(台湾新竹税務署)、神里多盛(高嶺小学校長)、兼島景範(那覇軽鉄 嘉手納駅長)、國吉眞現、國吉眞俊(東京府下豊多摩郡代々幡笹塚41號)、桑江常通、後藤怒(鹿児島電気会社)、佐村鉄也(在熊本)、崎山朝盛(早稲田卒 大阪湯浅商店員)、謝花寛済(法学士 北海道地方裁判所検事)、祝嶺春榮(久志村)、島袋永幸、玉城現(屋良小学訓導)、知念朝太郎(医学士 高知市武田病院)、照屋興善(那覇尋常高等小学訓導)、宮原守勝(首里尋常小学校訓導)、渡口眞正康、名嘉原知祥(在東京 会計検査院)、仲本兼亮(在大阪)、羽地朝敏(早大卒 首里市書記)、鉢嶺清眞(早大卒 那覇税務署)、羽地朝松、比嘉榮眞(医学士 那覇久米通開業)、堀江吉成(岡山医専卒)、眞榮田之璟(同志社卒 大阪高田商会)、前田達男(慶應義塾 在神戸)、溝口敏麿(長崎高商卒 横浜日本製糸株式会社)、森安勇(徳島県立商業学校)、山田有實(工学士 造兵将校)、與那原良輔(首里女子小学在勤)

1910年・第22回卒業ー赤池稔(旧姓税所 東大医科卒)、池間恵長(旧姓天久 長崎高商卒 支那厦門台湾銀行支店)、新嘉喜倫元(慈恵医専卒 久米島開業 仲里村医)、安里積一(在メキシコ)、家長寛(旧姓田中 法学士 大阪商船会社)、伊豆見元永(東亜同文書院卒 上海三井支店)、石原笑吉(鹿児島測候所)、宇堅源太郎(中頭郡具志川村役場)、浦崎永慎(那覇東町 材木商)、浦添朝功、大田朝重、大城朝英(那覇市議 大城無尽商会)、兼島由明(本校在勤)、我謝昌饒(大阪市堀川小学在勤)、川崎淳治(台湾 倉庫会社基隆支店)、嘉手刈貞徳(県属)、兼本盛仁(垣花小学訓導)、我喜屋宗信(早稲田卒 大阪市西区長堀北通5湯浅パイプ店)、桑江夢鯉(那覇市役所)、城間康信(上海三井物産支店)、慶田城用伯(高工卒)、護得久朝章()首里市議)、古波鮫唯功(泊小学校訓導)、相良彦威智(東北帝大在学中死亡)、座間味瑩(鹿児島高農卒 越来村長)、柴田米三(東京歯科医専卒 東京千駄ヶ谷889)、筱原三男(農学士)、新里與長(第一大里小学校訓導)、瀬長良直(慶應大卒 三越呉服店)、玉城寛(糸満町役場)、高里盛華、玉城武太(在比島)、知花加那一(在台湾)、千葉文亮(那覇市役所)、天願篤貞(在米)、渡嘉敷眞睦(美東尋常高小学訓導)、當間九思(仙台高工卒 在阪)、渡慶次全義(在京)、富村一郎、富原守貞(く久米島仲里小学校)、當間文雄(勧銀書記)、渡嘉敷唯義(在阪)、徳田安貞(東京本郷区梅園町64山田方)、長嶺但敏(東京小石川高等小学校)、仲座里喬、仲本吉正(兼次小学校)、玻名城政睦(在阪)、橋口達雄(在京)、比嘉安昌(在京)、樋口謙二(南風原小学校)、福地徳、又吉全興(熊本医専卒 在米)、松元維繁(那覇尋常小学訓導)、前田榮造(商業 那覇大門前通)、宮城源清(米国ローサンゼルス)、宮里朝鳳(宜野湾小学校)、屋比久政文、山田有功(滋賀県膳所中学校教諭)、與那原良剛(千葉医専薬学部卒 正文洋行那覇支配人)、與座嘉剛(在阪)、和田秀夫
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1983年8月『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ーオキナワの少年」
東京時代の座右の書

 左の本の表紙の「さざれ石」写真を見て京都のさざれ石を見た。→日本国歌にうたわれている「さざれ石」とは、ちいさな石という意味です。さざれ石は年とともに大きく成長し、岩になると信じられている神霊の宿る石です。 国歌の原典は「古今和歌集」にも詠まれた生き石伝説「さざれ石」です。下鴨神社の「鴨の七不思議」の中に、「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」伝承が残っており、石に宿る神聖な力をを現しています

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 1974年8月『山口組時報』「田岡家(本家)令息満氏 華麗なる華燭の典」
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□約700名の来賓、一部を紹介してみたい。政財界ー石井一、中山正暉、五島昇、松村正直、佐々木慎太郎、中井一夫、松尾国三。
会社関係ー岡田茂(東映社長)、川辺正夫(松竹副社長)、徳間康快その他。
作家・タレントー川内康範、飯干晃一、小池一雄、俊藤浩滋(東映プロデューサー)、鶴田浩二、高倉健、勝新太郎、中村玉緒、寺島純子、梅宮辰夫、ビクトリア、待田京介、伴淳三郎、清川虹子、五木ひろし、渚ゆうこ、天中軒雲月、大村崑、西郷輝彦、山口洋子、吉村道明、沢村忠。なお、元首相、信介氏他各界知名士多数より祝電があり、司会者より披露されたことを、最後に付記しておきます。(小田秀臣・山口組時報編集責任者・記)
 私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う
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1975年1月『山口組時報』
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左・大正区平尾にあった山口組内嘉陽組事務所。後に難波に移る・右
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山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。

山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
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初代山健組組織図
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写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一
 通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。

神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ
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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」
 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
 記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)

『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。
沖縄の右翼・総会屋

1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)

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平成4年度 日傷・日妻の会全国合同沖縄大会、沖縄コンベンションセンター、笹川会長と沖縄国際武道空手連盟の皆さん

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守礼門
小峯和明立教大学教授の『今昔物語集の世界』に「ある人は個人の屋敷の門やお寺の三門を想像するでしょうし、ある人はパリの凱旋門や都市の有名な門を連想するかもしれません」と門の話から始まり羅城門(羅生門)で話がはじまっている。ここに出てくる「守礼の門」は扁額が「守礼之邦」となっているところからそう呼ぶのであるが、中には「守礼門」と書いて「しゅれいのもん」と呼ぶのもいる。

大阪「沖縄関係資料室」(西平守晴主宰)には守礼門の扁額の拓本が軸装である。これは1972年に「豊川忠進先生の長寿を祝う会」のため那覇市の又吉真三氏から借用し寄贈されたものである。拓本の先駆者は久場政用。久場には『琉球金石総覧』『琉球列島之文化史料と植物史料』がある。また1926年の『沖縄タイムス』には「久場政用事業広告ー琉球植物園、科学知識普及ノ講話」がある。

新川明氏は『沖縄・統合と反逆』の中で「『守礼門』新札をどう読むか」と題し「扁額の『守禮之邦』という語句は、琉球王国が対外的に礼節を重んずる国であることを内外に宣言した意味を持つ。おのずからその国民は『守礼の民』であるという自己規定が生じる。『守礼門』は、そのような自己規定を媒介する『記号』として共有されてきたのである」とし、続けて「このような伝統は直ちに統治者によって逆手に取られ、支配目的を遂行するために利用されるのが常である。たとえば米軍統治下の沖縄に『守礼の光』と題する雑誌があった」としその側面にも触れている。
守礼門は、首里城が復元されるまでは「沖縄のシンボル」であった。最近は無用の長物の扱いを受け、沖縄教育委員会発行の『概説・沖縄の歴史と文化』の索引にも独立した項目としては無い。首里城に一括りされ冷たい扱いとなっている。1853年6月6日にペリー提督一行が首里城を訪れた。その遠征記には守礼門の版画が掲載されている。扁額の字は「中山府」としか見えないがとにかくもアメリカ史に守礼門が登場した最初のものであろう。

1952年発行の琉球郵便切手に「正殿唐破風」「琉大開学記念」(正殿が描かれている)、53年発行の「ぺルリ来琉百年記念」がある。58年には守礼門復元記念切手が発行された。62年には「国際マラリア防遏事業記念」切手に守礼門が図案化され、65年の「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」切手にも守礼門が使われた。復帰のときは守礼門が紅型模様とともに記念切手に使われ、時代の節目には必ず守礼門が使われた。合計6枚もある。スタンプにも数種がある。

丹羽文雄の小説集に『守禮の門』(1948年)がある。ちなみに手元の沖縄の旅行ガイドブックを見ると、1963刊の実業之日本社『沖縄』は口絵カラー写真に「守礼の門」がある。68年の主婦と生活社『カラ―旅・沖縄』はカバーと中扉に守礼門の写真がある。70年の日本旅行研究所『沖縄』には「守礼の門」のカラー写真、72年の山と渓谷社『沖縄と南西の島々』は「夕日の守礼門(しゅれいのもん)」の写真がある。

『おきなわキーワードコラムブック』に小野まさこさんが守礼門を「琉球王国時代には中国使節を迎え、現代においては観光客を迎えている首里王城の一門。観光客も必ず立ち寄る沖縄観光の記念写真の撮影場所となっている。夕日の中の『守礼之門』等、堂々たるシルエットの絵葉書も何枚かある。(略)東急ホテル前のイミテーション守礼門を本物だとカンチガイする人がけっこういるので、ご注意を」と簡潔に説明している。

東恩納寛惇は「首里王府の第一号坊としては中山門があり、王城の門としては、歓会門がある。第二坊が守礼門」と守礼門考に記している。寛惇は続けて「守礼門は尚清王時代の創建で、其頃は待賢門と言うて居たが、中頃になって首里と言う扁額を掲げ、これを首里門と称えて居た」とあるから呼び方も時代によって変遷している。



2010年7月3日から那覇市歴史博物館で「守礼門」展が開かれる。『球陽』の尚巴志7年(1428年)に「国門を創建す。曰く中山」とあるのは中山門で、尚貞13年(1681年)に板葺きが瓦葺に改められた。ちなみに正門の歓会門は尚眞代の建立。守礼門は尚清代の創建とされ、はじめ「待賢門」、のち「首里」の2字の額を掲げていた。尚永代に「守礼之邦」の額を冊封使来流のときにだけ掲げたが、1663年からは常に掲げられるようになった。

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01/04: 阿氏門中

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元祖の守忠は、南山王汪応祖の二男で、尚巴志に滅ぼされた他魯毎王の弟。南山城が攻撃されたとき城から脱出して具志頭間切の安里大親に助けられ、のちに大親の嗣子になったことが家譜にある。二世守知(守忠の長男)は首里に上り、偶然に世子尚真の養父を命ぜられる。長女真嘉戸樽は知念間切謝氏知名親雲上成良に嫁した。その女子がのちに尚真王夫人となった華后。三世守庸(守知の二男)。四世守良(守庸の長男)は柳姓元祖・摩文仁掟親雲上康長の父。下の「王位継承」陰謀には南山王統系阿氏一門が関わっているのは間違いない。→「柳姓・真喜志」

2012年の12月発行の『週刊新潮』に朝子さんが「私は来年で90歳。祖先のルーツを探ってみたくなりました。大宜味尋常小学校校長で教育者だった私の母方の祖父、親泊朝擢は琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡(浦添王子朝満)の後裔にあたります。」と情報を提供してほしいと書いている。与並岳生氏は『新 琉球王統史⑦尚寧王』などに、「おそらく、尚維衡の”追放”が、明らかに誤りであったことが、”陰謀”によって生まれた尚清王系尚永王の死去、そして嗣子がなかったことにより、公然と主張され、この機会にその”復権”をはかり、かつ正統に戻そうと至った」と書いている。続けて「つまり、尚元王の妃(尚永王の母)真和志聞得大君加那志(号・梅岳)は、尚維衡の長男、尚弘業(広徳寺浦添親方ともいった)の娘であり、尚弘業の息子尚懿の妻は尚元王の長女・首里大君加那志(尚永王の姉で、真和志聞得大君加那志の子)で、つまりいとこ同士で結婚したわけであり、その子が尚寧です。」と記す。

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 沖野忠雄 生年: 安政1.1.1 (1854.1.29) 没年: 大正10.3.26 (1921)
明治期の土木技術者。但馬(兵庫県)の武家に生まれる。父春水。東京大学の前身である大学南校に明治3(1870)年に入学したが,明治8年から長くフランスに学び,土木工学を専攻,明治16年に,内務省の土木局に任官し,8年後大阪の土木監督署に赴任したのちは,大阪港の築港工事や淀川の治水工事など,大阪近辺の環境整備を手掛け,功績があった。のち内務省に帰任,技監を務めた。 (村上陽一郎・コトバンク)
 1916年4月13日『琉球新報』那覇築港竣工式に、功労者(内務技師監工学博士)として、近藤虎五郎(内務技師工学博士)と共に紀念品を贈呈された。
近藤虎五郎 こんどう-とらごろう□1865-1922 明治-大正時代の土木技術者。
慶応元年6月1日生まれ。アメリカ留学後,明治23年内務省にはいり,内務技師となる。河川改修や上下水道の普及につとめる。母校東京帝大の教授,鉄道省技師なども兼務した。大正11年7月17日死去。58歳。越後(えちご)(新潟県)出身。(コトバンク)
 那覇港湾施設(なはこうわんしせつ)は、沖縄県那覇市にある在日米軍基地で、アメリカ陸軍が使用している。尚、“軍港”と通称されているが、海軍の基地ではなく、陸軍の管理する港湾設備である。国場川の河口南側、明治橋の西側、那覇港フェリーターミナルの対に位置する。南側には陸上自衛隊那覇駐屯地がある。1945年(昭和20年)に米軍が沖縄を占領して以来、那覇軍港として陸軍によって整備が進められてきた。
 1972年(昭和47年)の沖縄の復帰に際して、名称が「那覇港湾施設」と改められ、1974年(昭和49年)の第15回日米安全保障協議委員会で、移設条件付き全面返還が合意された。その後、国道331号・国道332号の拡幅、那覇西道路の海底トンネル建設などのため、一部用地が日本側に返還された。(ウィキペディア)













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1997年8月、沖縄県公文書館で「秋正文庫の世界」展が開かれるにあたって比嘉晴二郎氏に新城栄徳を介して展評を依頼した。沖縄タイムス8月5日に掲載された。

比嘉晴二郎(梯梧の花短歌会会長)「沖縄文献を長年研究ー秋正氏と収集品」

 秋正という人は、その没後のことし1月、朝子夫人が夫の長い年月をかけて収集した貴重な沖縄関係の古文書を含む文献資料のすべてを沖縄県公文書館へ寄贈して話題になった人である。もっとも自分自身で多少とも沖縄関係の古文書に関心のある人、あるいは図書館、公文書館の職員ならいざ知らず、普通の人は新聞紙上で秋正氏を知るくらいであろう。
数ヶ月前に朝子夫人から、秋正氏の遺稿集『わが青春の思い出』という本が贈られてきた。第1章は、わが青春の思い出、陸軍士官学校(予科)を経て、同学校を卒業、終戦までという副題がついている。第2章は、第2の人生ー。この章は朝子さんの筆になるものである。第3章は、研究発表一覧ー。琉球関係古文文書収集の楽しみ(秋正)となっており、北斎の「琉球八景について」「琉球の希書について」「続・琉球の希書について」等となって本編には琉球の希書に対する秋正氏の独自の書誌的な研究が載っている。
ここで秋正氏の夫人朝子さんの父・宮城新昌さんのことを書いておきたい。沖縄の農林学校を卒業してアメリカの西海の高等園芸学校に入学、カキの養殖を学んだ。西海のオリンピアやカナダに養殖場を持ったりしたが、帰国後は、宮城県下で養蠣(れい)業をおこし、アメリカに種カキ輸出の道を開いたり、垂下式養れい法を考案した。氏も宮城県で養れい業に従事。昭和27年秋、長男を一夜にして失ったので養れい業を宮城県の人に譲り、一家は東京の麹町に移った。それは昭和28年のことだった。
 沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌さんのいとこである。仁四郎氏は、灰燼と化した沖縄で、機械製塩、製糖業と生産業を通じて、また、タバコ、パイン、セメント等の製造で沖縄復興に貢献した人である。仁四郎氏の経営する大東糖業株式会社が東京に出張所をつくることになり、秋正氏に責任者になってほしいという話があり、日本橋の小さな事務所を借り、女性一人を入れた二人だけでささやかなスタートであった。
 さて、秋正氏が、沖縄関係の古文書を収集する動機についてふれたい。大東糖業の専務・大嶺薫氏が、ときどき上京し、骨董趣味のある同氏は、氏を同道して、骨董商や古書店をよく回ったらしい。これが秋正氏の沖縄関係古文書収集の発端になったようだ。
沖縄県内にも沖縄関係古文書の収集家がいて、秋正氏も多くの知己を得たらしい。故人となった天野鉄夫さん、私もその小さい収集家の一人であった。私も秋正氏と数回会い、私の乏しい蔵書も一回は見てもらったことがあった。秋正氏は軍人上がりだが、会って話した感じでは誠実な感じのする人であった。

1999年5月『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」
○附録Ⅰ、わが琉球学の先達たちー秋正氏
氏の名前を最初に見たのは1977年の「末吉麦門冬の資料提供申し出る」と言う新聞記事であった。1988年4月、東京古書会館の城北展で、根元書房の佐藤善五郎さんに氏を紹介してもらった。この時の事を氏は「沖縄から上京中の新城栄徳氏に会いコーヒーをのみながら種々懇談す。新城氏は『琉球の文化』編集にたづさわっていた人で琉球資料をよく調べられており且つ比嘉晴二郎氏や天野鉄夫氏等よく知っておられる方だ」と記しておられる。お会いしたのはこの時が最初で最後、この時に戴いた氏の名刺が今もある。

氏は1917年10月、愛知県一宮市で生まれて、1935年一宮中学校を卒業し陸軍士官学校に入学。この頃、東京の山田真山が名古屋に移り住んで、一宮市公園に9メートルの阿弥陀仏や勢至観音、観世音菩薩を制作(文庫に1918年刊の山田真山作品図録がある)。氏は1941年9月に陸軍砲工学校卒業、12月の香港攻略戦に参加し、その武功が朝日新聞、満州日日新聞、読売報知など全国の新聞で報道され話題となる。1942年、ガダルカナル島攻略戦に参加。

1943年12月に宮城新昌の次女・朝子と結婚。1946年6月、義父宮城新昌の勧めで宮城県萩の浜にて養蛎業を学ぶ。1947年、千葉県五井町にて養蛎業を始める。1955年5月に大東糖業株式会社東京連絡事務所長となり、本社の大嶺薫専務の骨董屋廻りに同道するうちに琉球関係古文献蒐集に興味をもった。1979年8月、神山政良蔵書の沖縄史料編集所への寄贈に立ち会い、9月の『南島史学』に「琉球の稀書について」と題し発表。

氏は1995年12月8日に逝去、78歳であった。その膨大なコレクションは、夫人の朝子さんにより沖縄県公文書館に寄贈された。1977年8月に主な文献を展示した特別展「沖縄へのまなざしー秋正文庫の世界ー」が開催された。その図録に展示の資料評価・選定の協力者として私の名前も記されている。

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1881年5月卒業 速成科
田頭景明(那覇)、知志喜榮(那覇)、富永實政(那覇)、永田長恭(那覇)、花城康故(那覇)
1881年7月卒業 速成科
仲里常徳(那覇)
1881年10月卒業 速成科
仲尾次政雅(那覇)
1881年11月卒業 速成科
照屋興仁(那覇)、山口恵知(那覇)
1882年2月卒業 速成科
饒平名知新(那覇)
1882年4月卒業 速成科
糸数昌功(那覇)、島袋全榮(那覇)、下地寛清(宮古)、砂川昌治(宮古)
1882年6月卒業 速成科
安里昌一(島尻)、太田朝敷(首里)、本賀昌(那覇)、謝花昇(島尻)、謝花寛煌(那覇)、高江洲春錦(那覇)、富永實文(那覇)、眞榮田岩助(那覇)
1882年7月卒業 速成科
城間恒洪(那覇)
1882年7月卒業 初等師範学科
嘉手川重慶(那覇)、漢那憲昭(那覇)、比嘉平長(那覇)、松本維榮(那覇)
1882年12月卒業 初等師範学科
伊舎堂孫全(八重山)、大見謝恒有(那覇)、喜舎場英正(八重山)、名嘉眞春教(宮古)、譜久村昌匤(宮古)、松田賀烈(那覇)、安元實明(那覇)
1883年10月卒業 初等師範学科
上江洲由恭(八重山)、嘉数詠詩(那覇)、高良睦喜(那覇)、知念蒲戸(中頭)、平安山長保(那覇)、普久原宗丕(那覇)、眞榮田岩助(那覇)
1883年11月卒業 初等師範学科
大野要一(鹿児島)


1884年11月卒業 初等師範学科
大嶺快安(那覇)、神里多一郎(島尻)、喜屋武英守(中頭)、玉城克全(那覇)

1923年3月卒業 本科第一部
安里永慶(中頭)、安里源秀(中頭・台湾)、新垣信用(八重山・東京深川区毛利校)、新垣壮永(中頭)、上江洲智亭(島尻)、内間仁徳(島尻)、榮野川浩(中頭・旧名)盛貴)、島袋松五郎(中頭)、知念俊吉(中頭・台中州豊原郡神岡校)、吉川眞順(島尻・旧姓 渡嘉敷・東京市本郷区元町校)、仲里朝亭(八重山・台南州新豊郡関廟公学校)、羽地恵信(宮古)、平良恵路(宮古・東京市本所区江東学校)、宮島肇(中頭 ・旧姓 宮城)、宮良寛好(八重山・台湾基隆暖々公学校)、山里昌英(島尻・東京市下谷国民学校)、与那原昌茂(宮古・東京市本所外手校)□1959年5月『オキナワグラフ』「師範学校同期生 大正12年卒ー新垣隆蒸(55・東京工芸社長)、葉山靖(55・旧姓 羽地 江戸川区大杉東小学校長)、喜友名正規(56・江戸川区上一色小学校長)、内間仁徳(56・品川区上神明小学校長)、平良恵路(渋谷区松濤中学校長)、山里昌英(千葉県遠山中学校教頭) 」

1925年3月卒業 本科第一部
石垣英完(八重山・死亡)、糸数昌一(那覇・沖縄県学務課)、伊波嘉三(中頭・国頭楚州校長)、上原健明(島尻)、上里総恭(島尻)、大城亀助(国頭)、兼島方源(宮古)、下地恒忠(宮古・台中州)、島袋貞吉(国頭・東京市中野区野方東国民校)、瀬良垣松重(中頭)、知念清一(中頭)、渡嘉敷眞徳(中頭・死亡)、名幸正期(中頭)、名嘉原安利(中頭)、野原幸輝(島尻)、南風原英寛(八重山・死亡)、比嘉幸全(中頭・東京市中野本郷校)、比嘉永賀(中頭・死亡)、前川守皎(島尻)、宮城清宜(国頭)、宮良寛雄(八重山・朝鮮全州地方法院司法官試補)、本村恵康(宮古・台湾)、屋良朝苗(中頭・台湾台南第二中学校)、屋比久孟林(国頭)、与儀三郎(島尻)



1942年3月卒業 本科第一部
瑞慶村智啓(島尻・八重山与那国校)、砂川恵勝(宮古・与那原校)、西平守晴(八重山・恩納校)

西平守晴□このようにしてようやく卒業、新任教師として国頭郡恩納国民学校へと赴任することになるのです。その間いわゆる徴兵検査を受け甲種合格、しかも海軍への入隊がきまったのが5月末でした。愈々来るものがきたと思うと1年後の4月には軍人として出征しなければならないと思うと、1日1日が惜しまれ身の引き締まる思いで毎日教壇に立ったものでした。null
1983年10月11日『沖縄タイムス』「二度と教壇に戻らなかった青年教師ー教え子と40年ぶりに再会」




沖縄県師範学校同窓会資料

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正式名称は 沖縄「建白書」を実現し未来を拓く島ぐるみ会議 と呼ばれる。その事務局が主催して毎週月曜日の朝10時からバス3台を借り切り、先着順で、代金は1000円。11時過ぎに辺野古漁港着、カヌー隊の出発を激励し、「へのこテント村」の現地の人達との交流、そして持参した弁当で昼食をとり、キャンプシュワーブ前の座り込みに合流し集会を持ち、3時30分に現地を出発し、4時30分に出発点の県庁前県民広場前に帰ってくるというツアーの情報を得て早速友人4人と供に参加した。
 今回はそのレポートである。
 予定した9月15日は(月)は「敬老の日」の公休日。「公休日なので、普段仕事をしている人達も参加し多人数になるのでは?」とか「こういう催しはリタイアしたシニアが多いので、彼らは当日〈敬老会〉に出席していて案外少ないかも・・・」いろいろな考えが錯綜する中で「とにかく早めに到着すれば間違いない!」という意見に落ち着いて、朝8時30分、みどり印刷前集合。モノレール儀保駅から出発に決定した。
 県民広場とはパレット久茂地向かいの角地の広場で9時10分に到着し、先着は4~5人で先ずは確実にバスに乗れると安堵した。
 中央手前の護に囲まれているのが辺野古漁港、中央の菱形の白い部分がキャンプシュワーブの兵舎群、北東から南西に国道329号が横切っていて、北西部に大きく広がる山林部には訓練場や弾薬庫がある。その左下の集落が辺野古。キャンプシュワーブの向こうに広がるのが大浦湾(最深部40~50M)大浦湾の付け根、写真の左奥に沖縄民謡の代表的抒情歌『二見情話(ふたみじょうわ)』の生まれた二見の集落がある。「二見情話」については、あまり知られていない「物語」がある。最終部の附録に外付けする。
10時出発 
県庁前広場出発。壷川→古波蔵→国場→一日橋交差点を左折して北上、那覇インターから沖縄自動車道を一路名護市辺野古を目指した。今年還暦を迎えた僕だが、本島北部の東海は今回で3回目ということで何処をどう通ったのかは説明できない。陽光まぶしく、進行方向左手の金武(きん)や恩納(おんな)の山々の稜線が何と優美なのだろう!と溜息をついた。
 車中では、「島ぐるみ会議」のスタッフや各車両に割り当てられた講師による辺野古基地建設の経緯や現在の作業の進捗状況が詳しく説明され、現場到着までの1時間余はまたたく間であった。
 辺野古漁港到着
 バスは先ず辺野古漁港に着いた。漁港の側の浜辺には当日の海上からの監視活動に当たるカヌー隊(当日は12艇)と、漁港脇にあるテント村で泊まり込んでの活動を続ける現地の人々、100人余がすでに集結していた。
 吾ら那覇からの応援組150人の到着が拡声器から告げられると、大きな拍手と歓声が湧き起こった。砂を踏みしめて高ぶる気持ちを久し振りに感じながら、彼らの集団の輪に加わった。

