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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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三上 智恵 9月13日 いよいよ万が一の時の全島避難の住民説明会が与那国島で開かれた
まずは租納集落のみの説明会だが町内放送だけだったので20人ほどの参加しかなかった1700人余りがまずは徒歩で近くの集合場所へそこからバスで港が空港へまずは石垣へそれから九州へ
 ある畜産家の男性が言った町内旅行ですか?修学旅行計画みたいですねおやつはいくらまでですか?誰も笑わなかった続けて言ったそもそもなんで逃げるんですか?ここが危なくて九州が安全
その根拠を教えてください出席した町長や町の幹部は答えられずそもそも、島の安全のために
自衛隊を入れてミサイルも持ってくると説明しているのに結局ここが1番危険な場所になっている
おかしく無いですか?彼は詰め寄るが国の担当者もいない町内の説明会だけに不安と怒りは宙に浮いてしまう動画を撮影していたのはNHKだけで彼の質問は一切使われていなかった
 あと二つの集落ではこれから説明会がある胸が潰れるような話だ中国が怖い北朝鮮が怖い軍隊に守ってほしいと漠然と思っている大多数の国民の不安のエネルギーが軍事費となりお門違いの国防策になって国境の民の生活を襲っているこの構図をぶっ壊したい

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2002年ー沖縄県産本の集い(琉球朝日放送キャスター・三上智恵さん、中村一枝さん、島袋彩子さん)/写真左からRBCアナウンサー島袋彩子さん、新城栄徳、中村一枝さん(『琉球新報』「南風」にエッセイを連載中)
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 彼(仲井眞知事)はなにも、ひとり勝手に知事になったのではない。2006年には34万7303人が、2010年には33万5708人が、彼に票を入れているのだ。(略)そんな人物を選んでしまう見る目のなさについては、有権者の落ち度としか言いようがない。それはそのまま、この国を戦争に向けて転がしていく総理(アベ)を選び出してしまう日本国民の浅はかさと同じである。残念ながら、有権者の民度に見合う政治家しか選挙に当選しない。

 「大城敬人にいつも言うの。ダイナマイト持ってこいって、何するの、文さん?ダイナマイトでも腰に巻いて政府の前に行ったほうがいいんじゃないかって」これは映画の中での島袋文子おばあの台詞だ。/私は辺野古の海から天に向けて立ちのぼっていく龍のかたちをした雲を見た。文子おばあも、自分を乗せて天高く駆けていく龍を見たと話していた。
2015年6月 三上智恵『戦場ぬ止みー辺野古・高江からの祈り』大月書店 

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
 2019年9月13日『毎日新聞』危機である。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」で、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」が中止された一件だ。表現・言論の自由が脅かされる現実もさることながら、「慰安婦問題はデマ」という発言が飛び交う世相も相当に深刻だ。慰安婦問題研究の先駆者、吉見義明・中央大名誉教授に聞いた。【吉井理記】
 驚きました。 大阪市の松井一郎市長のことです。「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与して強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」(8月5日、記者団に)と発言しました。名古屋市の河村たかし市長も「強制連行し、アジア各地の女性を連れ去ったというのは事実と違う」(8月5日、記者会見)と言っている。 事実認識が間違っているし、慰安婦問題とは何か、分かっているとは思えない発言です。
 朝日新聞が2014年に「誤報」としたのは、戦時中の労使組織「労務報国会」の職員だった吉田清治氏(00年死去)の「軍隊とともに朝鮮(現韓国)の済州島で慰安婦狩りをした」という証言に基づく報道のみです。 私自身、慰安婦の徴募などへの日本軍の深い関与を史料で裏付けた1992年の「従軍慰安婦資料集」(大月書店)の解説でも、95年の「従軍慰安婦」(岩波新書)でも、最初から吉田証言は採用していません。
 一部の誤りを取り上げ、慰安婦問題全体をもなかったことにするのは、歴史修正主義者の典型的な言説です。

沖縄戦と日本軍「慰安婦」
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 那覇市歴史博物館に遊びに行き「2012年度・展覧会のご案内」を貰った。5月のところには「あれから40年~OKINAWAから沖縄へ~」がある。問題は次の「特別企画 沖縄戦と『慰安婦』展」である。あたかも沖縄県のカジノチジ周辺が「沖縄戦隠蔽」にピリピリ神経を尖らしているところに油をそそぐようなもので歴史博物館としては英断だと思ったが学芸員に聞くと、県の沖縄戦隠蔽問題が出る大分前、那覇市総務部平和交流・男女参画課と沖縄戦と日本軍「慰安婦」展実行委員会(高里鈴代代表)から博物館に展示場を申し込んだという。早速に沖縄戦隠蔽の県のほうから「どんな展示内容か」と問い合わせがあったが、学芸員は歴史的に意義があることなので貸したという。とにかく女性たちが動いていることが分かった。沖縄県は県内外から批判されると「慰安婦」「日本軍の住民虐殺」を削り専門家から批判された。下記のように県と同様ニコンサロンでも写真展がカルト右派により中止に追い込まれている。

「写真展ができなかった場合、東京でストリート写真展でも開きます」 日本、名古屋で制作活動をしている写真作家アン・セホン(41)氏は怒りが収まらないようだった。 彼は来月26日から7月9日まで東京、新宿の展示場「ニコンサロン」で写真展を開く予定だった。 展示される作品はアン氏が2001年から2005年まで7回にかけて中国を訪問し、撮影した朝鮮族元従軍慰安婦のおばあさんたちの写真38点だった。昨年12月、審査委員5人で構成された主催側選定委員会の審査で作品性を認められ展示が決定した。

だが、カメラメーカーであるニコンが運営する「ニコンサロン」側関係者は22日、アン氏に電話をかけてきて「展示が中止になった、理由は明かせない」と一方的に通知した。ニコン側は「名古屋に行って謝罪したい」と話しているが、アン氏は「単に謝罪のためになら来る必要はない。写真展を予定通り開催してほしい」と要求した。 ニコン側の突然の写真展中止は日本の右翼勢力による圧迫に屈服した結果だと思われる。アン氏の展示会が差し迫るとインターネット掲示板などには「歴史ねつ造に加担する売国行為だ」「外国の一方的な主張を代弁していいのか」などの非難コメントが相次いだ。 写真展中止に対してニコン側は「写真展開催と関連して(右翼勢力などから)抗議があったことは事実だが、中止は諸般事項を総合的に考慮して判断したこと」とだけ明らかにした。(中央日報)

□「ニコンサロン」は、ニコン創立50周年を記念して1968年1月に銀座三丁目に開設された、写真文化の普及・向上を目的とする写真展示場です。開設記念となる第1回写真展「木村伊兵衛の眼」を開催以来、写真の展示や講演会の開催など、多くの写真家・写真愛好家の方々に写真活動の場を提供してきました。その後1971年6月に「新宿ニコンサロン」、1974年3月には「大阪ニコンサロン」を開設、より幅広い写真活動の場として活用されています。プロ・アマの壁を取り払い、企業戦略に影響されず、あらゆる分野の優れた作品の展示場として写真展本来の姿を追求する「ニコンサロン」。(ニコンも企業だからカルト右派には弱い)

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「従軍慰安婦」資料
1984年12月 沖縄エッセイストクラブ『群星』山川泰邦「従軍慰安婦狩り出しの裏話」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1909年3月19日ー『沖縄毎日新聞』伊波月城「誓閑寺時代の回顧」(以って入社の辞に代ふ)9年前のことである。家兄が京都に行った後で、迷子同様になった自分は、当時國光社に居られた恩師田島隋々庵氏の京橋南小田原町の僑居に這入り込むことになった所が、元来閑静な所が好きな自分は、間もなく牛込は喜久井なる誓閑寺に、今の甲辰の校長東恩納氏と同居して自炊することになった。お寺に引越したのは8月の上旬である。日はよくは覚えていないが、恰度同郷の友人を誓閑寺の隣なる大龍寺の墓地に葬ってから2日目の夕暮れであった。お寺は浄土宗で、住職の外に、小学校に通う子供と仙台辺の田舎者だと云う婆さんがいた。その婆さんが住職の梵妻なので、住職より10歳も老けて見えた。自分は三畳の室をあてがわれた。室は南向きで風通しはよかったが、戸端から一間先に、墳墓が並んでいたのには、聊か閉口した。併し後では墳墓と親しむようになった。自分が今日墓畔を逍遥するを一種の快楽とするようになったのは詩人イプセンの感化ばかりでもないのである。10日位たつと当間浮鷗氏が其の親戚の外間氏と共に引越して来て仲間になった。それから間もなく諸見里南香氏が上京された。沖縄時論が解散したので、この10年間は郷里には帰れないといって居られた。南香氏は10日ばかりすると日本新聞の記者となられた。誓閑時は俄かに賑わったのである。
 8月中は、学校が休みなので、何れものんきに法螺を吹いて暮らしていた。朝は木魚の音と読経の声に目が覚める。総がかりで朝飯の支度をする。朝飯がすむと銘々で散歩に出かける。散歩から帰って来ると昼飯の用意に取りかかる。昼飯がすむと、下町の方に出かけるものもあれば、華胥の國に遊ぶのもいた。共同生活の快楽は一つ釜から飯を食べるということである。併し社会主義というものが、到底地上で行われるべきでないと思ったのはこの時である。一番戦闘力が強かったのは東恩納氏で、一番戦闘力が弱かったのは外間氏であった。外間氏は列強の略奪に遭って泣き出したこともある。浮鷗氏は此頃からの潔癖家である。東恩納氏は有名な無精者で、自分が座っていた2尺平方の掃除も碌にしなかった位である。南香氏は郷里で奮闘した結果、意気消沈してしまって、何らの特色も発揮しなかった。自分は其時からの酔漢で、5名のうちで酒屋の信用が一番重かった方である。
 木魚の音と読経の声は聞きなれると心持のよいものである。浮鷗氏が禅味を帯び始めたのもこの頃からであろう。自分が耶蘇に帰依したのも此頃である。誓閑寺時代は自分に取っては忘れることの出来ない時代である。今から考えて見ると誓閑寺の一隅は沖縄の社会の或る一部の縮図であった。9月になって皆下町の方に引越した。思えば昨今のことのようであるが、足かけた年になる。自分は依然たる呉下の旧阿の蒙である。
 毎日紙の発刊当時、自分は社友となって、いかがわしい翻訳物を出して世の物笑となって居る所に、去る15日の朝、當間氏から来て呉れとの手紙を受けて、早速いって見ると記者にするつもりであるが如何かとのことであった。自分は一人で決定が出来ないので、帰ってきて家兄と相談した後で承諾と云う意味の手紙を出した。所が文章一つ書けけない自分がどうして記者などになれる。家兄に聞くと君が平常使用している普通語で、君の思想感情を飾りなく、、偽りなくせんじつめて吐き出せ。形容詞も知らなければ知らないでいい。漢字も知らなければ知らなくてもいい。只だ耳障りにならないように書け、10年も書いたらいくらか物になるとのことである。自分は此教訓に遵って書くつもりである。
 新聞を起こして見ようということは誓閑寺時代から先輩諸氏が口ぐせのようにいっていたことであるが、10年後の今日この小理想は漸く実現せられて、自分までが編集室の一椅子を占めるようになった。さアこれから自分は、どういう方面に、どう働いたらよかろう?心配でたまらない。(をはり)
 ◇新宿区喜久井町61 亀鶴山易行院誓閑寺 深川靈嚴寺末
寛永七年靈岸嶋に起立、明暦大火後宗参寺領の内庚申塚に借地移轉。寛文六年七月喜久井町に移る。開山重蓮社本譽上人誓閑和尚、寛永二年五月十五日卒。舊境内借地二千百八十一坪、古跡年貢地済松寺領百三十三坪。境内に直径二尺六寸の大鐘があり、元和二年二月藤原兼長の作で、鐘銘に『荏原郡』と記入してあるので、史家の間に注意されたものである。書上に『境内小川あり、荏原郡と豊島郡との境なり、本堂のある方を荏原と云』とある。(「牛込區史」より)/夏目漱石は自宅すぐ近くの誓閑寺の鉦の音について、随筆「硝子戸の中」でふれている。今は近くに漱石山房記念館、草間彌生美術館。

1900年4月8日「東京・沖縄青年会ー平良保一君卒業記念」
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 〇伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。ちなみに外間現徳は前列左端、この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。私が最初にこの写真を紹介したのは1994年『沖縄タイムス』粟国恭子「末吉麦門冬」の8月8日。次いで1997年、那覇市文化局資料室の『おもろと沖縄学の父・伊波普猷ー没後50年』に収録した。


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1926年7月8日『沖縄朝日新聞』太田潮東「布哇の其の後」
□ヒロの滞在は悠々保養のつもりであったがヒロ市在留の県人もなを 席の宗教談でも聞きたいという希望があり、ホノムの佛教婦人会からも今一回講演して貰いたいと云う頼みが来たので、これも何かの因縁と思うて快く引き受け、この二席の講演は愈々お名残の講演であるから、多少趣きを加え金儲けと宗教を結びつけて話した。
 ハワイに来て居る人々の多くは何れも金儲けを目的として来たに相違ないが、さて佛教に於いてもキリスト教に於いても、その他の宗教に於いても、教壇から金儲けの話しをすることは余りしないようだ。ところが金と云う奴は実に重宝なもので、誰でもこれが嫌いなものは居ない。佛教の或る開教師がしこたま金をためて帰ったそうだが或る人がそれを難したら、その坊さん平然として曰く「佛と云う字は人偏に弗と云う字じゃないか」この坊さんの如きは寧ろ正直の方で、金に執着がないような顔をして居る宗教家中にも、その実内ふくのものが可なり居るようだ。
 要するに金を得たいというのは万人が万人共通の欲望だ。吾々の前に開けられている広い広い道は、只この欲望を満足する活動の為に開かれたかのように思わるる位いだ。ところがこの広い道には人の目に見えぬ陥穽もあれば深淵もあり所によっては毒蛇も居れば猛獣も居る。世の中には金儲けの上手と言わるる人が随分多いが、これらの人々は畢竟この危険極まる道の案内をよく知って居るのだ。
 陥穽や深淵をよけて通り、毒蛇や猛獣を避け、然も相当に欲望を充たし得るのがマア世渡り上手と言ってよかろう。世渡り上手と云へば一種狡猾なわるがしこい人間のように考えるものが多いようだがこの種の人間はうまく世を渡ろうが、儲け口にありつこうが、それは外面だけのことで内面に於いては常に四苦八苦で少しも満足を得て居ない。
 佛教に自利々他の覚行 云うことがあるが、ここに利と云うのは坊さん達に言わすと物質から離脱した精神的の利に局限されて居るが私はそうは見て居ない。詰まり二方に渉った自利々他である。自らも利し他も利する自利共利の道を求むる所に宗教もあり道徳もあるのだ。宗教家はややもすれば消極的にこの危険を避けようとする。殊に佛教徒中には禁欲を根本本義と考えて居るものが多いが、それは佛教の根本義を知らないからだ。
 これは私独創の見ではない、佛も一切法は観を根本と為すと説かれてある。欲を殺してしまったら活動はないのだ。既に活動がなければこの世界に生命と称すべきもののある筈はない、即ち世界の死滅だ。然もこの欲を充たす道は自らも利し他も利し自他共に利する所に佛教の眞精神は存するのである。危険を避けて安全に通られる世渡りの自道も此の処に開かれているのである。私の信ずる所の佛教はこれであるから私はこの根本義を宣伝したのだ。
 ハワイ各島の中でハワイ島は近来非常に宗教熱が盛んで我が県人を中心とする「真宗深信協会」と称する団体もありその例会の時には三四十哩から出席するのもある。私はかかる状態を見て私が佛教を味わって居たことを多幸と思うた。若し私に佛教の思想がなかったならばハワイ各島の巡講中県人に対するのは兎や角お茶を滑し得たとしても所謂一般講演の場合には聊か困ったらうと思った。


1927年10月13日『沖縄朝日新聞』太田潮東「蘇鉄地獄の食料」

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1934年4月27日ー沖縄郷土研究会(1931年1月発足。真境名安興発起)と沖縄県文化協会(1933年8月発足。太田朝敷会長)が合同、沖縄郷土協会が発足し初代会長に太田朝敷が就任。

東恩納寛惇宛・太田朝敷書簡
□その後はご無沙汰致して居ります。琉球紙の25周年の記念号には広告を通しての社会観を深き興味を以って拝見しましたが今又「離れて観たるその後の沖縄」今朝は只一回しか見ないが物質生活の方面より思想の方面より政治の方面より道徳の方面より種々の形をとって現れた所謂蘇鉄地獄の種々相をえがかれた所一読直ちに「さすがは」と独り叫びました。(略)適者生存の理法は遂にこの士魂を駆逐してしまい物質主義に対しては何らこれを裁制する法則もなく、今日では全く物質的享楽という唯一残された、この思想を最も鮮明に最も適切に見ようとするなら我が沖縄が即ち帝国の縮図です。この縮図の中に一年も生活して居ると夫子自らも矢張り画中の人となり当初の感じは漸次薄らいでくるのです。環境の力の恐ろしさを今更ながら適切に感じます。
□東恩納寛惇宛・太田朝敷書簡
私は近頃本県を見るについて以前とは少しく違った見地から見ています。即ち日本帝国の一地方と云うより寧ろ民族的団体と云う見地です。(日本)国民の頭から民族的差別観念を消してしまうことは吾々に取っては頗る重要な問題だと考えて居ります。
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□1991年1月 伊佐真一編『アール・ブール 人と時代』伊佐牧子
○(略)赤と黒の綱引きは相拮抗しており、それはそれで学問的に大いに議論をすればよいことである。だが、時として世の中にはこうした自由な言論・報道を封じ込めようとする者がいるものである。たとえばその一例、この赤黒論争が新聞紙上や巷間でにぎわっていたころ、沖縄総合事務局開発建設部の村山和義公園調整官から、18名の元委員に宛て、首里城にかかわる発言を統制しようという文書が出されている。その内容は、首里城正殿及び公園に関する出版物の刊行、公演、取材等多岐にわたる「マスコミ等への報道」を「公園調整官を窓口として一本化」するというものであった。これに対して、又吉真三氏と前田氏と前田氏はただちに抗議を行ったが、事の重大さに気づいた当局は6月12日付で、先の文書の廃棄処分するに至った(『琉球新報』1989年7月25日付夕刊)。戦前の大政翼賛会まがいの行為をしたわけであるから当然といえば当然である。(略)

□2009年10月 屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』世織書房
○(略)高良倉吉氏のそのような直接的な政治的役割にかんしてではない。琉球史研究という学問的意匠による非政治的立場を装いながら、きわめて政治的な役割を果たしている、その<政治性>の問題についてである。それは、党派的な主義主張やイデオロギーなどの「政治性」とは位相」を異にした、関係における認識や解釈などの<政治性>の問題である。


2013年9月13日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー大田朝敷」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1961年7月 ジョン・ガンサー 三浦朱門 訳『頭の回転=マスコミ最大の成功者の物語=』新潮社

1964年12月7日、カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay,)勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。→ウィキ

1965年4月 『思想の科学』№37<特集・日本の黒幕>思想の科学社

丸山邦男〇占領期の黒幕ー「総指令部は、日本の国内政治の運営を実際に支配しているわけではない。わたしがきいた、あるアメリカ人の話によると、日本には、今日でもなお<日本地下政府>が存在しているということだった・・・・」。これは1951年に出版されたJ・ガンサーの『マッカーサーの謎』(木下・安保共訳)に出てくる一節である。占領下の日本の政治を直接間接にコントロールしたものはGHQだが、占領期間中の重要な時期あるいは事件に関連する政治にたいして、最高責任を負った代表的人物といえば、いうまでもなく吉田茂の名を挙げられる。

神島二郎〇日本の黒幕序論ー(前略)今後の黒幕は、ヒトや限られた党派を操る黒幕ではなくて、大衆だとか経済構造を操作できるブレーンという形が」、重要になるのではないか。操作というのは、権謀術数でだますというのとは違って、大衆のイメージに合わせて、政治をつくってゆくということだし、そういうことの専門家が政治に参画しだしているということは、新しい問題だね。

1965年8月 大野達三『アメリカから来たスパイたち』新日本出版社□図ー「連合軍総司令部機構」「G2・CIC関係図」「」
1965年6月11日 読谷村喜名小学校5年生の棚原隆子さんが自宅前で米軍演習トレーラーが空から落下し圧死した。
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」

1966年5月25日、アメリカの作家ジョン・トーランド、とし子夫人と来沖□5月30日『沖縄タイムス』「作家トーランド氏の講演・生きた歴史を強調」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」
1967年6月 カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』新日本出版社□塩田庄兵衛・中林賢二郎「序ーアメリカ合衆国は、もともといわば移民によってきずきあげられた国であるが、ヨーロッパの先進資本主義国から渡航して新しい国の主人公となった白人と、アジアを中心とする『後進地域』から渡航した移民との間には、人種差別という形をとった差別待遇がはっきりみられた。そのなかで日本人は、中国人、朝鮮人などとともに、低賃金労働者として下積みの扱いをうけた黄色人種であった。わが同胞は、アメリカ西部とハワイの農園・鉱山・鉄道・森林・漁場にその労働力をそそぎこみ、今日のアメリカ独占資本主義の富の少なからぬ部分をつくり出した。今日のアメリカの富について考えるばあい、中国人・朝鮮人などとともに、日本人が流した血と汗と涙を無視することはできないのである。・・・・」
1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」

1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」

1968年

沖縄100万の叫び―嬉野京子写真集 (1968年) →菅原恭正ブログ2016-4-27:【第1660回】

1969年 アメリカ国防省がコンピュータネットワークの実験(UCLA、ユタ大学などを「ARPANET」)で連結に成功
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」
1969年7月  朝日新聞西部本社企画部『原爆展』(主催・広島市・長崎市・朝日新聞社)

1969年8月  『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」


1969年8月 E・ライオンズ/高橋達男 訳『世界の企業家=3 電子工業のパイオニア サーノフ』河出書房新社→デビッド サーノフ1891.2.271971.12.12  米国の無線技術者,実業家。元・RCA社長。ロシア生まれ。1900年にアメリカに移住し、’06年RCAの前進であるマルコニー社に入り、’12年電信技士、’18年検査主任、主任技師となる。同年RCAを設立し、’21年総支配人を経て、’25年副社長、’30年社長となる。アメリカテレビの先駆者として知られ、第二次大戦中は、通信隊顧問として活躍した事もある。→コトバンク
1969年9月  『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」

1969年10月  『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」

1972年9月に沖縄キリスト教協議会(比嘉盛仁)から『沖縄キリスト教史料』が発行されている。中に植村正久先生来島記念(1923年)やベッテルハイム記念碑除幕式(1926年)の写真がある。前記には新垣信一、大城カメ、比嘉盛仁、比嘉盛久、久場政用、眞栄田義見ら、後記には島袋源一郎、岸本賀昌、知花朝章、志喜屋孝信、佐久原好伝、アール・ブールらが写っている。

1972年11月 『断悪ー原爆被爆者救援のための実体験の記録』沖縄県原爆被爆者協議会 
1973年4月7日 『沖縄タイムス』「海洋博を点検する<21>肥大する三次産業 大阪万博倒産の教訓生かせ 陸は観光スラム 海は石油汚染」
1973年5月15日 『日本経済新聞』「第二部 沖縄特集ー珊瑚礁に夢結ぶ海洋博’75」
1974年1月『基地情報』第4号 基地対策全国連絡会議「国民主権を侵害するもの」/2月『基地情報』第5号「沖縄基地調査特集」

1974年1月 レイチェル・カーソン/青樹簗一 訳『沈黙の春ー生と死の妙薬ー』新潮文庫→レイチェル・カーソン日本協会ー組織運営をめぐり、発足から20年が経過するなかで、組織のリフレッシュをはかる必要性が指摘されることが増えてきた。総会、理事会で「日本協会の今後の在り方」をめぐり意見交換を深めた結果、2008年3月15日、特定非営利活動法人格を返上するための「解散総会」を持つと共に、当面、関東フォーラム、関西フォーラムを拠点にした「ゆるやかなネットワーク組織」としてレイチェル・カーソン日本協会が再発足した。
1975年4月4日  ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏らによってMicrosoft(現在の本社所在地ーワシントン州 レドモンド)が設立された。



1975年2月 『沖縄の米軍基地』沖縄県渉外部基地渉外課

1975年5月23日 『毎日グラフ』「緊急増刊 勝利した解放戦線」
1975年6月14日 『沖縄タイムス』「原子力と人間<1>核ジャックの恐怖 プルトニウム放射能半減期2万4千年」
1975年8月15日 『週刊読売』「臨時増刊 日本人の戦歴ーソ連側撮影 シベリアの日本兵捕虜」
1975年9月15日 『朝日ジャーナル』「あなたは核兵器を知っているかー1945年7月16日午前5時30分、人類初の原爆、プルトニウム爆弾が実験された実験の暗号名は「トリニティ」(三位一体) アラモゴルドの砂漠の中に記念碑が立っている/米ニューメキシコ州アルバカーキー市に、国立アトミック博物館がある。」

1976年、スティーブ・ウォズニアックがApple Iを製作。これを見たスティーブ・ジョブズは、新しいビジネスになると考え、1977年スティーブ・ウォズニアックと共にApple社(現在の本社所在地ーカリフォルニア州クパチーノ)を設立した。その後発売したApple IIは表計算ソフトVisiCalcと共に大ヒットとなり、これまで一部のマニアのおもちゃでしかなかった「パソコン」が仕事にも使える道具だということが分かり、パソコン市場が出来上がった。→はてなキーワード ????2012年7月『徹底解析!!アップルvsグーグル』洋泉社

1976年4月17日『週刊ピーナツ』「追跡 巣鴨プリズンからのCIAヒモつき出所全リスト 岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、他」
1976年5月15日、沖縄ハワイ協会(仲村亀助会長)主催「アメリカ建国200年祭」が那覇市内パシフィックホテルで開催、ノールズ在沖米国総領事夫妻、平良那覇市長らが招かれる。与世盛智郎が挨拶。→与世盛智郎『沖縄仏教読本』(久米島本願寺1976年5月)「戦後、沖縄の世替わりに際し、進駐軍が、アメリカ建国の精神にのっとって宗教政策を重視して、沖縄の寺院に活を入れ、その活動に力をかしていたら民主主義も不消化とならず、従来の守礼の邦の美風を堅持し、一部にある反米思想も起きなかったと思われます」。

1976年6月 『三悪政治とCIA』日本共産党中央委員会出版局→三悪政治(戦犯・金権・売国)ー松川事件、下山事件をめぐるCIAへの疑惑といい、自民党をはじめとする反共政党とCIAの関係といい、今後白日のもとにさらさなければならないことが、あまりにもたくさんあります。

安倍晋三、1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され、1978年から1979年まで政治学を学んだ。

横浜・米軍機墜落事故
1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍のファントム偵察機が横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落した。土志田勇さんの娘、和枝さん(当時26)の息子の裕一郎君(3)と康弘君(1)が翌日未明に相次いで死亡。和枝さんも重度のやけどを負い、闘病生活の末、4年4カ月後に亡くなった。勇さんは、和枝さんの遺志を継いで社会福祉法人を設立。「和枝園」と名付けたハーブ園も開くなど「社会への恩返し」を続けている。


1979年1月 ジェームズ・マッキンレー著/和田敏彦・訳『アメリカ暗殺の歴史』集英社
○アメリカにはじめて移民たちが着いたとき、彼らはここに将来を決する二つのものを持ち込んだ。一つは自分たちが祝福された民であるという神がかり的な夢であり、もう一つは銃である。彼らは艱難に耐えていくためにはこの夢が、またこの夢を新世界に押しつけるには銃が必要だと信じていた。彼らは聖者と銃弾、それに狡猾な取引でこの夢を広めていったから、彼らは間違ってはいなかった。そして彼らが正しかったことは、百六十九年後に独立宣言の署名によって証明された。あの日、市民は家に駆け込むなり、銃を取り、まず祝砲で、ついでアメリカ革命でアメリカの夢を永久的に確認した。・・・・・



1979年3月 『沖縄の米軍基地』(表紙写真・国吉和夫)沖縄県渉外部基地渉外課

1979年、祖父新一郎に代わって、孫である現店主天牛高志が、 まだほとんど商店がなかった大阪心斎橋西のアメリカ村に、90坪の天牛書店新店舗を開きました。元々は駐車場であった建物を改装し、むき出しの鉄骨の梁、本棚は赤く塗装し、自動販売機を置いた休憩スペースを設け、古くから敷地にあった稲荷祠はそのまま店内に残すなどといった、従来の古本屋のイメージを一新する店作りに挑戦したアメリカ村店は、新しい感覚が若いお客様にもご好評をいただき連日の盛況となります。 しかし、時代の流れとともにアメリカ村が賑やかなファッションの街へと変貌し、古書を売る

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 2012年7月ー本日の地元紙を見ると、粟国村長選挙で新城静喜氏が309票で再選されている。対抗馬の與那城弘明氏は275票。34票差で健闘していた。『サンデー毎日』7.22号にヤガン折目を取材した「沖縄県 粟国島 女が守る島の祭」(写真・文 裵昭)が載っている。同誌には写真家・山田實氏の姪・山田美保子も「ワイドショーの恋人」を連載。また佐野眞一「新 忘れられた日本人ー村岡伊平治」も連載されている。


2016年7月9日 那覇市の一角で右が裵昭さん、新城栄徳


2004年11月 梁石日『魂の流れゆく果て』(写真/裵昭)光文社/2005年9月 裵昭『不滅の「役人天国」』光文社
裵昭ペ・ソ
1956年福岡県生まれ。父が1世、母が2世。フォトジャーナリストとして「朝日新聞」「東京人」「週刊文春」「週刊新潮」などに、ラジオやテレビのドキュメンタリーにも参画している。日本の国際化をテーマとした作品を発表。『鎖国ニッポンが多民族国家になる日』で第28回平凡社準太陽賞を受賞。『段ボールハウスで見る夢』(中村智志 文)で第20回講談社ノンフィクション賞受賞。著書に『となりの神さま ニッポンにやってきた異国の神々の宗教現場』(扶桑社)など。福音館書店「母の友」で、職人と工房のシリーズを掲載。日本生まれ日本育ちの在日コリアン。『写真報告 関東大震災朝鮮人虐殺』(影書房)、共著に『魂の流れゆく果て』(文・梁石日、写真・ペ・ソ、光文社文庫)など多数。

2016年7月8日 那覇市の一角で

 「論座」2018-12-14 翁長雄治 那覇市議ー元ネトウヨ、故翁長知事の息子が語る沖縄の保守亡き父の後を追い政治家になった次男・雄治氏が発する沖縄保守から本土への異議/翁長 真実はネットにあり、マスコミにはないと信じてました。ところが、次第にネトウヨに疑問を抱くようになった。最大の転機は父がネットで叩(たた)かれたことです。
――いつごろですか?
翁長 2012年末に民主党政権から自民党の安倍晋三政権に代わった後、那覇市長だった父が東京で「普天間基地の県外移設、オスプレイ配備反対」の行動をしたのを境に、ネット上に「翁長の長女は中国の外交官と結婚」「次女は北京大学に入学」なんてデマがあふれました。あまりにアホっぽい作り話に、姉たちと笑っていましたけど。


『週刊新社会』
 三上 智恵2019-10-9 加害性に向き合わずそこはスルーして 被害者という特別枠に収まって何か声高に言っても それは人に届く力を持たないこのことをずっとずっと考えています 辛淑玉さんのようにパサリ、と蜘蛛の巣を切り落とすような優れた文章が書けるようになりたい

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沖縄関係の文庫本サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。

1908年12月10日 當間重慎、諸見里朝鴻、大城彦五郎ら『沖縄毎日新聞』創刊→1915年1月『沖縄毎日新報』と改題

1911年12月 伊波普猷『古琉球』大城彦五郎 沖縄公論社・那覇区字西83番地

1917年5月 県会議員選挙 国頭郡から久志助英・金城時男・大城彦五郎・宮城栄喜・平良真順・仲田徳三が当選.
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1929年3月 秦蔵吉『大典記念 沖縄人事興信録』「大城彦五郎」/1925年3月 大城彦五郎『琉球語案内』大城活版所

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1895年2月 奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』沖縄印刷所(根路銘恵伝)松籟◇序=冊子甚だ小にして記する所実に簡なりと雖も以て沖縄旅行の栞とするに余りあり 沖縄は無数の島嶼成ると雖も其面積より云へば漸く薩摩湾を埋むるに過ぎず其人口より云へば帝国総人口の百分の一に過ぎず然れども日本帝国が全世界に向かって其勢力を澎漲しつつあるの今日に於いて東洋南部に向かって其先鋒の任に當る者は我沖縄なり殊に沖縄の問題が日を追ふて内地政界の議に上り有志の士足をこの地に入れんとする者多きを加るの今日に於いて奥島子のこの著あるは決して徒労にあらざるなり否其効決して尠なからざるなり
 元来沖縄に来る者其地形産物より寧ろ重に歴史に注目するは余が往々事実に於いて見る所なりこの著歴史の概要を記せざるは余が遺憾とする所なり故に余は歴史としては中山世鑑、球陽、世譜、王代記、南島記事、沖縄誌、歴史材料の雑書としては遺老伝、羽地按司仕置、具志頭親方独物語、林政八書、其他教育上の雑書としては「御教條」文学としては平敷屋朝敏の「苔の下」「若草物語」「貧家記」宜湾朝保の歌集等あることを旅行者に紹介し以て聊か本著の遺漏を補ふと云爾

 1919年8月 『琉球案内』沖縄實業新報社(秦蔵吉)
官公衛/学校/寺院教会/新聞雑誌社/弁護士/医師/銀行会社/米商協会員/糖商同業組合/帽子同業組合/運送業/材木商/呉服雑貨商/肥料商/海産物商/乾物商/茶商/漆器商/泡盛及酒類商/陶器商/薬種商/化粧品商/ペンキ商/染物業/食料品商/製革業/自転車商/靴商/度量衡器商/菓子商/造船業/印刷業/料理店/劇場及活動写真/筑前琵琶/理髪屋/土木請負業/産婆/牛乳屋/感化事業/戸数人口/知事及議員/多額納税者/耕地/重要物産/主なる海産物/海陸交通/陸運/白山療養園/名所旧跡/一便滞在の視察/口説・四季口説、上り口説、下り口説/新聞取次店/宿料及手土産
主なる旅館ー楢原旅館(西本)、濱崎旅館(西本)、川津旅館(西新)、大正館(西本)、森田旅館(通堂)
写真業ー吉村貞(上蔵)、久志助親(上蔵)、又吉写真館(上蔵)、光陽軒(上蔵)、久野写真館(若狭)、大和写真館(上蔵)


写真ー尚球

『廃藩当時の人物』表紙/明治43年『スバル』11号 
尚球『廃藩当時の人物』(1915年)
尚健伊江朝直/宜湾朝保/浦添朝昭/富川盛奎/亀川盛武/義村朝明/林成(世)功/与那原良傑/伊舎堂盛英/池城安規/津波古政正/豊見城盛網/伊江朝重/喜屋武朝扶/久志助保/知花朝章/護得久朝常/百名朝起①
①1983年3月 『那覇市史だより』「『百名家文書』収集経過および文書概要ー名城林世功(本名・新垣)陳情通事遺銀御心付金給与御恩典蒙ラスニ付請願/那覇区字久米二千六百七十三番地 兄・名城世勲71歳 名城世功妻・名城カマド66歳 名城世功養子・名城先安 明治41年12月 中城御殿家扶各位閣下」





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2013年4月30日~5月5日 那覇市民ギャラリー「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」
□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。

鉄の暴風が荒れ狂った沖縄戦。辛酸をなめた戦後の極貧の離島苦から那覇に移り、
老いるまで清貧を貫き必死に生き抜いたある親子の晴れ晴れしい『カジマヤー』祝い。
そして40年ぶりの故郷粟国島へ、母と連れ立っての凱旋。
だが数年後、百歳誕生祝直前の母の死。
離島特例、島懐に守られた土葬での別れ。
カジマヤーから十年、奇しくも東日本大震災の年の暮れ、再び棺を開けて執り行われた『洗骨式』。
島の風土、親子の生き様や死までを見つめ、人や情とは何かを考える機会になればと、
写真家がまとめた十数年間の人間ドキュメント!

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2013年5月4日

写真家 戸澤裕司 氏
1964年12月、石川県小松市生まれ。東京綜合写真専門学校芸術学部第一学科卒業。「朝日ジャーナル」、「週刊朝日」のグラビア専属カメラマンを経てフリーランスカメラマンとして活躍。90年半ばから作家藤原新也①氏助手。人物のドキュメント、ポートレイト、作家との紀行写真などを雑誌で発表。沖縄の竹富島に十数年通い、島の写真など多数発表。主な著書に「旅する作家五木寛之2001~2006」「海上晩餐会 魅惑の料理クルーズ 山岸一茂」「下川裕治編『アジア大バザール』」、『AERA』(朝日新聞社)の現代の肖像シリーズ、ドキュメント、ルポ、CDのジャケットなど幅広い媒体で写真作品を発表している。現在は、則子夫人が編集している、世界へ発信!日本の魅力再発見!地域活性マガジン『ADVENTURE JAPAN』や、『Asahi Shimbun GLOBE』の写真を担当している。

①藤原 新也(ふじわら しんや、1944年3月4日 - )は、日本の作家・写真家である。
福岡県門司市(現:北九州市門司区)の門司港地区生まれ。生家は旅館を営んでいた。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻中退。インド、東京、アメリカなどを対象に、写真とエッセイを組み合わせた作品を発表。1972年の処女作『印度放浪』は青年のインド放浪記として、当時の青年層に大きな影響を与えた。1977年、『逍遙游記』で第3回木村伊兵衛写真賞。1981年に発表した『全東洋街道』で第23回毎日芸術賞を受賞した。1983年に発表した『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推挙されたが、本人の意思により辞退となった。(→ウィキペディア)


愛用のカメラと『AJ~ADVENTURE JAPAN』(田畑 則子①編集)

①田畑 則子  Noriko Tabata
ライター
1971(昭和46)年 埼玉県生まれ。短大児童教育学科卒。
カード会社に勤務の後、ワーキングホリデイにてオーストラリアに1年間滞在。現地ツアーデスク、日本語教師などを経験。帰国後、出版社勤務などを経て、1995年、フリーライターとして独立。著書に『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)共著に、『笑うアジア』 『女ひとり旅読本 (シリーズ第一弾)』 『HAPPY HAWAII (シリーズ第一弾)』 (共に双葉社)、『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)など。
日本の魅力再発見! をキャッチフレーズに『AJ~ADVENTURE JAPAN~』(株式会社Adventure JAPAN発行)、英語、中国語、タイ語、仏語の五ヶ国語(日本語含)で配信する同名のサイトを運営。
著書

『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)
『笑うアジア』  (双葉社)
『女ひとり旅読本』 (双葉社)
『HAPPY HAWAII』 (双葉社)
『ワーキングママのための時間管理術』  (阪急コミュニケーションズ)

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2013年5月3日 ポールさん夫妻

○上記の展覧会は継続巡回展の第3会場で、第4会場は2013年6月いっぱい宮崎市広島1-6-11-1 ギャラリー「ArtSpace色空」

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1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
「華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代」もあったと安恭は記しているが、この美術家の夢は弟の安久によって実現された。

また大正末期、沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルの最中、麦門冬の友人たちは後継館長に麦門冬と運動していた。山里永吉の叔父・比嘉朝健は最も熱心で、父の友人で沖縄政財界に隠然たる影響を持つ尚順男爵邸宅に麦門冬を連れていった。かつて麦門冬が閥族と新聞で攻撃した当人である。しかし麦門冬の語る郷土研究の情熱を尚順も理解を示し料理で歓待し長男・尚謙に酌をさせるなど好意を示した。それらは麦門冬の不慮の死で無に帰した。これも弟・安久が戦後、沖縄県立図書館の歴代図書館長に名を連ねている。

麦門冬・末吉安恭の弟/末吉安久(1904年4月26日~1981年3月31日)


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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄

写真左から末吉安久、桃原思石、許田重勲

1944年ー夏  学童疎開の引率で宮崎に

1946年ー秋  首里高校美術科教官に就任するや沖縄民政府文教局にデザイン科の設置を要請し首里に伝わる紅型の復活を図りたい」と嘆願し実現に導いた。
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右端が末吉安久

1949年3月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年4月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年5月  『月刊タイムス』№4□末吉安久「表紙・カット」

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末吉安久「閑日月」
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末吉安久「子供達」


1950年8月  朝日新聞社『鉄の暴風』末吉安久「装幀」/牧港篤三「挿絵」
1950年9月  末吉安久、首里図書館長就任(1957-4)
1951年11月 琉米文化会館「第3回沖縄美術展覧会」末吉安久「子供達」/金城安太郎「楽屋裏」

1952年1月1日『沖縄タイムス』末吉安久「思うたまで」

1952年1月1日『琉球新報』末吉安久(Q)「漫画漫詩」

1953年1月1日『沖縄タイムス』「漫画アンデパンダン展」末吉安久「乾かすのか掲げるのか」



1954年12月に写真集『基地沖縄』が東京新宿市ヶ谷加賀町の大日本印刷で印刷され沖縄タイムス社から発行された。編集は豊平良顕、上間正諭、牧港篤三、金城久重で、装幀が南風原朝光、末吉安久であった。零よりの出発と題して農夫の写真が掲載されていて、説明文に「戦争の破壊は、とにかく地上の人間の営みを根こそぎ奪い去った。戦後の復興はすべて零よりの出発と云ってよい。この老農夫の姿そのままが、零のスタート・ラインに立った終戦直後のオキナワを象徴している」とある。

1955年3月  第7回沖展に末吉安久「花」「サバニ」「静物」「金魚」
1956年3月  第8回沖展に末吉安久「黄色の部屋」「魚」「静物」
1956年8月15日 『沖縄タイムス』末ひさし「居タ居タ鳩ダ」

1956年8月19日 『沖縄タイムス』末ひさし(Q)「静かなデモ」


左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)
1956年11月 『沖縄タイムス』島袋盛敏「新遺老説傳 沖縄むかしばなし」末吉安久(Q)・絵
1957年3月  第9回沖展に末吉安久「静物」

1958年3月  第10回沖展に末吉安久「黒い月」「漁師たち」
1959年3月  第11回沖展に末吉安久「魚」「月」「大学の丘」「死せる生物」
1960年3月  第12回沖展に末吉安久「石」「根」「花」「珊瑚礁」
1961年3月  第13回沖展に末吉安久「作品」「墓場」
1961年3月  『養秀』養秀同窓会□養秀「表紙装丁カット」「金城紀光氏に聞くー聞き手/末吉安久」

1962年3月  第14回沖展に末吉安久「墓地A」「墓地B」「墓地C」



末吉安久/表紙絵 1962年8月『今日の琉球』58号「琉球の玩具」

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写真ー末吉安久氏と大城皓也画伯

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沖縄県立図書館の左側には「安冨祖流楽祖之碑」がある。安冨祖流絃聲会が1964年1月18日に建立しものだが、設計は末吉安久である。ちなみに、揮毫は島袋光裕、刻字が安里清謙、施行が安里清福である。沖縄県立図書館の館長室には歴代図書館長の一人として末吉安久の写真も飾られている。

1969年2月 『新沖縄文学』第12号 末吉安久「貘さんに る幻想」
1975年1月28日 山之口貘詩碑建立期成会発足(宮里栄輝会長、末吉安久副会長)
1975年7月23日 与儀公園で山之口貘詩碑除幕式
1975年9月7日 那覇文化センターで山之口貘記念会発足
1976年12月 『沖縄風俗絵図』月刊沖縄社□末吉安久「ケンケンパー」「足相撲」「ビー玉」「イットゥガヨー」「ジュークーティ」「クールーミグラセー」「クールーオーラセー」□末吉安久紅型「醜童舞い」「浜千鳥」「馬」「桃売りアングヮー」「カンドーフ売り」 