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2月 関西沖縄県人会結成
2月 比嘉静観、ハワイで『赤い戀』(實業之世界社)発行
2月 伊佐早謙(米沢図書館長)、上杉茂憲の事跡調査のため来沖 


2月27日 『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」(エンゲルス「家族私有財産及国家の起源」)
2月29日 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「八重山藝術の世界的価値ー近代藝術に於る新しき指針」
3月 沖縄県人同胞会(関西沖縄県人会)機関誌『同胞』(ガリ版)創刊

3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。
1924-3
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原稿ー麦門冬が題字を揮毫したもの


4月 琉球歌人連盟発足(会長・山城正忠)
5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

5月 『科学画報』宮里良保「飛行機ものがたり」
6月23日 本賀昌、神村吉郎、宜保成晴、和歌山紡績会社で沖縄女工に対し講演
7月 田島利三郎『琉球文学研究』(伊波普猷・編)青山書店
7月1日 アメリカで日本人移民らを全面的に締め出す「排日移民法」実地
7月3日 『沖縄タイムス』莫夢生「地蔵漫筆ー水に住む蛙」
7月5日 フランス艦アルゴール号、那覇入港
7月8日 『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅ー仏蘭西と琉球」
7月  山城正択、(財)生活改善同盟会から「時の功労者」の表彰状

7月25日ー伊東忠太、東京出発。7月29日ー開聞岳は古来海上交通の目標として薩摩半島の南端にそびえ、三角錐の美しい山容から「薩摩富士」の名を持ち、錦江湾の入口にあたる海門にあることから海門岳とも呼ばれ、舟人たちに大きな安堵感を与えていた。7月30日ー大島。8月1日ー那覇・首里「守礼門」「園比屋武御嶽石門」「歓會門」「「久慶門」「瑞泉門」「漏刻門」「百浦添御本殿」。8月2日ー「波上宮」「聖廟(浦添朝顕邸内)」「辧嶽」。8月10日ーデング①ーがやっと治ったばかりの身体で首里に赴き円覚寺、尚順邸、小禄御殿の石垣を見る。8月11日ー高等女学校で伊東忠太 講演「本県の建築に就いて」。8月14日ー暴風雨の中、鎌倉芳太郎と識名園、識名神宮を見る。中城城は中途で止める。
7月28日 関西沖縄県人会、那覇市公会堂で演説会
8月22日 第四回ふたば会絵画展覧会(那覇尋常高等小学校)
8月25日 黒板勝美、基隆丸で帰京


1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会

1924年9月1日ー『日本及日本人』55号□末吉麦門冬「似せ涙」(南方熊楠と関連)
 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。


1924(大正13)年2月27日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「サボテンー本県の姓名について」
□そんなら母系家族制度とは、どんな社会であるかと云うに、これに対する答を得るにはモルガンの古代社会論を若しくはない。モルガンの「古代社会論」は今私も之を読んでいないが、エンゲルスの「家族私有財産及國家の起源」と云う書に引いた分だけでも母系時代が如何なる社会状態であったかと云う一般は知らるるのである。其の家族制度という章中に下の一節がある。(以下略)

2022-2-3沖縄県立博物館・美術館横の新城良一さんから1974年2月発行『銀座百点』№231を借りた。中に里見弴×渋沢秀夫「続・大正時代」で、渋沢が「私は一高寄宿舎にいた。新渡戸稲造先生が校長。あるとき徳富蘆花が来て『明治維新で封建諸侯が天皇のもとへ統一されたごとく、自分はクリスチャンだから、将来天の神様のもとに世界各国が統一されることを信じてる』『反逆者として井伊大老に処罰された吉田松陰が、現在は神社に祭られてる。だから幸徳秋水も遠い将来神社に祭られないとだれがいえるか』ということですよ。それをあんた、明治時代にいったんですからね。」
 幸徳秋水は末吉安恭がいつも気にしていた人物だ。1912年の「沖縄毎日新聞」元旦号に麦門冬は鑿(のみ)と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢(ろう)破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書いているが本人も後年、那覇港で沈んでしまった。
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12月 『琉球と鹿児島』莫夢「薩摩関係の琉球五異人」

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1925年11月15日『沖縄タイムス』


1924年12月11日『沖縄タイムス』「麦門冬末吉安恭逝去一昨日同家墓地ニ於テ葬儀相営候此段辱知諸君ニ謹告候也 追而来る14日(日曜日)午後時眞教寺ニ於テ追悼会相催候條御臨席)相成度候 会費金30銭当日御持参のこと/伊波普猷、山城正忠、漢那憲康、眞栄城守行、小橋川朝明、本幸厚、上間正雄」

1924年12月15日『沖縄朝日新聞』「麦門冬・末吉安恭氏の追悼会は既報の如く昨14日午後2時より眞教寺佛堂に於いて執行されたが故人の知己友人等相会する者両市各方面の階級を網羅して百数十名に上り、主催者代表として本タイムス社長挨拶を述べ次いで田原法馨師以下役僧の讀経があり故人と近かった仲吉朝助、川平朝令の両氏は交々悲痛なる弔辞を述べ終わって参会者一同順次に焼香を済まし同4時散会した。清く咲き誇れる梅花を■に淋しくも法灯に護られたる『莫夢釈安居』の法名の白木の位牌は故人の在りし日の面影を偲ばせ人々の悲しみを新たならしめた。」


12月14日 『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む(1)ー伊波普猷、仲吉朝助、田原煙波」
○伊波普猷ー末吉君は実際死んだのか。今にも何処からか帰って来るやうな気がしてならない。あれだけの知識が一朝にして消失したのは耐へられない。ことにそれが彼の頭の中で温醸して何物かを創造しょうとしていたかと思ふとなほさら耐へられない。末吉君は私が蒐集した琉球史料を最もよく利用した人の一人だった。15年間私の隠れ家であった郷土史料室を見棄てるに当って、私は君と笑古兄に期待する所が多かったが、突然君に死なれて、少からず失望している。君の蔵書と遺稿とは県立図書館に保管して貰ふことになっているが、後者を整理して他日出版するといふことは彼の友人たちの為さなければならぬ義務であると思っている。


1924年12月15日ー『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む」(2)
□伊波月城「麦門冬君を弔ふ」
おお死ー死の旅路よ
理知の為めに瞬間の静けく
我を愛し失はしむる死の接触よ。
自ら、うつろになれ 體を
解き焚かれ粉にされ又 葬らる。
されどわが眞の體は
疑いもなく他界に行く為我と共に残る。
うつろになれるなきがら。
用なきなきがらは大 のとご いの用 他の必要
の為に、聖化の為に大地に帰り行く
             ホイットマン

12月11日長途の旅から帰って旅装を解く間も待たずして耳にした事は先ず麦門冬末吉君の死であった。その日僕は自働車上 ロイス博士の宗教哲学をひもときつつ人生問題を考えつつ沖縄の更生期の曙に際して自分達は如何して生きて行く可きかを切実に考究せざるを得なかったのに麦門冬君の訃音は実に大能の神が僕の為 述べられ給うた無言の説教としか思われなかったのだ。ああ君は死んだ。然し死は第二の出産である。いで僕も亦君と共に新たな更生しよう。

麦門冬君が東京にいた頃、僕も又東京にいた。その時代飯田町のユニバーサリスト教会では自由神学の増野悦興師が土曜講演を開いて天下の思想家をここに招待して多くの新しい青年を此処ににひきつけていたのであるが此の会合に於いて僕は何時も麦門冬君の顔を見出さざるを得なかった。しかしお互いに口をきいた事はなかった。明治35年の頃君は故桃原君と共に小石川竹町の下宿に居住していて、僕も亦彼等と同じ下宿に住むようになった。其の時君は杉浦重剛先生の日本中学校に籍を置き、何処かの英語の塾にも通っていたが、学校には熱心の方ではなく、何時もすきな本を読んでいたようではあった。話をしたこともなければ勿論君の室に出入りした事もなかったので何ういう本を読んでいたかわからないが、新しい智識を求めていた事は確かであった。

君と接近したのは僕が沖縄毎日新聞の論壇を根拠とした時、互いに共鳴し合うようになってからの事であった。其の後彼は僕と共に沖縄毎日新聞の一記者として活動した事もあった。君は郷土研究に指を染めるようになったのは、時代の要求の然らしむ所であって、語を換えて言へば、彼がジアナリストとして出産した時代は、所謂琉球文化のルネサンス時代 其の朝夕友とする所の者は、凡て新時代の使徒等であったことに起因すると僕は思惟するのだ。

麦門冬君は人格の人であった。あらゆる方面に於いてあっさりしている。殊に性欲の問題などに関しては少しも悩みなどというものを知らないようであった。この点に関して彼は解脱していた。未だ春秋に富める身を持ちつつ突然として他界の人となった事は惜しむ可きである。然し彼の死が永遠に終わりであるとは僕には信じられない。  



12月18日『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む(5)ー上間草秋、眞境名笑古」


12月20日『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む(7)ー東恩納寛敷、長浜瓊州」
12月26日『沖縄タイムス』東恩納寛惇「野人麦門冬の印象」

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1908年1月『文庫』麦門冬「垣越えて鶏逃ぐる木の芽かな/乳呑児の母の昼寝を這ひありく/旅旅籠の女幮吊る無口かな/短夜の酒の香臭き畳かな/奪はれて男にうたす砧かな/許されて山雀しばし庭ありき」
1908年4月『文庫』麦門冬「庭の隅古根の椿咲きにけり/院々の晝静かなり鳥交る/恋知らぬ子猫よ来たれ日向ほこ」
1908年6月『文庫』麦門冬「狛犬の眼鼻に梅の落花かな/病癒まし小姓召さるる梅の花/下張りの屏風乾きぬ小六月/葱畑に先生おはす懐手/甘蔗の干殻白き枯野かな/道草にちぎり馴れにし薄かな」
1908年9月13日□麦門冬「糸瓜忌や叱咤に漏れし人ばかり」
1908年9月『文庫』麦門冬「禅単をすべり出づれば夏の月/蝙蝠や傾城老いて里に住む/炎天や騎馬の法師が頬冠り/お給仕の振袖つづく夏座敷/物の怪の落ちて眠りぬ蚊帳の人/佛へは白き桔梗をまいらせん/南山を見る立膝の主人哉/月の方へ蔭の方へと踊りけり/恋さまざま古文殻の紙魚ぞ知る/かしましき傾城共や嘉定喰/面白うわらひ薬やけさの秋/松風の心動きぬ墓参/平新皇河鹿の歌を詠まれけり/蜻蛉飛んで辻説教の供赤し」
1908年8月『文庫』麦門冬「晒女の邊に泳ぐ家鴨かな/夏痩や柱鏡に向ひ立つ/膳椀の漆輝く暑さかな」
1908年11月『文庫』麦門冬「草紅葉蔵と蔵との間かな/力石夜毎に蚯蚓遶り啼く/芋の子の尻にしかれて鳴く蚯蚓/柳ちりて店鎖しけり姨が酒/花葱に八日の月や夕明り/草花を鉢に培ふ姉妹/立ちながら杯を重ぬる濁酒哉/猿酒を盗みに行くや雲深く」
1908年12月『文庫』麦門冬「まめまめしく硯洗ふや小傾城/魂のぬくもりを出る蒲団かな/頭巾脱いで故郷の山に別れけり/蛤になれず雀の飛びにけり/海に入る勧学院の雀かな/落人の跡かぐ犬や枯野原/傾城に物ねだれし夜長かな/うそつきの唇薄き寒さ哉/梅干を碓つく庭の小春かな」
1909年3月『ホトトギス』麦門冬「粥杖や人の妬みに打たれけり」
1909年2月『文庫』麦門冬「屁を放つて空々如たり冬籠/霜の夜を焼鳥すなる翁かな/寒月に着る火鼠の裘/汲みこぼす水一条や冬の月/寒月に身をすぼめ行く女かな/袋して髯を養ふ冬籠り/船に乗す贄の乙女や枯柳/冬木立祠あらはに石寒し」
1909年4月『文庫』麦門冬「松の内を灯しつづけて石燈籠/女郎衆の艶書合せや松の内/水視我が身の上の今年かな/菜畑水鳥のぼる朝かな」
1909年4月『文庫』麦門冬「粥杖のどつと笑ふや打たれけん/打笑ひて粥杖隠し待つ君よ/交りは手毬を替へてつきにけり」
1909年5月『現今俳家人名辞書』(紫芳社)麦門冬「院々の晝静かなり鳥交る/月の方へ蔭の方へと踊りけり」
1909年5月『文庫』麦門冬「湖近く住みて書楼の柳かな/鳳輦を拝する市の柳かな/木蓮に春の簾を半ば巻く/供養すんで撞き出す鐘や夕桜/さを鹿の八つの角振り落しけり/蛇穴を窈窕として出づる哉/小人も君子も春の日永かな/鶯に崖高うして噴井かな/鶯や天の岩戸に谺して/野遊や火縄に焦げる春の草/泥の香をほのかに嬉し田螺汁/打果てて我が畑廣く眺めけり/三畳に夕日さして梨の花」
1909年5月『趣味』麦門冬「春を惜む柱に屋根の重かつし」
1909年5月『ホトトギス』麦門冬「うららかや低き家並の田舎町」
1909年6月『ホトトギス』麦門冬「磯山を焼き下しけり波白し」
1909年7月『ホトトギス』麦門冬「夏百日梁の袋糧やある」
1909年8月『ホトトギス』麦門冬「翡翠や釣人去りし忘れ笠」
1909年8月『趣味』麦門冬「短夜のすさびにやあらん團扇の絵/傘たたむ雫に闇の蛍かな」
1909年9月『趣味』麦門冬「人訪へば留守とばかりや青簾/青簾湖紅いに旭の出づる/山眼前に聳えて暗し青簾」
1909年9月『文庫』麦門冬「摘み残す煙草畑の小雨かな/裏畑や枯木の枝も掛煙草/蝶々や梅に餘寒の羽づくろひ/南天の葉にさめざめと春の雨/春寒う人元服す神の前/御秘蔵の鶏抱き来る小姓哉/鶏の垂尾美し木の芽垣/山佛焼けてふすぶりおはしけり/山焼くる今朝や匂ひの一しきり/燃尽きて夕になりぬ山寒き」
1909年10月『ホトトギス』麦門冬「庫あけて人のあらざる日永かな/露の野に草刈りおはす王子かな」
1909年10月『文庫』麦門冬「釣床の揺るるに人は寝入りけり/碁敵を迎へて涼し箪/すいと立つ竹一本や露重し/露の野に草刈りたまふ王子かな/木犀に玄関先の月夜かな/風の葦物馴れ顔に行々子/風死して黒き林や三日の月/古雛の首ぐらぐらと動き給ふ/爐塞ぎて疎々しさや老夫婦/家康も組する蛙合戦かな/長閑さや大宮人の長尿/づかづかと小男出でて絵踏かな/狂女とて扶掖して来る絵踏かな/野遊や八重垣の妻見つけたり/城外にぬける泉や草萠ゆる/畑打の木に忘れたる茶瓶かな/山の人駕籠舁き馴れて霞かな/屋根草をしもべに取らす日永哉/摘み行けば摘み来る人や春の草/庫々の白きに柳青みけり/鶯の小さき枝をふみ馴れし/昼寝して彼の鐘や夢うつつ」
1909年11月『趣味』麦門冬「秋の蚊の溺れて乾く硯かな」
1909年12月『文庫』麦門冬「衝入の人驚きぬ大鏡/猪の子の眠れる穴や草暗し/鹽猪を苞にして山男かな/小夜更けて人のけはひや菊畑/旅にして扇を置けば淋しやな/帰んな里の妻々砧打つ/長き夜は又古き夜や思ひ事」
1909年12月『趣味』麦門冬「素車白馬粛々として露の中」
1910年2月『ホトトギス』麦門冬「魚蝦に富む家刀自艶に鴨の聲」
1910年4月『ホトトギス』麦門冬「薊喰はぬ馬のかぶりや牧の草」
1910年4月『趣味』麦門冬「春の水子別れ馬の顔洗へ/うつろ木の朽葉だまりや蛙なく」
1910年5月『趣味』麦門冬「椿落ちてまた廣がりし水輪かな」
1910年6月『文庫』麦門冬「親梅に子梅つれ咲く日和かな/朝寒の水にひらめく小鰕かな/鳥尽きて我武淋しき案山子かな」

1912年11月25日『沖縄毎日新聞』麦門冬「落葉ー斧研かん今朝砥水落葉上□澄めり/焚火に足がつき落葉林に捕つたり/鶏の掘る種子物に垣す落葉かな/山寒に焔□ると登山落葉□もなき/落葉火佛に茶湯す勘当の子を思ふ/貧の窃み捨て置けと曰や庭落葉/旅の女性湯参らそ落葉山冷えに/駿馬化石の口牌見ればげに落葉も/錠錆び祠落葉積むに人の詣つると」
1912年12月7日『沖縄毎日新聞』麦門冬「時雨雲水仙の魂も伴ふか/句黙録黙水仙に冬籠る」
1912年12月20日『沖縄毎日新聞』麦門冬「隼の啼けり末枯野の空晴れて/友と二た昔を語る岩姫隈柳未枯野を」

麦門冬「兎にも家してやらん冬近し/寒いぞや兎は籠に飢ふるぞや/筆持ちて物書く吾も海鼠ならん/一本の木橋渡らば枯野かな/天井に話の響く夜寒かな/冬構まづ障子より白うせり/冬も吊る蚊帳の煤けて哀れなり/掛取の来べき宵なり鎖ささん/貧厨の只打ち煙る年のくれ/角めだる妻を憎むや年の暮/親になき春省羨む年の暮/貧すれば悪の華咲く年の暮」
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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は????宮城昇であろう)

第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

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麦門冬妹ウト/貞とパーパー

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佐渡山安治御夫妻、二宮忠男・貞御夫妻、末吉麦門冬長女・石垣初枝さん/二宮貞さん

2016年8月18日3時 伊佐眞一氏と首里の万松院通夜室に同行/伊佐氏と共同で作った『琉文手帖』麦門冬特集と、『日本古書通信』「バジル・ホール来琉200周年」をお土産にするという。

2016年8月19日12時 いなんせ斎苑で荼毘 

「貞心妙寿信女」 遺族、参列者

2016年8月19日15時 万松院で納骨式


“一握の土”(握り地蔵プロジェクト)二宮貞さん(92)参加


二宮貞の姪であり、麦門冬の孫にあたる石垣市在の、石垣米子詠む
  今は亡き 面影しのびつ 捧げなむ
               伯母安らかにと 祈る朝夕
今年は二宮貞の姉であり、且つ末吉麦門冬の長女、石垣初枝の25回忌に当たり、その夫である石垣長夫の27回忌を併せて、法要を執り行うとして、麦門冬弟の末吉安久長男で、陶芸家の末吉安允に、法要のお返しとして、お地蔵さんを注文した。そのお地蔵さんを見て米子詠む
   おつむなで お顔なでては ほっこりと
                合掌地蔵に 心なごめり

末吉安允作「合掌じぞう」/石垣米子・詠 城谷初治・書


2017年8月16日11時 万松院で「二宮貞1周忌」



2014年12月5日 首里の末吉安允宅で、安久作成「麦門冬著作・資料」を見る
『琉文手帖』麦門冬特集に富島壮英氏が、麦門冬特集を祝すで「東恩納寛惇の著作・論文などのカード目録を作成していた頃、東恩納文庫の戦前の新聞切抜き帳や各種の目録類に麦門冬の著作・創作などを散見して、彼への関心をもちだしてから10年余になろうか。その頃、元気な宮里栄輝先生から戦前の図書館のこと、研究者のことなどを拝聴している時も麦門冬の話がしばしば出た。このように形成された、おぼろげな麦門冬像は、東恩納寛惇の『野人麦門冬の印象』と相俟って、ますます増長される一方、未知の不思議な人物像の魅力へとつかれていった。7,8年前、麦門冬の末弟の故末吉安久氏が著作集を出すというので、数度東恩納文庫に足を運ばれ、若干の著作のコピーもさし上げたが、ついに日の目を見ずに今日に至っている。おそらく、麦門冬が著作の発表の場とした明治・大正期の雑誌や晩年の30代の新聞が殆どないために、収集に困難をきたしたものと思われる。(後略)」


鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。

左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。


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1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦

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1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。
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 渡久地政司/沖縄雑文録
身内のことを誉めるのは、気がきけますが、死後、何十年も経って、父「安良城盛雄」の偉大さを感じます。それは、「パルメニデス断片」という書を通じて感ずるのです。1942-3年(昭和17-18年)ころ、閑古鳥幻聴一家は、大連湾を挟んで、その北側に位置する「甘井子」地区に居住していました。
甘井子地区は、「昭和製鋼所」・「満州化学」・「満州石油」・南満洲鉄道」など・・・大企業が立ち並ぶ一大コンピナート地区でした。
1945年8月22日・・・だったと想いますが、高台にある甘井子・満洲石油の社宅からは、ソ連軍の双発飛行艇「コンソリデーテッド」数十機が大連湾上空を旋回、次々と着水するのが、望見されれました。それが、ソ連軍大連進駐の第一波だったのです。大連市は、阿鼻叫喚の地となったようです。歩行者は、次々と、腕時計を強奪されました。一般住宅も、大々的な略奪の対象になりました。一部の地区では、女性に対する暴行も盛大に行われました。それが、社会主義を標榜する「ソビエト社会主義共和国連邦」のファシスト国家に対する勝利の姿となったのです。その中で、甘井子地区では、各社宅の周辺に「プリカザーニェ」と題する命令の高札が高々と掲げられました。各戦略拠点工場とその従業員を断固として護ろうとする占領軍当局の配慮が働いたようです。お蔭て、閑古鳥幻聴一家も、なんの被害を蒙ることもなく、工場を管理する・・・監督官「メーゼンツェフ」・事務官「アンドリェーイ」・運転手「ニコラーイ」一家とも、極めて友好的な関係を維持、戦後の生活を享受、無事帰国しました。その根源的理由は、決して人道的・友好的関係という観念的なものではありません。技術・設備を背景にした、日本人の物的・知的 potential だったと想われます。
当時、「パルメニデス断片」を熟読していた、父・安良城盛雄は、意識してか・意識せずににか、その哲学的思索を基に、結果的に、国際政治の中における「石油」の重要性に着目、満洲国官吏から満洲石油株式会社幹部への道を選択・転進したものと想われます。
 昨今、国際的視野にたって、「友好的関係」が叫ばれていますが、観念的な友好関係なるものは、全く信用できないというのが、閑古鳥幻聴の哲学です。日本の将来は、「視界ゼロ」などと週刊誌で論評されている昨今ですが、視界はゼロではありません。閑古鳥幻聴としては、世界の中で、科学技術の最先端を極めること、これが、わが国最善の防衛策と考えているのです。閑古鳥は、現在、Cayley-Dickson construction なる概念に撮り憑かれ、鋭意、ソフトウェアの開発に尽力しておりますか、それは、国際政治の中におけるわが国の将来への指針と関連するものだと信じています。以上、お粗末な意見表明となりましたが、じッくりと、検討してみてください。なんらかの成果が得られると確信します。では、皆さん・・・お元気で・・・・・
                   閑古鳥幻聴 拝
2013年3月21日 
2013年6月20日更新
■ 生涯純情・偉才の人 安良城盛雄 ■
生涯純情・偉才の人 安良城盛雄 
-作品年表と記録者メモ-
  安良城盛雄―1896年(明治29)10月25日沖縄県那覇市首里赤平町で生まれる。1977年(昭和52)4月9日豊橋市で逝去、81歳。墓所・犬山市大字犬山字北白山平5-68 瑞泉寺別院、富岡霊苑3号地11番。 あらぐすく・せいゆう 改名後 あらき・もりお 
安良城盛雄作品(印刷物)中心に、本人メモ・手紙・ハガキについては限定し、少しコメントを加え紹介する。資料収集は、名古屋では渡久地、沖縄では仲村顕氏が主におこない、メモ・手紙・ハガキなど個人的資料は、安良城勝也氏(在横浜)からご提供いただいた。収集された資料は、最終的には、「沖縄歴史教育研究会・会員仲村顕」で保存される。      (記録者・渡久地政司/2007-10-末) 安良城盛雄(新京時代)
(はじめに)
最初に安良城盛雄が人生の晩年(1974年(昭和49)10月・盛雄78歳)に、体力の衰えと闘いながら出筆・まとめたであろう作品について紹介したい。
『琉球の貢献』―貢献した主体は琉球・沖縄人であり、恩恵を享受した客体は、日本政府・国民。この作品については、後にもふれるが、この作品を書きながら盛雄は「苛立っていた」のではないか、とわたしは推理する。それは、復帰前、日本政府やマスコミの一部に「沖縄を甘やかすな」発言があった。これに盛雄は、12項目の貢献例を挙げて猛反発した。そして、同時に沖縄の若者に対して、このように貢献しているのだから卑屈にならず、堂々と振舞い、新しい世界平和に希望をいだけ!と題する”詩”を『琉球の貢献』誌の裏表紙に掲載した。
●『琉球の貢献』印刷にあたって 後輩の若人たちに与える

1. きたへみなみへと     北へ南へ
おおうみをこえて     大海を越えて
われらがせんぞの     我等が先祖の
たてたわざよ       建てた偉業よ

2. うけついだちしほ     受けついだ血潮
われらはうみのこ     我等は海の子
きぼうにかがやき     希望に輝き
きばれともよ       気張れ友よ

3. ゆくてはひらけて     行手は開けて
みあげるくもみね     見上げる雲峰
せかいをひとつに     世界を一つに
へいわたてよ       平和建てよ

  (注) 七、五調としないで琉歌の八、八、八、六調とした。
     気張れとは琉球の威勢のよい語である
。      若人よ、この乱世にあって世界平和の希望をもて。
78歳とは思えない若々しい純情な詩だ。わたし(記録者)は、今年(2007年)70歳だが、とてもこのような清清しい詩、言葉を生み出すことができない。盛雄は『琉球の貢献』の12.沖縄戦による犠牲 を記述している。 …赤松船舶特攻隊長大尉は、…慶良間の住民に対し、食糧の半分を部隊に提供せしめ、家畜の屠殺を禁じ住民に手榴弾を与えたがこれは集団自決(赤松は自決を否定しているが)を強いるものではないか。伊江島から米艦によって2千名が慶良間諸島の渡嘉敷島へ送られて来たが、農作物は食いつくされた。そのうち女5人男1人が米軍に選ばれて赤松隊に降伏勧告に来たが敵に内通したものとして処刑された。赤松隊は沖縄戦終結後1カ月、八月十五日の終戦前の七月十九日に無条件降伏し、前記住民六名は即決で殺されたのに、赤松隊は隊長はじめ命拾いした。…

30余年前のこの記述は、「高校歴史教科書から沖縄戦・集団自決事件の削除問題」の核心に触れている。
前口上が長くなった。本論に入ろう。何を行った人なのか、を次ぎに列挙する。
1 何を行った人か
  ・ 上海・東亜同文書院に沖縄県費留学 
  ・ 愛知県下の産業調査・紹介、貿易指導、広報
  ・ 満州国官僚、調査と広報
  ・ 満州石油(株) 激動の国際石油市場に関わる
  ・ 敗戦後引揚  名古屋通産局
  ・ 民間会社 貿易担当
  ・ 沖縄・琉球の歴史研究
2 安良城家と盛雄の高等小学卒まで ~1916年(大正5)
   ● 『戦争前の安良城家屋敷絵図』(安良城勝也氏継承) 末尾に掲載。
● 『安良城家系図』(仲村 顕氏作成) 非公開。
● 『おばあさんの思い出』 盛雄直筆メモ。
●  参考資料『安良城盛昭先生追悼論集』P
219~221
● 『安良城勝也氏・メール』 2007-08-01 ● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」 (再版の手書きコピー)。
 晩年、盛雄も先祖のことが気になった。そして、兄・安良城盛英や縁戚の秋正にも問い合わせた。そのハガキや手紙が残っている。 本人自身がメモ書きにした『おばあさんの思い出』を次に掲載する。
 『おばあさんの思い出』(「盛雄ファイル」)
  …お祖母さんは弘化元年(120代仁孝天皇1844)お祖父さんより一つ下であった。親泊家から嫁いで来た。名はゴゼ(グシー)(ゴゼに種々の意味があるが一番よい意味は貴婦人の尊敬語)、明治41年65歳でなくなった。僕の13歳の時である。家族の死にはじめて会った。悲しみを味わった。おばあさんはやせ形で(「文展」時老婦人像に似ていた)、裁縫が上手で、紀州ネルでシャツを作って貰ったことやそのネルの生地は大和の匂いがしたことを覚えている。おばあさんは煙草がすきで当時専売になってからは煙草に福寿草、あやめ、さつき、萩などがあったがさつきをよく吸っていた。煙草入れを宝蔵といって美しい端裂で木綿や絹の裏をつけて鎌手形に遂上げて正月に親戚や使用人に与えていた。きせるにヤニがたまると僕が掃除してあげた。細い竹で中をつついた後で、火箸できせるをはさんで直立させて吸い口から薬缶の湯を注いだ。おばあさんはめったに外出をしなかったが富川家、親泊家へ行く時は籠で行き、僕がきせると宝蔵をもってお供した。籠は竹のすだれがあって直径20センチ丸、 長さ3メートルくらいの棒で下男や出入りの人がかついだ。
 ゴゼ祖母の夫が安良城盛振(1843―?)、その子が盛雄の父・安良城盛能。長男は病死、その次男・安良城盛英(盛昭の父)が長男を継ぎ、次男が盛雄。三男・盛起。妹・恵美。ツル(嘉数家に嫁し、那覇市の市議に?)。みつ子。
盛能の妻(名前不詳)も親泊家から嫁入り。この老女について、安良城盛昭が詳しく話している(『安良城盛昭先生追悼論集』P219~221)。また、この老女は、盛雄の長男・勝也氏を2~5歳 (昭和4~7年) まで赤平町で育てた。
● 勝也氏からのメール(2007年8月1日)
…『新しい琉球史像』の中の祖母の姿…幼いころ見た毅然としたそのイメージがまざまざと想いだされます。小生は2~5歳の頃、首里赤平の屋敷でこの祖母に育てられたのです。祖母は、親泊家からきた人だそうで、盛昭の姉「真喜屋京子」は、「親泊の家系は、美人が多いのよ」といっていましたが、それもある程度は、納得できるところがありました。「やまとぅは、どっち?」という幼稚な問いに対して、背筋をすッと伸ばし、ゆっくりと腕を挙げ、黙って指し示す毅然とした面影は今でも鮮やかに蘇ります。藁か糸か、梁から下がった紐に、厳しい表情で結び目を付け加える姿をよく見かけました。文字が読めなかったのだということは、戴いた盛昭君の『新しい琉球史像』複写で初めて知り、結び目の意味がやっと分かりました。
 赤平の屋敷の裏は石畳が敷き詰められておりました。その石と石の隙間の草とりをよく見かけました。時には、薬缶の熱湯で除草することもありま した。忙しかったのでしょう。ご先祖のお墓参りにゆき、大勢の親類と弁当を食べた記憶もあります。きッちりと、日々の仕事をこなし、家を護ることができたら文字が読めないことなど大したことではないようにも思います。最も印象的だったのは、鶏の解体です。先ほどまで、走り回っていた「コケコッコ」が解体されて、部品ごとに整然と、庭先で天日干しされているのです。…
   明治36年、沖縄県立師範小学校に入学、「8か年の思い出」(高等小学校卒)を台湾、九江・潯陽頭から寄稿している。
 抜書きすると、  「…入学は区役所前…女学校と一緒…単級…正午には圓覚寺の鐘…2年生の時首里城に移転…あの瓢箪池は私達の時にできた…外間先生が受持ち…8年間の中頃、巡視当番…教生がヴァイオリンを弾いて聞かせてくれた…」
3 沖縄県立第一中学卒まで 1916年(大正5)

● 『夏』 1912年(大正元)「球陽」21号所載 
    …永ひらしく降った梅雨が、サラリと晴れて夏となった春の花があちこちに名残を止めて、草木が漸く新緑を装ふた、空がコバルトに彩られて白い白い大きな線の様な雲が湧き出て芭蕉や野椰子が午後の暑い風に、ザワザワすると夏の感が一層深く頭に滲む。…以下省略
● 『別れ』 1913年(大正2)「球陽」22号所載か? 未発見
ロマンチック青春小説「別れ」について  2007-10-2 勝也氏メール
盛雄の純情性は、この小説に端的に顕れていると感じています。この小説を、小生はある機会から、関東州甘井子時代、終戦後に始めて読んでいます。その最後の場面…友の乗る船が遠ざかるのを、波止場で、小雨の中、見送る筆者…その手にしっかりと握られるのは、友人から贈られた「ダンテの像」…その白い塑像もまた、雨に濡れて…この辺で、小説は大変な盛り上がりを見せ、小生はすっかり感心して、照れることもなく、激賞したのです。それまで、けなすことはあっても、親父を褒めることなど全くなかったのです。親父は、わが意を得たりの感じで、みるみる、顔面が紅潮、少年のような笑みが広がりました。 この小説については、まだまだ、書くことが多いのですが、一点だけ述べますと、この小説には、主人公のモデルがいたであろうということです。そのモデルの人物は、恐らく、県立首里第一中学校の盛雄の同級生…学籍簿があれば、同定できそうです。その友人は、親が事業に失敗、転校の原因となり、途中で転校した友人。転校ではなくて、退学かも知れません。この過程は、当時の琉球士族の相次ぐ事業失敗を裏書することから、現実性があります。想像を逞しくするならば、大変な美少年であったろうともいえます。一種の「やおい小説」のはしり…といえるかも知れません。安良城盛雄たちの青春讃歌が歌い上げられています。その絶唱は、兄の盛英もある程度共感、一緒に掲載誌を探したりしています。また、何年も経って、友人の「石川悌次郎さん」から、激賞されている点からも、この小説の背後には、あるグループに共有された青春体験があるものと推測されます。
この観点から、小生は、サント・ヴィクトワールを巡るセザンヌ・ゾラの愛憎・確執を想起します。セザンヌとゾラは、サント・ヴィクトワールにおいて、なんらかの青春体験を共有している…と睨んでいるのです。そうでなければ、あのセザンヌの執拗なサント・ヴィクトワール連作は理解できません。セザンヌが、世評に反し、大変な激情家であったことは、研究者の知るところです。
● 『水』  1915年(大正4)「学友会雑誌」24号所載
● 『御位御大典に対する感想』1916年(大正5)「学友会雑誌」25号所載
● 『卒業証書』 1916年(大正5)3月17日 第1018号
● 卒業後に投稿 『滬上鴻信』 1918年(大正7)(「養秀」27号所載)
後輩たちに、やや気張って、候文で…。
  拝啓 春尚浅く暗香匂ふ侯と相成候諸君は卒業試験前に控へ卒業後の方針を定むべく或は若き心を悩まされ候はずや我か過去を思ひ出て同情致し候実に考ふべきは我が将来に候故に小生はいささか本学書院の近況を述べて一部諸君の方針にヒントを与えんと存侯。…
4 上海東亜同文書院大学・第17期(1917~1920年)
安良城盛雄が沖縄県費留学生として上海の東亜同文書院大学で学んだ時期1917~1920年はどのような時代であったか。
5・4運動の渦中にいた。 ● 『5・4運動(1919年)の波紋』 1982年刊行(「東亜同文書院大学史」―創立80年周年記念誌・安良城盛雄没後に刊行された)
   熊野正平・安良城盛雄両人署名記事に次のものがある。 …二年生になった大正七年の十一月、上海では第一次欧州大戦の休戦祝賀のお祭り騒ぎがあり、書院の学生もデモ行進に参加した。 P456~7
しかし、ここには5・4運動に関係する記述はない。別人の署名記事P457には、…大正八年(1919)夏、…排日が激しくて(卒業大旅行)出発を見合わせ、翌九年(1920)の春まで延期…。
第1次大戦が終結(1917年)、ロシア革命(1917年)、5・4運動(1919年)を背景に国際都市・上海で多感な少年時代を過ごした。
  ● 『田島先生』(上・下)  1919年(大正8)11月22日・23日(「沖縄時事新報」)
…放浪山人の号を思ひ問合せて見ようかと思って発行所を見たら意外にも編集発行人として田島利三郎としてあったので僕は急に宝を見出した様に喜んだ。…漢口発行の「鶴涙」は週刊新聞で…「琉球に関する記憶」(1~19)…。
『おもろそうし』発掘の最大の功労者・田島利三郎の中国での消息を伝える。田島は1929年(昭和4)9月豊橋市で逝去、墓・豊橋市龍捻寺。安良城盛雄は1977年(昭和52)豊橋市で逝去。偶然にも同じ豊橋市が終焉の地であった。
● 『琉球の歴史は本土のそれより古い』 1972年(昭和47)同文書院17期卒業50周年記念誌・文集「春秋」所載。
戦後だが、同文書院関係としてここに掲載。
小見出しは次のとおり。
   はしがき、宝貝、うこん、明刀銭、隋書の流求国の言語に就いて、
五銖銭、開元通宝、安国山樹華木記、結語、
―余白埋め草―倭について、邪馬臺、中国観、マスコム。
  本文より抜粋
    ・ 結語―…琉球の歴史は、本土のそれより1千年以上も古い。
    ・ …三国時代に呉の孫権(AD252没)が討伐を計画した亶洲は琉球だと思う。流求の地名の初見は隋代…亶には、暑い、肌ぬぐの意味がある。
   『春秋』誌は、比嘉春潮にも署名入りで贈呈されていた。
● 『貿易地理学』 1962年(昭和37)4月7日 『滬友』所載。 戦後だが、同文書院関係として掲載。
  5 台湾銀行 1920年(大正9) ~1927年(台北、九江、嘉義) 7年
● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」(再版)より。 ・ 明治36年師範学校付属小学校に入学し、8か年の思い出を台湾、九江・潯陽頭で書いた。台湾時代に書いた唯一の資料。
● 久志ツル(芙沙子)と結婚1922年(大正11)、長男・繁誕生1923年(大正12)、繁は2歳になるかならないうちに夭逝。
台湾銀行は、安良城盛雄が退職してまもなく深刻化した世界金融恐慌(1929年~)では、日本で最初に倒産した。
  6 名古屋市立貿易学校、中国語教師 1928年(昭和3年) 1年
同校は、昭和4年3月に廃校。先行きの見通しなく苦難の時期。
7 愛知県商品陳列所、1929年(昭和4)~1935年(昭和10)6年
 愛知県商品陳列所は、現在の「貿易センター」的機能の組織。建物
はモダンなビルで昭和天皇・皇后が視察した。
● 『愛知商工』(隔月誌) 誌編集
安良城盛雄署名の論文が毎回2~3本掲載されている。
「愛知県の対支貿易品」(5回)、「愛知県の陶磁器」(10回)、「愛知県の金属産業・印刷機械」、「愛知県の金属産業・機械器具」、「愛知県の金属産業・時計」、「愛知県の金属産業・航空機」、「愛知県の金属産業・織機」、「愛知県の金属産業・自転車」、「愛知県の実用商品学」(3回)、「愛知県の玩具製造業」(2回)、「商工業者と情報機関」、「満州に於ける商業機関」などを調査し紹介。 『愛知商工』の編集後記及び掲載文の空白に囲み記事、その多くが「安良城生」の署名が入っている。雑誌「中央公論」や「周樹人」などの引用もあり、「芸術としての書道」、「工芸教育について」、「Javaの訳字」、「愛知青年海外へ雄飛せよ」「日本精神」「織物博の開催を望む」、「鉄砲・日本刀・陶丸」、「支那における米」、「素質と努力の方法」 など多岐にわたって展開。100余点が確認されている。
どのくらい多忙であったか。
●『筆者(安良城)曰く』 1933年(昭和8)7月の囲み
本編(「愛知県の陶磁器」)も第5回迄書いて来ました。何しろ書きつつ編纂し、この「愛知商工」の外に「貿易通報」が月2回、之又書きつつ編纂し、外に英支文の翻訳、新商品の意匠、解説書の助言、作製、特許に対する助言、信用照会の斡旋、貿易実務の助成、展覧会等の事務で目の廻る様な多忙ですから、とても悠長に研究なんて出来ることではありません、定めし誤謬も多いことと思いますが他日訂正して、「愛知県の陶磁器」については何とか平易な解説を書き上げたいと思います。
● 『日本精神』1933年(昭和8)7月「愛知商工・かこみP13」
古い時代の日本精神は茶道を生んだ。そして現代の日本精神は1萬屯級巡洋艦『加古』を生んで世界一の海軍国家英国の出鼻をくじき 、又鉄道の能率化を実行してソヴートロシアに日本式を教えた。すべての大組織の下に行はれた日本精神の発露は成功している。日本が世界的にならうとするには先ずその方法、組織で研究しなければならぬ。(安良城生)
● 『芸術としての書道』1934年(昭和9年)「愛知商工」11月号・目次の裏側 全面記事 美的感情の表現が美術であるならば、書道又美術ではないか。西洋のペンマンシップが美術に加へられないからといって、我が書道が美術でないと断ずる訳には行くまい。 漢字系民族には特殊の書道美術壇を持って居る。刀剣が帝展に出品されていると同様に書も亦それに加へられなければならないぬ。 それは所謂「非常時」が與へた善き教訓の1つに算へてよいとおもふ。(安良城生)
● 『愛知商工』165号~169号、170号欠ける、171号~172号、173号~184号まで欠ける、185号~195号まで「愛知県公文書館所蔵」。176号~184号まで「富山大学図書館所蔵」。
また、開局まもないラジオ放送にも出演している。
●『家庭と陶磁器』 NHK-CK 1933年(昭和8)7月4日。(『愛知商工』188 号掲載)
安良城勝也氏は、満州国時代、放送局の一室で、大きなマイクロフォーンを前に、デスクに向かっている盛雄の写真が存在した、と語っている。
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Posted by: ryubun02

写真ー『南島研究』

南島研究発刊について
世界の文明が、地中海からして大西洋に移り、それから今や漸く太平洋に転ぜんとしつつあるといふ、所謂過渡期に於いて、この太平洋に裾を洗われて居る我が日本の先覚者が、太平洋問題を提げて学界に馳駆せようとせらるることは、近来の痛快事である。これ地中海①に七十倍し、大西洋に二倍するといふ、范々たる大海原のうちには、あらゆる気候とあらゆる人種、あらゆる文化が宝蔵されて居るからである。而して九州の南端から奄美大島を貫いて、東北よりして西南に延び、数十顆の連珠のやうな大島小嶼が、宮古島を経て八重山島の与那国島に至って尽き、この面積が百三十九万里を算しているのが、即ち我が沖縄群島である。この外にも、今から三百余年前に、政治的に切り離されて、鹿児島県に隷属して居る奄美大島諸島も、亦天然の配置としては、往古より琉球王の治下に属し、その人情風俗言語習慣などより考察しても、純然たる琉球人であることは、誰しも首肯せられるだろうと思われる。これらの群島は、東は一帯に太平洋に面して、北は鹿児島県に隣接し、南は一衣帯水の台湾と相呼応し、西は海を隔てて南支那の福建省と相対峙し、而して西南の方は遥かに南洋群島を顧望して居るのであるから、面積の割合にその拡がりは、なかなか大きいように観ぜられるのである。これらの主島が、今日の所謂沖縄島で、我邦本土では、既に一千余年前に於いて、阿児奈波島として知られ、国史とも多くの交渉を保って居るようである。のみならず記録にあらわれた時代からしても、既に五六百年から支那本国や安南、暹羅、馬刺加、朝鮮なども交通し、また爪哇や、比律賓などの南洋諸国とも貿易をやっていたのであるが、之れらは今から三百余年前の所謂薩摩と附庸関係を生じた慶長の役を末期として断絶してしまったのである。

斯やうに沖縄は、往古からして我が本土とは勿論密接な関係があり、また支那本国や南洋諸島などとも関係を有していたために、之れらの影響をうけたのであらうか、一種独特の文化を生んだ一島国であったのである。が交通が不便で顧みられなかったために、今古千年の夢は封ぜられ、恰も武陵桃源のやうな仙境にあったので、外界から能くその真相を知られる機会がなかったのである。それが、幸か、不幸か、その地理的環境のために、能く外国の文化を我が本土に伝へる中継場となると同時に、また我が本土の古文明を忠実に保存する倉庫のやうな、作用をなしていたのである。併しかやうな、神秘的な島国も、廃藩置県後の文明の風潮には、抵抗することが出来なかったやうで、所謂新文明の醗酵すると共に、古琉球の文化は危機に瀕した時代もあったのである。即ち一知半解の徒輩が琉球研究を以て復古思想の再燃と誤解し、古文書の棄却や、名所旧跡の破壊が到る所で企てられ、将に薩州治下に於ける、奄美大島の覆轍を踏まふとしたのであった。

此時に当ってー即ち明治二十五六年頃ー県の中学校に教鞭を執られて居った田島利三郎氏や新田義尊氏や黒岩恒氏などが、琉球の過去現在に趣味を持たれて、その歴史や、歌謡言語及び自然科学などの研究をはじめ出して、漸くこれが価値づけられて、彼等の自覚を促がしこれと前後してわが分科大学講師のチャンバレン氏等も亦渡琉せられて研究をされたのである。是から引きつづいて幣原坦博士や、鳥居龍蔵博士・金沢庄三郎博士なども来県されて、各部門の研究を発表され、暗黒なる琉球が漸く光明へ出されるやうになったのである。而してこれより先土着の沖縄人にも、亦故喜舎場朝賢翁や山内盛憙翁などのやうな郷土研究家もあったけれども、之れが最も高潮されたのは明治の末期からで、即ち畏友伊波普猷氏や、東恩納寛惇氏や、故末吉安恭氏等の研究であったやうに思はれる。これから、古琉球の文化が漸く識者の間に認めらるるやうになったが、未だ一般には徹底しないで疑心を以て迎へられたようであった。然るに最近に至り、柳田国男氏や、伊東忠太博士、黒板勝美博士等の来県があり、これら巨擘を中心として在京諸友は勿論県外の人では、畏友鎌倉芳太郎氏などが、その専門の立場からして、熾に中央で琉球の文化を紹介せられ、又南島談話会なども生まれて東都に於ける琉球研究者の機関も出来るやうになり、殊に啓明会などの財団法人もその研究に同情されて資金を投ぜられ、これで一層鼓吹されたやうに思はれる。

而して琉球研究は、その本場を離れて、中央に持ち出された喜ばしい現象であるが一方郷土に於ても亦之れが閑却せられているといふ訳ではない。逐年この種の研究や紹介は、却って熱烈さを加へて進んでゆくやうであるけれども、之れが機関となるべき定時刊行物がなかったのを最も遺憾とする次第であった。然るに、今回微力を揣らず、吾々同人が主となって、此の「南島研究」といふ小冊子を刊行する機運になlったのは、相互にその研究を援助してこれを発表批判すると同時に、広くこの種研究家の声援を得て、その内容を豊富にし、且つ琉球に関する、滅びゆく古今の研究資料を蒐集して附録とし、広く一般学界の参考に供したい為である。この恵まれたる地理的環境からして、日支文明の交叉点ともいはれまた我邦文化の中継所となり、倉庫ともなった南島、即ち奄美大島から八重山の先端与那国島までの島彙が吾々の研究に資すべき舞台面である。が、この未開拓の曠野からして、何か新生命が見出されて、我が学界に光を投じ得るや否やは、未来の問題で、切に識者各位の熱誠なる御同情と、御後援を待つばかりである。  十一月廿日  県立図書館郷土資料室にて  真境名安興

写真ー真境名安興

目次
口絵「泉崎及び金武の火神」

○編集者よりー資料や文献は割拠して居る、系統的に出来た索引のないことはその資料及文献の蒐集に不便な、地方の孤独な研究家をただ空しき努力に終わらせるばかりだ。と云ふことはしばしば吾等が聞く言葉でありました。即ち既に何人かの手によって研究、発表せられた事柄を、これから準備し、これから研究し、かくて仔々倦まざる多年の努力が空しき結果に終ると云ふことになると、本人ばかりの失望でなく、同じ研究者の一員としても見るに忍びないところであります。かくの如き有様でありますから、われらの念頭からは絶えず、何等かの方法で、かかる孤立の研究者たちと連絡をとり、各自の分担的研究を漸次進めて行きたいと云ふ念が去りませんでした。

 そこに生まれたのが南島研究でした。なるほど本誌は小冊子ではあり、特に南島研究と銘をうってはありますが、吾等は目を睜つて南島を見たい、そして南島から広い世界を見たいのであります。本誌の主義も、事実の忠実なる採録、文献の尊重と比較研究法の正確を期することに重きを置きたいものだと思って居ます。かくて本誌は読者諸君の本誌であり、又諸君の薀蓄を傾け、互に幇助示導しつつ、吾等の拠るべき、向ふべき道を進んで行きたいのでありまして、吾等は零碎なる報告、交詢の類と雖も克明にこれを雑誌に網羅するに吝ではないのであります。吾等の雑誌は割拠もしなければ、対峙もしない、どこまでも吾等の過去及び現在の記録としたいものであります。

本誌の誇として特筆すべきは、古琉球に関するあらゆる史料の採録で、これのみにても既に一大事業ー吾等としてはーと云ふに恥じないつもりであります。本号から「琉球國中山世鑑」「球陽遺老説傳」「東汀随筆」の三種を採録しました。これは読者諸君の便をはかり、まとまった一冊の本に製本の出来る様に丁附を別にしてあります。

史論・雑録 
南島研究の発刊について・・・真境名安興/奈良帝室博物館の雲板について(琉球國王尚泰久の鋳造)・・・真境名安興/火神の象・・・奥野彦六郎/沖縄の士族階級・・・島袋全発/昔の蘇鉄地獄・・・T生/鬼餅伝説(ホーハイに就いて)・宜野湾新城のムーチー/歴史は繰返すー蔡温の林業政策ー/「あこん」に就いて・・・岩崎卓爾/萬葉歌と琉歌・・・エス・エス生

史料
1、琉球國中山世鑑 2、球陽遺老説傳 3、東汀随筆

通信
柳田國男氏より盛敏氏へ/伊波氏より島袋全発氏へ/東恩納氏より真境名笑古氏へ/岩崎氏より真境名氏へ

莫夢忌/1924年12月14日 『沖縄タイムス』仲吉朝助「嗚呼末吉君」
○此の二三十日来、私は俗務に追われて末吉君と面会せなかった。然るに去る9日の夕刻、突然に君の生命に関する不安の噂さを聞いたのでマサカとは思ったが先ず念のためにと君の親友なる小橋川南村君を夜中に訪ふた、南村方で漢那浪笛と小嶺幸欣君とそして主人が鼎座して悲痛の面持ちで打ち沈んでおったが、南村君は私に「只今末吉君を葬送して帰って来たばかりだ」と語ったが、私は自分の耳を疑って、2回も3回も繰り返して聴いて終に君が此の世の人でないことを知った。嗚呼末吉君、君には永久に逢うことが出来ぬのか、私は何とも形容の出来ぬ不安の心持ちでしばらく沈黙して、只だ自分の心臓が波高き鼓動を聞くのであった。吾々4人は沈み勝ちに君の在り世の事ども語りつつ私は夜半の1時過ぎに愴悽たる寒月の冷光に照らされて宅に帰ったが君の面影は眼前にチラついて殆ど夜明まで一睡もせなんだ。ドーしても私は末吉君の死んで居ることを信ずる事は出来ぬ、私の胸裏には今に末吉君は生きて居る、恐らくは苟も学芸の一端でも知って居る我が沖縄人の頭に君は永久に生きて居るであろう。