1977年11月29日『沖縄タイムス』「佐渡山安健『名馬・仲田青毛』末吉安久宅に」

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1978年8月 『季刊 南風』№2 末吉安久・絵と文「続・無題」

2015年10月16日『沖縄タイムス』大城冝武「沖縄マンガ史34(末ひさし)末吉安久/大嶺信一」

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左から『現代』創刊号 梶山季之「日本を操る悪徳政商の正体」/2004年1月「外務省の犯罪Ⅱ」

2004年9月『月刊現代』有森隆「カルロス・ゴーン『経営神話』の自壊ー数字のマジックだった 国内販売は苦戦、借金はまだ3兆円、コストカットの代償 4期連続の最高益ーだが、急激な改革のツケは確実に表面化しつつある。ゴーン日産の死角を暴く」、佐々木実「日米同盟の変貌に沖縄の漂流は続くー在日米軍については、アジア太平洋地域の司令塔の役割を負わせるプランがあるようだ。米国の構想では、ワシントン州の陸軍第一軍司令部を神奈川県のキャンプ座間に移すほか、グアムの第13空軍司令部を横田基地の第5空軍司令部に統合させるなどとなっている」

2005年9月「元NHK経理職員が告発『受信料乱費の実態』」/2006年2月 高杉良「小泉・竹中『亡国コンビ』への退場勧告」、枝野幸男・立松和平・中村彰彦「『同郷・同好・同朋』を語る」

1966年12月に週刊誌『週刊現代』の兄弟誌『現代』として、『少年マガジン』創刊編集長で『週刊現代』を軌道に乗せた牧野武朗編集長によって創刊された。2002年1月号から誌名を『月刊現代』と改める。『週刊現代』『小説現代』とともに「現代トリオ」として刊行されていた。創刊当初は総合月刊誌として、男性サラリーマンの生活に密着した政治、経済、社会、メディア、スポーツ、健康、教育、夫婦関係など幅広い分野を扱う。 1967年から1968年にはマーシャル・マクルーハンを集中的に取り上げ、1970年代から1980年代半ばにかけては田中角栄の記事を繰り返し掲載した。1976年8月号からは堺屋太一の近未来小説『団塊の世代』が連載され、団塊の世代という造語が定着することになった。→ウィキ


フライデー』(FRIDAY)は、講談社が発行、1984年(昭和59年)11月9日創刊の毎週金曜日発売(原則)の写真週刊誌。

野間清治
生年: 明治11.12.7 (1878)
没年: 昭和13.10.16 (1938)
大正昭和期の出版事業経営者。群馬県山田郡新宿村(桐生市)の生まれ。明治33(1900)年尋常師範学校を卒業し,教師になったが,35年東京帝大文科大学臨時教員養成所に入学。卒業後,沖縄中学校教諭を経て,40年東京帝大法科大学職員となる。折からの雄弁術流行の先頭に立っていた緑会弁論部の創立を助力した。学生の弁論を筆記し活字化する企画をたて,自ら大日本雄弁会を設立,43年雑誌『雄弁』を創刊。44年講談社を創立し,同年講談落語などの寄席芸能を筆記活字化した雑誌『講談倶楽部』を発刊し,大きな成功をおさめた。以後,『少年倶楽部』『少女倶楽部』『婦人倶楽部』などの雑誌を創刊し,雑誌王国を築いた。なかでも,『キング』は,「おもしろくて,ためになる」のキャッチフレーズ通り娯楽と修養を兼備した大衆雑誌として100万部を突破する部数を誇った。「講談社文化」という言葉も生まれたほど,その出版物が大衆の意識に与えた影響は大きい。<著作>『自叙伝』<参考文献>野間清治伝記編纂会編『野間清治伝』 →コトバンク

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後に講談社を興す沖縄県視学の野間清治が沖縄を去るとき(1907年9月)の記念写真、中央に野間清治、後列右から5人目が富川盛睦、同じく2人目が横内扶。他の写真には同僚だった岸畑久吉らと撮った写真も伝記に収録されている。講談社が発足するとき参加したのが安元実発(元『沖縄新聞』記者)で、これも写真が講談社史にある。また野間の沖縄中学時代の教え子の森田孟睦も講談社にいた。□→検索「森田孟睦」。

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1944年10月『野間淸治傳』野間淸治傳記編纂會

1938年11月ー『大阪球陽新報』□野間清治氏の葬儀ー大日本雄弁会講談社社長、報知新聞社社長の野間清治氏は去る16日東京小石川区関口台町の自邸に於いて狭心症のため急逝した享年61、葬儀は20日午後1時から佛式により講談社で同社並びに報知新聞社合同により社葬が行われた(略)報知新聞社社員の渡嘉敷唯錦氏の本社(大阪球陽新報社)に宛てた通信に、今更の如く故野間先生の偉大なる人物であったことに敬服した森田孟睦君を始め一中出身の講談社員4名と小生も葬儀委員を勤めた。沖縄県人で葬儀に参列し入口に立っている私の目についたのは読谷山朝宜(医師)、国吉真俊、久高将吉、冨名越義珍、宮里良保、恩河朝健の諸氏であったが勿論混雑の際とて他にも多数参列者があったことと思う。

講談社野間記念館は、講談社創業90周年事業の一環として 2000年4月に設立されました。展示品は、講談社の創業者・野間清治が、大正期から昭和初期にかけて収集した美術品を主体とする「野間コレクション」。明治から平成にわたり蓄積されてきた貴重な文化遺産ともいえる「出版文化資料」。さらに、講談社とゆかりの深い画家、村上豊画伯の画業が見てとれる「村上豊作品群」の3つに大別されます。


写真ー野間清治の墓(島袋和幸・撮影)護国寺(ごこくじ、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院大聖護国寺と称する。

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出版社の社史


1981年11月 『ダカーポ』創刊号○ダカーポは現代ジャーナリズムの索引の役目を果たします/専門誌、ミニコミ誌、PR誌などの中には、そのままにしておいては惜しい貴重な情報がたくさん含まれています。それらの情報を積極的に発掘、魅力を伝える。/夕刊フジ・日刊ゲンダイ、このようなメディアの個性の違いを楽しむ。


2004年6月 『ダカーポ』「いま、新聞がおもしろい!」
2007年12月『ダカーポ』「中国新世紀」/「このままじゃ、雑誌はダメになるー頑張れ!雑誌 頑張れ!『週刊現代』」○新聞は”社会の木鐸〟を忘れて、記者クラブ経由で官製情報の垂れ流し。広告収入に依存したテレビ局は、視聴率競争に明け暮れて週刊誌の後追い。(略)生々しさは週刊誌の現場が一番持っているかもしれない。かつて朝日新聞の深代惇郎さんや読売新聞の本田靖春さんがいた頃の、古き良き時代の社会部のようなDNAの尾っぽは、週刊誌に流れ込んでいるんじゃないかな。公権力の情報操作が巧みになったいまこそ、その公権力のウソを看破するのは週刊誌しかない。
1945年 - 凡人社創立、11月に雑誌「平凡」を創刊
1954年 - 「平凡出版株式会社」に組織変更
1955年 - 「平凡」発行部数140万部を突破
1959年 - 「週刊平凡」創刊。
1960年 - 「週刊平凡」100万部突破
1964年 - 「平凡パンチ」創刊。若者向けの雑誌として一世を風靡する。
1965年 - 「平凡パンチデラックス」(隔月刊)創刊。
1966年 - 「平凡パンチ」100万部突破。
1968年 - 「ポケットパンチOh!」(月刊)創刊。
1970年 - 「an・an」創刊。大型女性誌としてスタート。フランスの「エル ELLE」誌と提携した。集英社の「non-no」とともに人気雑誌となる。
1974年 - 「スタア」(月刊)創刊。
1976年 - 「ポパイ」創刊 "Magazine for City Boys"というサブタイトルでスタート。男性週刊誌のさきがけといわれる。
1977年 - 「クロワッサン」創刊。ニューファミリー生活誌として創刊。
1980年 - 「ブルータス」創刊。「男として生きる術を心得た、あらゆる男たちのために」が合言葉であった。



1981年 - 「ダカーポ」創刊。「現代」が3時間でわかる情報誌としてスタートした。
1982年 - 「エル・ジャポン」創刊。「Olive」創刊。"Magazine for Romantic Girls"というサブタイトルを使用した。
1983年 - 会社名を「株式会社マガジンハウス」(〒104-8003東京都中央区銀座3丁目13-10)に変更。ニュージャーナリズム誌「鳩よ!」創刊。→ウィキ

マスコミの怪物とも云われた週刊誌、ことに古本屋に並んでいる雑誌・週刊誌は安い。入手し、切り抜いて手帖にスクラップするのが唯一の娯楽であった。スポーツは見るのも好きではないが、古本屋に雑誌・週刊誌を求めて一日中歩き回るのは苦にならない。当時のスクラップは今は殆ど残っていないが三鬼陽之助の「スクラップ箱」の書斎の写真が載っているグラフ誌のスクラップなどはある。
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三鬼陽之助の書斎

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 戦前・戦後、常に東京沖縄県人会の指導者であった神山政良氏が1966年3月に『年表ー沖縄問題と在京県人の動き』を琉球新報社東京総局から発行している。その年表によると東京で沖縄県人会という名称は、1921年1月23日に明正塾にあった沖縄県青年会を改称した沖縄県人会が最初のものである。戦前の東京沖縄県人会①には在京の県人会幹部名を列記したが今回は個人別に紹介する。出典は1940年の東京沖縄県人会名簿。

安次富松蔵(済美中学校)ー杉並区方南町、安次富長英(森野商店東京支店)ー四谷区愛住町、安良城盛英(本郷元町小学校)ー板橋区練馬南町、安次富武集(専売局)ー葛飾区本田立石町、安谷屋長治ー(自動車修理製作)ー京橋区湊町、安仁屋政成(洋服商)ー淀橋区東大久保、安谷屋正伯(専売局)ー葛飾区上小松、有銘與明(文化工業所)ー浅草区壽町、安座間喜政(日本橋区箱崎尋常小学校)、安次富松山(警視庁)、安次富武雄(明治鉱業長井海水試験場)ー神奈川県三浦郡長井町、安次富福介(小原光学)、芝田町

伊波普猷(千代田女子専門学校講師)ー中野区塔ノ山、伊波興一(日暮里警察署)ー下谷区下根岸、伊波南哲(丸の内警察署)ー淀橋区角筈、伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町、伊禮肇(弁護士、代議士)ー品川区大井山中町、伊元富爾(中外商業新報政治部次長)ー本郷区いが林町、伊集治宗(帝国無尽株式会社)ー世田谷区赤堤、石川正通(武蔵野女子学院教授、京華中学校教諭)ー本郷区浅嘉町、石原三覧(医師)ー渋谷区原宿、石原守規(中野第5小学校)、石原昌栄(警視庁)ー小石川区茗荷谷、石嶺傳亮(歯科医)ー赤坂区青山北、石垣永助(改造社)ー大森区馬込町東、糸嶺篤栄ー神田区松永町、石川正治(山口自転車工場販売部)ー日本橋区小傳馬町、伊志嶺朝良(東亜海運株式会社)ー大森区調布嶺町

上原恵道(三菱航空株式会社、海軍機関中佐)ー市外吉祥寺、上原健男(日本大学講師、弁護士)ー本郷区真砂町、上原隨昌(警視庁)、上原眞清ー板橋区板橋町、上江洲由英(下谷高等小学校)ー豊島区池袋、上間清享ー本所区小梅町、上間助三(東京地方専売局芝工場)、上里朝秀(成城学園高等女学校主事)ー世田谷区祖師ヶ谷、上里参治ー中野区打越町、宇久里清(板橋第二小学校)、浦崎永錫(美術界記者)ー埼玉県大宮町、内間仁徳(芝区三光小学校)ー芝区二本榎西町、内盛唯夫ー世田谷区太子堂

大濱信泉(早稲田大学教授)ー杉並区和田本町、大濱信恭(東京市厚生局)、大濱晧(帝京商業学校教諭)、大濱潔ー江戸川区小岩町、大濱孫詳(東京湾汽船株式会社)、大濱善勤ー淀橋区角筈、大濱正忠ー世田谷区鳥山町、翁長助俊(東京市総務局文書課)ー中野区昭和通り、翁長良保(旭硝子株式会社総務部長)ー杉並区馬橋、翁長長助(蒲田矢口東小学校)、翁長長圭(呉服商)、大塚長昌(東京府総務部人事課)、大城朝申(東京地方裁判所判事)ー杉並区松庵代町、大城兼義(東京無尽合名会社)ー世田谷区上北沢、大城兼眞(医師)ー小石川区下富坂町、大城仁輔(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、大城助十(城東区浅間小学校)ー豊島区巣鴨、大城盛隆ー麹町区平河町

大城幸清(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町、大城幸助(東京光学機械株式会社)ー板橋区志村本蓮沼町、大城川次郎(農林省林業試験場)ー荏原区戸越、大城太郎(榎本光学株式会社)ー豊島区長崎東町、大城永茂(豊島生田第二小学校)、大城源次郎ー渋谷区幡ヶ谷本町、大城孝清(板橋開進第二小学校)、大城幸英(小原光学株式会社)ー芝区田町、大城梅春(漢方医)ー荏原区下神明町、大城久栄(専売局)ー本所区横川橋、大城藤徳郎(専売局)ー品川区西品川、大城藤太郎(専売局)ー品川区西品川、大城伸夫(日本製鉄株式会社)ー品川区大井瀧王子町、大嶺三郎ー小石川区表町、大嶺詮次(京橋郵便局)ー豊島区池袋、大嶺英意ー麹町区永田町、大嶺英徳ー足立区千住柳町、大村寛康(小石川青柳小学校)

大宜味朝徳(海外研究所主宰)ー本郷区駒込蓬莱町、大浦英美ー深川区千田町、大谷次良(大村自動車商会主)ー麹町区麹町、大盛英意ー麹町区永田町、奥島憲仁(弁護士)ー小石川区柳町、奥間徳一(芝区南海小学校)ー荒川区日暮里町、奥平秀(大審院)ー蒲田区女塚、奥本養善(淀橋天神小学校)、親泊朝輝ー目黒区鷹番町、親泊朝省(陸軍参謀本部勤務少佐)、親泊康永(出版業)ー神田区小川町、恩河朝健(計理士)ー芝区白金今里町

漢那憲和(海軍少将、代議士)ー小石川区林町、漢那朝常(沖縄食品会社専務取締役)ー本郷区台町、神山政良(国際通運株式会社取締役)ー本郷区西片町、我謝秀裕(株式会社三省堂)ー杉並区成宗、我謝盡義(板橋第五小学校)、我部政達ー北多摩郡小金井、我部政任(小石川柳小学校)ー杉並区高円寺、我喜屋良喜(王子尋常高等小学校)、嘉手川重政(株式会社北辰電機製作所)ー荏原区戸越、嘉手川重國(簡易保険局)ー大森区雪ヶ谷町、嘉手苅信世(南方倶楽部専務理事)ー四谷区番衆町、嘉数詠勝つー淀橋区上落合、嘉数詠秀(世田谷深沢小学校)、嘉数英一(東京市水道局)、嘉味田朝武(淀橋第六小学校)、川上親助(京橋昭和小学校)ー蒲田区蒲田町、亀島靖治(泡盛商)ー神田区五軒町、垣花昌林ー渋谷区幡ヶ谷原町、亀川盛要(保健局)ー麻布区富士見町、柏常隆(横川橋梁株式会社)

金城時男(泡盛商)ー豊島区巣鴨町、金城紀昌(医師、鉄道病院)ー四谷区西信濃町、金城俊雄(品川小学校)ー品川区大井金子町、金城成宜ー豊島区豊島町、金城朝永(株式会社三省堂)ー豊島区西巣鴨町、金城唯温(東京地方専売局芝販売所)ー中野区昭和通り、金城清義(浅草田中小学校)、金城栄吉ー蒲田区糀谷町、金城待敬(英和商工社)ー麹町区永田町、金城武雄(荏原京陽小学校)、金城順隆(農林省)ー中野区昭和通り、金城珍網(杉並第六小学校)、金武朝睦(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、喜納朝徳(神田小学校)ー牛込区若宮町

喜納昌隆(蒲田区羽田第二尋常高等小学校)、喜友名成規(下谷黒門小学校)、儀間新(十五銀行)ー下谷区竹町、宜保友厚(泡盛商)ー京橋区槙町、宜保盛顕(板橋小学校)ー王子区稲付西町、木村春茂ー足立区千住町、許田善三郎ー足立区千住町、岸本賀勝(安田生命保険株式会社中野出張所)ー杉並区阿佐ヶ谷、喜久村潔秀(東京市電気共済組合)ー本郷区田町

國吉良寶(弁護士)ー杉並区馬橋、國吉眞俊(中外電業合資会社)ー芝区白金三光町、國吉眞禮ー本郷区金助、國吉眞文(大洋海運会社機関長)ー世田谷区三軒茶屋、國原賢徳(弁護士・弁理士)ー市外吉祥寺、具志堅實成(電機学校教授)ー杉並区大宮前、具志堅興實(警視庁)、久志助起(きくや書店主)ー神田区小川町、久志安彦ー本郷区、久高将吉(弁理士)ー世田谷区新町、久高朝清、久高清志ー滝野川区瀧野川、具志川朝著ー大森区入新井、具志幸慶(牛込高等小学校)ー牛込区若松町、具志川朝芳ー大森区大森、桑江文雄ー本所区東両国

東風平玄宗(警視庁警部補)ー蒲田区下丸子町、呉屋愛永(東京地方専売局)、呉屋芳春(深川元加賀小学校)、小嶺伸(荏原杜松小学校)ー荏原区中延、古謝盛義(板橋第五小学校)、小嶺幸和(警視庁)ー牛込区田町、幸地朝績(第百銀行神田支店)、幸地良昌(東京市厚生局)ー本郷区田町・喜久村方、鴻田康隆(東京市電気局電燈部)

呉屋博嗣(東京府経済部農林課)ー杉並区高円寺□→1938年『大阪球陽新報』「苦学力行の呉屋博嗣君ー大阪職業紹介所で職員として活動す。島尻郡西原村の出身、今年24歳の青年である。中央大学在学中、八幡一郎の世話で東京市役所職業課に入り、なお家庭教師もやりつつ卒業した」

崎原當升(東京鉄道局)ー市川市八幡宮ノ内、崎原淑人ー杉並区方南町、崎原成功ー葛飾区本田川端町、崎山用貴(警視庁)、佐久本嗣吉(下谷区西町小学校)、佐久田昌章(泡盛卸売商)ー神田区西神田町、澤田朝序(杉並桃井第五小学校)ー杉並区柿ノ木町、座間味朝永(エビス電球株式会社)ー杉並区天沼町

尚裕(侯爵)ー渋谷区南平臺、尚亘ー渋谷区南平臺、尚暢(日本勧業銀行)ー杉並区西荻窪、島袋源七(立正中学校教諭)、島袋盛繁(西巣鴨第二小学校)、島袋盛敏(成城高等女学校教諭)ー世田谷区成城町、島袋憲英(淀橋第一小学校)、島袋貞吉(中野野方東小学校)、島袋嘉英(東京市農会)ー足立区龍田町、島袋欣吉ー京橋区月島西月島通り、島袋欣章ー京橋区月島通り、島袋全吉(東京市財務局主税課)ー小石川区大塚坂下町

城間恒春(京橋明正小学校)、城間盛蒲(東中野小学校)、城間文徳(東京市厚生局衛生課)ー淀橋区下落合、城間朝宏(荒川第四峡田小学校)、城間義盛(警視庁)ー滝野川区西ヶ原町、識名盛亮(足立第七千寿小学校)、謝花寛廉(本所柳島小学校)、新城朝功ー淀橋区大久保、志賀進ー小石川区大塚坂下町、新屋敷幸繁(出版業)ー目黒区上目黒、末広幸次郎(日本曹達株式会社常務取締役)ー大森区馬込町

高嶺朝慶(株式会社島津製作所)ー淀橋区百人町、高嶺元英(高嶺製作所)ー荏原区中延町、高嶺元照(内閣印刷局)ー深川区石原町、高嶺朝和(葛飾上平井小学校)、高嶺朝詳(芝鞆絵小学校)ー淀橋区大久保、高良憲福(旭硝子株式会社工務部労務課長)ー板橋区練馬南町、高安正英(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、高江洲伸(浅草育英小学校)、高江洲朝和(本所高等小学校)ー荒川区日暮里町、嵩原安智(泡盛商)ー麹町区九段、嵩原安徳ー麹町区九段、高木玄栄ー小石川区関口台町、田港朝明(東京市女学校教諭)、田港景俊(本所区菊川小学校)、田里丕顕(料理業・沖那)ー芝区芝浦

田崎朝盛(医師)ー横浜市鶴見区潮田町、平良眞吉(医師)ー城東区亀戸町・平良医院、平良眞英(医師)ー城東区北砂町、平良治良(大井川電力株式会社)ー平塚市机浜町、平良兼路(本所区江東小学校)、平良恵序(深川区臨海小学校)、高里良英ー王子区堀舟町、多田喜導(専修商業学校教諭)ー杉並区上荻窪、玉那覇兼松(泡盛商)ー深川区森下町、玉盛栄八(シンセン本舗)、玉盛貫一(川崎菓子組合内)-川崎市宮前町、玉城正一(城東区第二大島小学校)、玉寄兼平(東京地方専売局芝工場)ー江戸川区西小松川町、谷口文雄(杉並区高井戸第四小学校)ー中野区江古田

知念亀千代(京橋区月島第一小学校)ー渋谷区代々木初台町、知念誠文ー渋谷区千駄ヶ谷、知念宏栄ー日本橋区茅場町、知念正次郎(東京アルミニウム工業株式会社)ー渋谷区景丘町、知念福永(日本電気株式会社)ー麻布区飯倉、知念武次郎(東京市厚生局)ー品川区下大崎、知念周章(栃元制作所)ー品川区東品川

津波古義正(小原光学株式会社)ー荏原区戸越町、津波古充計(東京府立第四中学校教諭)ー牛込区東五軒町、津波古正雄(東京本廠)ー荏原区戸越町、津嘉山朝弘(本所区菊川小学校)、津嘉山浩(荏原区延山小学校)ー荏原区中延町、津波富永(東海鉛管株式会社)ー荏原区戸越町、津堅房永ー横浜市鶴見区豊岡町、鶴初太郎(沖縄物産斡旋所長)ー淀橋区柏木、辻野誠一(旅館業)ー横浜市中区花咲町