末吉君、博聞強記で特に琉球文学界の権威であったのは私の申すまでもないことで今更に喋々せぬ、君は天才であって同人間には可なり逸話も多い。私と君とは殆ど十六七年来の知り合いで、君と謹談した機会も相当に多いが、私は君より殆ど二十も年上である関係で君は九骨なる私に対しても常に先輩を以て過ごするので私としては愧ち入って居た、宴席などでも君は私などに対しては無邪気なイタヅラなどもせなかったので、私は君の逸話の材料を持って居ない。ソレ程君が私に対して尊敬の心持ちで交際して呉れた程私は君に対する哀悼を深刻に感ずる次第である。君は文芸上の趣味は頗る多い。この七八年間君は漢詩の研究にも手を染めて来た、私も漢に就いては下手の横好きで漢詩に関して君と数々話し合って居たが先月の中旬頃 図書館で君と面会した、コレは最後の面会であった、其の際 私は君に向かって「万葉」の講議を聞かして貰いたいと頼んだ処、君は謙譲の態度で二三回遠慮したがトウトウ私の持って居る清朝人の四五種の詩集を貸すとの交換条件で来年1月頃から君は私の為に「万葉」の講議をして呉れることを承諾して居た。嗚呼 私は永久に君の万葉講議を聴くことが出来なくなった。

タイムス社の上間君から末吉君に関する私の感想を書いて欲しいとの申込を受けて筆を執ったが、今に末吉君の面影が眼前にチラついて万感が胸に迫るので、私は筆を此辺で止める。嗚呼末吉君、君には果たして永遠に面会することが出来ないのか。

仲吉朝助(1867年4月6日~1926年9月3日)




本庄栄治郎 ほんじょう-えいじろう
1888-1973 大正-昭和時代の経済史学者。
明治21年2月28日生まれ。大正12年京都帝大教授。昭和17年大阪商大学長。戦後は上智大,大阪府立大の教授を歴任。近世日本経済史・経済思想史を専攻。日本経済史研究所を設立して後進の育成にもつくした。「本庄栄治郎著作集」がある。40年文化功労者。昭和48年11月18日死去。85歳。京都出身。京都帝大卒。(→コトバンク)





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Posted by: ryubun02
 「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」□私は自由の月である。フリームーンである。現在は順天堂大学医科大学教授で英語と文学(国語漢文を含む)の主任教授であるが、学生はわたしのことを「シュセキキョウジュ」と呼んで親しんだりこわがったりしているが「首席教授」の意味だが「酒席狂需」の意味だか、忙しくて辞書を引く暇がないので自分でもよくわからない。どんな辞書を引いたらよいか沖縄隋一の学聖否全日本でも無類の碩学 東恩納寛惇(有名人敬称略、御免)に質してからゆっくり調べることにする。

 昔から「金持ち暇無し」と言う通り、事実私は暇がないのである。アルバイトとして桐葉予備校、文京予備校、国際予備校の3校の英語主任も兼務して居り、日本英学院で英文学も講じて居り、丁度目下那覇の大宝館で上映中のグレイアム・グリーンの「落ちた偶像」の原作を英語で講義中である。ささやかながら自分の石川英語学院も手離せない。二つの出版会社の編集顧問も引き受けている関係で原稿依頼も多い。

「ありが英語小や、ゆくしぬうふさぬ、わー英語小けんそーれー」と日夜歌っている身になってごらんなさい。英語ニコヨンはつらいです。ウランダ口アチョールドウは悲しいです。「大和口使て、ウランダ口ならーち、唐書物読むる沖縄二才我身や」と大日本帝国はなやかなりし頃、那覇の一角、中島小掘のほとりでき門の望に明け暮れる母に琉歌を送ってなぐさめた、我が厚顔の青年の日が、昨日や今日のように思い出されて胸がうずく。「日本語も英語も知らぬアンマーはワッター次郎を故郷に待つ」と涙ながらに和琉ちゃんぼの忍び泣きに異郷滞在の不孝の罪を心にわびたのもその頃である。

「ふりむん随筆 未完成公共学(七)」□「大傷繃帯日」も私の予言である。大東亜戦争が天皇の名で宣せられ「大詔奉載日」が制定されるや、私が愛国の至情から国難を予言した)「大傷繃帯日」は物の見事に的中した敗戦直後(終戦という言葉でごまかすな)伊波普猷の家で会ったとき松本三益に「石川先生は徹底的に敗戦論者でしたね」と妙なことを覚えられていて、比嘉春潮も「そうだったか」と私を見直した。「そてつ(蘇鉄)地獄」と沖縄の窮乏をなげき、「ブーサー極楽」と故郷の退廃を憂えていたとき「人口過剰の無人島」と人物缺乏を痛嘆した40年前の私の寸鉄は今日の日本に対する予言となって実現している。「天ぴ大和口」という奇語も私の発明だったかどうか忘れたが、今沖縄ではどんな標準はずれの標準語を使って金をもうけ、恋を語って居るであろうか。

キヤメルを鹿小と呼び、ラッキー・ストライキを旗小と称し、フィリップモリスを黒ん坊と唱えている由、私はふるさと人の語感を頼もしく思い、既に天下をのんでいるその意気に敬意を表して頭を下げる。パチンコと競輪にうつつをぬかして夢中になっている知性の無い今の大和民族にはそんな意気やゆとりのかけらも無い。一度は政治的に亡んだこの国は、今精神的亡国の寸前にある。だからいつまでもまずい煙草をのまされているのだ。煙草から立ち登る煙にすらレジスタンスをしめす気力がないのである。

「竹島は明らかに韓国領土だ。その証拠にはあの島にはパチンコ屋は一軒も無い」と李承晩大統領にすらなめられているていたらくである。日本の大学生はパチンコをしたついでに学校に通う。李承晩ラインの故智にならったわけでもあるまいが、沖縄の周囲に精神的愛郷の比嘉秀平ラインを張りめぐらして人生冒涜の亡国遊戯パチンコの神聖なる沖縄侵入を断固排していると聞く我が同僚沖縄民政府主席比嘉秀平の明智と良しきと勇気に対して在京沖縄人全体ではなく私一人を代表して厚く謝辞を述べて益々その健闘を祈らずには居られない。

「ふりむん随筆 未完成公共学(九)」□(略)当間重剛を語る門外不出の材料も一中、三高、京大、司法官時代と沢山ある。唯彼に一つの欠点がある。それは私に話しかけるとき、パリー語や那覇語を使わないで最初大和口を使うことである。それはよろしくない。今度彼が東京に出て来たら、大いに叱ってやろうと思っている。飲む前に叱るのだ。「石川正通 当間重剛を叱るの図」これは素敵な画題だ。山田真山の麗筆に触れれば雪舟、応挙の塁を摩し、金城安太郎の絹布に上れば、歌麿、写楽を彷彿させ、嘉数能愛のパレットに踊っては関屋敬次の風格と画風を再現し大城皓也のカンバスに現れては曽太郎、龍三郎の域に迫り、渡嘉敷唯夫の画用紙に捕らわれは、近藤日出造、池部均をしのぐ傑作となr山里永吉の画板に乗ればピカソかマチスかマボーあたりを顔色なからしめる旋風を起こすであろう。更にまた瀬名波良持の紅型に染めぬかれれば鳥羽僧正の遺風を伝えて永久に博物館を飾る国宝に指定されるであろう。

波之上神社の鳥居と那覇市役所の馬鹿塔と当間重禄の医者の看板を那覇の三大不用物と指摘したのは崎山嗣朝の余りにも有名な警句で政争の激しかった大正末期の名残を留めて如何にも泊人らしい気概に満ちている。和辻哲郎の「偶像再建」を読むまでもなくヨーロッパの中世思想に抗して興った近代ヨーロッパのアイコノクラズム(偶像破壊)の思想も今日では思想史の数頁をかろうじて占める哲学の足跡に過ぎない。わがふるさとも偶像再建の機運に近づきつつあることと思う。波之上神社の鳥居はカンプーサバチでどうなったか知らないが、前よりも大きな鳥居を建てたらどうだろう。もし神社が残っていたら。それは神の家の門として建ててもやがては那覇の風物詩の一つとなるであろうから。

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麦門冬の書き込みが見える(秋正文庫所蔵)

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1901年6月ー末吉安扶没
1912年2月ー柳田国男、伊波普猷より『古琉球』3冊寄贈される。
1913年4月ー沖縄県庁でこの程、筆耕に令し『中山世譜』の筆写をなさしめつつある。
1913年7月ー『沖縄教育』(親泊朝擢)桑村生「中山世譜」(1)

1913年8月ー『沖縄教育』(親泊朝擢)桑村生「中山世譜」(2)

1914年7月ー沖縄県知事より、伊波普猷、真境名安興ら沖縄県史編纂委員拝命

1915年1月ー沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁より沖縄県立沖縄図書館に写される(真境名安興主任)


1917年7月15日ー『日本及日本人』709号□末吉麦門冬「十三七つに就いて」「雲助」「劫の虫より経水」(南方熊楠と関連)

1918年2月12日ー東京日本橋区本町三丁目博文館・南方熊楠殿、末吉安恭書簡「拝啓 先生の御執筆の十二支伝説は古今東西に渡りて御渉猟のこととて毎年面白く拝読いたし候(略)琉球にも馬に関する伝説、少なからず候み付、茲に小生の存知の分を記録に出でたるものは原文の侭、然らざるは、簡単に記述いたし候間、御採択なされ候はば幸甚に候。失礼には候へど、御ねがひいたし度きこと沢山これあり候につき御住所御知らせ下さるまじくや(略)」(『球陽』『琉球国旧記』引用)

1917年9月1日ー『日本及日本人』712号□末吉麦門冬「楽屋の泥亀汁」
1918年4月ー『日本及日本人』728号より、三田村鳶魚らによる「東海道中膝栗毛輪講」が連載される。
1818年6月1日ー『日本及日本人』732号□末吉麦門冬「支那のあやつり」「琉球の鬼餅」
1918年7月ー末吉麦門冬、南方熊楠に『球陽』贈る




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Posted by: ryubun02
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2004年11月 仲里正雄(携帯090-9781-0089)『御孵化果報』(戸澤裕司写真「粟国島ハンガーを背景に仲里チヨさん」)母の人生から看た粟国史
2004年11月/仲里正雄『御孵化果報ー風車祝を迎えた阿母に感謝して』まさお塾出版(〒900-0022那覇市樋川2-2-39 ☎仲里正雄090-9781-0089)「第1章ー故郷粟国(蘇鉄の実の収穫)/粟国の1年の生活誌/
母(仲里チヨ)の介護日記/索引」


粟国風土記 島の景観ー(略)島の南西、真塙(尖って岩肌がゴツゴツした小高い痩せ地)はイギリスの「ドーバーの白い崖」が切り立ったような嶮岨な断崖絶壁である。凝灰岩の露出や整合面が見られ、壮大な全景が開けている。このような島の誕生は、推し量ることのできない秘められた、激しい火山活動の産物でもある。

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ウィリアム・ダイス「イギリス、ケント(Kent, England)沿で、画家自身は遠方に立ち崖の先端を見上げ、その家族はペグウエル湾(Pegwell Bay)の浅瀬で貝を掘っている」


仲里正雄氏の塾でイギリス人で写真家、早稲田大学で英語を教えているジョナサン ガーナー氏に出会う。

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ハワイ州は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州である。漢字では「布哇」と書く。州都はオアフ島のホノルル市である。アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である。 ウィキペディア
1878年  孫文ーハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。→ウィキペディア

1909年  大城剛(白銀)がホノルルで雑誌『沖縄同胞』創刊。1年で廃刊。その後、ヒロ市で『雷新聞』を発刊(1918年廃刊)。
1910年9月ー与儀喜照、山城徳助、渡名喜守章、屋部憲伝の発起で「球陽倶楽部」設立。
1911年6月2日ーハワイ「望月」で「尚侯爵令嗣尚昌歓迎会」。
1912年7月ー遠山哲夫(当山亀)は雑誌『実業之布哇』発刊。
1912年7月28日ー仲嶺真助(麻氏)、ハワイのオアフ島ワイアナエで生まれる。父三良、母マツ
1915年8月ー前暁鐘社長野里朝淳はマウイ島カフルイ港にて写真屋開業。
1917年2月ーハワイ沖縄県人同志会結成、当山善真(常務理事)、田島朝明、平良牛助、仲間銀造、上里由明、上里良温、上江洲智倫、野里朝淳、小那覇三郎、山里勇善、山城徳助、山城秀正、山入端松正、小波津幸秀、宮里貞寛(会計)。/11月ー上里由明、朝鮮人旅館を譲り受けキング街リバー街近くに上里旅館開業。
1919年3月ー小那覇三郎の「沖縄観光団」、30日の天津丸で出帆。/9月ー宮城源永法学士来布。
1920年12月ー玉代勢法雲(東本願寺)、上原束善(東本願寺開教使)来布。
1921年7月ー比嘉賀秀牧師来布。
1922年1月ー常盤園で「布哇沖縄県人会発会式」。司会・宮里貞寛、経過報告・上里良光、議長・田島朝明、会則説明・当山善真、理事に当山哲夫、宮里貞寛、田島朝明、平良牛助、当山善真、比嘉賀秀、宮城源永、田島朝明、新城銀次郎、大城朝政、嘉数佐市、宮城高光、比嘉保徳、上里良光、与那原良吉、豊平良金。既存のーハワイ沖縄県人同志会は解散せず、趣味団体として存続。/3月ー旭劇場で布哇沖縄県人会主催の基金募集代演芸会、琉球踊・・・鶴亀踊、乙女手踊「スーリーアガリー」、唐手、四季口説、天川、上り口説、交遊、万歳、笠踊、亀甲節、蝶舞、坂原と前浜、薙刀、滑稽踊、唐手と棒・・・。/10月ー天長節奉祝のため新開一座が南キング街のパワー劇場で開演、上り口節、亀甲節、獅子舞、安来節、劇「鬼界島武勇伝」、八重司の万歳、前ヌ浜、与那原節、赤山節、交遊節、仲作田節、四季口節、大切「千本桜」。


1923年3月 嘉数南星『赤光』地響詩社

1924年1月ー布哇沖縄県人会が石井ガーデンにて総会親睦会、宮里貞寛司会、比嘉賀秀理事長、田島朝明書記、宮里貞寛会計の報告ありて後小波津ドクトル、平良牛助、玉代勢法雲、当山哲夫、田島朝明らの所感演説あり、かくし芸などがあった。新理事・比嘉賀秀、当山哲夫、佐渡山安忠、仲間銀造、比嘉保徳、平良牛助、田島朝明、当山善真、豊平良金、宮城源永、山城徳助、上原東善、津波章孝、金城善助、新垣良輝、永山盛珍、古波津幸、玉代勢法雲、内間三郎、稲嶺盛武、内間盛瑾、新川栄光、金城珍栄、池原萬助、宮里貞寛。


1924年2月 比嘉靜観『赤い戀』實業之布哇社


1924年6月 潮音詩社(布哇ホノルル市)『カマニ』第二輯

1925年3月ー布哇沖縄県人会総会で満場一致で布哇沖縄海外協会の設立を議決。理事長・古波津幸秀、副理事長・田島朝明、会計・安里貞雄、書記・宮里貞寛、監査・平良牛/当山哲夫、理事・比嘉賀秀/玉代勢法雲/山城徳助/比嘉保徳、幹事・当山善真。/10月ー宮里貞寛、ホノルル市ヌアヌ街総領事館下にホノルル旅館開業。
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ハワイの太田朝敷
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左から二人目が太田朝敷
1925年7月21日ー布哇沖縄海外協会に招聘された前琉球新報社長太田朝敷氏は春洋丸で来布す。→船客名簿には一等船客沖縄朝日新聞社顧問太田朝敷とある。4月21日ー太田朝敷、太洋丸で帰国。

1926年3月26日ーハワイ海外協会設置
布哇沖縄海外協会創立・・・沖縄海外協会支部の代議員会はホノルル支部宮里貞寛氏の司会で、同幹事当山善真氏の代議員点呼、同理事長小波津幸秀氏の開会挨拶、代議員の紹介、当山幹事の設立運動報告、議長、副議長の選定、太田朝敷氏のスピーチ、会則の審判議定などがあった。/10月ー渡口政之助、宮里仁王発起で琉球芸術クラブ組織。/11月ー仏教研究のため帰朝中であった元上江洲病院薬局生、与世盛智郎が本派本願寺教士として来布。
1927年2月ーホノルル旅館を経営していた宮里貞寛は家族同伴帰国。
1927年3月ー屋部憲通、9年前に渡米、加州帝国平原に在住していたが帰国の途にホノルルに寄港し当山哲夫、比嘉静観らの世話で一ヶ月滞在す。
1927年5月 宮城聡、ハワイに改造社『日本文学全集』宣伝のため横浜出帆のサイベリア丸に乗る。ホノルルに11日目に着。(1936年にも来布)→1972年6月『新沖縄文学』22号 宮城聡「文学と私<14>」


1927年11月 比嘉靜観『自顔』洋園時報社

1928年3月 玉代勢法雲『眞教法難史』布哇佛教會
1928年6月ー又吉康和(沖縄朝日新聞記者)来布。


1930年


日布映画社制作『執念の毒蛇』(1931)は、大正、昭和期に活躍した俳優であり、映画監督の吉野二郎(1881-1964)が、那覇市とハワイを舞台に撮影したもの
1934年1月、ハワイ・オハフの比嘉太郎(18)は昨年9月ごろから廃物を利用し水力発電設備に着手、正月に電灯を付ける。(比嘉太郎は北中城の祖父母の所で9歳まで過ごし、大阪和田で幼年時代を過ごした)/2月、新城朝功(前東京日々新聞経済部長、南洋振興日報社長)ハワイ移民研究でハワイ訪問 

1936年10月  永らくワイパフ本願寺に在職中であった与世盛開教使は過般故国訪問から帰布、新学期から布哇中学校に教鞭を執る一方、ベニヤード街バックルレーンに本派本願寺口羽総長許可で慈光園を開設。

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1914年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 鼠の句」
○俳諧 鼠の句ー子年に縁みて鼠の句を集めて見た。参考書が少ないので沢山は集め得なかった今人の句は成可く採らぬことにして主として古人のを採ったのは句の巧拙を以て論せずに古いのが有難いといふ骨董味から出た為めである。それから新年の鼠に嫁が君と云ふ異称があるが、それは俳諧では独立の題になっているので茲にはわざと省いたのである。


1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
711日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」
8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」
8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」
8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」

8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」
8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」

9月2日『琉球新報』「我海軍の精華▽悉是れ良智驍勇」「常設活動写真帝国館ー女馬賊」
9月4日『琉球新報』「太平洋に於ける独墺洪海軍力」
9月5日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写着色・ベルサイユ宮殿」
9月6日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・黒金座主(電気応用)、踊り・七月ゑひさあ、歌劇・可憐児(継親念仏)」
9月12日『琉球新報』「球陽座ー琉球史劇・琉球と薩摩」「常設活動写真帝国館ー実写・ピスピユス山噴火」
9月14日『琉球新報』「本社記者 渡口政成退社し沖縄民報社に入社」
9月15日『琉球新報』「『月刊雑誌 五人』ーダヌンチョの死せる街ー嘉手川重利/白き血ー山城正忠/脚本時計ー上間正男/小説題未定ー安次嶺栄裕/芭蕉の恋ー末吉麦門冬/本県婦人観ー美鳩楓渓/希臘思想ー仲吉良光/音楽論ー矢野勇雄/小説帽子ー池宮城寂泡/題未定ー漢那浪笛/サヨリ釣ー潮東庵主人/完成の人孔子ー山田有幹」
9月18日『琉球新報』「粟国事情」「斎藤用之助島尻郡長令弟、中頭郡書記・斎藤熊太郎死去、」

9月26日『琉球新報』素位「泡津海記ーテラの岩屋、日本一の墓、マハナ崎」「球陽座ー琉球史劇・普天間権現之由来記」
10月3日 『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・ノールウェ汽車旅行」「球陽座ー喜利 狂言・伊賀の水月(荒木又右エ門武勇伝)渡嘉敷守禮脚色 」
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史」①
10月11日 『琉球新報』「三越の新館成る」「常設活動写真帝国館ー実写・伊多利シシリー市街」」「球陽座ー琉球史劇・大濱赤八」
10月15日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(1)ー我が情我れの衣につつみ行くシャンタヌ王の面白きかな/この河を渡らん人に舟漕かん王者も渡れ乞食人も/絶ち難き情の絆王もなほ黒き瞳の忘れかねつも/天人は樂を奏しぬ花降りぬ若きピスマの願ひの浄きに/仙人の神通力もいかにせむ美人を見て破れけるかも/呪はるることの恐ろしサチヤワチはの浮草靡かんとする/十万の矢を空中に射返して流れを下る婿選ひ舟」

10月17日 『琉球新報』「悲惨極まるラサ島移民①」「球陽座ー大喜利・英雄ト美人ーナポレオン(真境名由孝土産)」
10月21日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(2)ーカミアカの森に入りぬる一千の宮女の群よ夕日春●/五王子は雲を支へて立てるてふサミが木ぬれに刃隠しぬ/あはれなるドラウバテイの艶なるに王妃はめでぬ且つ嫉みつつ/美しき者にともなふ禍を神よ解き去れドラウバテイに/兄嫁の為めにはかりて猛きピーマ敵を取りぬ肉丸にして/アルジユナは怖るる所ろ更にな●一騎手に持つカンデイワの弓/クリシナは高く叫びぬ天神地祇我と共にあり愚かなもの哉/武士の魂さこうカルナ行かず仕ふる家と運を共にせむ」

□『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が、4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方に傾いたためである。→ウィキペディア

10月31日 『琉球新報』「秦蔵吉、樺山氏主宰の沖縄社に入社」

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1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月3日『琉球新報』笑古「初夏遊奥山」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
7月7日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選」
7月11日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月26日『琉球新報』麦門冬「弔薬師楽山君-

7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」、琉球歌壇ー草秋選 らくこう『球陽座を見て』」
8月3日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選 らくこう『中座の「さんげ劇』を見て』」

8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」

8月16日『琉球新報』「俳紫電」
8月18日『琉球新報』「俳紫電」
8月19日『琉球新報』「俳紫電」

8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」「俳紫電」
8月21日『琉球新報』「俳紫電」

8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」「俳紫電」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」「俳紫電」


8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」「俳紫電」

8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」「俳紫電」
8月29日『琉球新報』「俳紫電」

8月30日『琉球新報』「俳紫電」


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Posted by: ryubun02
1910年5月、河東碧梧桐、岡本月村が来沖、沖縄毎日新聞記者が碧梧桐に「沖縄の俳句界に見るべき句ありや」と問うと「若き人には比較的に見るべきものあり其の中にも麦門冬の如きは将来発展の望みあり」と答えたという。