照屋林仁(泡盛商)ー目黒区上目黒、照屋健六-芝区三田豊岡町、照屋南岸ー品川区大井小神町、照屋林明ー京橋区月島東仲通、照屋哲郎(東京ライト工業社)ー世田谷区世田谷、照屋清昌ー杉並区阿佐ヶ谷

渡口精鴻(医学博士・渡口研究所)ー蒲田区本蒲田、渡口精秀(医学博士・渡口研究所)、渡口精眞(東京市技師)ー渋谷区幡ヶ谷本町、渡口精勤(医師)ー蒲田区新宿、渡口政信(警視庁)ー京橋区新佃島東町、渡名喜守定(海軍中佐)ー中野区江古田町、渡名喜守雄ー豊島区駒込、渡嘉敷眞順(本郷元町小学校)ー豊島区千早町、渡嘉敷昧球ー荏原区戸越町、當山寛(弁護士)ー小石川区宮下町、當山武久(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町

當山清香ー淀橋区戸塚町、當間恵栄(錦城中学生徒監長)ー川崎市生田、當間嗣珍(京橋郵便局)ー深川区古石場町、當眞正二(海軍省航空本部)ー芝区桜田町、當銘盛蒲ー目黒区下目黒、富盛寛孟(赤坂小学校)、富原守摸(深川区扇橋小学校)、友寄喜仁(弁護士)ー板橋区中新井、友寄英勝(目黒月光小学校)ー目黒区富士見台、友寄隆徳(東京市電気局)ー本郷区駒込神明町、友寄英成(東京地方専売局我孫子販売所長)ー千葉県我孫子、徳田安貞(本郷区昭和小学校)-豊島区長崎南町、徳田耕作ー杉並区阿佐ヶ谷、徳永朝益(西多摩郡南檜原小学校)ー西多摩郡檜原村、徳永盛和(東京地方専売局)ー浅草区三筋町、遠山眞信ー麻布区新綱町、豊川善包(本所牛島小学校)ー向島区寺島町、飛岡正信(陸軍省)、桃原昌一(東京市水道局)

仲原善忠(成城高等学校教授)ー世田谷区祖師谷、仲原善徳ー世田谷区祖師谷、仲宗根玄愷(昭和生命保健相互会社常務取締役)ー中野区桜山、仲宗根玄康(東京市厚生局)ー滝野川区滝野川町、仲里文英(世田谷区多聞小学校)、仲村常樽(台東小学校)ー淀橋区東大久保町、仲村専義(建築設計業)ー下谷区入谷町、仲本盛行(東京市財務局主税課)ー京橋区新佃島東町、仲本朝愛ー本郷区田町・喜久村方、仲本吉一郎ー渋谷区神山町、仲本宗厚ー渋谷区幡ヶ谷本町、仲本川原ー大森区久ヶ原、仲本徳英ー本郷区駒込千駄木町、仲田多聞ー荏原区羽田町麹谷、仲田新雄ー渋谷区笹塚町、仲尾次清正(東京憲兵隊本部)ー麹町区竹平町、仲井間宗一(文部参与官)ー麹町区平川町、仲井間宗祐(税務懇話会)ー滝野川区上中里町、仲吉良光(東京日々新聞記者)ー横浜市鶴見区鶴見町、仲村渠直和(市ヶ谷刑務所勤務)、仲野廉松ー世田谷区太子堂町

仲兼久長太郎(東京地方専売局蔵前分工場)ー江戸川区小岩町、仲地唯一(東京市電気局)ー渋谷区代々木初台、仲松弥男(荒川区第五峡田小学校)、長嶺善進(糧秣廠)ー下谷区上根岸、長嶺晃(城東区第一亀戸小学校)、長嶺朝昭(東京地方専売局)、長嶺朝英(川越税務署)ー川越市宮下町、長嶺将繁(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、名護朝徳ー荏原区荏原町、名城政教(日本起重機製作所)ー蒲田区糀谷、名城嗣亨(京橋月島第三小学校)ー京橋区月島東河岸町通、長嶺亀助(陸軍少将、軍需会社顧問)ー神奈川県茅ヶ崎、長濱三郎(大森区馬込第一小学校)ー大森区馬込町東、名嘉山徳温(東京市財務局会計課)ー板橋区上板橋、長濱眞詳(石神井西小学校)ー中野区新井町、永島可昌(下谷区竹町小学校)、名嘉繁雄(南武鉄道株式会社技術課)ー品川区北品川町、永井長雄(東京市総務局)ー中野区桜山町

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新宿 THE GALLERY 1(〒163-1528新宿区西新宿1-6-1 新宿エルタワー28階 ニコンプラザ新宿内) 2018年7月17日(火)~7月30日(月)「生誕100年記念 山田實写真展『きよら生まり島 -おきなわ』 」
トークイベント: ※申込不要・参加費無料
2018年7月17日(火)19:00~20:30
仲嶺絵里奈(写真史家)×鳥原 学(写真評論家)
2018年7月28日(土)19:00~20:30 金子隆一(写真史家)

 山田實(1918~2017年)は、いま世界的にも注目されている沖縄写真の礎を作った写真家である。
 沖縄戦で命も歴史も失われ、真っ白になって始まった「アメリカ世」の沖縄でカメラを持った山田實が見たものは、普通に生きている沖縄の男や女そして子どもたちであった。そのまなざしは、なにものにもとらわれない清々しくまっすぐなものである。そして山田の写真は、社会的な何ごとかを強く訴えるものではなく、表現として強固なスタイルを構築することや目指すものでもなく、あまりにも普通のことを普通に無造作に写し出している。それは山田實というカメラを持った人間が生きてきた沖縄という日常を等価に現しているといえよう。
 今あらためて山田實の写真を見ることは、占領から復帰を経てイメージ化された「美しい南の島・沖縄」に織り込まれ見えなくなった沖縄の日常の襞を掘り起こすだけでなく、山田實という写真家の「きよら」なまなざしを経験することとなるにちがいない。(ディレクター:金子隆一/写真史家)

2017年9月22日『沖縄タイムス』仲嶺絵里奈「展評ー山田實展」/2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん

山田實(やまだ みのる)氏プロフィール
1918年 兵庫県で生まれる
1920年 家族と沖縄に渡る
1941年 明治大学専門部商科本科卒業。日産土木株式会社入社、満州に赴任
1945年 北満州で終戦、シベリアに抑留
1952年 沖縄へ帰還、「山田實写真機店」開業
1959年 「沖縄ニッコールクラブ」結成(会長就任)
1972年 本土復帰に伴い、「沖縄ニッコールクラブ」は「ニッコールクラブ沖縄支部」に改称(支部長就任)
1978年 沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞
2002年 写真集『子どもたちのオキナワ 1955-1965』刊行、地域文化功労者表彰、沖縄県文化協会功労者賞受賞
2012年 『山田實が見た戦後沖縄』刊行、写真展「人と時の往来 -写真でつづるオキナワ」(沖縄県立博物館・美術館)
2013年 第29回写真の町東川賞 飛騨野数右衛門賞受賞
2017年 逝去
パブリックコレクション 沖縄県立美術館、東京都写真美術館、北海道 東川


2018年7月22日(日)から 8月19日(日)までの夏休み期間、名護市喜瀬の万国津梁館では沖縄の新旧の芸術文化・作品に触れることが できる2つの展覧会、「山田 實(みのる)写真展」並びに「粋な名工展」を開催。


山田實の本

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2018年8月11日ー11月4日 東京都写真美術館「夢のかけら」〇山田實作品も展示されている。
 TOP コレクションは、東京都写真美術館の収蔵作品を紹介する展覧会です。今年のテーマは「たのしむ、まなぶ」。この展覧会は、大人と子供、さまざまな立場の人たちが見たものや感じたことを自由に語りあって、作品の見方を深めていく、そんな光景が自然と生まれてくることを目指しています。本展では、「大人+ 子供×アソビ」、「なにかをみている」、「人と人をつなぐ」、「わからないことの楽しさ」、「時間を分割する/積み重ねる」、「ものがたる」、「シンプル・イズ・ビューティフル」、「時間の円環」という8 つのセクションに分けて34,000点以上におよぶコレクションの中から選りすぐった古今東西の名品をご紹介していきます。
出展アーティスト: ジャック・アンリ・ラルティーグ、林ナツミ、井上孝治、ロベール・ドアノー、山田實、井手傳次郎、 W.ユージン・スミス、本城直季、フェリーチェ・ベアト、ナダール、岩合徳光、ハロルド・ユージン・エジャートン、石田尚志、瑛九、竹村嘉夫、今道子、篠山紀信、川田喜久治、宮崎学 ほか→東京都写真美術館は、1995年、目黒区三田一丁目にある恵比寿ガーデンプレイス内に総合開館した、国内唯一の写真と映像専門の公立美術館。改修による2年間の休館の後、2016年秋にリニューアル・オープンした。
 
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左ー戦没者の追悼と平和を祈る平和祈念像を彫る故・山田真山氏ー宜野湾市(山田實さん撮影)

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Posted by: ryubun02
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1969年12月『オキナワグラフ』
  
2003年10月25日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑨ー生き字引の神山政良翁」


1972年5月『青い海』13号 神山政良(東京沖縄県人会会長)「5月15日に想う 過去を過去たらしめよ」

 1940年の東京沖縄県人会『会員名簿』の東京沖縄県人会の沿革によればその歩みはつぎのようになる。京浜沖縄県学生会の会報で補足する□b
1886年ー在京沖縄出身の青年間に勇進社を組織す
1888年ー沖縄学生会と改称
1890年ー沖縄青年会と改称す
1899年ー照屋宏により学生の寄宿舎設立計画さる
1899年ー沖縄青年会仮事務所を麹町区富士見町2ノ7、尚侯爵邸家構内に置く
1909年ー創立20周年記念会を上野精養軒に開き朝野の名士を招待す。来会者3百余名空前の盛事なり 当時会長は護得久朝惟
1910年ー仮事務所廃止
1910年ー護得久朝惟会長提案による沖縄青年会会友会発会式を風月において挙行す
1910年ー護得久朝惟会長辞任、後任会長に漢那憲和
1911年ー寄宿舎設置補助交付の件が沖縄県会を通過、翌年より2ヵ年に亘り金壹萬円也下付せらる。当時日比重明知事、高嶺朝教県会議長、岸本賀昌学務課長
1912年ー沖縄青年会会友会を社団法人とし沖縄育英会と改称す
1913年ー寄宿舎落成式挙行。沖縄県明正塾と命名す 東恩納寛惇舎監に推薦さる
       その後1923年に東恩納寛惇、舎監を辞任、神山政良が常任管理委員に推挙さる
       1928年、神山政良、舎監を辞任、比嘉良篤、後任に推挙さる
       東京沖縄県人会と改称す、役員を理事制度に改め漢那憲和理事長に推薦さる
       □1925年5月ー京浜沖縄県学生会結成
1927年ー役員を会長制に改め、新城朝功が会長に当選し神山政良、奥島憲仁が副会長に当選す 神山副会長辞任
1928年
11月11日ー京浜沖縄県秋季総会、会長に尚謙(慶応大学)、副会長に赤嶺康成(高等師範)
□1929年
5月ー京浜沖縄県学生会秋季総会を新宿白十字堂に開く。伊波普猷「方言に現れたる土俗」講演。役員改選で会長に小嶺幸雄(早稲田大学)、副会長に福地唯義(慶応大学)。
6月2日ー京浜沖縄県学生会春期総会を新宿白十字堂ホールに開く、佐藤惣之助の「琉球旅行」の話
1929年ー役員改選さる 会長に渡口精鴻、副会長に比嘉春潮、翁長良保
□1930年
7月ー小川町の多賀羅で在ハワイ同胞母国観光団歓迎会、主賓の金城珍栄以下10余名、県人出席者30余名。
11月9日ー京浜沖縄県学生会秋季総会を神田駿河台下白井喫茶部2階で開く、渡口精鴻、比嘉春潮の談話、女子部の会長に豊川とみ
□1931年
3月19日ー漢那憲和代議士、移民会館建設の準備成功し帰国
4月29日ー大蔵省参事の神山政良、名古屋専売局長に栄転さる。
5月17日ー神楽坂福寿倶楽部で東京沖縄県人会春季総会、役員改選 会長に渡口精鴻留任、副会長に奥島憲仁、恩河朝健
1932年ー明正塾廃止
1936年ー5月、本会沿革及び名簿を謄写す
1936年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1937年ー東京沖縄県人会(芝区虎ノ門会館 久高特許事務所内)『会員名簿』作成頒布  
1938年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1940年ー東京沖縄県人会『会員名簿』     

大宜味朝徳は海外研究所を設立し『我が統治南洋群島案内』『最近のペルー事情』『最近の布哇事情』などを発刊した。1933年1月に南島社(東京市本郷区蓬莱町5)から郷友版『南島』紙を発行する。3号(1933年3月)に「東京琉球泡盛商一覧」が載っているのを始め平敷本舗主人の平敷安用の「「東京に於ける琉球泡盛の今昔」、東京での泡盛委託販売30年の入江藤五郎の「泡盛の黄金時代」、「泡盛界に躍進する三島本舗主・川村禎二君」が載っている。また泡盛商広告に崎山商店(崎山喜昌),うるま本店(金城時男)、琉球古代焼・花瓶置物・琉球漆器・琉球玩具も扱う仲本商店(仲本宗厚)がある。

『南島』4号に「知念松一君、沖縄写真帖計画」が出ている。知念松一は8号の個人消息で「大阪市港区八雲町4で関西沖縄新聞創刊」とある。また空手講習会、南島談話会、泡盛組合、東京沖縄県人会の集会も紹介されている。1934年2月『南島』10号の集会欄に「名古屋県人会(比嘉康進)が神山政良顧問で万歳三唱、舞踊、空手あり」と報じられ、8月の『南島』13号には稲垣国三郎氏の義挙として「大阪稲垣愛日小学校長は6ヵ年間沖縄師範主事として勤務したことがあるが久松五勇士の快挙につき種々尽力、公にし且つ映画化して南島男子の意気を顕揚せしめた。この義挙に対し在阪県人有志の我喜屋宗信、山城興善、下地玄信、平尾喜代松、真栄田勝朗、幸地長堅らが大いに協力した」が載っている。ほかに『南島』の個人消息欄には上原美津子(中央電話局教師)、伊波普猷長男國男君目出度本年度二中に入学、また久志芙沙子の随筆がある。


1936年10月27日午後5時から、神田区小川町の多賀羅亭で東京沖縄県人会臨時総会が開かれた。定刻までに90人が集まった。先ず神山政良会長が開会を宣した後、会則改正の必要を説明。そして新会則案を提出し、副会長の八幡一郎がこれを朗読し審議に入った。神山政良が会長に再選。あと会食。その後に漢那憲和、渡口精鴻の旧会長、幹部の労を謝し、大城兼義がパンフ「沖縄県回生の要訣」を手に憂郷の熱弁を振う。午後10時、大城兼義の音頭とりで「東京沖縄県人会万歳」を三唱して和気藹々のうちに散会した。

1937年
東京沖縄県人会会則
第1条  東京沖縄県人会は東京府下在住の沖縄県人を以って組織す但し府外在住者又は沖縄県に縁故を有する他府県人にして入会を希望する者は之を会員となすことを得
第2条  本会は会員相互の懇親を図り且つ沖縄県人の向上発展に貢献するを以って目的となす
第3条  本会は下の事業を行う
      1、会報の発行
      2、会員の慶弔
      3、県出身優良学生並びに篤行者の奨励表彰
      4、県人会館の建設
      5、其の他第2条の目的達成上必要と認むる事項


東京沖縄県人会役員
会長ー神山政良 副会長ー大濱信泉、八幡一郎
幹事ー安次富松蔵、伊元富爾、伊豆見元永、井上寛令、我謝秀裕、久高将吉、高嶺明達、高良憲福、仲吉良光、仲原善忠、比嘉良篤、比嘉春潮、船越義英、真玉橋朝起、宮城清、饒平名智太郎
顧問ー伊江朝助、伊波普猷、伊禮肇、大城兼義、漢那憲和、渡口精鴻、東恩納寛惇、尚亘、長嶺亀助、仲宗根玄愷、銘苅正太郎、花城永渡、山本實彦
評議員ー石原三覧、石嶺傳亮、石川正通、池城安信、大城兼真、大城朝申、大宜味朝徳、奥島憲仁、奥間徳一、翁長良保、親泊朝輝、恩河朝健、嘉手苅信世、金城時男、国吉良實、久志助起、国吉真俊、崎原當升、志村宗徳、島袋全達、平敷安川、津波古充計、仲里朝章、仲兼久長太郎、新田宗盛、比屋根安定、宮城幸安、宮城新昌、山川朝賢、山内朝常、山川政功、森田孟睦、読谷山朝宣


東京葛飾区在住の島袋和幸氏の調査によれば、1886年、アメリカ船ゲーリック号でサンフランシスコに到着しミシガン大学準備のため友人らと下宿していた粕谷義三が、友人たちと協同で週刊邦文新聞『第十九世紀』を発行した。後に粕谷は大学を終えて帰国、板垣退助の日本自由新聞社の主筆をつとめた。第5回総選挙で衆院議員に当選、立憲政友会に所属し埼玉支部長もつとめた。粕谷は埼玉県入間市藤沢の出身、その市民会館前に銅像がある。その粕谷義三の知遇を得たのが沖縄美里出身の大宜味朝徳で、粕谷の協力の下で1922年12月に週刊『埼玉公論』紙を創刊する。大宜味が1926年に『沖縄及沖縄人』を発行したのは前回記した。

1921年10月ー沖縄協会創立
沖縄協会創立趣意書
本県は地理上の関係よりして古来本土との交通稀疎にして制度習俗亦従って異なるものあり明治維新後他府県同様法治の制を布かれしも猶各種の関係に於いて特殊の点在するものありしも今や県勢の振興発展は制度に於いて特例なく各般の施設亦他に比し敢えて遜色ありと言ふに非らざるも只だ本県事情の正当なる紹介を得ざる為め較もすれば他の誤解を招き惹いて損失を蒙ることすくなしとせざるものあり更に遺憾とする所は本県関係の重要懸案にして中央と連繋を要するもの益々繋きを加ふべきに而も之に処する何等機関用意の設けなきこと之れなり為めに凡ての企図策応によるべきなく且つ機を逸するの憾みあり之を以って吾が沖縄を広く江湖に紹介し且つ中央との連繋を採る機関の必要は久しく唱導されしも機の熟せざるものありしが機運の際会は之が創立を県内外在住の識者諸賢に提唱するの急に迫るものあり冀くは各位の賛同を得て本県将来の振興発展に資せんことをー大正十年十月。

役員
総裁・床次竹二郎 会長・和田潤 副会長・我如古楽一郎  理事・金城清松、黒木一二、崎浜秀主、銘苅正太郎、伊江朝助、大濱用要、山城五郎、宮城栄喜、伊仲浩、大城亀作、新垣牛一、盛島明長

1922年8月24日、沖縄県庁会議室で沖縄協会第4回理事会ー和田会長挨拶。東京市に沖縄協会支部設置並びに平和紀念東京博覧会の沖縄売店(出品者ー丸山漆器店、米次漆器店、漆器組合、太原漆器店、黒田理平庵、渡久地商店、新西商店、津嘉山商店、西田商店、渡慶次商店、食品会社、古賀商店、酒造組合、水産組合、上運天令儀、時志商店)の状況報告□会議参加者・和田会長、我如古副会長、理事は崎浜秀主、黒木一二、金城清松、山城五郎、宮城栄喜、桑原一郎、新垣牛一

沖縄協会在京会員
安慶名徳潤ー淀橋町柏木、新崎康ジョー小石川区下富坂、安谷屋繁ー小石川区茗荷谷、千原成梧ー青山原宿、東恩納寛惇ー小石川区水道橋、国吉良名ー麻布区、銘苅正太郎ー麻布区六本木、仲宗根玄愷カイー小石川区関口台、仲村政人ー牛込区原町、高山徹ー下渉、上運天令儀ー神田区今川小路

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1983年3月 伊佐常喜(尼崎市)『遥かなる星のかなたに』「1940年6月30日ー伊良部村の連絡船『伊良部丸』沈没事件で70数名の犠牲者」


1978年8月 新里清篤編『記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸』対馬丸遭難者遺族会

ヒーサン(寒い)、ヤーサン(ひもじい)、シカラーサン(寂しい)
〇沖縄から本土への学童疎開は1944(昭和19)年7月7日、政府の緊急閣議で決定した。この日サイパン島が玉砕、民間人を巻き込んだ戦闘は衝撃を与えた。次は沖縄である。閣議決定は「本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を7月中に引き揚げさせよ」であった。鹿児島県知事へも奄美群島からの引き揚げを命じている。疎開業務は警察部が所管となり、進められた。学童疎開は文部省の指示を受け県教育課が計画を推進した。疎開業務は容易には進まなかった。米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上で日本の艦船を沈め、多くの犠牲者が出ていることは公然の秘密になっていた。県外へ、しかも危険な航海。親たちは反対した。校長らは説得に懸命になった。一人でも多くの疎開学童を集められる教師が優秀な先生といわれた。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇他府県での学童疎開も1944年8月から国民学校初等科3年から6年生を対象に始まった。大都市への本格的空襲が予想されるようになり、被害を防ぐ観点から戦火にさらされそうな地域に居住する学童をより安全な地域に一時移住させた。防空体勢の強化、次代の戦力を培養する目的の国策として実施された。具体的には東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、大阪、神戸などから約45万人の学童が34都道府県の旅館や寺院など約7千カ所に疎開した。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇1943年4月、新里清篤は妻の千代子と共に本部国民学校にへ赴任した。翌年7月にはサイパン島が玉砕、間もなく沖縄県内政部長名で「学童集団疎開実地要綱」の通報が学校に届いた。立場上、新里は「父兄、学童に疎開を呼び掛けるには、まずわが家族を率先させねば・・・・・・」と考えた。鹿児島への海路は既に何隻もの船が撃沈され、”魔の海„と化しており、船旅は一大決心を必要としていた。対馬丸には千代子、長男、二男、長女の3人の子供、そして「孫が疎開するなら、自分も」と言ってきた母親のナベの5人が乗船、全員が帰らぬ人となってしまう。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1995年5月 琉球新報編集局学童疎開取材班(池間一武、照屋直、崎原孫雄)『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1913年 第一大里尋常小学校の分教場として御殿山に開設され,1941年 与那原国民学校として独立校として開校された。→与那原町立 与那原小学校