1908年1月『文庫』麦門冬「垣越えて鶏逃ぐる木の芽かな/乳呑児の母の昼寝を這ひありく/旅旅籠の女幮吊る無口かな/短夜の酒の香臭き畳かな/奪はれて男にうたす砧かな/許されて山雀しばし庭ありき」
1908年4月『文庫』麦門冬「庭の隅古根の椿咲きにけり/院々の晝静かなり鳥交る/恋知らぬ子猫よ来たれ日向ほこ」
1908年6月『文庫』麦門冬「狛犬の眼鼻に梅の落花かな/病癒まし小姓召さるる梅の花/下張りの屏風乾きぬ小六月/葱畑に先生おはす懐手/甘蔗の干殻白き枯野かな/道草にちぎり馴れにし薄かな」
1908年9月13日□麦門冬「糸瓜忌や叱咤に漏れし人ばかり」
1908年9月『文庫』麦門冬「禅単をすべり出づれば夏の月/蝙蝠や傾城老いて里に住む/炎天や騎馬の法師が頬冠り/お給仕の振袖つづく夏座敷/物の怪の落ちて眠りぬ蚊帳の人/佛へは白き桔梗をまいらせん/南山を見る立膝の主人哉/月の方へ蔭の方へと踊りけり/恋さまざま古文殻の紙魚ぞ知る/かしましき傾城共や嘉定喰/面白うわらひ薬やけさの秋/松風の心動きぬ墓参/平新皇河鹿の歌を詠まれけり/蜻蛉飛んで辻説教の供赤し」
1908年8月『文庫』麦門冬「晒女の邊に泳ぐ家鴨かな/夏痩や柱鏡に向ひ立つ/膳椀の漆輝く暑さかな」
1908年11月『文庫』麦門冬「草紅葉蔵と蔵との間かな/力石夜毎に蚯蚓遶り啼く/芋の子の尻にしかれて鳴く蚯蚓/柳ちりて店鎖しけり姨が酒/花葱に八日の月や夕明り/草花を鉢に培ふ姉妹/立ちながら杯を重ぬる濁酒哉/猿酒を盗みに行くや雲深く」
1908年12月『文庫』麦門冬「まめまめしく硯洗ふや小傾城/魂のぬくもりを出る蒲団かな/頭巾脱いで故郷の山に別れけり/蛤になれず雀の飛びにけり/海に入る勧学院の雀かな/落人の跡かぐ犬や枯野原/傾城に物ねだれし夜長かな/うそつきの唇薄き寒さ哉/梅干を碓つく庭の小春かな」
1909年3月『ホトトギス』麦門冬「粥杖や人の妬みに打たれけり」
1909年2月『文庫』麦門冬「屁を放つて空々如たり冬籠/霜の夜を焼鳥すなる翁かな/寒月に着る火鼠の裘/汲みこぼす水一条や冬の月/寒月に身をすぼめ行く女かな/袋して髯を養ふ冬籠り/船に乗す贄の乙女や枯柳/冬木立祠あらはに石寒し」
1909年4月『文庫』麦門冬「松の内を灯しつづけて石燈籠/女郎衆の艶書合せや松の内/水視我が身の上の今年かな/菜畑水鳥のぼる朝かな」
1909年4月『文庫』麦門冬「粥杖のどつと笑ふや打たれけん/打笑ひて粥杖隠し待つ君よ/交りは手毬を替へてつきにけり」
1909年5月『現今俳家人名辞書』(紫芳社)麦門冬「院々の晝静かなり鳥交る/月の方へ蔭の方へと踊りけり」
1909年5月『文庫』麦門冬「湖近く住みて書楼の柳かな/鳳輦を拝する市の柳かな/木蓮に春の簾を半ば巻く/供養すんで撞き出す鐘や夕桜/さを鹿の八つの角振り落しけり/蛇穴を窈窕として出づる哉/小人も君子も春の日永かな/鶯に崖高うして噴井かな/鶯や天の岩戸に谺して/野遊や火縄に焦げる春の草/泥の香をほのかに嬉し田螺汁/打果てて我が畑廣く眺めけり/三畳に夕日さして梨の花」
1909年5月『趣味』麦門冬「春を惜む柱に屋根の重かつし」
1909年5月『ホトトギス』麦門冬「うららかや低き家並の田舎町」
1909年6月『ホトトギス』麦門冬「磯山を焼き下しけり波白し」
1909年7月『ホトトギス』麦門冬「夏百日梁の袋糧やある」
1909年8月『ホトトギス』麦門冬「翡翠や釣人去りし忘れ笠」
1909年8月『趣味』麦門冬「短夜のすさびにやあらん團扇の絵/傘たたむ雫に闇の蛍かな」
1909年9月『趣味』麦門冬「人訪へば留守とばかりや青簾/青簾湖紅いに旭の出づる/山眼前に聳えて暗し青簾」
1909年9月『文庫』麦門冬「摘み残す煙草畑の小雨かな/裏畑や枯木の枝も掛煙草/蝶々や梅に餘寒の羽づくろひ/南天の葉にさめざめと春の雨/春寒う人元服す神の前/御秘蔵の鶏抱き来る小姓哉/鶏の垂尾美し木の芽垣/山佛焼けてふすぶりおはしけり/山焼くる今朝や匂ひの一しきり/燃尽きて夕になりぬ山寒き」
1909年10月『ホトトギス』麦門冬「庫あけて人のあらざる日永かな/露の野に草刈りおはす王子かな」
1909年10月『文庫』麦門冬「釣床の揺るるに人は寝入りけり/碁敵を迎へて涼し箪/すいと立つ竹一本や露重し/露の野に草刈りたまふ王子かな/木犀に玄関先の月夜かな/風の葦物馴れ顔に行々子/風死して黒き林や三日の月/古雛の首ぐらぐらと動き給ふ/爐塞ぎて疎々しさや老夫婦/家康も組する蛙合戦かな/長閑さや大宮人の長尿/づかづかと小男出でて絵踏かな/狂女とて扶掖して来る絵踏かな/野遊や八重垣の妻見つけたり/城外にぬける泉や草萠ゆる/畑打の木に忘れたる茶瓶かな/山の人駕籠舁き馴れて霞かな/屋根草をしもべに取らす日永哉/摘み行けば摘み来る人や春の草/庫々の白きに柳青みけり/鶯の小さき枝をふみ馴れし/昼寝して彼の鐘や夢うつつ」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
 石川正通は1897年9月25日ー沖縄県那覇区下泉町にて父正芳・母ツルの二男一女の長男として出生。 1905年、那覇区立甲辰尋常小学校入学。5年生頃よりメソジスト教会牧師H・B・シュワルツ師に英語を学ぶ。この時の小学校の恩師で薫陶を受けたのが佐久本嗣宗。甲辰小学校を初の六年制で卒業。嘉手納時代の沖縄県立第二中学校に入学、通学不便で沖縄県立第一中学校へ入学したのが1911年。当時メソジスト教会牧師のH・B・シュワルツに英語を学んでいた正通は、すでに中学の先生の水準を抜いていた。在学中の1914年に一中代表として英語演説。南方熊楠は、山口沢之助校長と同郷和歌山県の大先輩、奇行に富む世界的大学者。山口校長が折に触れて話した、南方熊楠の逸話は一冊の本にも纏め得るほど、あざやかに正通は覚えている。山口校長の講義は、正通にとっては生理学でなく、熊楠学であった。脱線学の妙味ここにあり、という。

 1916年、一中退学し、私立麻布中学校へ転校。傍ら、正則英語学校文学科教室で斎藤秀三郎校長に英語を学ぶ。いつも最前列に陣取り、全身を耳にして講義を聴いていた。ある講義のとき、斉藤先生の誤りを指摘「違います」、再三指摘すると校長室に呼ばれた。斉藤先生「君、あしたからこの学校の先生になれ」の鶴の一声で正則英語学校講師となる。1918年、国民英学会講師、逗子開成中学校講師(ここでの教え子に、平野威馬雄、岡田時彦・女優茉莉子の父、徳山環ー歌手)。

1919年、保善商業学校講師(国語担当)、明治学院専門部講師(現明治学院大学)。1922年、第三版『全訳・シャーロックホームズ』越山堂。文部省中等教員英語科検定試験合格。1923年、8月ー沖縄県立第二中学校講堂で石川正通「英語講座」、伊佐三郎、赤嶺康成ら参加。1924年、東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
1922年5月に正通は饒平名智太郎の依頼で鹿子木員信・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社の英訳も手伝った。

        
 後年、土井晩翠の荒城の月を引いて、正通は漫筆「大阪礼讃 工場の月」の中で、月ヤ昔カラ変ル事無サミ 変テ行ク物ヤ人ヌ心 月には故郷があり、故郷には月がある。十海ヤ距ミテン照ル月ヤ一チ アリン眺ミユラ今日ヌ月ヤ 十海でも渡海でもよい。月で心を清め、心で故郷を浄めよう。「太陽と月と、どちらが必要だ」「勿論、月だ。太陽は明るい昼間に照る。月は暗い夜を照らす」斯ういう二人のウスノロの問答にも捨て難い味がある。通堂港頭で交す「儲キテ来ーヨー」という激励の挨拶に全沖縄の運命は宿り、全沖縄人の希望は繋がる。私は世界語の中にこれほど力強さと哀調とのいみじく融け合った言葉を知らない。故郷への送金額第一位の王座を占める関西五万の沖縄ン人御スーヨー、高らかに歌いましょう。 春工場の鼻の煙/廻る機械に油注して/那覇の港を船出し/ウルマの光今此処に(1939年8月)。

 1928年、東北帝国大学法文学部国文科卒業。卒論「近松門左衛門の世話浄瑠璃について」。国民英学会講師に復職、京華高等学校教諭、日本女子高等学院英文学科教授。1929年、雑誌『イギリス文学』に「ヘルンの『沙翁論』」。1933年、『南島』1月1日の消息欄に石川正通氏ー伊波普猷先生と共力で近く日英両文の沖縄案内を発刊する由」。1934年の『南島』8月の漫筆に「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・國吉休微両君を叱咤する=(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯爵も出て居ない。沢田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の万葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士すら全般的に知られて居ない」と記す。
 
 1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通の自宅を訪ねたときのことが書かれている。
 山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。 上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。正忠は触れていないが庭には空手家の本部サールーが建てた巻藁もあった。 
 1944年、戦時中の英語教育政策により京華高等学校退職。東洋大学講師、本海上火災保険に入社(外国課勤務)、同年1月の月刊『文化沖縄』第五巻第一号に石川正通は「産後銃後」と題して母の思い出を書いている。
 「(略)母は私達の生まれる前から、春風秋雨、夏冬の分ちなく、渡地中島辻と那覇三村の街々を素足で頭の上には重い石油と更に重い一家族の生命を載せてその石油を行商しながら良人と我々3人の兄弟妹を何不自由なく育てて下さったー自分は多くの不自由を忍びつつ。地球上の如何なる名花、如何なる香料の香よりも私は石油の香が好きだ。私は死ぬ時は石油の香を嗅ぎつつ死に度い。母の背中に負われて嗅いだあの石油、幼年時代の全ての思ひ出を秘めているあの石油の香を。那覇の電燈は伝統的に暗い。私の母が石油を売っていた時代の那覇の夜は今の那覇の夜よりも、断然明るかったに違ひない。私は自分の母ながら、母を那覇を明るくした恩人の一人に数へさせて戴き度い。その母の為にも尊い石油を空費する米英の巨頭一味は憎むべき敵だ。親の仇を討つ日本精神の強烈さに於いて私は敢て曾我兄弟に譲らない。米英の戦争挑発さへ無かったらば石油は人類殺戮の為に悪用されず、人類の福祉向上の為に善用されたであらう」。戦後、正通は親しい友人・横内圓次に母を偲んで詠んだ歌「果てし日も 骨さえ分かぬ命かも 母親返えせ 昭和天皇」を披露している。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
○琉球の泡盛は何時の頃より醸造せしか記録の微すべきなけれども、薩摩に齎らされしは天正十三年四月なりとす。薩人伊地知季安①著南聘紀考に「二十九日琉使祖庭、導信房、訪観貞第、為尚永王饋織物二端、大平布十端、焼酒一器、己亦進織物十端、竹心香、蝋燭二十挺、焼酒一器」とあり、其の以前には焼酒の名なきのみならず、更に島津義久が諸臣を集め聯歌の会を催し「飲之焼酒莫不珍賞焉」と云ふことあればなり。泡盛の琉球にて醸造を創めたるもこれより遠き以前のことにあらざるべし。焼酒が今云ふ泡盛のことなるは勿論なり。

①伊地知季安 いじち-すえやす
1782-1867 江戸時代後期の武士。
天明2年4月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。文化5年藩の政変,近思録崩れで遠島となり,ゆるされたのち鹿児島で謹慎中に藩の史料を収集,おおくの著作をあらわした。嘉永(かえい)5年記録奉行,のち用人。その仕事は「薩藩旧記雑録」で有名。慶応3年8月3日死去。86歳。本姓は伊勢。初名は季彬(すえひで)。字(あざな)は子静。通称は小十郎。号は潜隠。 →コトバンク

  国立文楽劇場の資料展示室をのぞいたことがある。三味線の歴史の説明に「三味線は、永禄年間(1558-1570)琉球から大阪の堺港に渡来したといわれ、型は三弦の蛇皮胴のものであったと推定されます」とあった。近代以前の琉球ロマンはおいおい後述するとして、ここでは「さまよへる琉球人」のイメージがつきまとう近代における琉球人の歩みを抽象的ではなく具体的に述べることとする。

○1918年9月1日 『日本及日本人』麦生(末吉安恭)「琉球三味線に就いて」
東儀鐵笛氏は嘗て三味線が琉球より渡来せしといふ旧説は真っ赤な嘘にて、慶長の頃には琉球にてもまだ用をなさざりし様なりと云はれたり、(日本及日本人548号参照)非三味線渡来説には如何なる有力なる憑■あるや知らずと雖も、慶長の頃には琉球でもまだ用をなさざりとは真っ赤な嘘にて、定西法師伝、御先祖記(松屋筆記引抄)等にも明らかなるが、琉球の記録に依れば、喜安日記慶長十五年四月十六日川内新田八幡に参詣の條にて「静に法施参らせ人々三絃の秘曲を弾しかば、宮中もすみわたり、誠に面白かりければ、神明も感激に堪ずやおぼしけん」とあり、薩摩三界まで三味線を携へ行ける程なれば、本国に於いて今だ用をなさざりしとは云ひ雖し。・・・・


写真ー小橋川朝重



1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(小橋川朝重撮影)
1922年9月15日『沖縄タイムス』広告「出張写真開業ー那覇市山下町1-22 小橋川朝重」

1924年2月 沖縄県立沖縄図書館『琉球史料目録』


麦門冬と南村・小橋川朝明



1921年6月18日『沖縄タイムス』小橋川南村(大阪)「黨弊打破と人物本位論 多数黨を監視するは県民の義務」

1933年4月『沖縄教育』沖縄県教育会(島袋源一郎)印刷・向春商会印刷部(小橋川朝明)
小橋川南村「春のこころ」
○われも、また/老にけるかや/つくろひて/人にもの言ふ/昨日今日かな□折々は、/子供のやうに屋根裏に/登りて空を/眺めたりする□神の子よ、生れずあらば/かくまでに/物思ふ身に/あらざらましを(乳児紀逝く)□大聲に、/わめき狂はば/このこころ/癒えなんと思ひ/海濱に行く

2004年『沖縄県図書館協会誌』弟8号 新城栄徳
○私は南村・小橋川朝明の子息・朝二氏から話を聞き『近代日本社会運動史人物大事典』(1997年)の小橋川朝明について「琉球王府絵師・向元瑚や、琉歌人・小橋川朝昇を祖に持つだけあって、『沖縄毎日新聞』記者の時、『スバル』『創作』などに歌を投稿し文芸・美術評論もやる」と記した。麦門冬は南村に対し親友以上の関係を作ろうと、その兄・小橋川朝重の息子と自分の妹を結婚させた。が、この若い夫婦、我が儘育ちゆえ喧嘩ばかり。すぐ別れた。慌てた麦門冬、南村に「こんなことで僕らの友情は変わらない」と念を押した。麦門冬が水死したときの追悼式案内に南村は名を連ねているが、追悼文は書いていない。それだけ悲痛に暮れた。後に家族に「親友は持つものではない」と云うたという。


写真左からー麦門冬・末吉安恭、儀間泉南、小橋川朝重、真境名安興

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 日置昌一 ひおき-しょういち 1904-1960 大正-昭和時代の日本文化史研究家。明治37年10月27日生まれ。小学校卒業後東京にでてはたらきながら,17年間上野の帝国図書館にかよいつづけて膨大な書物を読破。その博覧強記ぶりから「ものしり博士」といわれ,「国史大年表」「日本系譜綜覧」「ものしり事典」などおおくの著書を刊行。昭和35年6月9日死去。55歳。岐阜県出身。→コトバンク

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 この「龍柱」は那覇市と中国福州市が、昭和56年(1981年)の友好都市締結から平成23年(2011年)で30周年を迎え、今後の両市の友好・交流を記念して建設されたものであるので、正式には「那覇・福州友好都市交流シンボル像」と云う味も素っ気もない名称だ。だから私は下記のようなことも踏まえて若狭「龍柱」を若狭「龍神」とした。
 
2014/首里城写真
最近、首里城にちなむ映像写真が話題となっている。4月21日の新報、タイムスの「焼失前の首里城カラー映像」や、5月4日の新報、タイムスの東京在住の写真収集家の「明治の沖縄29枚」である。来る5月20日~6月22日、沖縄県立博物館・美術館で「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」が始まる。首里城関係写真も多い。

首里城北殿の階段
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今の所、写真で古いと思われるものは伊藤勝一コレクションの「首里城」である。龍柱が本来の高さで正面向きだ。


今回東京で見つかった明治の沖縄写真は、沖縄写真史の基礎資料とも云うべき『青い目が見た「大琉球」』(1987年8月ニライ社)を見ると1893年3月に来沖したバジル・ホール・チェンバレンの「琉球紀行」で使われた写真にあるから、殆どがチェンバレンが関わっていると思われる。

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850年10月18日 - 1935年2月15日)は、イギリスの日本研究家。東京帝国大学文学部名誉教師。アーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)とともに、19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人。彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典"Things Japanese"や『口語日本語ハンドブック』などといった著作、『古事記』などの英訳、アイヌ[1]や琉球[2]の研究で知られる。→ウィキペディア


1997年11月 川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』月刊沖縄社
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□現在の大龍柱は沖縄神社拝殿の名残を留めて向き合っている。本来は正面向きである。みーぬしんは下方に付いていて、うなーを見下ろすようになっている。真ん中の写真は現在は沖縄県立博物館・美術館にある龍柱で、暑がりの息子が立っている。


2015年12月6日

 8日の産経ニュースは「姿を現した2体の龍柱 那覇で設置工事完了 「翁長市政」で推進 中国向け?事業に批判も」と、右派らしく判で押したように報じていた。
若狭
□1979年6月ー邦光史郎・日竎貞夫『丹後若狭路』(カラーブック467)保育社□邦光史郎「若狭・丹後の旅ー敦賀湾の美しさを手放しで礼讃できないのは、この半島に建設された原子力発電所があるからで、福井県は世界でも例を見ない、原子力発電所のメッカで、ずらりと各種タイプの原子炉や、高速増殖炉が並んでいて、不気味である。原子力発電の安全性は保証つきだと政府や電力会社が囃し立て、一基について十億円を超える金が地元に落ちるというので、市町村は原子力発電所の誘致に熱心だが、もし万一事故が起こったら、死の灰に汚染されないとも限らないのである。(略)美しい北陸の海は、原子炉の墓標の立ち並ぶ死の海と化しかねない。目先の欲に釣られて、郷土の美を売るようなことはしたくないものである。」



2015年11月22日ー若狭に完成間近の龍柱
 那覇市の若狭緑地で市が建設を進めている「龍柱」事業は本体の石材設置作業が22日までに完了し、2体のうちの1体は、覆っていたブルーシートの上半分が外された。前足を掲げた龍の顔面などを見ることができる。1体は海に向かって右側の柱。 現在、周辺整備などの外構工事を進めており、12月25日までに終了する予定。中国福州市との友好都市締結30周年を記念し、計画された。 同事業は当初、一括交付金2億6700万円を使って進めていたが、工事が遅れるなどして活用を断念。市の単独予算を持ち出し工事を再開していた。6月に会計検査院の実施検査を受けたが、「不適切」などの指摘はなかった。→11月23日沖縄タイムス

日本共産党の志位和夫委員長は3日、国会内で記者会見し、
 戦後の米軍による土地の強奪、「銃剣とブルドーザー」を用いた無法な基地拡張が沖縄の基地問題の原点であり、「海上の銃剣とブルドーザー」による辺野古新基地を許すのか、この間の一連の選挙で示された新基地建設は許さないという民意を無視することが許されるのかと、知事が問題提起したことの重要性を強調しました。
(略)知事の問題提起に対し、国側代理人が「政治的議論をする場ではない」と言い放ったことについて、志位氏は「沖縄の基地問題について聞く耳を持たない、議論もしないという態度は許し難い。まさにごう慢、強権を象徴するような発言です。いまの安倍政権の姿勢が表れている」と批判。

 上記の志位和夫委員長の発言の通りアベ政治はアメリカ黒人大統領オバマ軍の協力も得て下記の通り「まさにごう慢、強権を象徴」粛々と沖縄県民の怒りをかっている。次の選挙で自公は壊滅させねば沖縄の未来は無い。

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2013年4月30日~5月5日 那覇市民ギャラリー「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」
□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。

鉄の暴風が荒れ狂った沖縄戦。辛酸をなめた戦後の極貧の離島苦から那覇に移り、
老いるまで清貧を貫き必死に生き抜いたある親子の晴れ晴れしい『カジマヤー』祝い。
そして40年ぶりの故郷粟国島へ、母と連れ立っての凱旋。
だが数年後、百歳誕生祝直前の母の死。
離島特例、島懐に守られた土葬での別れ。
カジマヤーから十年、奇しくも東日本大震災の年の暮れ、再び棺を開けて執り行われた『洗骨式』。
島の風土、親子の生き様や死までを見つめ、人や情とは何かを考える機会になればと、
写真家がまとめた十数年間の人間ドキュメント!

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2013年5月4日

写真家 戸澤裕司 氏
1964年12月、石川県小松市生まれ。東京綜合写真専門学校芸術学部第一学科卒業。「朝日ジャーナル」、「週刊朝日」のグラビア専属カメラマンを経てフリーランスカメラマンとして活躍。90年半ばから作家藤原新也①氏助手。人物のドキュメント、ポートレイト、作家との紀行写真などを雑誌で発表。沖縄の竹富島に十数年通い、島の写真など多数発表。主な著書に「旅する作家五木寛之2001~2006」「海上晩餐会 魅惑の料理クルーズ 山一茂」「下川裕治編『アジア大バザール』」、『AERA』(朝日新聞社)の現代の肖像シリーズ、ドキュメント、ルポ、CDのジャケットなど幅広い媒体で写真作品を発表している。現在は、則子夫人が編集している、世界へ発信!日本の魅力再発見!地域活性マガジン『ADVENTURE JAPAN』や、『Asahi Shimbun GLOBE』の写真を担当している。

①藤原 新也(ふじわら しんや、1944年3月4日 - )は、日本の作家・写真家である。
福岡県門司市(現:北九州市門司区)の門司港地区生まれ。生家は旅館を営んでいた。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻中退。インド、東京、アメリカなどを対象に、写真とエッセイを組み合わせた作品を発表。1972年の処女作『印度放浪』は青年のインド放浪記として、当時の青年層に大きな影響を与えた。1977年、『逍遙游記』で第3回木村伊兵衛写真賞。1981年に発表した『全東洋街道』で第23回毎日芸術賞を受賞した。1983年に発表した『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推挙されたが、本人の意思により辞退となった。(→ウィキペディア)


愛用のカメラと『AJ~ADVENTURE JAPAN』(田畑 則子①編集)

①田畑 則子  Noriko Tabata
ライター
1971(昭和46)年 埼玉県生まれ。短大児童教育学科卒。
カード会社に勤務の後、ワーキングホリデイにてオーストラリアに1年間滞在。現地ツアーデスク、日本語教師などを経験。帰国後、出版社勤務などを経て、1995年、フリーライターとして独立。著書に『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)共著に、『笑うアジア』 『女ひとり旅読本 (シリーズ第一弾)』 『HAPPY HAWAII (シリーズ第一弾)』 (共に双葉社)、『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)など。
日本の魅力再発見! をキャッチフレーズに『AJ~ADVENTURE JAPAN~』(株式会社Adventure JAPAN発行)、英語、中国語、タイ語、仏語の五ヶ国語(日本語含)で配信する同名のサイトを運営。
著書

『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)
『笑うアジア』  (双葉社)
『女ひとり旅読本』 (双葉社)
『HAPPY HAWAII』 (双葉社)
『ワーキングママのための時間管理術』  (阪急コミュニケーションズ)

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2013年5月3日 ポールさん夫妻

○上記の展覧会は継続巡回展の第3会場で、第4会場は2013年6月いっぱい宮崎市広島1-6-11-1 ギャラリー「ArtSpace色空」

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1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
         □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」

 1921年、浦崎永錫は上京し、川端画学校で藤島武二につき油絵を学びながら、検定で小学校教師の資格を取り、後に夜間の工業学校の美術教師となった。昼はヒマがあるので画学校や美術館に出入りした(田中穣『日本洋画の人脈』)。1931年、浦崎永錫は美術誌『美術界』を創刊する。これは後に大著『日本近代美術発達史ー明治編』として結実される。やがて図画教師を中心とする全国組織の美術団体「大潮会」を結成するなど、その一生は美を追求することに終始した。

 同号には古きよき美術放談として山里永吉と浦崎永錫の対談も転載されている。□浦崎永錫「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランだとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺戟になったのだと思うネ」、山里永吉「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、これは若狭町、漆器の影響だと思うな」、浦崎永錫「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺戟と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町湾小に出て夕日に見とれていたものだ。ああいうことは若狭町以外にはあまりないヨ。西海だから夕日がことに美しい。-」



1987年4月 浦崎永錫 自宅書斎で

1975年ー「奥入瀬阿修羅の流れ」油絵40号

1983年ー「夢遊苑(山梨県牧丘町)」


1976年ー「花菖蒲」油絵100号



山岡萬之助監修『宇宙』4月号 浦島久(浦崎永錫)「奇蹟」□大正拾年三月。今上陛下が皇太子殿下の御時欧州御巡遊の砌り、南の孤島うるまの島にも其の御印跡を残された。丁度其の当時の出来事である。全島全県上へ下への大騒ぎで街道街道は修理せられ見苦しき建物は取り壊され、御巡道には綺麗な砂利が敷き積められた。要監視狂人には保護を加え、穏やかならざる思想の持主には相当の注意をすることを当局者は忘れなかった。狂犬は撲殺された。

(略)
その頃、私は組合教会に席を置いてあった。組合教会は県の思想界の権威であり、県立図書館長であった。文学士も居た。文学士の夢の研究を知って居たS医師は私に『文学士からそれを聞いたら姉の病気にも何か参考になるだろう』とのことだった。私には参考と言う言葉が直感的に姉の病をいやしてくれるものだとしか聞き取れなかった。夢の話は重に潜在意識に対する研究だった様に記憶して居る。

日本大学第3代総長
山岡 萬之助 (やまおか まんのすけ)1933.8〜46.1
明治9年(1876)長野県に生まれる。
明治32年(1899)日本法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格。
東京区裁判所判事などを経て、明治39年ドイツに留学。司法省行刑局長、内務省警保局長、
関東庁長官等を歴任。
昭和6年(1931)には東京弁護士会会長就任。
明治43年本学教授となり、その後、学監、理事、法文学部長、学長を経て昭和8年第3代総長、
12年には総裁就任。
大正から昭和への激動する時代の中で、社会の要請に対応して、人文・社会・芸術・工学・医学
・農学の多分野にわたる総合大学の基礎を確立した。
貴族院議員、法学博士。
昭和43年(1968)死去、92歳。

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2015年4月 平敷武蕉『平敷武蕉評論集 文学批評の音域と思想』出版社Mugen
○・・・私たちは、大衆運動や労働運動・学生運動が壊滅し、労働者が貧困と絶対的窮乏にあえぐなか、他方で独立論やユートピア社会についての論議が賑わうという奇妙な現実に立ち会わされているわけだが、「沖縄独立論」を包摂しえる真正の思想を創出できてないことにその根拠があると、言えるのかも知れない。(『非世界』17号 2008年6月)