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会/新垣隆一2代与那原国民学校長(1943年の教職員名簿に「與那原國民学校 校長 正七 六待一五六〇加 新垣隆一」)

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会
 上原敏雄・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」1944年8月15日ー疎開申込児童188名、引率教員、養護婦、世話人、合計218名が親川に集合し、トラック3台に分乗して那覇に向かった。那覇では宿舎浦崎旅館に男子、那覇旅館に女子、津波旅館に女子と家族が分宿して乗船待機をした。8月17日ー「いかだ用の棒と縄の準備をせよ」との達示で海上輸送の不安を感じた父兄が、18日早朝、疎開取り消しのため宿舎に殺到して混乱状態になった。新垣隆一校長の出覇、父兄会、大多数取消し、荷物整理に津嘉山朝吉先生を主任に全力を注いで下さった。
 残り児童95名、引率関係者合わせて119名、8月21日午後7時ー和浦丸(那覇の子どもたちの荷物も乗せる)に乗船。左右に2隻の護衛艦の5船団で、時折飛んでくる飛行機に守られ、航海を続ける。22日夜半ー僚船対馬丸の悲報、最悪状態。魚雷が左右に白波を立てて、舷めがけてやって来る。ジグザグの航路・・・(略)1946年10月26日帰還。那覇港に降り立つとDDTの洗礼を受け、トラックに乗せられ、懐かしい荒れ果てた与那原を右手に見ながら久場埼の収容所に下り立った。玉那覇栄三先生に迎えられ感激の涙がしみ込み、実にうれしかった。一夜明かし、あこがれの与那原へ向かった。変わり果てた親川で、子どもたちを父兄に引き渡すことが出来たことを、疎開関係各位に心からお礼を申し上げる。帰還を迎えて下さるはずの新垣隆一校長は戦死、佐久本嗣矩校長先生ほか、疎開児童の父兄方に迎えられ、帰還報告を済ませた。児童たちと引率教員は、佐久本先生を校長とする与那原初等学校所属となった。

 安谷屋勇・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」昭和19年。それはよい年ではなかった。日本軍は南方戦線で次々と敗れ、7月7日にはついにサイパン島が陥落して、米軍の沖縄上陸は必至の状況になっていた。すでに沖縄には守備軍として、球部隊、山部隊、石部隊、武部隊の約10万に及ぶ精鋭が配備されていた。国民学校はいずれもその兵舎に併用され、兵隊と児童の雑居で、正常の授業はできなくなっていた。与那原国民学校にも部隊の一隊が駐屯していたが、その行事板には米軍上陸予想月日が掲示され、上陸近しを感じさせるほど、戦局は緊迫していた。
 8月21日ー焼けつくような酷暑の中、那覇港近くの西新町広場に集結した。何しろ一般疎開を含めて約5千人に及ぶ大集団に、それを取り巻く見送り人で混雑を極めていた。(略)港外には護衛艦二隻と輸送船三隻の、計五隻編成の船団が待っていた。輸送船はいずれも、陸軍所属の老巧化した数千トン以上の貨物船だと言われていた。それは和浦丸、対馬丸、暁空丸であった。島尻地区は最初、対馬丸に割り当てられていたが、いつの間にか和浦丸に変更され、対馬丸には那覇地区が割り当てられていた。対馬丸は僚船三隻中、最も外観が良かった。真偽のほどは不明だが、那覇地区のクレームによって変更されたとのうわさが流れていた。船団は午後7時ごろ錨を上げ、ゆっくり動き出して港を後にした。行く先は長崎港、疎開先は熊本県日奈久町である。・・・

 津嘉山朝吉・引率教諭「与那原国民学校第二次学童疎開」わが子を戦火にさらすより疎開させようと、学童疎開を希望する残余の生徒が集められた。時の新垣隆一校長の強い要請により、最終的に私が引率教師となった。昭和19年9月15日には、学童疎開第二陣(学童数40人、安里国民学校の5人を含む)として、輸送艦「室戸丸」で那覇港を出航した。室戸丸が最後の学童疎開船だったようだ。9月24日ー室戸丸、鹿児島に入港(錦生旅館に投宿)。9月30日ー疎開先の熊本県湯浦町(現芦北町湯浦)に到着。宿舎は寿旅館。湯浦国民学校に転入。

対馬丸犠牲者(1、484人)の慰霊碑・小桜の塔/対馬丸犠牲者「刻銘板」与那原出身は瑞慶村マカト、瑞慶村光子、長嶺澄子

対馬丸犠牲者「刻銘板」粟国出身は玉寄オツル、玉寄マサ子、玉寄恵美子/海鳴りの像-赤城丸犠牲者(406人)・嘉義丸犠牲者(368人)・開城丸犠牲者(10人)・湖南丸犠牲者(577人)・台中丸犠牲者(186人)

1983年4月雑誌『青い海』№122 「座談会ー海の戦後はいつ終わるー戦時遭難船の遺族は訴える」出席者・湖南丸遺族会・赤嶺広吉、大城敬人/嘉義丸遺族会・吉本英吉、仲宗根トヨ/赤城丸遺族会・又吉久全、翁長春元 司会・玉城朋彦


儀間比呂志「モニュメント『海鳴りの像』戦後の沖縄の心は『戦はならんどー』である」

     
写真ー全員対馬丸に乗り込んだ学童たち。後列左から4人目 山里昌男14歳(翁長良明所蔵)

 「日の本」2014年8月16日12時33分秋篠宮ご夫妻は16日、長男・悠仁さまらお子さま方と東京・新宿の京王プラザホテルを訪れ、戦時中に約1500人が犠牲になった「対馬丸事件」の慰霊の集い「学童疎開船を語り継ぐつどい2014」に出席した。会場で、秋篠宮ご一家は「対馬丸事件」の生存者らとともに黙禱(もくとう)し、犠牲者をしのんだ。続いて、沖縄県から参加した小学生が、生存者の仲田清一郎さん(78)に質問するコーナーがあり、悠仁さまは長女・眞子さま、次女・佳子さまと熱心に聴き入っていた。また、ご一家は対馬丸事件関連の展示も鑑賞。悠仁さまは紀子さまの説明を受けながら、生存者が当時の様子を描いた絵などに見入っていた。

 仲田清一郎2020-5-12 秋篠宮ご一家の前で20分間対馬丸についてお話致しましたが、主催者から与えらた時間内ではとてもお話しできるものではなく、今でも心残りがしています。その後も秋篠宮様にはお会いする機会がありましたが、TV画面と違って、男前といった感じでした。また紀子様は琉球舞踊を習われた方で、外間守善先生のセミナーに参加され私も近くで拝見しました。また小学2年生の悠仁親王が気を付けの姿勢で私にお辞儀をされたのと、20分間姿勢をお崩しにならなかったのも驚きでありました。


1990年6月 『川嶋紀子さんの魅力のすべて』ブレーン出版/1941年2月 『元大阪市長池上四郎君照影』元大阪市長池上四郎君彰徳會

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芙美子夫人、娘の前田ちひろ那覇市議会議員 

同志社大学入学のためとったパスポート


前田政明氏の手帳


右が前田政明氏


右が前田政明氏

右が前田政明氏


前田千尋 日本共産党那覇市議会議員
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○2012-6-20昨日、沖縄県立図書館に行く途次、クルマを運転していた京都時代から交友がある前田氏の奥さんに出合った。しばらく行くと今度は前田氏の娘さん(京都時代に赤ん坊のころから知っている)が父親の選挙応援のマイクを握っていた。さて、本日は県議選の投開票である。新報、タイムスも社説で、ノダ首相の原発再稼働表明について「神話の盲信を繰り返すのか」(新報)「時計の針を元に戻すな」「会見で首相は『原発は重要な電源』と言い添えている。これでは脱原発に本気で取り組む気はない」(タイムス)と正論を述べている。そのノダドジョウと息が合っているのが沖縄カジノチジ県政。果たしてオキナワ県民(自衛隊員も含む)はどう捉えているか、「沖縄のこころ」がまだ生きているのか今日判明する。もちろん泊小で前田氏に投票したのは言うまでもない。

〇2013-2-24沖縄文化の杜で24日昼。平良社長と粟国島からの帰りのフェリーで一緒だった故・白保館長の思い出を話していたら、テレビから前田氏死亡のニュースが飛び込んできた。夕方前田氏の自宅を訪ねたら不在。真喜志好一氏も来ていた。

〇沖縄県議 妻と釣り中に死亡
 24日午前5時すぎ、沖縄県本部町崎本部の港の護岸で釣りをしていた、沖縄県議前田政明さん(65)がいなくなったと、妻が119番した。県警や地元消防が捜索、午前5時20分ごろに前田さんが海に浮いているのが見つかり病院に搬送したが、死亡が確認された。本部署によると、前田さんは妻と一緒に釣りに来ていた。妻は午前3時半ごろに前田さんの姿を見ており、その後に誤って海に転落した可能性があるとみて調べている。(スポーツニッポン)


左が前田政明氏

○2004年5月22日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網(23)・『都沖青』結成のころ」
□(略)魔都・新宿ではダダとかシュールに凝っていたが、1969年、京都に移ると伝統文化を考えるようになり、沖縄出身の学生たちと「都沖青」を結成した。そのころの友人に大城敬人氏(現・名護市会議員)や前田政明氏(元・那覇市会議員)が居た。前田氏は私の職場(京都駅近鉄名店街・紅屋)で皿洗いのバイトもやった。大城氏や前田氏が「人民に奉仕する」という責任感を、無責任に「自己責任」と騒ぐ世にも持ち続けているのには驚く。

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1940年12月 『月刊文化沖縄』12月号

表紙 金城安太郎「農村の乙女」
大日本良書推薦会代理部「特許印判付万年筆」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏
特輯口絵写真「壺屋」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カメラ/本社写真部・・・・・・・・・・・(1)


特輯口絵写真・南島余情「守礼門」「デパートの南国娘」「漆喰の屋根」・・・・・・カメラ/太田安敏・本社写真部・・(2)(3)(4)



神祟(神罪)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士  12-13
琉球人物史伝ー勇敢・奥濱船頭 バルチック艦隊最初の発見者・・・・・・…・・・・14-15
識名園・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮里浩司 15
地名考二つ三つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城貫 16-17

本山萬吉(馬天居士/馬齒山人)
1910年11月7日 午後11時半ごろ佐敷尋常高等小学校(本山萬吉校長)に於いて火災。校長は校舎と棟続きの自宅に病気の妻と子どもが居たが真っ先に学校に飛び込み書類を持ち出したが御眞影は焼失した。妻と子どもは村民に助けられた。御眞影焼失で懲戒免職となり久米島へ左遷。以後、座間味小校長を務める。



1915年7月 親泊朝擢『沖縄教育』第百二号 「編輯だより 4月26日 久米島の本山萬吉君より『夜学教科書久米島』の寄贈あり、謄写版摺3枚にて、編輯室便、時事、国語、算術、農業、文苑、雑報に分ち、趣味あり且つ廻覧雑誌として有効なるものなり。」

1931年初夏 本山裕児、欧州からの帰途、シンガポールに立ち寄る。→1942年2『月刊文化沖縄』本山裕児「シンガポール=旅の独白・回想=」・・・23

1938年5月26日『琉球新報』「金口木舌」
○馬天居士本山萬吉翁は昨日突然郷里佐賀に引き上げた▼豊見城村の有志は前日之れを聞き別れを惜しみ▼宜保成晴氏瀬長清氏等有志村長区長送別の宴を張った▼席上翁は沖縄県は去りたくないが長男裕児が応召される時手足纏いひになっては国家の為めに相済まぬと赤誠を披瀝した・・・▼翁は本県初等教育の功労者にして退職後豊見城に隠棲▼悠悠自適馬天居士のペンネームで本紙文芸欄に健筆を揮ひ、其の辛辣なる皮肉と特種の味は読者に魅力を投じた▼然して翁の足跡を見ると佐賀魂即ちハガクレ精神が躍如として其の言行に現はれた▼佐賀士族には昔から特種の精神が横溢し▼孟子の「富貴も淫すること能はず、貧賎移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ精神を孕んでいる。・・・


1938年5月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(1)」

1938年6月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(2)」写真ー本山萬吉(馬天居士)

1940年12月『月刊文化沖縄』第一巻第五号 馬天居士「神崇(神罪)」・・・12  「琉球人物史伝 勇敢・奥浜船頭ーバルチック艦隊最初の発見者」・・・14


本山萬吉『馬天居士集』

本山萬吉-1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。

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1967年2月25日 第9回文春講演会(講師/黒岩重吾①・梶山季之②・加藤芳郎)
①黒岩重吾くろいわじゅうご[生]1924.2.25. 大阪[没]2003.3.7. 西宮
小説家。同志社大学に学び,在学中,学徒動員で出征,ソ満国境で敗戦を迎えた。さまざまな職業を転々としたのち,同人誌『近代説話』に参加,『背徳のメス』 (1960) で直木賞を受け,作家として認められた。→コトバンク


大森実 おおもり-みのる
1922-2010 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正11年1月13日生まれ。昭和20年毎日新聞大阪本社に入社。ニューヨーク支局長,ワシントン支局長をへて,37年外信部長。ベトナム戦争報道「泥と炎のインドシナ」の記事が駐日アメリカ大使から抗議をうけ,41年退社。42年「東京オブザーバー」紙を創刊したが,45年廃刊。のちアメリカにすんで活動。平成22年3月26日死去。88歳。兵庫県出身。神戸高商卒。著作に「国際事件記者」「戦後秘史」など。→コトバンク


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月刊「噂」──昭和30年代後半~40年代の代表的な流行作家である梶山季之が、自身で経費を負担して発行しつづけた月刊誌である。「噂」は、文壇の知られざる話題を紹介し、マスコミ批評をいちはやく手がけるなど、後の出版界に多大な影響を与えた。
梶山季之 かじやま-としゆき
1930-1975 昭和時代後期の小説家。
昭和5年1月2日朝鮮京城生まれ。ルポライターとなり,「週刊文春」でトップ屋として活躍。昭和37年産業スパイ小説「黒の試走車」で文壇にデビュー。推理小説,風俗小説,時代小説などの分野におおくの作品を発表した。昭和50年5月11日死去。45歳。広島高師卒。作品はほかに「赤いダイヤ」「李朝残影」など。→コトバンク

③加藤芳郎かとうよしろう[生]1925.6.25. 東京,代々幡[没]2006.1.6. 東京,新宿
まんが家。14歳でまんが家を志して東京府立第六中学校夜間部在学中から各誌に投稿を続け,1941年近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し 1等となる。太平洋戦争時は川端画学校に学ぶが中国に出征,戦後は東京都公園緑地課に勤めながらまんがを描き,1947年に独立。 →コトバンク

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『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)は、1712年(正徳2年)頃出版された日本の類書(百科事典)。
編集者は大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であった。中国の『三才図会』を範とし、いわば絵入りの百科事典である。全体は105巻81冊に及ぶ膨大なもので、各項目には和漢の事象を並べて考証し、図を添えた。本文は漢文で解説されている。三才図会をそのまま写した項目には、空想上のものや、荒唐無稽なものもあるが、著者が医師(もちろん漢方医)であるだけに、東洋医学に関する記事は非常に正確で、鍼灸師の中には、これをもっとも信頼できる古典と見る人もいる(→ウィキペディア)




『和漢三才図会』「龍蛇部」

1951年5月『南方熊楠全集』1 十二支考(1)乾元社
○龍の起源と発達ー1867年版ゴルトチッヘルの希伯拉鬼神誌に、聖書に所謂龍は雲雨暴風を蛇とし、畏敬せしより起こると解た。亜喇伯人マスーヂー等の書に見る海蛇(聖書の龍と同根)は、其記載旋風が海水を捲上る顕象たる事明白で、其を我国でも龍巻と云ひ、八雲の立つ同様下から立ち上がるから龍をタツと訓み、乃ち旋風や龍巻を龍と云たと誰かから聞いた。・・・・

1979年12月 吉野裕子『ものと人間の歴史 32 蛇』法政大学出版局
○たとえば隣国中国の天地開闢の創世神は、伏犠・女媧の陰陽神であったが、この二神の神像は人間蛇身の兄弟神で、しかもその尾を互いにからませあっているから」夫婦関係を示している。要するに中国の祖神は蛇なのである。この蛇の夫婦神は劫初の洪水をのがれ、天の裂け目をつくろって平和をもたらし子孫をのこして栄え、人間の祖となったのである。このように蛇は人間の祖先にまでたかめられるのに対し、キリスト教では、性を人類の祖先に教えた蛇は諸悪の源、原罪をつくったものとして邪悪の権化と見なされ、多くの聖画の構図にみられるように天使の足は永劫に蛇を踏みつづけている。 出雲大社竜蛇神図


1982年7月号『遊』「龍の美術誌」




1987年3月 『龍の物語』新宿書房




2002年4月 土屋禮一『龍の本』ビジョン企画出版社

2015年3月 秦恒平『湖(うみ)の本 123 繪とせとら日本』「龍蛇の問題ー『龍の研究』といった本があるかどうか、無くはあるまいが、まだ目にしたことがない。にもかかわらず、『龍』に関心をもってきた。干支の『辰』も、関心に含まれてはいる。しかし根ざした思いとしてはあくまで『龍』である。と同時に、龍頭蛇尾ともいう。根はひとつで、おもむくところ、必然『蛇』にも注意せざるをえない。現実問題として、『龍』の問題は余儀なくむしろ『蛇』を介して思案せざるをえない。・・・」

伝説の地(共興地区東小笹) 
 名主は、龍神(りゅうじん)を深く信仰していたので、毎日海岸に出てお祈りをしていた。ある日のこと、いつものようにお祈りをしていると龍神が現れ、「日頃、お前の信心深いのには実に感心している。今日は龍宮城(りゅうぐじょう)へ招待しよう。私の後について来なさい」と言った。信仰厚い名主は、招かれるままに龍神の後をついて行った。青い瓦、朱塗(しゅぬ)りの柱、美しい彫りもので飾った回廊(かいろう)、今まで見たことのない、宮殿であった。珍しい飲み物や食べ物、それにすばらしい音楽、美しい踊り。名主は、龍神から手厚い持て成しを受けた。何もかもが夢を見ているようで、いつの間にか、数日がたってしまった。→千葉県匝瑳市

2016年1月8日 若狭の龍神





1992年6月『新生美術』10号
山里永吉×浦崎永錫□古きよき美術放談ー浦崎「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺激になったのだと思うネ。」 山里「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地で絵をかく人には若狭町出身者が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、若狭町は芸術家の輩出する町だネ。これは若狭町、漆器の影響だと思うな。」  浦崎「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺激と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町灣小に出て夕日に見とれていたものだ。・・・・・」 

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2019年5月29日『沖縄タイムス』「那覇市民ギャラリー『喜名朝駿写真展』魅惑の国ミャンマー」/2019年5月31日ー喜名朝駿氏と作品


5月26日 午後2時~5時 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)講堂(2階)「戦後うちなー御万人ぬ運動、ちゃーし考げーが-新崎盛暉『沖縄同時代史』(全11巻)読でぃんじゃびたん-」


2019年5月25日(土)18:00~19:30 フォトネシア沖縄講座「粟国恭子:『宮古』をめぐる写真文化史ー終戦直後を中心にー」[場所]〒900-0013 沖縄県那覇市牧志1-3-18 エトワール牧志1F(パラダイス通り沿い) INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab.[参加費]500円

5/18(土)17:10-19:45 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)講堂(2階)「辺野古を止める構想力ー変わりゆくアジアの中で沖縄はどうするのかー」



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日 16:00~ 榕樹書林トークイベント「「反復帰論と今日の沖縄」出演:新川明(元沖縄タイムス社長)×川満信一(詩人)×仲里効(社会批評)



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日『仏陀の小石』刊行記念トーク&サイン会。著者で芥川賞作家の又吉栄喜、ゲストに歌人・小説家の佐藤モニカ。/左から高良勉さん、新里彩さん、赤嶺なおみさん


5月4日、5日ー沖縄県立博物館・美術館正面入口前「ソテツのおもちゃづくり」


 2019-4月30日~6月23日 沖縄県立博物館・美術館「新収蔵展」


仲嶺貞夫氏(琉球箏曲盛竹会会長)/田名真之氏、金城善氏


2019-4月30日 沖縄県立博物館・美術館

1929年年2月14日 シカゴで聖バレンタインデーの虐殺(英: St. Valentine's Day Massacre)
関連〇那覇中学校在学のころテレビで「アンタッチャブル」を見た。エリオットネスを中心とする「正義の味方」アメリカ財務局特別捜査官の活躍を描いたものでいかにも憎々しい「公衆の敵№1」のカポネ像が定着したが、カポネは公衆の酒需要に応えただけで、人間をアメリカ軍の日本・沖縄無差別空襲やベトナム、イラク攻撃のように無差別に人間を殺したわけでもない。カポネも貧しいイタリア・ナポリ移民の子としてニューヨーク・ブルックリンので生まれたことは後に知る。現実の沖縄駐留アメリカ軍兵士の犯罪とダブって見え、アメリカという国は、最近は日本もそうだが、犯罪や戦争までも企業化(マフィア化)にしてしまうものだと妙に納得した記憶がある。長じてカポネ映画も5回見た。カポネに興味があるのは少数派だと思ったが、今でもグーグル検索で人気のある人物で画像、動画も豊富だ。カポネの名前はアメリカ人なら子供でも知っている。
 1964年、東京神保町で入手した中野五郎『ギャングの季節』(1961四季社)、アメリカギャング史の入門書である。□犯罪都市シカゴと全米禁酒法時代の悪夢ー現代アメリカの代表的詩人カール・サンドバーグは、煤煙と鋼鉄の大都会を熱愛して有名な『シカゴ詩集』の中で「世界のための豚殺しや工作職人や麦刈り人夫や鉄道工夫など・・・・・大きな肩を持った都会だ」とシカゴの民衆性を弁護している。しかし、同じアメリカのある評論家が、「シカゴには平和がない。それは抑制されない恐怖と光明の都会である」といみじくも喝破しているように、シカゴこそ自由の国アメリカの明暗をもっとも強烈にかつ露骨に表現した巨大な商業都市であり、偉大な文化都市であり、そして物凄い犯罪都市なのである。(略)
こういう雰囲気の中に、アメリカ社会救済事業の母ジェーン・アダムス女史は1889年に社会改善運動(シヴィック・リフォーム)の烽火をあげて有名な「ハル・ハウス」をシカゴの貧民窟の真中に開設し、またシカゴ大学はじめノース・ウェスターン、ロヨラ、ドポールなどの著名な大学が平和主義と社会学によって権威を高めているのも注目されるであろう。それにシカゴ自慢は1893年のコロムビア大博覧会、1933年の20世紀進歩大博覧会、稀観本専門のニューベリー図書館、フィールド自然博物館、オペラ劇場、マーシャル・フィールド百貨店、アメリカ最大の新聞「シカゴ・トリビューン」など、犯罪都市シカゴの背景はあまりにも文化的であり、また、商業的であると言えよう。ここにシカゴの秘密があり、ガンサーのいわゆる「華麗な矛盾」の悪の華が咲き乱れているのだ。


1984年2月 『徳間書店の30年』徳間書店
 大阪での青年会活動で、『TOWN』の岡村昭彦のハワイのウチナーンチュを思い出した。東京晴海の日本離島センターで機関誌『しま』を貰って帰途、国会図書館で『TOWN』1962年2月号を請求したら特殊な雑誌なので許可に2,3日かかるという。大阪から来ているのにムチャを並べる。即止めて発行元の徳間書店を訪ねた。資料室で閲覧していると資料室責任者の川又さんが編集で使った同誌を下さった。話を聞くと同誌は折込で大きいグラビアでヌード写真が掲載されていて国会図書館の良識に触れたようであるが、もう一つが「日本一山口組の政治と犯罪」も問題となったようである。
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 『山口組ドギュメント・血と抗争』(三一書房1968年8月)にさとう・せいこうが著者を「色あくまで黒くにきび顔、身体強健にしてなお品あり。このたび、この若年の友のねばり腰の結実が初めて世に問われる。かつてTOWNという至極短命の雑誌があったが、溝口敦はそこに芽生えた企画を遂にここに草し、私はほとんど無為である。これも戦のならいであろう。いんちきノンフィクション派はいわずともがな、東映ヤクザ映画を礼讃して見せる流行のインテリ左翼、テレビ刑事に何かを仮託したつもりの似非ドギュメンタリストどこまでをも、この書が顔色なからしめんことを祈る。確かに、彼が突撃する他なかったのだ。」、と紹介している。
 私(新城栄徳)と歌舞伎町のことは「わが青春ー新宿歌舞伎町」に記している。溝口著2009年6月『歌舞伎町・ヤバさの真相』文春新書に新宿の歌舞伎町は、これまで様々に形容されてきた。不夜城、眠らない街、マフィアの棲む街、非情の街、日本の下半身、欲望の迷宮都市、外国人労働者の新租界、アジア一の歓楽街、日本一危ない街ーなど。(略)秋葉原は歓楽街とはいえないが、それでもフィギュアやメイド喫茶など「萌え」の聖地として全国どころか、世界に名を知られている。秋葉原はよくも悪くも東京の今の街である。歌舞伎町を昨日の街とはいわないが、ここ数年、中だるみの時期に入っていることはたしかだろう。中国では1978年12月の第11期3中全会で文化大革命期の失脚から返り咲いた鄧小平が、文化大革命を否定して改革開放、現代化路線へと大きく国の政治を転換した。(略)他方、日本では83年、時の中曾根総理大臣が21世紀初頭までに、他の先進国並みに留学生10万人を受け入れるとの目標を設定した。これにより中国からも日本語就学生や私費留学生が徐々に増え始めた。(略)鄧小平は92年の南巡講話で「改革開放を加速せよ」と指示し、同年10月には「社会主義市場経済」を打ち出した。前後して中国人の来日は増大し、91年4月には新宿区役所に英語、中国語、韓国・朝鮮語による外国人相談窓口ができた。

 『日刊ゲンダイ』2013-8-12 溝口敦の切り込み時評ー『自虐史観』を嘆く前に日米地位協定を何とかしろ!(略)米軍は戦後一貫して治外法権に置かれてきた。米軍兵士が人を殺そうが強姦しようが、直後に基地内に逃げ込めば日本の警察は手が出せず、日本の法律では裁けない。日米地位協定は紛う方なき不平等条約にかかわらず、戦後の自民党政府も民主党政府も官僚もアメリカのポチとして、条約改正に動こうとしなかった。

 東京での右翼、ヤクザの病理集団の資料を雑誌、週刊誌で収集してノートに貼っていたが、大阪で生活すると、ヤクザ抗争があると夕刊紙や週刊誌が特集する。紙面にはヤクザ事務所の住所もある。で、カメラを片手に確認しに出かけた。目の前に、あちこちに事務所があるではないか。北は菱の章友会、一会、金田組、藤原会、南では菱の白神組、福井組、宇田組、宅見組、浅野組など。その過程で右翼新聞社の佐々木記者と友人になり社主にも紹介してくれた。新聞社事務所を訪ねると本棚にはヤクザ資料が並んでいた。ヤクザと右翼は同じものだという。写真、破門状、襲名披露、年賀状など持って行けといわれ持ち帰った。社主は菱の田岡組長、稲川の石井理事長にも会って記事にしていた。ヤクザはシノギ以外は何でもオープンだという。

〇私(芝憲子)は神奈川県立川崎高校の文芸部にいました。(ジマンめきますがこの高校の卒業生には、作家の島田雅彦―現在の校歌を作詞、溝口敦―文芸部の先輩、哲学者の中島義道―クラスメート、などがいて、大変個性的な人が多いといわれているそうです)→「芝憲子のテーゲーブログ 2010-1-7」
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2020-12-11『沖縄タイムス』

梶山季之編集『噂』


徳間康快 とくま-やすよし
1921-2000 昭和後期-平成時代の出版経営者,映画製作者。
大正10年10月25日生まれ。「読売新聞」社会部記者。戦後の読売争議の中心メンバーとなり,昭和21年退社。その後、読売新聞時代の友人・竹井博友が社長をしていたアサヒ芸能新聞の経営を引き受け1954年に徳間書店社長に就任、週刊誌に変更して大きな成功を収めた。東京タイムズ,大映などの社長となり,徳間グループをひきいる。国際合作映画「敦煌(とんこう)」や宮崎駿(はやお)監督のアニメ映画「風の谷のナウシカ」などの製作を手がけた。平成12年9月20日死去。78歳。神奈川県出身。早大卒。→コトバンク

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1982年『青い海』新年号 109号 深沢恵子「松本つるーきびしい時代の息吹」 


□1995年10月 松本ツル『回想と随想』

1876年12月 王命により向徳宏、林世忠、林世功ら清へ密航
1879年旧8月 蔡大鼎、林世功、毛精長ら北京へ陳情に向かう  
1880年11月20日 林世功、中国の態度に憤慨自害する。

松本三益(1904年2月20日~1998年7月19日)
1904年(明治37年)2月20日、那覇市松山町2丁目57番地に生まれる。父正栄(本家の三男 林氏十世)、母ウトの長男、系図によれば林氏久米三十六姓、旧姓真栄田。八世。林世功は武装力による琉球処分に抗議し、明治13年旧10月20日北京で自決した。
1913年11月15日  林氏三十三年祭 久米平安座(大宗諱□芾 八世・世爵 美里郡大村渠地頭職 名称は松本)氏方ー眞栄田正隆は同氏を代表し来会者を歓待、遺墨書等を展観せしめ供物を配った。岸本代議士、知花朝章、仲吉朝助、伊波普猷文学士及び3新聞記者が来会した。
1913年11月16日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(1)伊江朝眞、兼島景福、仲濱政摸」
1913年11月17日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(2)伊是名朝睦、仲里朝衡」
1913年11月18日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(3)高相杰、名嘉山大昌」
1913年11月19日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(4)琉歌ー湧川朝升、高江洲昌壮、和歌ー山里永昌、屋嘉部政呈」

伊波普猷『沖縄歴史物語』null
『沖縄歴史物語』には東京版(左・1947年)とハワイ版(右・1948年)がある。東京版とハワイ版は、本文、小序、凡例、内容、写真などすべて同じものであるが、ハワイ版に総ルビがつけられていることと、附録が、東京版一篇に対してハワイ版が三篇であること、ハワイ版に玉代勢法雲による『後記』がついていることの三点の違いがみられる。本書は1928年の秋から翌年の春にかけ、ハワイおよび北米在住の沖縄人のために講演漫遊したときのテキスト『沖縄は何処へ』を参照して執筆したものである。(平凡社『伊波普猷全集』第二巻)/なほ明治13年の10月20日に、志士林世功が北京で自殺したのも清朝を動かすに与つて力があった、と伝へられているが、その当否は暫くおき、当時の思潮を窺ふたよりにもと、左に彼の自決して経緯を略述することにしよう。林世功(名城里之子親雲上、普通、官生新垣といふ)は久米村の人で、25歳の時官生科に及第し、北京の国子監に学び、明治7年業を卒へて帰国し、世子の時侍講にまでなつた人だが、明治9年の末、(略)時世の詩が2首ある。古来忠孝幾人生、憂国思家巳五年、一死猶期存社稷、高堂専頼弟兄賢。廿年定省半違親、自認乾坤一罪人、老涙憶児雙白髪、又聞噩耗更傷神。

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1923年『大阪市パノラマ地圖』図の作者は美濃部政治郎、発行者は日下伊兵衛(大阪、日下わらじ屋)

1994年3月 松本三益『自叙』「沖縄青年同盟結成と活動」
 わたしは沖縄青年同盟を結成すべく1926年(大正15年)2月ごろ沖縄に帰郷した。沖縄県民は天皇制政府の植民地支配と本土の独占資本、寄留商人(本土から移住した商人)に収奪され、低賃金と失業におびやかされていた。沖縄青年同盟は京阪神で出稼ぎにいき、労働組合に参加した経験のある進歩的労働者と社会主義的傾向の山田有幹、渡久地政馮、東恩納寛敷ら新聞記者、教員、事務職員を中心に1926年(大正15年)3月14日 那覇市公会堂で創立大会を開催した。公会堂の座席は満員になるほどの盛況であった。(略)同盟の創立大会に屋部憲氏が「さまよへる琉球人」の掲載された『中央公論』3月号を持参し、大会の決議による抗議の必要を提案された。大会運営委員会は全員賛成したので緊急動議として屋部憲氏が提案し、満場一致で採択された。抗議文は新役員に一任された。新聞記者の東恩納寛敷氏が原案を起草し新聞記者の渡久地政馮氏宅で10名位の起草委員会が討議して決定した。わたしも最後まで参加し、それを広津和郎氏に送る手はずまで助言した。

1929年 『沖縄労農タイムス』沖縄労農タイムス社(眞榮田三益)


1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙のさなか労働農民党の地方組織として労農党那覇支部が結成されたが弾圧され、翌年その再建をめざして創刊された沖縄最初の無産者の新聞。

1945年8月、国吉真哲・宮里栄輝・源武雄が早く帰還できるよう「県人会」結成を相談。宮里栄輝、熊本沖縄県人会長になる。/女子挺身隊救済で尼崎沖縄県人会結成。
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1945年 9月、松本三益が比嘉春潮を訪ね、伊波普猷を代表に推し「沖縄人連盟」結成を相談。比嘉春潮宅で、左端松本ツル、中央・伊波普猷、右隣りへ冬子夫人、比嘉春潮、松本三益
11月11日、沖縄人連盟創立総会。総務委員・伊波普猷(代表)、大浜信泉、比屋根安定、比嘉春潮、永丘智太郎
11月26日、関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄  参加・良元村(のち宝塚)、神崎川、城東、泉州、堺、和歌山       の県人会

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1947年12月ー『前衛』徳田球一「産業復興の二つの道」、松本三益「農民運動の現段階」」


1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』


写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/1955年8月  警視庁正門、左から宮本顕治、紺野与次郎、志田重男、志賀義雄、2列目中央に松本三益


1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)/1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮


1974年7月15日 那覇市民会館「日本共産党創立52周年記念集会」で中央委員会を代表して講演する松本三益/1987年10月 東京調布市で第28回「赤旗まつり」の沖縄物産店で懇談する、左より古堅美吉、瀬長亀次郎、松本三益


1975年10月 藤原美津雄『怪物民商の大戦略』国際商業出版(同書は永田 久光に依頼する予定であったようだ。)
○松本三益(日本共産党 市民・中小企業部長)に取材


1983年4月 安仁屋政昭『沖縄の無産運動』ひるぎ社

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東京築地の松本三益氏の家の前で、左・新城栄徳、右・松本三益氏。撮影・松本ツルさん。


1998年7月20日『しんぶん赤旗』

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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ。
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。
レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。

知念良秀
 2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。


 大濱聡2019-2■文学者たちの面影をたどっていたら、なぜか54年前の高校の修学旅行を思い出した。本郷の旅館に泊まったのだが、到着した日の夕刊で谷崎潤一郎の訃報を知ったことを今でも鮮明に記憶している。


饒平名智太郎②









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  私は中学時代、島袋源一郎の『伝説補遺沖縄歴史』を愛読していた。伝説だから多少神話的な要素もあった。こういった歴史書は今となっては郷愁を伴ない懐かしく私の琉球学の大半を占めている。だから昨今の客観的というか整理過剰な歴史書には郷愁を感じることはできない。だから友人たちの歴史書以外は手にすることは無い。
巻頭  琉球各王統一覧
第一章 沖縄人の祖先ー日本列島の地形より観たる沖縄/向象賢の日琉同祖論/新井白石と藤井貞幹の説/英国僧侶及ペルリ一行の観察/チャンバーレン博士の説/宜湾朝保の古語比較/亀田次郎氏の及金澤博士の言語学的考察/新屋敷教授の言語比較/久米・白鳥両博士の日本民族説/坪井・鳥井(居)・松村3博士の人種学説/北里闌氏①の言語学的観察/桐原博士②の血清学的考察/伊波文学士の考察/柳田・折口両氏の土俗学的調査/伊東・黒板両博士の調査/其他土俗の類似
第二章 天孫子王統ー開闢説/アマミキヨと東御巡禮/三地方の区分/神々出現して守護す/当時の風俗/南島と日本本土との交通/隋の煬帝琉球を招撫す/天孫氏の没落/沖縄と琉球の名称に就いて
第三章 舜天王統ー第一代舜天王/片髻伝説/鬼餅の由来/源為朝渡来に関する諸説/第二代舜馬順凞王/屋良漏池の伝説/第三代義本王/義本王の末路と南山佐久眞王子の行方
①北里闌ー国学者。熊本県生。歌道を鎌田正夫・高崎正風らに学ぶ。渡独後、もっぱら日本の古代語の研究をすすめる。昭和34年歿、90才。 →コトバンク
②桐原真一(1889〜1949)ー旧東京帝国大学医科大学を卒業。卒業生として助手を務めた後、1926(大正15)年に名大の前身、旧愛知医科大学の教授に就任した。胃鏡でがん、潰瘍、胃炎、胃下垂などの患部を直接見ようと、数百回の診断と観察を繰り返した。昭和初期、胃の中を見る検査には筒のように太く硬い、真っすぐな「胃鏡(いきょう)」が使われていた。出血や吐き気を伴うことから多くの医者に敬遠されていたが、あきらめずに研究を続け、今ののみ込みやすい胃カメラにまで発展する基礎をつくった。がんの早期発見を実現。


島袋源一郎資料

1932年
3月ー島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』沖縄書籍□「中山門建つー此年国門を首里に建て、中山と榜した。旧記によれば、中山の二字は内官柴山の進めた額であったという。因みに此の中山門は俗に『下の鳥居』と称し、県立第一中学校の南角、那覇一帯を俯下する大通りに明治の末頃迄遺存していたが、今は破壊して『上の鳥居』即ち守礼門のみ残っている。蓋し其の建築は同様のものであった」

1933年
2月25日ー『沖縄日日新聞』「守禮門・外六ヶ所國寶保存物に指定、文部省から告示さるー守禮門、所在地首里市、首里城正面の大路には元二棟の坊門があった第一門たる中山門は腐朽大破したので明治四十一年に撤去し今は第二門たる守禮門のみ残っている朱禮門は明の嘉靖六(我が大永七年)の創立にかかり爾後数次の修理を経たものである古名を待賢門又は首里門と称していたが清の康煕二年(我が寛文三年)以後『守禮之邦』の扁額を其眉間に常掲するに及守禮門と称するに至った。門の概形は支那式の三間這牌楼に似たるも彼此相違せる著るしき点は下層屋根を中断せずして一端より他端に通じて一直線に造れることである又其の構造を見るに柱の脚部は総て木の枠組みと石の挟み束とを以て二重に組固め柱の上部は押肘木より成れる一種の天竺様の斗拱を組して屋根を支承し更に中央部二本の柱は下層屋根を貫いて上方に延び茲に再挿肘木の斗拱を構え以て上層屋根を受けているかかる構造法は他に多く類例を見ざる所にして琉球建築の一特色と云ふべきものである」
5月ー『島』創刊
7月ー仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』(新光社の写真の守礼門)
10月ー東京「明正塾」閉鎖

1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される



3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」

1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』(首里市・守礼門)

1936年
7月ー沖縄県教育会附設郷土博物館、首里城内北殿に設置。

8月ー昭和会館で沖縄観光協会創立総会、会長に金城那覇市長□目標「真の沖縄の姿を内外に紹介して将来世界的観光地帯にしよう」
10月ー文部省より守礼門復旧工事のため森政三国宝調査室技術員が赴任。総工費六千八百圓うち国庫補助五千五百圓
     現場主任に仲座久雄

1936年11月19日ー古琉球の工芸品三点 昭和会館へお興入れー左からー御徳盆、花瓶台、貝摺台附食籠

1937年
1月ー国宝「守禮門」修理打合せで大岡實(工学士)来沖
○大岡實は明治33年(1900年)09月29日に現在の東京都新宿区三栄町で大岡顯三の長男として誕生する。(二人兄妹とのこと)
下記の略歴の通り、東京帝国大学工学部で建築の道へ進み、大学卒業後、文部省嘱託となり古社寺保存に携わる。大岡實は昭和41年10月大岡實先生定年退官記念事業会発刊「日本古建築の特質と私の半生」の中で「私が師事したのは、伊東忠太先生と関野貞先生です」と述べており、大学時代及び文部省嘱託時代を通して二人の恩師の感化を受けたことを表している。→大岡實建築研究所

10月ー田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』刊

1939年
4月ー日本民芸協会『月刊民芸』第1号

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 『朝日新聞』7月18日ー「生涯現役」として著作や講演など幅広く活動してきた聖路加国際病院名誉院長の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。105歳だった。 1911年山口県生まれ。京都帝大医学部卒。41年から聖路加国際病院に勤めた。同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを歴任。02年度朝日社会福祉賞。05年に文化勲章を受章した。専門は内科学。成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気の予防につなげようと1970年代から提唱してきた。旧厚生省は96年になって成人病を生活習慣病と改称し、今では広く受け入れられている。87年からは小学生を対象に「いのちの授業」を続けた。多数の著書があり、90歳で出版した「生きかた上手」がベストセラーになった。

2013年4月30日~5月5日 那覇市民ギャラリー「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。

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2012年11月3,4日の聖路加看護大学での写真展には、聖路加国際病院理事長 日野原重明先生もご来場。
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仲里正雄氏に送られた日野原重明氏の手紙と色紙

日野原重明 ひのはら-しげあき
1911- 昭和-平成時代の医学者。
明治44年10月4日生まれ。昭和16年東京築地の聖路加(せいろか)国際病院にはいり,内科医長をへて,49年聖路加看護大学長。のちライフ・プランニング・センター理事長,聖路加国際病院理事長,聖路加看護学園理事長。医学・看護学教育につくし,生活習慣病の予防やホスピス医療で知られる。平成11年文化功労者,17年文化勲章。山口県出身。京都帝大卒。著作に「命をみつめて」など。(→コトバンク)○日野原さんは1962年3月に琉球薬品、中外製薬の招きで来沖している。美智子妃の侍医としても知られていた。

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2020年3月 同人誌『南溟』8号 『南溟』同人会-〒904-2166 沖縄市古謝津嘉山町8番9号 TEL&FAX.098-934-2006

 新城栄徳 3月31日 母を自宅で介護しているので、いつもRBCラジオ「民謡で今日拝なびら」は聞いている。今日は八木政男さんの卒業ということで、上原直彦氏の声も聞けた。ラジオだから声だけであるが、幸いにも同番組の島袋千恵美さんがFB友の友で、FBで番組関係者の画像が見られる。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 3-31日本時間 月曜日を迎えましたが会社に行くでもなく、今週もまた自宅待機の、怠惰な生活の日々の始まりです。カリフォルニアは新型コロナウィルスによる自宅待機を余儀なくされて、12日目を迎えました。毎日家族と24時間も顔を合わせていると、そろそろ気分的に限界かも知れませんが、意外にアメリカ国民は素直に静かに従っているのには驚いています。この幽閉隔離生活の副作用は何かと・・・暇ですからくだらないことを考えています。このうんざりするほどの、長い自宅待機が終わるまでには、相当なカップルがお互いの荒を探し合い、離婚をするのではと予想しています。また反対に、余りにも時間が有り余って居るので、来年はきっとべビーブームが再来することも予想されます。
 