2016年5月 俳句同人誌『天荒』54号<特集 平敷武蕉評論集『南瞑の文学と思想』>

 俳句同人誌『天荒』54号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536
本成美和子「わたしの共鳴句<1月作品>」□辺野古埼竜神引っぱる初日の出 玉菜ひで子 大浦湾に朝日が届く。日の光」が竜神を引っ張ってくれるのなら、必ずよい方向にことが運ぶ。初日の出を拝む作者の気持ちが伝わってくる。辺野古問題に、今年こそは竜神が必要だと思う人は多いはずだ。 

編集後記
◆米軍の沖縄県民への弾圧が露骨になった。芥川賞作家の目取眞俊氏が辺野古の新基地建設阻止のカヌーでの抗議行動中に拘束、逮捕された。政府と沖縄県の「和解」で、基地建設が中断していることへの米軍の苛立ちなのか。警備員は目取眞氏の本名を口に」していたというので、明らかに狙い撃ちの言論弾圧である。氏は「まさに米軍基地は治外法権にある」と憤慨している。(建)
2016年1月 俳句同人誌『天荒』53号


編集後記
◆「辺野古新基地」反対の沖縄県知事と民意を踏みにじって工事を強行する政府とが法廷闘争に突入した。12月14日に「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」が発足した。政府は多くの国民が反対している特定秘密法や安保関連法を強引に成立させた。沖縄の抵抗の輪が全国に広がって欲しい。(建)
◆2015年の世相を漢字一字で表す語に「安」が決まった。世の中それほど「安心」「安全」「安定」を実感しているのかと我が耳目を疑ったが、どうやらその逆もあるようだ。戦争への不安、テロ攻撃の不安、災害への不安、放射能への不安、雇用への不安等々、狂った世相への不安は募るばかりである。(武蕉)
◆日本は核拡散防止条約(NPT)の枠外にいる核保有国インドと「原子力協定」締結に合意した(2015年12月14日。沖縄タイムス)。東京電力第一原発事故は収束などしていない。メルトダウンした原子炉には高濃度放射能のため放置された状態であり、廃炉するにもその手立てがない。放射能汚染水が時々海へ漏れ出る。放射能によって古里を追われた人たちは未だ還ることは出来ない。自国の原発事故も未解決のまま他国に原発を売ろうとしていることに怒りを禁じ得ない。日本は広島、長崎に原爆投下された被爆国である。世界に向かって核廃絶の声を上げるべき立場にある。歴史を教訓化できない国は滅びの道を辿るのではないか(延男)

 2013年1月『宮城松隆追悼集 薄明の中で』同発行委員会(事務局・西銘郁和 ☏098-973-0771)

2012年10月 『非世界』№25(復刊15号)同人会(平敷武焦 沖縄市字古謝1044 電話FAⅩ 098-934-2006
□樹乃タルオ「巻頭・この明るさはどこから来ているのだろう」/石川為丸「宮城松隆さん、プレセンテ!」

宮城 松隆(みやぎ まつたか、1943年 - 2012年 )
沖縄県生まれ。琉球大学国文学科卒。 日本詩人クラブ所属、詩誌「非世界」、「脈」同人。 沖縄戦の詩、生死を凝視する詩を、沖縄の地から発信する詩人。個人詩誌「キジムナー通信」発刊により沖縄の新世代の詩人の発表の場を設けた。『沖国大文学』で活動した宮城隆尋、松永朋哉、トーマ・ヒロコらの新世代の書き手にも「キジムナー通信」の誌面を提供した。「沖国大文学」とともに山之口貘賞受賞詩人を輩出する端緒をつくった。→ウィキペディア


2012年10月 『非世界』№25(復刊15号)同人会(平敷武焦 沖縄市字古謝1044 電話098-93�

2012年10月 『非世界』№25(復刊15号)同人会(平敷武焦 沖縄市字古謝1044 電話FAⅩ 098-934-2006
□樹乃タルオ「巻頭・この明るさはどこから来ているのだろう」/石川為丸「宮城松隆さん、プレセンテ!」/西銘郁和「詩・巨大津波の三陸海をいく」/与那覇けい子「詩・タイムラグ」/樹乃タルオ「小説・暮るればのぼる」/□砂川哲雄「詩人・羽地恵信論(覚書)」/上原紀善「詩・白日夢 他3編」/砂川哲雄「詩・沈黙 他1編」/平敷武焦「書評・栄野川安邦『緋寒桜と目白』差別とたたかう混血青年」/安美沙子「エッセー・他者の声を聴くとは~日本軍『慰安婦』パネル展にて~」/
□あとがきー9月9日、オスプレイ配備に反対する県民大会が10万余という空前の規模で開催された。95年少女レイプ事件を抗議する規模を上回る数である。だが、日米両政府は県民の反対の声を一顧だにせず、10月1日に「予定通り」オスプレイを強行配備した。95年の際はまだ聞く耳を持つ姿勢を示し、普天間飛行場の返還を約束した。しかし今回は完全無視である。このことはある恐るべきことを推測させるものがある。一つは、今後も、この国の施策を遂行するに当たって、沖縄の声など無視し、沖縄を犠牲にする姿勢を明確にしたことの表れではないかということである。二つは、沖縄県知事とそれを支持する政財界と国との間ですでに「密約」が交わされているのではないかということである。オスプレイ配備と辺野古基地建設に対し表向きは反対しておいて政府が強行すれば容認に転ずるというように。9月9日の県民大会への知事の不可解な欠席はその態度表明である。

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05/12: 琉米誌

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1899年1月20日ー勝海舟、旧主君徳川慶喜の10男・精(くわし/11歳)を養子婿に迎える

「勝海舟」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1902年5月19日ー兒玉源太郎台湾総督、井上勝ら福岡丸にて来沖
同年1月に日英同盟条約調印。兒玉源太郎台湾総督(1875年にも来沖)、井上勝ら福岡丸にて来沖。那覇の潟原で那覇首里の小学校の運動会を見る。また首里を遊覧。風月楼で2区の有志及び各役所の高等官60名「歓迎会」。
児玉源太郎 こだまげんたろう
1852(嘉永5)~1906(明治39) 明治時代の陸軍軍人(大将)
徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした。 1887(M20)陸大校長としてドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめ、91ヨーロッパ視察。 92~98陸軍次官兼軍務局長、日清戦争で大本営参謀、功により男爵。96中将に昇進し、長州軍閥の1人として重きをなした。 98台湾総督。1900第4次伊藤内閣・桂内閣で陸相、一時内相と文相を兼任。 04大将に累進して日露戦争に出征し、満州軍総参謀長、戦功により子爵。06参謀総長に就任。南満州鉄道株式会社創立委員長。没後、伯爵。 (はてなキーワード)
日本の近代的交通網を整えた「鉄道の父」
井上 勝 ( いのうえ まさる ) ●天保14年(1843)-明治43年(1910)
勝は天保14年(1843)、藩士井上小豊後勝行の三男として、土原浜坊筋に生まれました。長崎でオランダ士官に兵学を学び、江戸では砲術を修行して、さらに箱館へ行って英国領事館員に英語を学びました。その後航海術習得のため、伊藤博文や井上馨らと英国へ密航してロンドン大学に留学し、鉱山学および鉄道の実業を研究して、明治元年(1868)に帰国しました。明治4年(1871)に鉱山頭兼鉄道頭となり、新橋―横浜間に日本最初の鉄道を開通させて以来、工部大輔・鉄道庁長官等を歴任して、全国各地の近代的交通網を整備しました。明治22年(1889)には、東京―神戸間の東海道線を全通させています。同43年(1910)に鉄道院顧問となり、欧州を視察しましたが、ロンドンで病死しました。享年68歳。
 墓は、沢庵和尚を開山として、寛永15年(1625)に3代将軍徳川家光によって創建された品川の東海寺墓地にありますが、ここはJR東海道線と山手線とが分岐するところとなっています。また東京駅頭には、大正3年(1914)に銅像が建てられ、戦時中の金属供出によって台座のみとなっていましたが、没後50周年の昭和34年(1959)に再び銅像が建てられました。(city.hagi.lg.jp)■ちなみに井上勝の娘は松方正義の9男義輔に嫁いでいる。松方の3男幸次郎(元川崎造船社長)は松方コレクションで知られる。

1910年3月9日ー勝精伯爵、農務省水産講習船「雲鷹丸」で来沖。岡雷平やまと新聞記者が同行
1911年6月8日 尚昌、神山政良、イギリス留学の途次サンフランシスコ着、安仁屋政修(沖縄県人会会長)らが出迎える。

1911年11月11日、ブール、シュワルツとともに来沖。→1991年1月 ①伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』

1912年3月27日にポトマック公園で、ヘレン・タフト大統領夫人と珍田日本大使夫人によって桜(ソメイヨシノ種)が植えられた、という。桜の穂木は東京荒川の桜並木だが、台木は兵庫県東野村で育てたものという。詳しくはネット検索で見てほしい。最近、アメリカの首都は何処にあるかと検索したら前記の桜の話が出てきた。アメリカ合衆国の首都はワシントン・コロンビア特別区(Washington,District Of Columbia)で1790年7月16日に設立。


1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(ニューヨークで小橋川朝重撮影)

1913年 山田有登、大阪市聖バルナバ病院に勤務。→『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。それによると、同病院は1873年にアメリカ聖公会により派遣された宣教医師Henry Laningが大阪川口居留地に米国伝道会施療院を開設したのに始まる。1923年に川口から天王寺細工谷の現在地に移転しているから、写真家の山田實さんの父・有登は同病院に1913年から1920年まで勤務。その時の場所は川口ということになる。

□川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していった。彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していった。(→ウィキペディア)

1914年5月9日『沖縄毎日新聞』伊波月城「日光浴ー新文明の先駆者たる北米合衆国の平民詩人ワルトホヰットマン②は3、40年これを実行したのである。・・・」
②ウォルター・ホイットマン はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。→ ウィキペディア
1914年6月26日『沖縄毎日新聞』「粗枝大葉ー19世紀の偉大なるアメリカ人ワルト、ホイットマンは大いなる都会とは・・・・」

1915年8月ー前暁鐘社の野里朝淳がマウィ島カフルイ港で写真屋開業

1916年6月9日『琉球新報』平良生(在ロスアンゼルス)「米国通信」
1917年9月、山入端隣次郎、アメリカよりT型フォードを3台導入し沖縄自動車商会を開業、運転手は福井県出身の大宮孝太郎。大宮は沖縄県「運転手免許証」(大正6年10月8日発行)第一号である。12月、布哇沖縄海外協会(當山善真)『会報』□表紙「汎太平洋と布哇」、大城幸之一「沖縄県の疲弊と之が対応策」、比嘉静観「沖縄県救済策」、大田朝敷「沖縄本島巡講行脚」、新城北山「布哇沿の琉球民族」/沖縄県海外協会(又吉康和)『南鵬』第1巻第2号□大田朝敷「ハワイと沖縄の関係」
1917年11月23日『琉球新報』「64年前ペリーと琉球を経て浦賀に上陸したハーデー翁が17日来日」

名護朝助
慶応義塾入社名簿に/名護朝助 本籍地 沖縄県首里當蔵35 戸主 士族
              明治11年3月生 明治30年5月入社  証人 本賀昌
アメリカに渡米、10年余滞在
大正元年10月ー西洋料理「美理軒」(名護朝助経営、コック永田亀寿・元シュワルツ家コック)饒平名病院隣、一味亭跡に開業/11月ー『琉球新報』□食道楽君のピリケンの解釈は違っている。ピリケンとは福の神の意味で寺内総督にピリケンの名を冠したのは惑新聞が七福神の似顔を募った時、総督の三角頭が七福神の一つに及第したことがあるからピリケンのアダ名も蓋し之に出たのであろう。洋食屋の美理軒なるほど語呂はよくないが来る御客様を福の神と見立てたものであるとすれば語呂ぐらいは我慢が出来る。アテ字の美は美味の美、理は料理の理と見れば何れにしても結構じゃないか。

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1918(大正7)年3月の『琉球新報』広告/2006年9月『JTBパプリッシング』表紙

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左ー通天閣のビリケンさん/通天閣の見える右下にビリケンさんが見える
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□通天閣の展望台で、真っ先に迎えてくれるのが、幸運の神様「ビリケン像」。
合格祈願・縁結びなどあらゆる願いを聞いてくれる、なんでもござれの福の神なんです。通天閣の「ビリケン」は、5階の展望台の立派な台座にちょこんと座っています。
笑っているのか怒っているのか。不思議な表情と、愛敬あるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えません。

ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家 フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。トンガリ頭につりあがった目という、どこかしらユーモラスな姿は、たちまち「幸福のマスコット」「福の神」としてアメリカを始め世界中に大流行しました。
日本でも花柳界などで縁起物として愛されていました。

世界的な流行を受けて、1912年(明治45年)オープンした「新世界」の遊園地「ルナパーク(月の園)」では、さっそく「ビリケン堂」を造りビリケンを安置。これは大当たりし、新世界名物としてその名をとどろかせ、ビリケン饅頭やビリケン人形などのみやげ物まで作られました。また「福の神・ビリケン」を七福神に加え、「八福神めぐり」なども流行したと伝えられています。しかしビリケンは、ルナパークの閉鎖と共に行方不明になってしまいました。

オイルショックが去り、通天閣の灯が復活して新世界に活気がよみがえった1979年〈昭和54年〉、浪速文化の拠点をめざした「通天閣ふれあい広場(現・3階イベントホル)」ができました。その後、1980年(昭和55年3月30日)に新世界に馴染みの深い「ビリケン」の復活も決まりました。しかし、資料になるべき写真が見つからず。思案にくれている時、田村駒株式会社が版権を持っていることが判明。田村駒さんのご好意で、同社の「ビリケン」をもとに木彫で復元したのです。像の彫刻は伊丹市在住の安藤新平さん。(→通天閣)

1919年 宮城与徳、父与正の呼び寄せで渡米→1921年ー屋部憲傳、又吉淳、幸地新政らと「黎明会」結成。

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1928年11月『世界地理風俗体系・第19巻・アメリカ合衆国(上)』新光社
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ニューヨーク□この世の龍宮ー白波さわぐ水の彼方におぼろに霞む高楼の群こそこの世の龍宮とも見られよう。この高楼の群立こそは大ニューヨーク市の中心マンハッタン南端付近の世にも稀なる壮観で南方水上から仰ぎ見た風景である。その中央部に雄然と聳ゆるエクイタブルのビルディングもその右方のウールウオースもこの大観の一丹一碧をなすに過ぎぬ。右の端にはお台場公園の水族館が見える。
国防
□海軍ー(略)我々は少しも米国海軍を恐れては居らぬ。然し勿論戦争を望んでも居らず、少なくとも近き将来に戦争があろうとは思って居ない。戦争ばかりが海軍の仕事ではない。我々はむしろ益々日米両国の国交を厚くし今後いよいよ通商の繁くなりよく「太平洋」を文字通り太平に保つべく、両国海軍が提携してその保護の任を盡さんと希って居るのである。

□空軍と化学戦ー米軍中には化学戦部が設けられ、毒ガス、焼夷弾及び発煙弾等を用ふる化学戦の準備と研究を行っている。これがための機関として、化学戦学校とか、毒ガス工廠などがあり、実に平時よりガス第一聯隊がメリーランド州、エッヂウード工廠内に設けられ、本部と3中隊とを置いてある。その他パナマ、コロザールと、歩兵学校内と、ハワイのショフィールド兵営との3か所にも、各1中隊宛のガス中隊が設けられてある。米国の毒ガス製造の一日の量は約350トンということである。

■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1929年12月『世界地理風俗体系・第20巻・アメリカ合衆国(下)』新光社


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サンフランシスコ□水天の間に描くー金門海峡の内ぶところ。太平洋の水を静かにとり入れた入江の水と空一線の上に描く桑港の空線。それは近代文明都市の姿そのものである。ニューヨークをアメリカの正玄関とすればサンフランシスコはまさにその裏玄関に相当するところ。太平洋を渡る長い航路の旅人が絵のような桑港湾に立つて水上に浮かぶこの美しい都市の姿に接した時思わず甲板の上で歓呼し雀躍したくなるであろう。

□移民問題と在米同胞ー米国の繁栄を語るものは、東部にニューヨークの雑踏と、中部にシカゴの煤煙市と、そして西部にオレンジの花馨るカリフォルニアの富源のあることを見落とすわけには行かぬ。そして、また米国の文明を語るものは、ニューヨークの女神像と、シカゴの黒人私刑事件と、太平洋沿の東洋人排斥の事実とを忘れてはならない。(略)カリフォルニアのこの発展をかほどまで迅速ならしめたものは、実に20万に近い支那人の労働者と、30年間血と汗をもって開拓した、30万に近い現存日本人の努力の結果とに他ならない。

アメリカ合衆国ー国そのものが独立戦争という暴力から生まれたことは、問わないにしても、初期の植民者による原住民(インディアン)の組織的皆殺し、アフリカから黒人奴隷を輸入して制度化したこと、それをめぐって国を二分して戦われた「南北戦争」のむごたらしさ・・・・・。さらに後続の移民を差別し搾取する構造が、国の歴史を貫いている。(袖井林二郎)
 2010年10月 ドルー・ギルピン・ファウスト著/黒沢眞里子 訳『戦死とアメリカー南北戦争62万人の死の意味』彩流社□戦死者62万という。南北戦争の約40年後に起き、プレ世界大戦とまで呼ばれた日露戦争の戦死者は、両軍合わせて約10万。二つの大戦での米軍の戦死者の累計は約50万。南北戦争に及ばない。南北戦争は国家間戦争ではない。内戦だ。ゆえに世界史での扱いも軽くなりがち。だが死者数では20世紀の戦争を先取りした。
 2021年 アメリカで2月22日、新型コロナウイルスによる死者が世界最多の50万人を超えた。
 
1920年1月17日 アメリカ合衆国憲法修正18条(全国禁酒法)が発効□1933年12月廃止
■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1931年8月 和氣律次郎『犯罪王カポネ』改造社


1931年 『犯罪公論』<『ブラック・チェンバ』裏話>
 この雑誌の発行から10年後の日本時間1941年12月8日未明に真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、、ハワイ時間12月7日)があった。アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である→ウィキペディア。安倍晋三首相は日米首脳会談後の共同記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問に対応し、米ハワイの真珠湾を訪問する可能性について問われ、「現在、ハワイを訪問する計画はない」と否定した。ま、アメリカの一州に甘んじている日本としては歴史的にもそう意義は無いということだろう。今回の国政選挙はアメリカの一州から「離脱」するか否かも問われている。
 そのアメリカの国政選挙。ドルマニアで暴言王トランプ氏に対してはドナルドダック(短気な性格であり、ディズニーキャラクターの中で最も喜怒哀楽が激しい)のイメージもあり、本音でアメリカを変えると期待していたが次のニュースをみると人命軽視で現状維持の素晴らしい発想の持ち主らしい。TBS系(JNN) 6月18日ートランプ氏が過激発言を連発、改めて銃規制不支持を主張-アメリカ大統領選で共和党の指名候補に確定しているドナルド・トランプ氏は17日、フロリダ州の乱射事件に触れながら、銃規制強化への反対を過激な言葉で改めて表明しました。「被害にあった(死んでくれて)素晴らしい人々の誰かが腕や足に銃を忍ばせていて、あのロクデナシが撃ち始めたときに、誰かがバーンバーンと反撃してたら、それは(ハチの巣状態で)すばらしいすばらしい光景になっていただろう」(ドナルド・トランプ)。




 黒井兵也「『ブラック・チェンバ』裏話 東京日日新聞は如何にして「『ブラック・チェンバ』を手に入れたのか❔」○「我が暗号電報盡く米國側へ筒抜けー解読した当事者が自ら暴露」「何と間抜けた話ー7割から6割へ、段々と押しつめられた華府会議当時の裏の裏『米國の秘密室』は語る」昭和6年7月19日20日の東京日日新聞。初号活字の大見出し、夏枯れのジャーナリズムがあッと思わず聲を上げ、陸軍省と外務省では。・・・・・・「ブラック・チェンバ」という聴き慣れない言葉が、ハーバート・ヤードリ①という無名のヤンキーが、一躍この國の全階級の話題に上るようになった。

 ①ハーバート・オズボーン・ヤードリー(Herbert Osborne Yardley、1889年4月13日 - 1958年8月7日)は、アメリカ合衆国の暗号学者。インディアナ州ワージング生まれ。その著『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』(1931年)で知られる。ヤードリーは陸軍情報部第8課(MI-8)「ブラック・チェンバー」の設立者であり、その長であった。 彼のもとで、ブラック・チェンバーの暗号解読者は日本の外交暗号を解読し、1921年から1922年のワシントン会議でアメリカの交渉者を有利な立場に置いた。 のちに中国の国民政府が日本の暗号を解読するのを助け、カナダ政府が暗号部門を設けるのを助けた。ブラック・チェンバーは1929年に国務長官のヘンリー・スティムソンによって予算を打ち切られ、そのまま閉鎖された。従業員は年金等の補償なしに解雇された。ヤードリーは政府に対する報復として暴露本を著した。ウィキペディア

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1961年7月 ジョン・ガンサー 三浦朱門 訳『頭の回転=マスコミ最大の成功者の物語=』新潮社

1964年12月7日、カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay,)勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。→ウィキ

1965年4月 『思想の科学』№37<特集・日本の黒幕>思想の科学社

丸山邦男〇占領期の黒幕ー「総指令部は、日本の国内政治の運営を実際に支配しているわけではない。わたしがきいた、あるアメリカ人の話によると、日本には、今日でもなお<日本地下政府>が存在しているということだった・・・・」。これは1951年に出版されたJ・ガンサーの『マッカーサーの謎』(木下・安保共訳)に出てくる一節である。占領下の日本の政治を直接間接にコントロールしたものはGHQだが、占領期間中の重要な時期あるいは事件に関連する政治にたいして、最高責任を負った代表的人物といえば、いうまでもなく吉田茂の名を挙げられる。

神島二郎〇日本の黒幕序論ー(前略)今後の黒幕は、ヒトや限られた党派を操る黒幕ではなくて、大衆だとか経済構造を操作できるブレーンという形が」、重要になるのではないか。操作というのは、権謀術数でだますというのとは違って、大衆のイメージに合わせて、政治をつくってゆくということだし、そういうことの専門家が政治に参画しだしているということは、新しい問題だね。

1965年8月 大野達三『アメリカから来たスパイたち』新日本出版社□図ー「連合軍総司令部機構」「G2・CIC関係図」「」
1965年6月11日 読谷村喜名小学校5年生の棚原隆子さんが自宅前で米軍演習トレーラーが空から落下し圧死した。
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」

1966年5月25日、アメリカの作家ジョン・トーランド、とし子夫人と来沖□5月30日『沖縄タイムス』「作家トーランド氏の講演・生きた歴史を強調」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」
1967年6月 カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』新日本出版社□塩田庄兵衛・中林賢二郎「序ーアメリカ合衆国は、もともといわば移民によってきずきあげられた国であるが、ヨーロッパの先進資本主義国から渡航して新しい国の主人公となった白人と、アジアを中心とする『後進地域』から渡航した移民との間には、人種差別という形をとった差別待遇がはっきりみられた。そのなかで日本人は、中国人、朝鮮人などとともに、低賃金労働者として下積みの扱いをうけた黄色人種であった。わが同胞は、アメリカ西部とハワイの農園・鉱山・鉄道・森林・漁場にその労働力をそそぎこみ、今日のアメリカ独占資本主義の富の少なからぬ部分をつくり出した。今日のアメリカの富について考えるばあい、中国人・朝鮮人などとともに、日本人が流した血と汗と涙を無視することはできないのである。・・・・」
1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」

1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」

1968年

沖縄100万の叫び―嬉野京子写真集 (1968年) →菅原恭正ブログ2016-4-27:【第1660回】

1969年 アメリカ国防省がコンピュータネットワークの実験(UCLA、ユタ大学などを「ARPANET」)で連結に成功
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」
1969年7月  朝日新聞西部本社企画部『原爆展』(主催・広島市・長崎市・朝日新聞社)

1969年8月  『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」


1969年8月 E・ライオンズ/高橋達男 訳『世界の企業家=3 電子工業のパイオニア サーノフ』河出書房新社→デビッド サーノフ1891.2.271971.12.12  米国の無線技術者,実業家。元・RCA社長。ロシア生まれ。1900年にアメリカに移住し、’06年RCAの前進であるマルコニー社に入り、’12年電信技士、’18年検査主任、主任技師となる。同年RCAを設立し、’21年総支配人を経て、’25年副社長、’30年社長となる。アメリカテレビの先駆者として知られ、第二次大戦中は、通信隊顧問として活躍した事もある。→コトバンク
1969年9月  『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」

1969年10月  『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」

1972年9月に沖縄キリスト教協議会(比嘉盛仁)から『沖縄キリスト教史料』が発行されている。中に植村正久先生来島記念(1923年)やベッテルハイム記念碑除幕式(1926年)の写真がある。前記には新垣信一、大城カメ、比嘉盛仁、比嘉盛久、久場政用、眞栄田義見ら、後記には島袋源一郎、本賀昌、知花朝章、志喜屋孝信、佐久原好伝、アール・ブールらが写っている。

1972年11月 『断悪ー原爆被爆者救援のための実体験の記録』沖縄県原爆被爆者協議会 
1973年4月7日 『沖縄タイムス』「海洋博を点検する<21>肥大する三次産業 大阪万博倒産の教訓生かせ 陸は観光スラム 海は石油汚染」
1973年5月15日 『日本経済新聞』「第二部 沖縄特集ー珊瑚礁に夢結ぶ海洋博’75」
1974年1月『基地情報』第4号 基地対策全国連絡会議「国民主権を侵害するもの」/2月『基地情報』第5号「沖縄基地調査特集」

1974年1月 レイチェル・カーソン/青樹簗一 訳『沈黙の春ー生と死の妙薬ー』新潮文庫→レイチェル・カーソン日本協会ー組織運営をめぐり、発足から20年が経過するなかで、組織のリフレッシュをはかる必要性が指摘されることが増えてきた。総会、理事会で「日本協会の今後の在り方」をめぐり意見交換を深めた結果、2008年3月15日、特定非営利活動法人格を返上するための「解散総会」を持つと共に、当面、関東フォーラム、関西フォーラムを拠点にした「ゆるやかなネットワーク組織」としてレイチェル・カーソン日本協会が再発足した。
1975年4月4日  ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏らによってMicrosoft(現在の本社所在地ーワシントン州 レドモンド)が設立された。



1975年2月 『沖縄の米軍基地』沖縄県渉外部基地渉外課

1975年5月23日 『毎日グラフ』「緊急増刊 勝利した解放戦線」
1975年6月14日 『沖縄タイムス』「原子力と人間<1>核ジャックの恐怖 プルトニウム放射能半減期2万4千年」
1975年8月15日 『週刊読売』「臨時増刊 日本人の戦歴ーソ連側撮影 シベリアの日本兵捕虜」
1975年9月15日 『朝日ジャーナル』「あなたは核兵器を知っているかー1945年7月16日午前5時30分、人類初の原爆、プルトニウム爆弾が実験された実験の暗号名は「トリニティ」(三位一体) アラモゴルドの砂漠の中に記念碑が立っている/米ニューメキシコ州アルバカーキー市に、国立アトミック博物館がある。」

1976年、スティーブ・ウォズニアックがApple Iを製作。これを見たスティーブ・ジョブズは、新しいビジネスになると考え、1977年スティーブ・ウォズニアックと共にApple社(現在の本社所在地ーカリフォルニア州クパチーノ)を設立した。その後発売したApple IIは表計算ソフトVisiCalcと共に大ヒットとなり、これまで一部のマニアのおもちゃでしかなかった「パソコン」が仕事にも使える道具だということが分かり、パソコン市場が出来上がった。→はてなキーワード ????2012年7月『徹底解析!!アップルvsグーグル』洋泉社

1976年4月17日『週刊ピーナツ』「追跡 巣鴨プリズンからのCIAヒモつき出所全リスト 信介、児玉誉士夫、笹川良一、他」
1976年5月15日、沖縄ハワイ協会(仲村亀助会長)主催「アメリカ建国200年祭」が那覇市内パシフィックホテルで開催、ノールズ在沖米国総領事夫妻、平良那覇市長らが招かれる。与世盛智郎が挨拶。→与世盛智郎『沖縄仏教読本』(久米島本願寺1976年5月)「戦後、沖縄の世替わりに際し、進駐軍が、アメリカ建国の精神にのっとって宗教政策を重視して、沖縄の寺院に活を入れ、その活動に力をかしていたら民主主義も不消化とならず、従来の守礼の邦の美風を堅持し、一部にある反米思想も起きなかったと思われます」。

1976年6月 『三悪政治とCIA』日本共産党中央委員会出版局→三悪政治(戦犯・金権・売国)ー松川事件、下山事件をめぐるCIAへの疑惑といい、自民党をはじめとする反共政党とCIAの関係といい、今後白日のもとにさらさなければならないことが、あまりにもたくさんあります。

安倍晋三、1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され、1978年から1979年まで政治学を学んだ。

横浜・米軍機墜落事故
1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍のファントム偵察機が横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落した。土志田勇さんの娘、和枝さん(当時26)の息子の裕一郎君(3)と康弘君(1)が翌日未明に相次いで死亡。和枝さんも重度のやけどを負い、闘病生活の末、4年4カ月後に亡くなった。勇さんは、和枝さんの遺志を継いで社会福祉法人を設立。「和枝園」と名付けたハーブ園も開くなど「社会への恩返し」を続けている。


1979年1月 ジェームズ・マッキンレー著/和田敏彦・訳『アメリカ暗殺の歴史』集英社
○アメリカにはじめて移民たちが着いたとき、彼らはここに将来を決する二つのものを持ち込んだ。一つは自分たちが祝福された民であるという神がかり的な夢であり、もう一つは銃である。彼らは艱難に耐えていくためにはこの夢が、またこの夢を新世界に押しつけるには銃が必要だと信じていた。彼らは聖者と銃弾、それに狡猾な取引でこの夢を広めていったから、彼らは間違ってはいなかった。そして彼らが正しかったことは、百六十九年後に独立宣言の署名によって証明された。あの日、市民は家に駆け込むなり、銃を取り、まず祝砲で、ついでアメリカ革命でアメリカの夢を永久的に確認した。・・・・・



1979年3月 『沖縄の米軍基地』(表紙写真・国吉和夫)沖縄県渉外部基地渉外課

1979年、祖父新一郎に代わって、孫である現店主天牛高志が、 まだほとんど商店がなかった大阪心斎橋西のアメリカ村に、90坪の天牛書店新店舗を開きました。元々は駐車場であった建物を改装し、むき出しの鉄骨の梁、本棚は赤く塗装し、自動販売機を置いた休憩スペースを設け、古くから敷地にあった稲荷祠はそのまま店内に残すなどといった、従来の古本屋のイメージを一新する店作りに挑戦したアメリカ村店は、新しい感覚が若いお客様にもご好評をいただき連日の盛況となります。 しかし、時代の流れとともにアメリカ村が賑やかなファッションの街へと変貌し、古書を売る

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Category: 02-関西の沖縄
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大阪は1923年に関東大震災を機に沖縄青年たちの赤琉会が結成された。それを母体にして24年に関西沖縄県人会(渡口精鴻会長)が結成された。28年には『(関西)沖縄県人住所案内』が発行された。1935年8月には大阪市西成区鶴見橋通り6ノ4の関西沖縄興信社から『関西沖縄興信録』が発刊された。同社の顧問、編集同人に豊川忠進、眞栄田勝朗、下地玄信、山城興善、翁長良孝、古波蔵太郎、比嘉繁雄、古波蔵加壽が居る。

本名鑑の序文「関西地方は大阪市を中心として我国産業都市の中心地であると共に又最大の経済都市である。就中大阪市は人口三百有余人を擁し近代的文化施設は施され世界第三位の大都市である。殊に関西地方を理想郷に求めて来阪する県民は其数実に5万人と註されて居る。学者、弁護士、医師、実業家、学生、労働者、紡績女工等ありて各方面に亘りて各々其の職業生線(ママ)に健闘しつつあるは刮目に値する。近時我が県民が各方面に著々として地位を確保し成功しつつあるは吾人の意を強うして祝福せざるを得ない。然るにいまだ県民の消息近況を知るに完全なる機関なきは甚だ遺憾とする所である。茲に於いて吾人は『関西沖縄興信名鑑』を上梓し県民の頒布状態並びに活動状態及び職業、居所を詳細に記述して県民諸氏の座右に供せんとす。幸いに本名鑑が県民多数の連絡機関と徒然の好伴侶として聊かなりとも裨益する所あらば幸甚である。」とする。

現在、大正区は「リトル沖縄」とも称されているので名鑑の大正区之部を名前・(出身地)・職業の順に略記する。
北恩加島町/糸数亀助・糸数福盛(島尻)鉄工所、石川清方・石川松吉(中頭)商業、石川徳次郎(首里)鉄工所、糸数蒲・糸数正一(島尻)、糸村昌進(中頭)、石原昌三郎(中頭)塗工、稲福善太郎・稲福米男(国頭)履物商、稲福清一・伊佐川盛峯(中頭)、伊佐牛栄・伊佐牛清・糸数清吉(国頭)、糸数義男(国頭)酒醤油・日用品商、糸数敏(島尻)商業、伊是名興雄(那覇)運搬業、石嶺正吉(島尻)運搬業、伊佐川信行(中頭)製油工場、稲嶺盛休(国頭)、稲嶺盛次郎(中頭)製材所、伊波善徳(島尻)鉄工所、糸数孝清・糸数蒲戸(国頭)喫茶店(喫茶酒場・和洋御料理 日之出家)、末吉業祐(国頭)雑貨商、池原安平(国頭)商業、伊佐栄吉(島尻)理髪職、伊佐眞栄(島尻)運転手、伊集守芳(島尻)、稲福盛貴(中頭)

花城清吉(島尻)鋳物工場、花城幸明(中頭)、花城秀正(島尻)、原國盛善(島尻)、花城安次(国頭)鉄工所、原國盛徳(島尻)鉄工所、平安座唯寛(中頭)製材所、平安座太郎(中頭)豆腐屋、豊里洋子(国頭)産婆、當山元光(国頭)製材所、當山松吉(国頭)、豊里友盛(中頭)、友寄信徳(中頭)、豊里友栄(国頭)、當山全太郎(国頭)鋳物工場、當山王雄、當山太郎(中頭)、知念徳(島尻)、知念安正(国頭)、知念政栄(中頭)、知念次郎(島尻)、知念安康(島尻)商業、知念栄進(島尻)、知念順太郎(島尻)製材所、知名十助(島尻)、知念松三(島尻)製材所、知念武蔵(島尻)、知花前明(国頭)、知念次郎(島尻)、知念良助(島尻)鉄工所、知念徳助(島尻)製材所、知名定成(中頭)

禰覇盛郎(中頭)製材所、禰覇盛雄(中頭)、大城博保(島尻)解船業、大城久次郎(島尻)、大城喜詠(中頭)商業、大城牛助(島尻)、大城平忠(島尻)商業、大城福市(島尻)商業、大城勝次(島尻)鋳物工場、大城秋吉(中頭)、親川孫三郎(国頭)製材所、大城善光(国頭)ニューム工場、大城廣助(島尻)製本屋、大城仁清(島尻)、親川松助(国頭)、大城充光(島尻)、大城喜定(島尻)、大城清堅(島尻)商業、大嶺太郎(中頭)、奥村嘉栄(国頭)、大城梅昌(国頭)、大城候八郎(国頭)、大城眞栄(国頭)、大城良吉(中頭)製材所、大城清秀(中頭)製材所、大城喜運(島尻)製材所、大峯次幸(国頭)、親川金助(国頭)、大湾朝康(島尻)運搬業、親泊元恭(島尻)運搬業、大城眞苅(島尻)運搬業、大城清太郎(国頭)鋳物工場、小那覇安徳(国頭)製材所、大城亀(島尻)、大村恭仁(島尻)、親川豊治(国頭)

大城正達(島尻)、大城恒一(島尻)薪炭商、親川鍋助(国頭)、親川孝次(国頭)製材所、親川孝徳(国頭)製材所、大城源盛(国頭)鉄工所、大城清次郎(国頭)製材所、大城徳太郎(国頭)製材所、大城仁豊(島尻)練炭所、大城亀一(島尻)練炭所、大城一増(島尻)薪炭商、大城正一(島尻)、大城吉造(島尻)解船業、大城一廣(島尻)運搬業、大城盛通(島尻)、大城嗣得(国頭)、大城亀太郎(国頭)、大城鉄雄(国頭)自動車業、久高幸吉(国頭)製材所、久高幸次郎(国頭)製材所、国場三郎(島尻)、久場憲松(国頭)、桑江朝昆(島尻)製材所、桑江常三(島尻)商業、久場川徳信(国頭)、久場川豊太郎(国頭)、久場川恒永(国頭)酒類商、久場徳三郎(国頭)、久高将生(中頭)、神谷清助(島尻)、神谷隆清(島尻)鉱油所、嘉手川東栄(国頭)、嘉陽宗光(中頭)

嘉数太郎(島尻)、嘉数三郎(島尻)鉄工所、嘉手苅東久、神里勇行(島尻)トタン工場、神谷蒲吉(島尻)鉄工所、我如古盛永(島尻)、嘉数亀蔵(島尻)、嘉数明光(中頭)、嘉数三次郎(島尻)、神山木啓(中頭)運搬業、神谷武助(中頭)、与儀實正(島尻)職工、与古田稚紹(宮古)薪炭商、吉原蒲おお一(宮古)鉄工所、与那嶺孫四郎(国頭)製鋼所、米須清亀(中頭)、吉本善幸(島尻)、与那嶺盛輝(中頭)、与儀實栄,世名城盛保、与那城盛仁(中頭)鉄工所、与名信栄(島尻)運搬業、与那嶺信一(那覇)商業、与那城正進(国頭)雑木商、平良源政(国頭)製材所、平良孝次(国頭)製材所身、玉城蒲(島尻)、玉寄長重(島尻)造船所、高江州次郎(中頭)鉄工所、高江州義武(国頭)製材所、平良三郎(島尻)、玉城亀(島尻)、平良盛吉(国頭)、澤岻安道(国頭)、澤岻安栄(国頭)、澤岻安通(国頭)鉄工所、玉寄亀助(島尻)、玉城嘉眞、玉寄松助(中頭)、高里良生

玉木義雄(首里)、平良明幸(宮古)、玉城幸栄(島尻)練炭所、玉城牛一(島尻)、玉城松寿(島尻)鋳物工場、玉寄長英(中頭)、平良仁幸(中頭)、玉城幸俊(国頭)、平良千代次(国頭)、玉城敏清(国頭)、平良善造(国頭)、玉城幸信(国頭)、玉城恒一(島尻)写真業、高江州次郎(中頭)行商、玉城正光(島尻)鉄工所、棚原良正(中頭)、玉城彌助(国頭)、玉城啓正(国頭)製材所、田島亀吉(島尻)鋳物工場、田港朝福(国頭)商業、平良良栄(中頭)、祖堅加那(国頭)、津波久太郎(国頭)大工、津波時太郎(国頭)、津嘉山朝信(島尻)、瑞慶覧長眞(島尻)、根路銘安徳(中頭)、長田亀助(島尻)鋳物工場、長田浩(島尻)鋳物工場、仲宗根松(中頭)練炭工場、仲宗根四郎(島尻)製鋼所、中村清之助(国頭)製材所、仲村唯夫(島尻)、仲宗根平三郎(国頭)、仲泊栄久(島尻)伸銅所、仲宗根蒲吉(中頭)、仲嘉盛保(島尻)、仲尾眞静(国頭)商業


宮城源清(国頭)米穀商□1987年7月16日『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」<14>□宮城ユキ(93歳)ー今帰仁サンタケ生まれ、兄弟に県視学、医師二人がいた。夫は羽地我部祖河生まれの宮城源清。源清が早稲田大を卒業し渡米、ユキは呼び寄せでロサンゼルスへ渡った。6年間で沖縄で借りた負債を返し帰沖。すぐ大阪へ。照屋源徳らと米穀店を大正15年に開店する。宮城清市は昭和5年、宮城源清、津波久太郎、宮城源一、翁長良孝、古我知昌繁らと羽地村人会を発足させた。

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1902年1月 丸善株式会社『學燈』「十九世紀に於ける欧米の大著述」
1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館

1938年9月 木村毅『小説研究十二講』新潮文庫/1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館〇甘藷傳來記・・・ところで種子島は琉球に近い。その頃の琉球は、まだ日本の領土ではなく日清両属と申して、支那を父とし、日本を母とすと云って両方についていた國であります。幕府は鎖国して、外国とは往来せぬ建て前になっていますから、琉球の監理は鹿児島の島津家に任せた。種子島弾正久基は先に申す通り、島津家の家老職をつとめている上に、距離が近いから、琉球とはゆき來がある。その中に、甘藷が大変に結構なものだといふことを聞いて、琉球の王様に願はくばその種子を少々贈って頂きたいと云って無心をしてやりますと、竹籠に入れて贈ってきました。これが元禄11年3月でありました。これを種子島久基は西村権右衛門といふ者に云ひつけて、植えてみよと命じた。この西村権右衛門は、明治時代の儒者として聞え、又大阪朝日新聞の主筆をしてをられた西村天囚博士の遠い先祖であります。/鎮西八郎為朝ー南海の琉球列島、その中心をなす沖縄!これを思ふて血の湧き立たぬ者が、皇国一億同胞の中に、只の一人でもあるでありましょうか。戦争中沖縄県民の奮戦ぶりを讃えて、先頃徳富蘇峰先生が『さすがに源為朝の子孫だけの事がある。鎮西八郎の血に耻じないものだ』といふ事を書いてをられた。・・・

1948年7月 木村毅『小説の創作と鑑賞』暁書房
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
○日本の新聞史の材料も、国内にあるかぎりは、小野秀雄氏を主軸として何十年にわたる努力の累積で、九分九厘までほり出されたといってよかろう。オランダ関係の史源は板沢博士によって、かなり明かにされてきている。これに反しアメリカは、英語だから、着手できる人が多いにかかわらず、その史源がほとんど処女地のままで、うっちゃらかしになっているように思う。 
日本の新聞の元祖は、ジョゼフ彦である。彦は自伝があり、さらに故人の石井研堂翁や小野氏によって、まだ生存していたころ、未亡人までたずねて、埋もれた資料が開発せられたので、あそこまで探索されておれば、吾々はその努力と成果に一おう満足せねばならぬ。(略)明治維新や、さらに咸臨丸の太平洋横断よりも、更にさかのぼって、ペリイの黒船来航以前のジョン・万次郎やジョゼフ・彦時代から、新聞記事をあさってくれば、今まで不明だった国史の陰影が多少ともうかび出てくるであろうし、ことに彦は、その後ワシントンにいってからも、社交界の寵児としてひどく新聞でさわがれているのだから、これらの記事だけは、誰かによって、コピイされて、日本におくられることを希望してやまない。
1955年6月『明治文化全集 月報№5』木村毅「櫻洲山人をめぐりて」
○本全集の読者は、だいたいアカデミックな学風を愛する人が多いと思う。そういう人は正史にこだわって、小説や、巷説や、伝聞を無視するうれいがある。しかし、それにも時代の雰囲気としての正しさは含蓄されている筈だから、これを参考にしないでいい理由はない。中井桜洲山人などは、ことに、その方面の材料の多い人物だ。(略)あの頃の風流人のならいで、桜洲の家庭は吾々の模範になるようなものではなかったと思うが、私は、この人の風格は非常にすきで、いつか一度小説にかいてみたいと思って、前に、いろいろ材料をあつめたことがあったが、今は多く散逸してしまった。
1982年6月 木村毅『日米文学交流史の研究』恒文社「第25章 アプトン・シンクレェアの『ジャングル』」

きむらき【木村毅】
1894‐1979(明治27‐昭和54)
大正・昭和期の小説家,評論家。明治文学研究の先駆者。岡山県に生まれる。1917年早稲田大学英文科を卒業し,隆文館,のち春秋社で編集者として活躍するかたわら評論活動をする。23年退社し,近代小説の理論的研究を行う(《小説の創作と鑑賞》1923,《小説研究十六講》1925)。一方,24年には日本フェビアン協会の創設に参加し,日本労農党の出版部長を務める。また明治文化研究会に入り,第3代会長となる(1948)。(→コトバンク)


1969年2月 木村毅『丸善外史』丸善社史編纂委員会 「内田魯庵」

『丸善ライブラリーニュース』

 70年代、大阪で「沖縄関係資料室」を手伝っていたので、何故か手元に『丸善ライブラリーニュース』がある。№100に甲斐清通「ライブラリーニュース思い出の記ー100号を記念して」が掲載□おわりにーライブラリーニュースの生い立ちは、前述のように学校図書館を背景に育ったものであるが、ニュース100号の編年史のうち、日本の図書館や産業界、ビジネスの社会、個人の書斎と毎号趣向を替えて特集を組むうちに、すっかり読者の層も幅が広くなり、特に73号の個人情報整理の特集号あたりから、自他ともに許す「情報誌」に変身し、個人はもとより、ジャーナリズムやマスコミの脚光をあびるまで成長したことである。世はまさに情報化時代、公共、大学、専門、学校、その他、すべての図書館や文化施設がお互いにネットワークを組み、情報や資料の交換をやり、市民にサービスする時代である。

 1958年に創刊した丸善刊行の図書館に関する総合情報誌『丸善ライブラリーニュース』が、1989年の休刊から18年ぶりに、2008年に復刊する。

現在の発行は丸善雄松堂株式会社(まるぜん ゆうしょうどう。英: MARUZEN-YUSHODO Company, Limited)は、日本の大手書店、出版社、専門商社である。文化施設の建築・内装、図書館業務のアウトソーシング等も行い、幅広い業務を手がけている。大日本印刷の子会社である、丸善CHIホールディングスの完全子会社である。(ウィキ)

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平山郁夫 ひらやま-いくお
1930-2009 昭和後期-平成時代の日本画家。
昭和5年6月15日生まれ。前田青邨(せいそん)に師事。院展に出品,昭和39年日本美術院同人となる。シルクロードを取材旅行し,仏教東漸などをテーマにした作品を発表。48年東京芸大教授,平成元年学長,13年2度目の学長につく。10年文化勲章。国内外の文化財の保護につくし,16年朝日賞。平成21年12月2日死去。79歳。広島県出身。東京芸大卒。作品に「入涅槃(ねはん)幻想」「雲崗盧遮那仏(るしゃなぶつ)」など。(→コトバンク)

○わが古里・粟国とは全く関わりはないが、川に宿泊した玄奘たちは、翌日川を渡り、南へゆくこと四十里にしてついに阿耆尼国(カラシャール)の王城に着いた。阿耆尼とは「境の国」の意とも、「火(サンスクリット語のアグニ)」の意ともいう。すでに地域はまったく胡語の世界であった。阿耆尼の旧名は焉耆である。→2010年4月 前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』岩波新書。インド神話の火神にアグニというのが居られたが、現在ではアグニVと云うミサイルの名前となって嫌われ者となった。そのミサイルは2012年4月19日にインド東部のオリッサ州沿にあるWheeler島(英語版) において打上げ試験が実施され成功したとされる。(→ウィキペディア)

以前、薬師寺で平山郁夫画伯作「大唐西域壁画」を見たことがある。その平山画伯は被爆者であるが被爆体験を絵にしたのは被爆から34年後の作「広島生変図」、画面の殆どが真っ赤な炎で占められ左上に憤怒の不動明王が現れている。






1998年1月 平山美知子『道はあとからついてくるー「家計簿」にみる平山画伯家の足跡』主婦と生活社
1998年11月 平山郁夫『絵と心』読売新聞社
○科学技術が進めば効率が上がり生活が向上する。しかし、核エネルギーのように、軍事的に利用すると、破壊力が強大なだけにいまだもって人間には制御が困難なものもある。(略)日本は、今一度、この失いかけた真善美や自然の摂理を再認識して、しっかりとした日本のグローバルな目標を示せば、世界は日本を認め国際信用が高まるだろう。豊かになって、心が貧しくなった我々日本人を、恥ずかしいと反省することからすべては始まるのではないだろうか。

公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館
1988年.平山郁夫,鎌倉にシルクロード研究所を創設.1993年4月.平山郁夫,シルクロード研究所を正式設立.1999年7月.平山美知子、八ヶ岳南麓(JR甲斐小泉駅前)に「八ヶ岳シルクロードミュージアム」開館.2003年11月.シルクロード研究所を母胎として、財団法人平山郁夫シルクロード美術館を設立.2004年4月.「八ヶ岳シルクロードミュージアム」を「平山郁夫シルクロード美術館」に改称.7月.JR甲斐小泉駅前に新展示棟完成(現平山郁夫シルクロード美術館本館).2007年.山梨県指定美術館に認定.10月.2006年10月に財務省の認可を受けた指定寄附(「財税第377」号)により、新館増築工事開始.2008年3月12日.所得税法施行令第217条第1項第3号カ及び法人税法施行令第77条第1項第3号カに掲げる特定公益増進法人の認可を受ける.7月12日.新館開館.2010年6月29日.公益財団法人としての認定を受け、法人の名称が「公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館」となる。

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2018年7月24日ー新城あけみ


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎、敬輔。号は敬宇。江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。→ウィキ


西国立志編 : 原名自助論』11冊、斯邁爾斯著、木平謙一郎、明治4年9月
サミュエル・スマイルズ 『自助論』 の翻訳。
『改正 西国立志編 : 原名自助論』 斯邁爾斯著、七書屋、1877年2月



『西洋事情』福沢は江戸幕府の命により1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年(慶応2年)に初編3冊を刊行した。翌年の1867年(慶応3年)再びアメリカへ渡り、その後1868年(明治元年)に外編3冊を、1870年(明治3年)2編4冊を刊行している。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及び、それぞれについて個別に紹介している。例えば政治については政体が君主政、貴族政、共和政の三種類の政体に区別され、イギリスではこれらの政体を組み合わせていると記している。さらに文明国の六つの要訣について列挙しており、それは法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、技術文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済することであると論じる。また外交についても、通商や婚姻によって君主間の関係を構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基づいて大使が相互に派遣されるという外交の制度が紹介される。このように、当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を数多く紹介している。→ウィキ

1980年3月 別冊太陽『慶應義塾百人』平凡社

 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。

1893年9月15日『琉球新報』創刊 
 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。


1901年(明治34)2月5日『琉球新報』「福澤翁逝去 福澤諭吉昨夜死去、八日午后一時葬儀(二月四日午前十時五十五分東京發)」



1901年(明治34)3月3日『琉球新報』大田朝敷○松田橋での壮士俳優義有団一座の「実録慶應義塾教育勅話書生之亀鑑」の新演劇を観て、3日に亡くなった福沢諭吉について、「慶應義塾らしき所福沢先生の精神が微塵も見へない」(「松田橋の新演劇」)と感想を述べる(伊佐眞一)


福沢諭吉誕生地ー大阪市福島区福島一丁目1 玉江橋北詰すぐ
 天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。→1977年3月『大阪春秋』谷口佳以子「福澤諭吉誕生地と雙松岡跡」



1927年 『エリア随筆集』國民文庫刊行會
エリア随筆 エリアずいひつEssays of Elia, The Last Essays of Elia
イギリスの随筆家 C.ラムの随筆集。第1集 1823年,後集 33年刊。そのほとんどは 20年創刊の『ロンドン・マガジン』に発表されたもので,作者自身の体験を中心に,人事一般についての回想や省察を,絶妙なユーモアにしみじみとしたペーソスを交えながら,独特の文体で綴っており,イギリス随筆文学中の白眉とされる。 →コトバンク

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 1963年10月 福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』垂水書房で1964年、読売文学賞受賞。1963年、「英文学を基盤とする随筆一般」の活動に対して日本芸術院賞受賞し、1964年に日本芸術院会員となる。1968年には文化功労者として表彰。1968-69年には『福原麟太郎著作集』(研究社出版)が刊行。