 年寄りは食べることしか話題が無く、肥満になり成人病の数値が、鰻昇りになることでしょう。コロナ災害の自宅待機の副作用は数え上げれば限が無いですが、カリフォルニアを訪れた人はお土産などで買ったことも有ると思いますが、99年の歴史の有る See’s チョコレート会社が、第二次世界大戦中に配給のために生産が停止されて以来、コロナウィルス騒動で、2回目の生産停止を行ったとのことです。理由はコロナウィルスから従業員の健康と安全を守るためと、サウスサンフランシスコのSee’s会社は発表しています。1921年にカナダからの移民の、チャールズシーによってロサンゼルスに最初の シーズストアがオープンしました。彼の妻フィレンツェと彼の母親メアリー(See’sのトレードマークである白黒のボックスの祖母の顔はMary Seeのもの)のレシピがこの会社の、基礎となっているといいます。値段と味がカリフォルニア人に好まれていた、Seeのチョコレートはしばらく楽しむことができなくなりました。庭のライラックは相変わらず甘い香りを漂わせて、次から次と開花してます。

 光山 ヨーコ 3-31????‍♂️政治家が「いくな」という場所ーカラオケ ナイトクラブ 飲食店 ライブハウス スポーツジム 屋形船 ビュッフェスタイルの会食 雀荘 スキーのゲストハウス 病院 コロナ検査 ????‍????‍????‍????市民からみた「3密の場所」ー通勤電車 バス パチンコ屋 ドラッグストア朝の大行列 自粛要請で大混雑の金曜日のスーパー  夕方のデパ地下 土日のファミレス  ランチタイムの定食屋 無駄に長い会議 防衛大学校の卒業式 あべ 小池の記者会見会場 新型コロナ対策本部  国会 委員会や本会議/「読売新聞」4-1ー東京都内で1日、新型コロナウイルスの感染者が新たに66人確認されたことがわかった。東京都の感染者数は計587人となった。東京都新宿区で深夜から早朝にかけて営業する接客業関係者のうち、少なくとも十数人について、新型コロナウイルスへの感染が確認されたことがわかった。国内有数の歓楽街・歌舞伎町やその周辺にあるキャバクラ店の女性従業や、風俗店の業務に携わる男性が多いという。「JIJI・COM」新型コロナウイルスの感染リスクが高いとして、東京都の小池百合子知事が立ち入り自粛を呼び掛けた「夜の街」。日本有数の歓楽街である新宿・歌舞伎町では、接客業や飲食店の関係者から「自粛はいいが、いつまで続くのか」「自分たちにも生活がある」と悲鳴が上がった。

  「くろねこの短語」2020年3月31日ーいやな予感がしていたんだが、なんともやりきれない。志村けんが新型コロナウイルスの犠牲になるなんて。まさか、志村のうしろにコロナとは・・・合掌!!そんな稀代のコメディアンの死を、ぼったくりバーのチーママ小池君がテメーの政治ショーに利用しやがって、大顰蹙買ってます。言うに事欠いて「最後に悲しみとコロナウィルスの危険性について、しっかりとメッセージを皆さんに届けてくださった。最後の功績も大変大きなものがあったと思います」とはねえ。
 でもって、緊急記者会見というから何事かと思ったら、「カラオケやライブハウス、中高年にはバーやナイトクラブなど接待を伴う飲食店に行くことは当面は自粛してほしい」だとさ。いやいや、不要不急の記者会見こそ自粛しなはれや、ってなもんです。ドイツのメルケル首相の爪の垢でも煎じて飲みやがれ。
 それにしても、無神経の極みとも言えるチーママ小池君なんだが、それに輪をかけて無神経なのがIOCだ。なんとまあ、新型コロナウイルスとの戦いに世界中が必死になっているってのに、能天気にも東京オリンピックの新たな日程を発表しやがりました。
 そもそも、来年の7月に新型コロナウイルスとの戦いが終息しているなんて、誰にも言えないんだよね。こんなニュースを垂れ流す新聞・TVは、なんでそこを突っ込まないのかねえ。どの新聞もTVも、すべてオリンピックに協賛してますからね。ようするに共犯ってことだ。

 「くろねこの短語」2020年3月29日ー(前略)そんな中でも、笑えるところがいくつかあって、新型コロナウイルス終息の見通しを問われて、「答えられる首脳は一人もいない。私もだ」だとさ。おいおい、だったらオリンピックの1年延期って何を根拠にしてるんだ。終息の見通しがたたなければ無意味だろう。
 さらに、現金給付に関しては、「当面のキャッシュ(現金)がない人」が対象なんだと。てことは、キャッシュがあるかないかを選別しなくちゃいけないってことだ。その作業だけでもどれだけの経費がかかることか。緊急事態ならばこそ、無条件に一律でまとまった現金給付することが必要なんだよね。
 ペテン総理の会見ってのは「やるやる詐欺」みたいなもんなんだが、そのくせ森友学園疑獄の公文書改竄の再調査はしないとキッパリなんだから、ひょっとしたら昨日の会見は同時刻に放映の森友学園疑獄がメインだったTBS『報道特集』を潰すためだったんじゃないのか・・・なんて妄想をしてみた寒の戻りの日曜の朝である。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2020-3-29 日本時間【思い出のアルバム】
 「国家非常事態宣言」が出て以来、カリフォルニアは戒厳令下のような、外出禁止令と外出制限および生活必需品の販売店舗以外の営業停止や出社禁止 などが徹底され、10日目になります。幽閉生活もいささか疲れ気味ですが、州民みなが頑張って、協力的に生活している、アメリカ国民の素直さには感心します。安倍総理は27日の会見でも、新型コロナウィルスに対して、「政府は東京都の、感染者数は人口と比べればまだ少なく、感染経路もある程度把握できているため、「緊急事態宣言」を行う状況ではないとしていて、宣言する事態に至らないと言い、引き続き感染拡大防止の徹底を呼びかける方針」とのことを言ってますが、罹患者が拡大し、爆発寸前まで待っている態度に、安倍政権のはなはだ、その日和見的な政策に呆れるばかりです。感染爆発の予兆は顕著に表れているというのに、諸外国の失敗した先例から学び、なぜ先手先手を打って機敏に行動しないのか、海外より眺めてイライラしています。

 今日の写真は2014年に東京で、友人たちが集まった写真ですが、あの頃、ウィルスとの感染戦争が世界中の人々を苦しめるとは、誰も想像しなかったことです。この写真を見ると、おだやかな何事も起こらない当たり前の生活が、何にも増して貴重な宝だと、切々と感じられてなりません。2014年の訪日はFBのお仲間のオフ会に始まり、たくさんの方とのご縁がありました。これぞインターネットの世界。アメリカに居ながらたくさんの方々とご縁ができることを、20年前までは想像もしておりませんでした人生74年生きて心底思うことは、長い生きはしてみるものです。学生時代、東京には7年近く住んでいましたが、両国駅には縁がなく、生まれて初めて訪れる両国にある『花の舞』にて、盟友の重田 辰弥さんの大手術の快気祝いに、友人が集まりました。男性陣はまずは女人禁止の土俵上にて殿方一同撮影し、お元気なった重田さんは土俵でシコを踏み、相撲をしました。
 人生 初めての「ちゃんこ鍋」を体験し、アメリカでは味わえない新鮮なお刺身など頂き、特別に「ちゅらゆーな株式会社」社長の近藤ゆうなさんの扱っている、伊是名モズクもたっぷりと頂くことができました。まーさいびーたん、くわぁちーちーさびたん。(美味しゅうございました、ご馳走様でした)両国『花の舞』での今回の会の幹事役は女性陣、右から菅原律子さん、いとうみゆきさん、近藤ゆうなさん方で、この面々すべて起業家社長で、女性の自立が目立つ頼もしい日本です。この後、夜の隅田川を眺められるバーでの二次会など、楽しい時を過ごしました。

 「くろねこの短語」2020年3月28日ー東京都の予算が成立したんだが、新年度予算に3年続けて反対していた自民党が今回はすんなり賛成。オリンピック延期が決定してからというもの、やたら接近している初老の小学生・ペテン総理とぼったくりバーのチーママ小池君の関係を考えれば、なんともわかりやすい。ようするに、コロナ・ヒステリーに乗じて、「緊急事態宣言」「首都封鎖」でタッグを組みつつ、解散総選挙&都知事再選を視野に入れているってことなんだね。でも、チーママ小池君は、「都知事は1期だけ」って言ってたなかったっけ。食えない狸だ。
 そんなことより、新型コロナウイルスだ。とうとう、1日の患者数が100人を超えて、どこまで続く泥濘ぞ、ってな状況になってきた。そんな中、WHO(世界保健機構)が「新型コロナウイルスは高齢者だけでなく、すべての世代が注意を要すると警告」したってね。何をいまさらと思う。
 そもそも、新型コロンウイルス発生の当初から、「高齢者が危ない」「若者は大丈夫」という刷り込みをしていたのが間違いなんだね。確かに、統計上からはそうした事実があったのだろうけど、未知のウイルスとの戦いの中ではそうした断定的な情報をWHOが流していることにとても違和感があった。実際、20代、30代でも死者は出ていたわけで、明らかににWHOのミスリードだったと思う。
 いまになって、メディアは「若者への情報発信」てなことを声高に叫んでいるけど、WHOからの情報を無批判に垂れ流した罪は大きいんじゃなかろうか。さんざん「高齢者が危ない」って刷り込まれてたんだから、そりゃあ若者が新型コロナウイルスを甘く見ているのもむべなるかなってもんです。WHOは、先週の会見で「君たちは無敵ではない」と若者に向けて警告したけど、遅きに失した感は否めない。
 もっとも、世界中が自粛ムードの中、女房の花見がばれても「レストランに行ってはいけないのか」と見当違いの逆切れする虚けがトップに居座るこの国では、どんな警告も馬耳東風、馬の耳に念仏ってなもんです。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2020-3-27 日本時間~パンチカードからコンピューターは生まれた~
 東京オリンピックは1年延長と決定され、一件落着と言った巷の雰囲気ですが、あとは新型コロナウィルスをどう封じ込めるかです。コロナウィルスの蔓延阻止目的で、外出自粛が出ている週末、お時間の有る方はゆっくりお読みください。
 さて、西暦の末尾が 0 のつく年の、4月1日を基準として実施している、アメリカ国勢調査(センサス Sensus)の時期がやってきました。国勢調査は米国内に住むすべての人が、郵送されてきた回答用紙に、記入投函または電話での質問回答が義務付けられています。この国勢調査の人口データに基づき、アメリカ合衆国国勢調査局が、下院議会の議員定数を各州に割り当て、また、アメリカ大統領選挙の州別における、選挙人数に大きく影響するといわれています。また回答された情報は、道路、図書館、学校の建設への投資などの参考とされます。

 最初のアメリカ国勢調査は1790年に行われたといいますが、ちなみに日本の国勢調査は1920年に始まっています。アメリカと日本では国勢調査開始に、何と130年もの差を見ますが、早くからアメリカでは合理的なシステマチック政策が、行われていたことが伺われます。アメリカの国勢調査の歴史を見ると、1903年に国勢調査局を立ち上げ、当初の集計は作表機( Tabulating machine)または会計機(Accounting machine)とも呼ばれたデータ処理をパンチカードを使い、パンチカードシステムのみでの処理を、1890年の米国国勢調査のデータ処理をしたようです。最初の国勢調査の集計業務はパンチカードシステムなどの、情報技術が活用されていて、パンチカードシステムとは紙のカードに、調査票の記入内容に対応した穴を開け、その穴の位置を機械で電気的に読み取って数えることによって集計を行うものです。パンチカードシステムは1890年アメリカの国勢調査の集計のために、アメリカ・センサス局の元職員であったホレリス(Herman Hollerith)が発明したものです。
 ホレリス式のパンチカードシステムは、その後、カナダ、ノルウェー、オーストリアなど他の国の国勢調査でも使われるようになりました。日本でも1920年(大正9年)の第1回国勢調査で、アメリカから輸入したホレリス式の機械を用いて集計したといいます。ホレリスによる集計機械の発明が発端となって、20世紀初頭には集計機械の技術開発が競って行われるようになり、ホレリスは、センサス局を退職した後、1896年に集計機械の会社を起こしました。1910年のアメリカの国勢調査では、ホレリスの機械に対抗してセンサス局職員のジェームズ・パワーズ(James Powers)らが新しい機械を開発し、それが集計に使用されます。後にパワーズもセンサス局を退職し、集計機械の会社を起こし、ホレリスとパワーズの会社はそれぞれ情報システムの企業である、【IBM】と【UNISYS】の前身となっています。初期の国勢調査の集計パンチカードから、コンピューターが誕生したのも、「必要は発明の母」を地でいった、人類の叡智を感じます。写真は庭の満開のライラックの花が、ブーゲンビリアと同居しています。

 「くろねこの短語」2020年3月27日ーぼったくりバーのチーママ小池君がこれまでの怠慢を必死で挽回しようとして「首都封鎖」をチラつかせたのに応えるかのように、緊急事態宣言を視野に入れた特措法対策本部が設置された。新型コロナウイルスの感染者が日増しに数を増やしている中、4月上旬までには「緊急事態宣言」をぶち上げてくる腹積もりなのではなかろうか。コロナ・ヒステリーに便乗した政治ショーが、これでもかというくらいに過激な言葉を伴って繰り広げられるに違いない。
 ああ、それなのに、具体的な政策のなんと貧困なことか。アメリカでは新型コロナウイルス対策として総額2兆ドル(約220兆円)規模の経済支援を決定。家計支援として大人1人に最大1200ドル(約13万円)、子供には500ドルを支給するそうだ。それに比べて、この「美しい国」では、お肉券だのお魚券だのお野菜券だのがマジで検討されている。さらに、外出自粛だってのに、旅行クーポン券とくるんだから、もうこれはギャクですね。ちなみに、全国旅行業協会会長は土建政治の自民党幹事長・二階君で、中央畜産会会長は自民党国対委員長のおばさん顔の森山君なんだね。ようするに、業界のステークホルダー(利害関係者)が裏で暗躍してるわけだ。こんな輩が発動する「緊急事態宣言」なんて、どれだけ怪しげなものか、しっかり見極めないと大変なことになりますよ。

 「くろねこの短語」2020年3月26日ーオリンピックは延期になったし、さあ、これからはコロナ・ヒステリーに乗じて自らの政治生命延命に全力を傾けようというのだろう。ぼったくりバーのチーママ小池君が、「感染爆発の重大局面」とかで危機感を煽りまくる会見やらかしてくれました。「何もしなけりゃロックダウン」ってことで、「(26、27日は)できるだけ仕事は自宅で」 「夜間の外出も控えて」 「週末は、不要不急の外出はぜひとも控えてください」とさ。さらに、「イベントの自粛」なんかも口にしてたけど、ようするにら「自粛要請したから後は自己責任」って言ってるだけなんだね。たとえば、イベントなんかやみくもに自粛してたら、イベント会社は倒産しちゃいますよ。だからこそ、「自粛」への補償をちゃんとセッティングしなくちゃいけないのに、そこはダンマリなんだね。そのくせオドロオドロしい言葉で危機感煽るものだから、案の定、会見後には買いだめしようとスーパーに客が殺到したとか。
 で、この会見でとても気になったのが、「東京都封鎖は都知事の発令によるものなか、あるいは国の緊急事態宣言が出された場合の知事権限によるものなのか」という記者の質問にまともに答えなかったことだ。ひょっとしたら、初老の小学生・ペテン総理とタッグを組んで、「非常事態宣言」と「首都封鎖」をセットで実行することで、お互いのリーダーシップを誇示して、都知事選、そして解散総選挙に向け画策してるんじゃないのかねえ。本当なら、「夜間外出禁止要請」なんてことを口にするんだから、いまこそ「非常事態宣言」すべきなんだよね。そう言えば、チーママ小池君の公約に「東京都内の満員電車ゼロ」ってのがあったが、いまこそその旗振りをするタイミングじゃないのか。そんな嫌味な質問のひとつもぶつける気概のある記者はいないのかねえ。
 Shoko Egawa 東京都知事の会見。そこまで危機なら「自粛」を「要請」するだけでなく、たとえば繁華街の飲食店や商店に一定の休業補償を示して休業を求めるとか、「漫然と開いているより、閉じた方が損失は少ないかも」と思わせる、具体的な施策が必要なのでは?   

 「TBS NEWS」3-28 東京都の小池知事は会見を開き、27日、新たに都内で40人の新型コロナウイルスへの感染が確認されたことを明らかにしました。これまでの都内の感染者は300人にのぼっています。/「MBSニュース」 大阪府は27日、阪神タイガースの選手3人を含む、20代から80代の男女20人の感染を確認しました。1日の感染者数としては過去最多で、うち18人の感染経路が不明ということです。これで府内であわせて176人の陽性が確認。

 「産経新聞」3-26 安倍晋三首相は26日夜、東京都の小池百合子知事と首相官邸で会談し、都の新型コロナウイルス感染爆発阻止に向けた取り組みを支援する考えを表明した。 「NEWSポスト」3月下旬の都内某所、ライトアップされた桜をバックに肩を寄せ合う13人。その中心に写っているのが昭恵夫人だ。写真を見た、参加者の知人はこう話す。「この日の参加者は、昭恵さんと以前から交流があった人が中心だそうです。写真で昭恵夫人の隣にいるのは人気モデルの藤井リナさん。藤井さんは2014年にYouTubeで昭恵さんと対談するなど、もともと交友があったようです。他にもアイドルグループ・NEWSの手越祐也さんや音楽プロデューサーなど芸能関係者の姿もありました」新型コロナウイルスの感染拡大を受け、小池百合子・東京都知事が花見の宴会などの自粛を要請する中、この写真を世論はどう受け止めるだろうか。週刊ポスト3月30日(月)発売号では、昭恵夫人および参加した芸能人らへの取材結果などを含めて詳報する。
 「産経新聞」3-25 政府が新型コロナウイルス感染拡大終息後の経済対策の一環として、高速道路無料化を検討していることが25日、分かった。都市部と地方を結ぶ高速道路を無料化し、感染拡大や東京五輪・パラリンピックの延期決定などで深刻な打撃を受けている地方の観光業を支援する。政府は高速道路各社への財政措置も検討しており、関係者によると、東日本高速道路(NEXCO東日本)など各社は政府の要請を受け入れる意向だ。→M・A26日ー感染拡大終息後の経済対策❗❗なにを寝ボケたことを言ってるんだよ。日本の政府、安倍政権の現状に対する危機感の無さにがく然とする。日本はウィルス禍によって国家的規模のシステム崩壊の瀬戸際にあるという自覚は、彼等には全く無いようだ。

 「くろねこの短語」2020年3月25日ーオリンピックは「おおむね1年程度延期することを軸として検討」することで合意だとさ。でも、「おおむね1年程度」ってあまりにも曖昧だし、そもそも「1年程度」で新型コロナウイルス騒動がおさまるという根拠があるのか。こんな決定を新聞・TVは「首相が提案」だの「日本が主導」なんて与太飛ばしてるけど、実際は初老の小学生・ペテン総理が自らの任期中にどうしても開催したいから土下座交渉したんじゃないのかねえ。今後問題になるであろう様々な補償問題なんかも、日本がすべて責任もつとかなんとか言ったんじゃないのか。
 それにしても、オリンピック延期をどうしてペテン総理とバッハの二人で決められるんだ。そもそも、オリンピックってのは都市が開催するもので、ここは都知事たるチーママ小池君の出番じゃないのか。オリンピック憲章には「オリンピック競技大会を開催する栄誉と責任は、オリンピック競技大会の開催都市に選定された1つの都市に対し、IOCにより委ねられる」って明記されてるんだぜ。結局のところ、一番迷惑だと思っているのはアスリートたちで、これまで公式に彼らの意見を聴取する場なんか設けられてませんからね。オリンピックがいかにスポーツ貴族と政治家による利権のためのツールに成り下がっているか、それがわかったことが最大の収穫だったりして。
 ところで、新型コロナウイルス対応の緊急経済対策で現金給付が注目されてたんだけど、なんと「貯金しちゃうから商品券」てなことをひょっとこ麻生がのたまってくれたってね。馬鹿だねえ。経済的に逼迫している人たちってのは、家賃や光熱費の支払いにも困っているわけで、商品券なんか貰ったってどうにもならないんだよね。だいたいですね、緊急経済対策ってのは景気を活性化するのが目的じゃなくて、いま困っている人を助けるものだってことをひょっとこ麻生は理解できていない。だからまたぞろ商品券なんて発想になっちゃうんだね。商品券刷るには別枠で予算とらなくちゃいけないんだから、これもまた余計な支出になる。おそらく、商品券にはそれなりの利権も絡んでいるんだろうね。ここでまた一儲け・・・北九州のタコ部屋の親分の血筋が考えそうなこった。クソっ!!