左ーヘイズリット・筆『ラムの肖像』(ウィリアム・ヘイズリット(William Hazlitt、1778年4月10日 - 1830年9月18日)は、イギリスの著作家、批評家、随想作家)/右ー福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』

2016年8月7日 おもろまち


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 記録は記憶を甦生する。トマトの成長過程記録写真495枚を見ると、32年前の撮影時の 庭先やトマトや私自身の様子が鮮明に甦る。生命の戴きの時とお返しの時。トマトの一生を 9点に絞り筆で描いた。祈りのテーマでもある定点PRAYERシリーズから「トマト」を発表。


写真左から、玉城徳正氏、久貝清次氏、本徹也氏


2015年12月22日 市民ギャラリー「『戦後70年オキナワ』久貝清次展」

久貝清次氏→ここをクリック「久貝清次ウェブ美術館

2015年12月24日『琉球新報』「あしゃぎー記録写真の現場を描くー久貝清次さん  東京の百貨店でデザイナーをしていた1970年~71年、丸坊主から髪もひげも伸ばしっぱなしにして1年間、毎日、同じ構図、服装で写真を撮り続けた。周囲の波紋とともに面白がられ、新聞、週刊誌、テレビで時の人になった。・・・・」


1970年9月23日『朝日新聞』「体験的長髪論」



1971年
10月『アサヒグラフ』/12月『話の特集』



1972年
2月『少年サンデー』/3月『中学三年コース』


1972年7月『アサヒ芸能』「女と仕事に抜群!ヒゲがあなたを行動派にする」/1970年12月『現代』「ヒゲ自慢サラリーマン大集合」

1975年1月23日日『日刊スポーツ』「太平願いまーす」


1975年1月26日NHK

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 創刊1934年(昭和9)1月。創刊以来、古今東西のあらゆる書物や、古書探求にまつわる人々の話題を、研究的にまた読んで楽しい随筆として掲載してまいりました。各地で発行された知られざる特殊文献の紹介、古書即売会などイベントの情報、書物に関した展覧会情報などのコーナーも喜ばれています。→日本古書通信社
□1960年に琉球放送を定年退職した國吉眞哲は琉球学の本の蒐集活動に力をいれた。定期購読をしていた『日本古書通信』(1962年12月)に「二つの『ふるさと』河上博士と伊波氏」と題して、河上肇の自筆影本『ふるさと』を入手した経緯を書いている。1963年3月の『日本古書通信』には「戦前の那覇市は人口6万、書店3軒、古書店1軒、映画館2館という、もの静かな町でしたが、戦後は人口23万、書店70余、古書店2軒、映画館15と膨張しました。現在の沖縄は消費一辺の街として島全体がごったがえしています。東京の立川基地付近とホンコンをくっつけたようなところでしょうか。文化人や芸能人が、ここ2,3年多数来ています」と書いている。

全国の古本屋から国吉翁に送られてきたハガキ

國吉眞哲の琉球放送時代の部下に真栄城勇が居る。真栄城も國吉同様コレクターで切手がメインだが新聞・雑誌からチラシ・ビラ何でも蒐集する。そのコレクションを整理し、2001年に『沖縄がらくた文化ー品々が伝える、あの時、その頃』を沖縄マリン出版から発行した。それが切っ掛けで沖縄コレクター友の会が発足し真栄城は初代会長に就いた。

1963年7月 『日本古書通信』通巻408号 山宮允「詩書蒐集の思い出」/柴田宵曲「雑書雑読の楽しさ」/森銑三「娯息斎詩文集の著者」/「長谷川伸著書目録」/井荻艸房主人「文士雅号の由来(7)」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」/「訃報 伊藤一男 長谷川伸」/1960年7月 『日本古書通信』別冊1号 

1963年8月 『日本古書通信』通巻409号 庄司浅水「わが愛書の記」/小田切進「近代文学館の構想」/沢田伊四郎・森谷均「限定本 豪華本 本づくり30年」/井荻艸房主人「文士雅号の由来(完)」/「近代文学研究書 時価目録」/「訃報 山之口貘」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」

1963年8月 『日本古書通信』通巻409号 庄司浅水「わが愛書の記」/小田切進「近代文学館の構想」/沢田伊四郎・森谷均「限定本 豪華本 本づくり30年」/井荻艸房主人「文士雅号の由来(完)」/「近代文学研究書 時価目録」/「訃報 山之口貘」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」

1963年9月 『日本古書通信』通巻410号 西田長寿「明治新聞雑誌文庫」/市古貞次「国書総目録の編纂に加わって」/津田きよし「大阪古書組合創立40周年を迎えて」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」
 
1963年10月 『日本古書通信』通巻411号 丸山信・樋口秀雄「書物関係展覧会一覧(1)」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」
1963年10月 『日本古書通信』別冊2号
1963年11月 『日本古書通信』通巻412号 丸山信・樋口秀雄「書物関係展覧会一覧(2)」/「訃報 ジャン・コクトー 渋沢敬三」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」

1963年12月 『日本古書通信』通巻413号 大久保利謙「憲政資料室」/渡辺宏「マルコ・ポーロの旅行記」/「今年の古本界」/木村毅「時の人・時の本 サニエル著 日本とフィリピン」/丸山信・樋口秀雄「書物関係展覧会目録一覧(完)琉球と薩摩の文化展覧会目録」/天野敬太郎「最近の書誌圖書関係文献」

1983年5月 『日本古書通信』通巻646号 朝倉治彦「人と日記/イギリス公使館・東禅寺詰日記」/佐藤良雄「『仏蘭西文學研究』第一号のひとびと」/服部清道「少雨叟のこと その他」/中村幹夫「藤村の逸文」/御荘金吾「南米古本屋談義(3)ーブラジルの古本事情」/「木俣修 著書目録」/アン・ヘリング「続・縮緬本雑考(7)」/上村直己「『独逸學協会雑誌』及び『學林』について」/「変貌続ける神保町」/小梛精以知「古本屋人脈記(2)一誠堂の巻(下)」/「専門店と語る/野本孝精氏ー紙クズ、珍品のデパート アベノスタンプコイン社」/深井人詩「最近の書誌圖書関係文献」/「柴田宵曲翁日録 抄(23)」/「訃報ー英美子、近藤真柄、戸川猪佐武、尾崎一雄、平尾幸豊、高垣眸、木俣修、本誠二郎、高尾彦四郎」

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1966年2月7日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<1>ー有島生馬画伯①、東郷青児画伯②、中村琢二画伯」
有島生馬
洋画家・小説家。神奈川県生。小説家有島武郎の弟、里見弴の兄。名は壬生馬、別号に十月亭。東京外大卒。洋画を藤島武二に師事し、二科会を創立したが、抽象派に反発してのち一水会を創立した。「白樺」の創刊に加わり、小説には『蝙蝠の如く』『嘘の美』などがある。また翻訳・美術随筆にも腕をふるう。芸術院会員。文化功労者。昭和49年(1974)歿、91才。

1966年2月8日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<2>ー森田元子画伯、中村善策画伯、吉井淳二画伯③」

1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
②東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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『吉井淳二自選展』1981年 毎日新聞社
③吉井淳二 よしい-じゅんじ
1904-2004 昭和-平成時代の洋画家。
明治37年3月6日生まれ。昭和元年「花と女」で二科展初入選,15年二科会会員となる。40年「水汲」などで芸術院賞。44年「浜辺の井戸」で二科展内閣総理大臣賞。51年芸術院会員。54年-平成10年二科会理事長。平成元年文化勲章。写実的な画風で,働く庶民の群像をえがいた作品で知られる。特別養護老人ホームを開園するなど社会福祉にもつくした。平成16年11月23日死去。100歳。鹿児島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。(→コトバンク)


1966年2月9日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<3>ー水谷清画伯、島野重之画伯、田中繁吉画伯」
1966年2月10日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<4>ー荒谷直之介画伯、小堀進画伯、土田文雄画伯」

1966年2月11日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<5>ー楢原健三画伯、高野真実画伯、伊藤清永画伯④」
④伊藤清永は1911年(明治44)兵庫県下出石町下谷(しもたに)に生まれ、
日展と白日会を中心に活躍した文化勲章受章の洋画家です。 後年は、繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られています。 岡田三郎助の薫陶を受け、東京美術学校在学中の1933年第14回帝展に初出品、初入選。
1936年文展(文部省美術展)で選奨を受賞、白日会会員となり画家としての道を確立しました。
70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了しています。2001年6月5日軽井沢のアトリエで制作後急逝し、製作中の「ばら」数点が絶筆作品となりました。→豊岡市立美術館-伊藤清永記念館



1966年2月12日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<6>ー藤本東一良画伯⑤,成井弘画伯、浦崎永錫画伯」
⑤藤本東一良 ふじもと-とういちりょう
1913-1998 昭和-平成時代の洋画家。
大正2年6月27日生まれ。昭和14年光風会でF氏賞を受賞し,21年会員。日展で21年,22年連続特選,56年「五月のコート・ダジュール」で文部大臣賞。平成5年「展望台のユーカリ」で芸術院恩賜賞,同年芸術院会員となる。明快な色調で海の風景をえがく。平成10年9月17日死去。85歳。静岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。→コトバンク

1966年2月16日『琉球新報』「有島生馬氏ら来沖 写生旅行の大家17人」
1966年2月17日『琉球新報』「いちばん”悲しい日〟現代大家沖縄写生会戦跡地で感無量」
1966年2月19日『琉球新報』「沖縄を描くー有島生馬、東郷青児」
1966年2月21日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(1)高野真実」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(2)森田元子」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(3)吉井淳二」

1966年2月24日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(4)有島生馬」
1966年2月25日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(5)荒谷直之介⑥」

1966年2月26日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(6)土田文雄」

1966年2月26日『琉球新報』「”いい仕事ができた〟沖縄写生会の画伯帰る」
1966年2月28日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(7)田中繁吉⑦」
⑦田中繁吉ー日本画家。明治31年(1898)福岡県生。東美校卒。藤島武二に師事する。創元会常任委員・日展参与。東京住。

1966年3月1日『琉球新報』「沖縄の風物 現代大家洋画展ー荒谷直之介⑧、森田元子⑨、有島生馬、楢原健三、中村琢二、土田文雄⑨、浦崎永錫、藤本東一」/沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(8)小堀進」


荒谷直之介 あらたに-なおのすけ
1902-1994 大正-平成時代の洋画家。
明治35年5月11日生まれ。葵橋洋画研究所で黒田清輝らにまなぶ。光風会,日本水彩画会に出品。昭和15年昭和洋画奨励賞。同年水彩連盟を創立。18年みづゑ賞。21年一水会会員となる。日展評議員,参与をつとめる。平成6年2月18日死去。91歳。富山県出身。作品に「三人の像」「憩う裸婦」など。 →コトバンク

 ⑧土田文雄 つちだ-ふみお
1901-1973 大正-昭和時代の洋画家。
明治34年2月22日生まれ。大正7年川端画学校にはいり,藤島武二に師事する。10年院展に初入選。梅原竜三郎に傾倒して,15年から国画創作協会展に出品し,昭和18年国画会会員となる。29年武蔵野美大教授。昭和48年2月22日死去。72歳。山形県出身。米沢中学卒。作品に「海浜の朝」など。 →コトバンク

⑨森田元子ー昭和期の洋画家 女子美術大学教授。 生年明治36(1903)年2月11日 没年昭和44(1969)年8月12日 出生地東京・青山 学歴〔年〕女子美術専門学校洋画科〔大正13年〕卒 主な受賞名〔年〕岡田賞〔昭和21年〕「婦人像」 経歴岡田三郎助に師事して室内女性像を数多く描き、昭和2年に官展初入選後、官展系画家として地歩を固めた。女子美在学中に「主婦の友」の表紙懸賞に入賞、川端康成、大岡昇平、源氏鶏太らの現代もの新聞小説の挿絵も担当。また女子美大教授として後進の女性画家を育てた。→コトバンク

1966年3月3日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(9)成井弘」
1966年3月4日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会 中村琢二」

1966年3月7日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(11)島野重之」
1966年3月8日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(12)楢原健三」
1966年3月9日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(13)藤本東一良」
1966年3月10日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(14)伊藤清永」

1966年3月11日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(15)水谷清」


1966年3月3日『琉球新報』現代大家沖縄写生会の産婆役ー浦崎永錫□複雑な人間関係の画壇事情にもくわしい。各美術団体の代表者格そろって、取材旅行ーという初の試みであった「現代大家沖縄写生会」も、浦崎氏の美術界での政治的力量のほどを示したものといえる。那覇市出身、六十五歳。

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 『沖縄タイムス』2021年3月16日 県出身で米国コネティカット州在住の文学博士、山口栄鉄さんが10日、肝臓がんのため死去した。1938年那覇市生まれ。欧米人による日本・琉球に関する文献史料を研究し、「欧文日本学・琉球学」を提唱。3月15日21時半、タイムス学芸部記者から☎「栄鉄さん、連絡取れない」。


1982年9月 沖縄の雑誌『青い海』116号 山口栄鉄「海外沖縄便りー幸地東風翁/移民一世の死」

2016年12月16日 バジル・ホール来琉200周年記念碑除幕式が、那覇市の泊緑地で開かれた。関係者が集まって記念碑の建立を祝い、今後も沖縄とイギリスなど、海外との交流が深まることを期待した。

写真左から渡口彦邦氏、宮城宏光氏

写真左から嘉数昇明氏、緒方修氏、山口栄鉄氏、安仁屋眞昭氏








2016年12月30日『琉球新報』 <金口木舌>バジル・ホールの碑の前で
 那覇市の泊外人墓地に「WM HARES」と記された古い墓がある。西洋人として初めてここに葬られた英国人水兵の墓だ。一度改修されたが「1816」の刻銘が建立年だ
▼200年前、琉球を訪れたバジル・ホール英艦隊一行の一員ウィリアム・ヘアーズが21歳で病死した。琉球側は泊の松林に埋葬し、豚をささげ、ウチカビを燃やした。手厚い葬儀に英国側は感銘を受けた
▼ホールは帰国後、約40日間の滞在を「朝鮮・琉球航海記」として出版し、美しい自然や穏やかで礼儀正しい琉球人を称賛した。本国への帰途、ナポレオンと会い「武器のない島がある」と報告し、彼を驚かせたという逸話は有名だ
▼ホールの本を読んで琉球を知ったペリーは37年後、那覇沖に姿を現す。「武器のない島」はその後、日本に組み込まれ、米国との戦場にまでなった。最悪の武器である核や化学兵器も置かれ、ベトナムや湾、イラク戦争への出撃基地と化した
▼西洋に初めて琉球を紹介したホールの功績をたたえる記念碑が今月建立された。場所は彼らが上陸した泊の公園だ
▼碑の前に立つ。日米からの外圧が増す中、理不尽な島の現状を考える。200年前、戦とは無縁だった島は、戦争好きな権力者に翻弄(ほんろう)されるようになった。平和外交を求め続けた先人たちの姿を思うと、未来を諦めるなとの声が聞こえる気がした。

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宮里千里氏を紹介する瑞慶覧長敏氏/宮里千里氏と対談する高野孟氏

2016年12月26日(月)16時より、ブックカフェ『ゆかるひ』(那覇市久茂地)にて、沖縄民俗祭祀採音者の宮里千里氏を講師にお招きし第24回世界友愛フォーラム定例勉強会「琉球の祭祀音源とアジア周辺の音」(主催:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター)。


高野孟氏に『琉文手帖』を贈る/1992年1月 高野孟 編『マフィア経済の生態』東洋経済新報社


2014年10月 鳩山友紀夫、高野孟・他『東アジア共同体と沖縄の未来』(友愛ブックレット)

○進藤榮一-共通のリスク/1997年から98年にかけて勃発したアジア通貨危機です。1997年7月2日、ちょうど大英帝国が99年間の植民地統治を終わらせて、香港を中国本土に返還したその日をねらい打ちするかのように、米欧の機関投資家、ヘッジファンドが動き始めます。タイの通貨バーツを大量に買い続けた後で、一気に売り浴びせます。タイガーファンドやソロたちが、バーツの売りと買いを繰り返して、巨額の富を稼ぎ出したのです。(略)IMFは貸し出しに応じますが、条件として貸出国、特に韓国に対して経済構造改革を求めます。そして結果として外国資本、特にアメリカ企業が参入しやすい条件を呑ませたのです。その構造改革が、今日の米韓FТAに繋がって、韓国経済のアメリカ化とでもいうべき悲惨な状況をつくり出しています。いわばアジア通貨危機を契機に、アメリカ流のカジノ資本主義のリスクが、成長するアジア市場をめがけて、襲いかかってきたのです。

○高野孟ーサンフランシスコ平和条約の本質は占領の継続である。(略)天皇は、日本は無防備だから独立後もアメリカに守っていただきたい、そのために沖縄を差し出しますという提案をし、なおかつ、そのことはサンフランシスコ講和条約そのものには書き込まずに、別途の租借条約のようなものを作った方がいいというところまでマッカーサーに提案した。私は昭和天皇っていうのはすごい政治家だと思いますけど、実際その通りになって、サンフランシスコ講和体制の下での日米安保条約とその実体をなす日米行政協定、今日の日米地位協定という戦後日本の骨格が出来上がった。そのまま占領体制をむき出しにして独立を公言する訳にもいかないし、安保条約という包み紙だけではアメリカ一本やりになってしまう。さらに丁寧にサンフランシスコ講和条約という風呂敷で包んで見せたということであって、本質は占領の継続です。

○高野孟ー安倍政権の「新・富国強兵」/安倍首相を突き動かす、おじいさんコンプレックスーその安倍さんを突き動かしているのは、専らおじいさん、信介へのコンプレックスだと思います。あの人の口から、お父さん、安倍晋太郎元外相の話は一切出てこない。こんな飛ばし方もひどいんじゃないか、もうちょっとバランスを取ってもいいんじゃないかと思うくらい、ひたすらおじいさんに傾いていく。結局、安倍さんの歴史観・国家観はそこに行き着いていくんじゃないか。満州国を作ったのは信介です。あれが中国侵略なんかであったはずはないと、安倍さんは思っているんでしょう。そしておじいさんは、東条内閣の一員として大東亜戦争を戦いました。あれが尊い戦争でない訳がないじゃないかと、安倍さんは思っているのでしょう。そしてまたおじいさんを戦後GNQが極東裁判にかけようとして、3年間巣鴨プリズンに放り込みましたけれども、幸いにCIAとの妥協が成立したのかどうか、裁判にはかけられなかった。しかしおじいさんを危うく戦犯で絞首刑にしようとした極東裁判なんて間違っていると思っているに違いないのです。

◇高野孟1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。94年に故・島桂次=元NHK会長と共に(株)ウェブキャスターを設立、日本初のインターネットによる日英両文のオンライン週刊誌『東京万華鏡』を創刊。2002年に早稲田大学客員教授に就任。05年にインターネットニュースサイト《ざ・こもんず》を開設。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。→「まぐまぐ!」



○孫崎亨ー去年2013年の12月13日に、天皇陛下が80歳の誕生日を迎えられました。そしてそこでお言葉を述べられたわけですけれども、このようにおっしゃっています。「戦後連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作り、様々な改革を行って今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を建て直し、かつ改善して行くために、当時のわが国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。」(略)NНKニュース・NНKのニュース資料では、この「平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作った」というところを省いています。外国の報道機関はここをわざわざ取り上げて、天皇陛下はそう言われたと報道ー。

 2012年5月15日ー地元紙を見ると、NHKもそうだが相変わらず「識者」と称する人物たちに発言させてお茶を濁らしている。記者は自分の問題として識者の見解も参考にして、戦後このかた「基地」問題で揺れ、なお「安保容認」チジを生み出している根幹は何なのかを追及し県民に分かりやすく解説してほしいものだ。前に書いたが「また鳩山元首相が来るのを問題視するマスコミがあるが、そんな枝葉のことよりも消費税の野田首相にこそ問題視してほしいものだ」と強調した。地元紙は相変わらず「カジノ」「消費税」なども通信社記事をせっせとたれ流している。特に「消費税徹底議論せよ」とか「カジノ誘致 全国で過熱」とはエロ雑誌顔負けだ。ま、最近は広告にもエロ的広告が目につくが。密約復帰40年というのに、新聞報道が少しも変わり映えしないから必然的に余生を沖縄で過ごしている(?)岡留氏のブログをつい見てしまう。

岡留氏のブログ□鳩山氏に対する大手メディアの論調はまさに変人扱いだが、少なくとも普天間基地の県外・国外移設を堂々と主張した総理は初めてである。今や、仲井真知事を含めて沖縄県民の8割が県外移設を主張しているが、その先鞭をつけたのは鳩山氏なのだ。鳩山氏はイラン訪問でもバッシングされたが、鳩山氏は民主党外交担当最高顧問という肩書で、米国が敵視するイランとの融和で動いただけのことである。日本はイランとは石油で大きな取引関係があるだけに、米国の道ずれでイランとの関係を断つよりもはるかに国益にかなうのではないのか。米国の意向を汲む政治家、官僚、メディアこそが鳩山叩きの元凶なのだ。

その日の夜は、インターネットTV「ニコニコ生動画」が沖縄にやってきて、ラジオ沖縄のスタジオから全国に放送された。復帰40年で、現地から沖縄問題を語ろうという画期的な試みだ。(略)当日の県と国が開催したコンベンションセンターの式典の模様を批判的に取り上げつつ、基地問題を語る。「ニコ生」にしては硬派すぎたかも知れないが。式典でもっとも印象的だったのは上原康助元衆議院議員が来賓の野田総理やルース駐日大使を名指しで、沖縄の基地の現状を手厳しく訴えたこと。美辞麗句の式典が一挙に暗転したが、メディアの式典報道では上原発言はいずれも取り上げていなかった。

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1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』



1963年1月 『月刊沖縄』「はだかのインタビュー①比嘉良篤」
○・・・月刊沖縄の、西平守晴関西支局長がきた。大阪の県人有志が、集団就職できている若い人たちを、夜学にでも行かせようと、今、基金を作っているから、アドバイスしてくれーという西平氏の話には一も二もなく賛成した・・・。

1964年3月『オキナワグラフ』「座談会ー沖縄娘は働き者」(西平守晴・雇用主協会事務局長)


1964年7月『オキナワグラフ』「大阪沖縄県人連合会主催/第二回関西沖縄芸能祭(企画編成・西平守晴)」

1965年11月『オキナワグラフ』「大浜先生の栄誉を讃えてー勲一等を祝う大阪の会」

1966年 左側手前から喜納政泰、安里嗣副、比屋根有信、西平守晴、山端立昌、名嘉正成、翁長良孝

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1966年2月 『オキナワグラフ』(表紙・翁長千鶴子)「翁長千鶴子×西平守晴沖縄グラフ大阪支局長」「希望訪問・知ってもらいたい大阪の愛郷心ー翁長良孝氏」


○1969年11 『オキナワグラフ』「大阪のリーダー翁長良孝さん逝く」




1966年5月『今日の琉球』外間政章「ぺルリ提督の首里城訪問」

1966年6月『オキナワグラフ』「共感を呼んだ松岡構想」(大阪松友会事務局長)


1966年7月『今日の琉球』「ぺルリ提督の首里城訪問を再現」

1967年3月19日『サンケイスポーツ』「座談会ー働く沖縄青少年のために」(司会・西平守晴)
1967年




5月26日『琉球新報』「私費で『沖縄関係資料室』つくる大阪・西平守晴さん」/5月、沖縄八重山芸能公演会(西平守晴企画構成)

1968年6月『今日の琉球』「那覇商工祭を飾るぺルリ仮装行列」


1968年10月9日『沖縄時報』「大阪に沖縄関係資料室を開設」

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1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から外間盛安、仲嶺真助、安里貞雄/知念精吉、具志保男、天願保永/津嘉山朝吉、儀間真福、新里与旌
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」

1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」
1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」

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1969年10月3日『毎日新聞』「本土のなかの沖縄ー私設沖縄文庫」

1969年7月 『今日の琉球』亀川正東「アメリカ文学の話(107)死んだアプトン・シンクレアのこと」

1969年9月 チェンバレン著/高梨健吉訳『日本事物誌』(東洋文庫)平凡社
○日本語(Language)琉球列島で話されている姉妹語を除けば、日本語には同族語はない。/琉球(Luchu)土地の人はドゥーチューと発音し、日本人はリューキューと呼ぶ。琉球人は、民族と言語の点で日本人と密接に結びついている。しかし多くの世紀のあいだ両民族はお互いに交渉がなかったように思われる。

1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。
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1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
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1975年2月16日『沖縄タイムス』石原英夫「話題の広場/西平守晴ー離島の子供たちに文化の灯を」/6月23日石原英夫「がじゅまるの会」

1976年1月10日『サンデー沖縄』「沖縄資料室を開放ー西平守晴」

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写真ー左・息子と西平守晴さん
1978年4月 友寄英一郎『西洋史稿』琉球大学史学会○異国船琉球来航史ノート

1980年5月15日『朝日新聞』(大阪版)「西平守晴ー琉歌でつづる沖縄戦後史」

1982年6月、沖縄県人会兵庫県本部『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』(新城栄徳資料提供)

1980年11月『南島史学』第一六号
○室町幕府と琉球との関係の一考察・・・・・・・・・・・・・・・・田中健夫

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1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。


1981年ー第17回 沖縄県印刷人大会で、左端が西平守晴の従兄弟、西平守栄会長。隣が後の仲井眞知事

1982年2月『南島史学』第一九号
○原琉球語をたどるー鍬・蜻蛉・蚊などー・・・・・・・・・・・・・・・・・・中本正智
○奄美の民族に関する既刊文献の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下欣一

1982年9月『南島史学』第20号
○江戸時代の「琉球」認識ー新井白石・白尾国柱・伴信友ー・・・・・横山學
○ハワイ沖縄県人の団結力・・・・・・・・・・・・・・・・・・崎原貢



1984年9月『南島史学』第24号
○琉球の稀書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋正


1986年7月 ベイジル・ホール著/春名徹 訳『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫


沖縄都ホテルで新城栄徳と元沖縄都ホテル社長・桑原守也氏

1987年4月『南島史学』第29号
○続・琉球の稀書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋正


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