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1971年11月 『青い海』8号 国吉多美子「かげろうのつぶやき」


1978年1月 雑誌『青い海』70号 国吉多美子「世界の若者たち(上)フィリピンー裏町人生」/71号「世界の若者たち(中)”沖縄的〟人なつっこさ インドネシア アフリカ」/73号 「世界の若者たち(下)友をつくるは 良きことなり」

 国吉多美子 2020-5-10 私が又吉栄喜さんに初めてお目にかかったのは、1980年「ギンネム屋敷」で第4回すばる文学賞の授賞式の会場ででした。当時琉球新報の東京支社長だった嶋袋浩さんに誘われて、初めて授賞式の会場なるものに出席しました。又吉栄喜さんは当時33歳独身で、ご両親とお兄様と出席していました。あれから39年目、私は又吉栄喜さんに再会することになりました。というのは余りに膨大に溜まった写真の断捨離を始めた時、あの39年前のすばる賞授賞式の写真が出てきました。浦添市議会議員に連絡を取っていただき、浦添図書館内の又吉栄喜文庫でお会いすることになり、2枚の写真を渡すことができました。初めて目にする写真ということで、とても喜んでいらっしゃいました。

1枚目左端の写真はご両親と私。2枚目真ん中の写真は、お祝いに駆けつけた作家島尾敏雄と又吉栄喜。3枚目は又吉栄喜文庫で記念写真をパチリ。


2019年7月19日 松田米雄(ゆい出版)さんは高嶺朝一さん、国吉多美子さんと一緒です。

 2020-4-25 辺見庸さんは1991年「自動起床装置」で第105回芥川賞受賞。私が辺見庸さんの存在を強く意識し始めたのは1994年から新聞に連載された「もの食う人々」(後に1冊の本に纏められる)を読み始めた時からです。社会の最底辺に喘ぐ人たちにスポットをあてた極限の「生」における「食」を扱ったルポルタージュです。その着眼と内容の凄さに目から鱗でした。その後、中原中也賞、高見順賞、城山三郎賞と留まるところを知らず大活躍。ある日20年以上も前でしょうか。友人の噂の真相編集長の岡留安則さん、共同通信の青木理さん(現フリージャーナリスト)と3人で共通の友人が経営するゴールデン街の飲み屋に行くと偶然にも常連の辺見庸さんがふざけてバーのカウンターの中にいらっしゃる。尊敬する大先輩の姿に興奮した青木さんすかさず記念撮影。私も記念に一枚とっていただきました。幸せな瞬間でした。


 国吉多美子 写真はコリアレポートの辺真一さんとインサイダー英語版担当の歳川隆雄さん、
 国吉多美子 小浜清志さんは沖縄が生んだ小説家です。1950年生まれの小浜清志さんは八重山諸島にある小島、由布島出身で高校卒業と同時に劇団四季に入団、照明係などを担当。また、1975年の沖縄国際海洋博覧会などでは舞台裏方なども勤めました。私が小浜さんに出会ったのは1990年頃だったでしょうか。私も所属していた、沖縄エッセイストクラブの友人の紹介でした。以来、小説家志望の若者たちを引き連れて、大塚の私が住むマンションに集まり、よく文学論などを語り合ったものです。
 私が知り合った頃には小浜さんは既に、作家中上健次と知り合い、彼の指事を仰ぎ、文学修行に励んでいたころで、また、中上健次のマネージャーもしていました。私は小浜さんと一度中上健次に会ったことがあります。1991年の芥川賞発表の日、二人して中上健次の新宿のマンションの事務所で取り寄せたお寿司を食べながら発表を待っていました。受賞者は彼らの意図していた人でなかった。「飲むぞ」と私たちは新宿の沖縄居酒屋に向かった。一回きりの中上健次の思い出。ところで、小浜さんは1988年、「風の河」で第66回文学新人賞、1992年「消える島」で第108回芥川賞候補、1994年「五生橋」第111回芥川賞候補になりました「月刊すばる」や「文学界」にも多くの小説を掲載しています。中上健次にもっとも近かった人として、昨年はロングインタビューの記事が文学雑誌に掲載されました。
□中上健次「紀伊半島で私が視たのは、差別、被差別の豊かさだった。言ってみれば『美しい日本』の奥に入り込み、その日本の意味を考え、美しいという意味を考える事でもあった。ここにたとえば、『美しい朝鮮』という命題を入れてみよう。差異とは、朝鮮と日本の間にある。この夏、車で走り廻りながらカーステレオで私はカリブの音楽を聞き、朝鮮語のカセットテープを思いつくままかけていた。言葉は私には理解不能だった。意味のわからぬ言葉を耳にしながら、私はその走っている風景が朝鮮の風景だと思い込もうとし、歩く人らが半島なのかを知ろうと思ったのだった。つまり言葉を変えてみれば、紀伊半島を汎アジアの眼でとらえてみるということである。土地土地を経巡る私に、紀伊半島がまぎれもなく日本の紀伊半島であるのは、<熊野の荒らぶる神>のような被差別部落があるからだ、と映った。ここは輝くほど明るい闇の国家である。」
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 1985年、ベトナム戦争終戦後10年目、ピースボートでベトナムへ。船上にて、筑紫哲也さんと。あの頃はビザを取るのも大変だったし、ホーチミン市街は物が全然なかったし、子供のスリが多かった。ヒースボートの仲間もかなりやられた。私もそのひとり。警察にとどけたら、私たちの周りを警察官が護衛してくれました。
私の被害額は20ドルでした。スリの子供たちを恨む気にはなれませんでした。逆に子供たちのしたたかな生命力に、ベトナムの未来に希望を感じました。
 ピースボートで1985年、ベトナムへ。真ん中の赤いドレス姿が、辻本清美さん、右端が私です。
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国吉多美子 1980年代東京で開催された「ロバートキャパ展」にて、真ん中の紳士がキャパの弟コーネルキャパ、左側は琉球新報東京支社長の嶋袋浩氏。
  国吉多美子2020-5-14 『噂の真相』。発行人兼編集長は岡留安則。反権力反権威スキャンダリズムを標榜していた「噂の真相」は、1979年3月から2004年4月まで刊行されました。私が岡留さんを知ったのは1980年だったと思います。琉球新報の東京支社長だった嶋袋浩さんや一坪反戦地主(当時は電電公社に勤めていた)上原成信さんに、ゴールデン街の中村いく子さん(弘前大学卒)が経営する飲み屋「ふらて」に連れて行かれたのがきっかけです。当時の「ふらて」には30代の若きジャーナリストでむせ返っていました。インサイダーの高野孟さん、コリアレポートの辺真一さん、日刊ゲンダイの二木啓孝さん、文化放送の緒方修さん、NHKの大貫康夫さんに手嶋龍一さん、報道カメラマン山本晧一さん、写真家アラーキー、菅直人やテレビタレント時代の蓮舫などなど、数え上げたらきりがありません。まさに、青春の坩堝でした。
 岡留さんは鹿児島出身、私は沖縄。心のどこかで気にしていたのか、「噂の真相」を毎月送ってくれました。「噂の真相」休刊と同時に沖縄に居を移した岡留さん、「別館瓦屋」という居酒屋を開き、多くのジャーナリストの情報収集源として愛されていました。誰が想像しただろうか、岡留さんは病に倒れ、2019年1月31日、静かに旅立たれました。享年71歳。とてもとても、残念で仕方ありません。お別れの言葉も「ありがとう」の一言も言えなかったことが。

写真左側は中村いく子さんと。右側の写真は音楽家の上地昇さん、起業家の齋藤渉さん、元沖縄タイムスの川満信一さん、ジュンク堂書店の森本浩平さん、岡留さんをを偲ぶ会での写真です。

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Posted by: ryubun02
 「JIJI,COM」4-9 国内で確認された新型コロナウイルス感染者の累計が9日、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の乗船者を除き5000人を超えた。
東京都内では、1日当たりの最多を更新する181人の感染が確認された。9日はこのほか、山形、福井、兵庫各県など、東京以外で計90人を超える新たな感染者が判明。北海道では、70代の女性患者が死亡した。/「KYODO」4-8 政府の緊急事態宣言から一夜明けた8日朝。大阪市の商業施設や店舗などには「臨時休業」と書かれた紙が張られ、街は一層自粛ムード。宣言後も通勤は許されるため、マスク姿の会社員らはせわしなく勤め先に足を運んだが、その数は格段に減っていた。一方「どこ吹く風」と、パチンコ店前には列をなす人たちの姿もあった。/ 「沖縄タイムス」4-8 玉城知事は、来県自粛について「観光をリーディング産業とする沖縄県において、渡航自粛要請が本県に及ぼす影響は決して小さいものではないが、何よりも沖縄県民の命と健康を守ることが最優先だ」と述べ、理解を求めた。一方、転勤などでやむを得ず来県する人には、到着後2週間の健康観察を行うとともに、その間の外出や人との接触を控えるよう求めた。9日ー県関係の感染者確認は計43人となった。

 M・T 令和コロナ4-7 緊急事態で政権延命を策してはだめですよ アベマスクちゃん 小池ちゃん
 「日刊スポーツ」4-7 緊急事態宣言とともに都内のターミナル駅や空港から「東京脱出」が増えた。JR新宿駅に直結する日本最大級の高速バスターミナル「バスタ新宿」は7日、利用客であふれ、高速バス乗り場には大型キャリーバッグや荷物を手にした人が目立った。

 斎藤 陽子(Walnut, California)4-7日本時間 安倍首相はやっと7日の今日には緊急事態宣言を表明する様子ですが、その判断力の遅さに呆れるばかりでおります。日本在の孫は昨日ピカピカの一年生の入学式を迎えたとのこと、今日からは自粛在宅の一年生です。とんでもない時に人生の門出を迎え、可哀そうでもありますが、艱難を克服する強い人になって欲しいです。外出禁止が言い渡されたカリフォルニアは19日目を迎えていますが、毎日が日曜日のような日々が続いて、もうじき3週間近くになりますが、懸念する暴動なども無く、カリフォルニア住民は皆さん静かに耐えています。

 いま南カリフォルニアの裏山にも春がやって来て、自生しているウチワサボテンの開花時です。誰にも見られることを期待していない野生の花ですが、なんと綺麗なことでしょう。10月になると、このサボテンの花が実となる時期になり、メキシコ系のスーパーでも、サボテンの実が売りに出されていて、メキシコではトウナ(tuna)と呼ばれています。コロンブスがアメリカから持ち帰り、南イタリア、スペイン、モロッコなどでも果物として食べられているといいます。ウチワサボテンの実にはアントシオンというカロチンの10倍の抗酸化作用があって、老化防止作用があると言われています。初めてスーパーで見かけた時には、こういうのがスーパーの商品になっているのが不思議でしたが、メキシコ系の人々には好物の果物として、サラダに入れたりジュースやジャムや絞ってテキーラに入れたりと利用するようです。
 また、このウチワサボテンの名の通り、ウチワのような葉は刺を取った物がメキシコ系スーパーでは山積みになって売っていて、この葉は表の薄皮をむき丸ごとステーキのように油で炒めて食べたりサラダにするようです。南カリフォルニアからメキシコにかけて、溢れる太陽を浴びてこのサボテンは野生として自生繁殖しており、メキシコ人にとって常時手に入る、もっとも身近な植物なのです。この花を見ると私の好きな財津和夫の♪サボテンの花♪の曲を思い出します。

  
 「海鳴りの島から」4-6 (辺野古新基地はコロナ騒ぎのなかでも粛々と進む)午後2時28分頃、瀬嵩の海岸から大浦湾の様子を見た。この日2回目のK9護岸ではランプウェイ台船の入れ替えが行われていた。明日7日に安倍首相が新型コロナウィルスの感染拡大に対し、緊急事態宣言を発令するようだ。同時に不要不急の工事の最たるものである辺野古新基地建設をすぐに中止しろや。莫大な予算を浪費する余裕など、これからの日本経済にはないはずだ。辺野古の海・大浦湾を破壊する金を生活困窮者の救済に充てろ。それこそ重要緊急の政策だ。

 「NHKニュース」4-6 警視庁の武蔵野警察署の警察官が5日、新型コロナウイルスに感染したことが確認されました。警視庁は、一緒に勤務していた署員ら70人余りを自宅待機とする一方、警察署の機能を維持するため、本部からおよそ30人を派遣し、パトロールなどにあたることにしています。/4-5 新型コロナウイルスの感染が確認されたのは、大阪市にある大阪拘置所に勤務する40代の男性刑務官です。法務省によりますと、この刑務官は今月2日に発熱などの症状のため医療機関を受診してPCR検査を受け、その後、自宅で静養していましたが、5日、陽性と確認されたということです。拘置所や刑務所などの矯正施設で感染が確認されたのは初めてです。/「産経新聞」4-5 陸上自衛隊は5日、沖縄県宮古島市に新設されたミサイル部隊の編成完結行事を宮古島駐屯地で行った。中国軍による攻撃を想定し、地対空、地対艦ミサイルを置く。同駐屯地には昨年3月に警備部隊を配備しており、ミサイル部隊と合わせて約700人規模で運用する。

 「琉球新報」4-4 那覇市は4日、同市松尾の第一牧志公設市場を2週間程度、臨時休業することを決めた。この日、市場内の店舗に勤務する40代女性従業員の感染が確認されたことを受けての措置。女性従業員は3月26日に発熱した。27日には体調不良を訴え休んでいたが、26日以前は勤務していたという。那覇市は市場の消毒などをする方針。市場内では85の飲食店や鮮魚店、精肉店などが営業していた。

  S・S4-5 防衛局が辺野古6工事打ち切り!!! 。防衛局は軟弱地盤の埋め立て計画の中止を認めざるをえなくなりました。中止となった6工事は軟弱地盤に掛かる部分で、これまでの埋め立て箇所ではありません。今の埋め立て工事は中止の対象ではないため継続すると思います。


2020年4月『月刊琉球』№75 琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947  
下地ヒロユキ「表紙絵」/宮良麻奈美「第3回石垣市平得大俣地域への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票義務付け訴訟 意見陳述」/大城冝武「風刺画からみるアメリカ統治下の琉球の世相㉔」/しもじけいこ「宮古IN 様変わりした島の風景/観光・自衛隊・県議選ー世の中は、時に想像を遥かに超える出来事が起きるものだと思った。宮古バブルと揶揄されるほど絶好調だった観光は、新型コロナというウィルスの出現でいとも簡単に中断された・・・」/島袋マカト陽子「東京琉球館便り65-スズメの学校 休校の学校 具志頭王子之墓」


2020年4月『オキナワグラフ』<特集・笑えアミーゴ!-四月馬鹿十三撰->(表紙・仲松健雄)第698号

 「TBSニュース」4-3 アメリカの新型コロナウイルスの感染拡大をめぐって、西海岸カリフォルニア州は死者数・感染者数を東海岸ニューヨーク州に比べて10分の1以下に抑えています。アメリカの専門家は「東京が手遅れにならないように」と警鐘を鳴らしています。アメリカで感染拡大が最も深刻なニューヨーク州の死者数は2373人に。一方、全米最大の人口を抱えるカリフォルニア州での死者は203人です。「カリフォルニアがニューヨークよりも早く決断をしたことが大きな要因です」(カリフォルニア大学バークレー校 シュワルツバーグ教授)/M・H4-3 これだけ非常事態宣言待望論が盛り上がって、安倍がピークの辺りで宣言を出すと大衆はシビれます。アドレナリン出ます。コントロールされたがってる。支配を望む大衆が勝手に盛り上がってまとまっていくのをみているのでしょう。/アヘにしてみれば、「思い通りに進んでるな」、と喜ぶわけです。実際にアヘは非常事態宣言を出すか分かりませんが、日本の中に混乱状況、パニック状況を作れればそれである程度の目的が達成されます。そんな状況になれば、自分たちの様々な疑惑、犯罪は隠蔽され、国会でそれらの疑惑を追求しようという野党に批判の目が向くことになります。こんな非常事態に何でそんなこと言ってるんだ、何考えてるんだ野党の奴ら!、となりますから。そして、そんな危機的状況下では政府が国民をコントロールしやすくなるんです。

 斎藤 陽子(Walnut, California)4-3日本時間 安倍首相の今年のエイプリール・フールは、新型コロナウィルスの猛威の中を生き抜くためのマスクを、国民一住所当たり2枚支給することだそうです。これがエイプリールフールでなければ、一国の長が頭を抱えて考えたにしては随分幼稚な発案で、日本もしょぼい国になったものです。昨日の東京都のコロナ罹患者は97人と、急にその人数は多くなり、罹患者には医療関係者も多い様で、感染爆発も時間の問題だと思います。マスクなど暢気に配布している場合じゃなく、東京都は足りなくなってゆくベットを、迅速に前倒しで増やさなくてはなりません。ロスアンゼルスでは迫りくる感染爆発に備えて、病院船の利用、数軒のホテルの借り切り、巨大コンベンションセンターを診療病院に改設し、迅速に前倒しして準備しております。
 あまり好きではないトランプ米国大統領ですが、3月6日には新型コロナウイルス対策用に83億ドルの緊急補正予算法を成立させて、迅速な行動には好感がもてます。可決された83億ドルの予算のうち、大きな額を占める項目では、ワクチンなどの研究・開発費用(30億ドル以上)、連邦・州・自治体の公共衛生機関への財政支援(22億ドル)などが含まれ、ビジネス支援に関しても新型コロナウイルス拡大により、資金的損害を受けた中小企業などへの低利融資に10億ドルを充てるとしています。また、4億3,500万ドルを外国の医療機関への支援として計上しています。
 自宅監禁状態15日を迎えるアメリカですが、すでに500億ドル(約5兆4000億円)の巨大予算を連邦資金から用立てて、今月27日までにはアメリカ住民一人当たり、12万円を支給すると財務長官は発表しており、なにわともあれ、しょぼいマスク2枚支給ではないことに安堵しています。
 自宅立てこもりは既に15日となりましたが、コロナウイルスからの自宅待機で、3月21日までの米国での酒の売り上げが55%増加したといいます。昨年の同時期と比較して75%増加し、ワインの売上は66%増、ビールの売上は42%増で、人々は自宅待機をし社会的に距離を置いている間、「家呑み」専門となりアルコールを摂取量が多くなったようです。また購買方法もオンラインでの傾向が多くなり、オンラインのアルコール販売は24%増加してるといいます。酒の神バッカスの女王と自称する、ウワバミとしては充分な時間有る、この暇な夜を飲まずにはおれません。
 立てこもり生活で唯一相棒の、我が伴侶はお酒の呑めない体質で、もっぱら私一人で家呑みを楽しんで居ますが、5年前6本ほどTSさんから頂いた、根付きの「島らっきょう」がカリフォルニアの太陽の恵みを受けて、畳二帖ほどの広さに増えました。沖縄料理では酒のつまみの定番の「島らっきょう」をカリフォルニアで収穫し、我が家の食卓を飾りました。島らっきょうはお酒の飲めない福島出身の主人も「イケル!」と好評です。5月中までは自宅待機が続くようで、こうなったら、ひたすら「家呑み」を楽しむ時間とします。


2020年4月2日 連れ合いのヨガ会がコロナのため今月末まで中止になったので、久しぶりに首里へ出かけた。崇元寺、安里かいわい。首里の末吉安允さんの車で第一尚家の天山陵跡を見る。首里城正殿を模した首里劇場の表にある。龍潭から焼けた首里城を初めて見る。


 斎藤 陽子(Walnut, California) 4-2日本時間【思い出のアルバム】千鳥が淵での桜鑑賞-7年前の2014年4月1日 東京は昨日の強風はどこへやら、晴天に恵まれた桜が丁度満開の、最高のお花見日よりです。沖縄から東京に出張中の、新垣義將さんから「千鳥が淵へお花見に行きませんか」との突然のお電話を受け、谷口幸子さんとご一緒に、なんと55年ぶりかのお花見ができました。これまでお花見シーズンの頃に日本を訪れても,タイミングが良くなく、お花の満開時に恵まれたことがない身でしたが、今回は花のお江戸での、最高の桜鑑賞でした。

 東京でも桜の名所 千鳥が淵の、その壮大な桜の咲きっぷりに感激しました。遠く国会議事堂も眺められます。お誘いくださった、新垣義將さんに感謝です。千鳥が淵での桜鑑賞のあとは、神田の新垣 進様(オールビジネスリンク 代表取締役)の会社を訪問し、皆さんとイタリア料理を頂いた後、新垣社長の会社の会議室で、写真後方左の藤木勇人さん(朝ドラ「ちゅらさん」に出演、方言指導など)に、藤木さん担当のラジオ番組(ラジオ沖縄)放送のインタビューを受けました。新垣社長お邪魔いたしました。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 4-1日本時間 弥生三月も今日で終わりです。南カリフォルニアの気温は23℃、初夏を迎えたように温かく、庭のレモンの花は満開を迎え、庭中にレモンの甘い香りを放ち、ミツバチの羽音が聴こえてきます。柑橘類の品種の中でも最も大きな品種といわれている、ポメロ(Pomelo)この写真に写っているものは、1,750gの重さです。この様な大きさのポメロが、いま我が家の裏庭の木に10個ほど、生後間もない乳児の頭ほどの大きさの実が、それこそ枝が折れるのではないかと思えるほど、たわわに実っています。あまりの大きさにレモンと対比するために並べて写してみました。原産はマレー半島、別名、中国では晩白柚(バンペイユ)と呼ぶようで、中国のお正月(旧正月)には、豊かな大きいな果実は福を呼ぶという縁起物として貴重な扱いを受け、新年の訪問先の手土産に、大きなポメロを持参して贈り物とするならわしがあると言います。中身は果汁が少なめで、ナツミカンのような味がします。皮は砂糖漬け菓子を作るようで、日本で改良された物に、文旦、ザボンなどがあります。
 
 27日、カリフォルニア州のロサンゼルス港に、石油タンカーから転用された、全長272メートル、病床1000病床に加えて、手術室12室やコンピュータ断層撮影(CT)装置など、充実した医療能力を備えているといいます病院船が接岸されました。これは新型コロナウイルス感染者以外の患者を受け入れて、陸上の医療施設の負担を減らすための目的で、新型コロナウイルス感染者の急増により同州では今後6~10週間で5万床が必要になるとの見通しを示し、病院船マーシーは大きな力になると述べています。26日まででロサンゼルスでは400人以上の新規感染者と9人の死亡が報告されていますが、ニューヨークのような、感染爆発 状態にならなる前に、先手を打って前倒しでコロナウィウルス蔓延まえに、準備を進めています。カリフォルニア州ではこれまでに4000人以上の感染が確認され、うち90人が死亡しています。

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Posted by: ryubun02
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神保町・お茶の水 神保町古書店街:日本一の古書店街として名高い神保町。靖国通りを駿河台下交差点から西へ向かうと、およそ130店もの古書店が建ち並び、中には美術、武道、洋書、料理、など一つのジャンルの本を専門に扱う店も。そんな神保町を代表する書店や、古書店をきっかけに発展していった喫茶店、カレー屋も併せてご紹介します。
駅から徒歩2分の場所にあるのが、創業大正7年の歴史を誇る「矢口書店」。ここは映画や演劇、戯曲、シナリオにまつわる古本を中心に扱う古書店です。棚に並ぶのは、古くからの名作や最近発表されたものまで、幅広い年代の作品を取り扱っています。中でも、人気の品は1950年代から1960年代の映画パンフレットなんだそう。

1983年10月「神田古書店地図帖」/毎日新聞発行の『アミューズ』1999年、よく古本屋を特集する。
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 東京文学の散歩道/日本近代文学館/東京都近代文学博物館
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 1995年12月27日『琉球新報』「戦後50年 日本文学の軌跡」

 
グラビア・カメラでちょっと・ひとめぐり/オフセット・省線・私鉄・遠距離バス交通図
戦後の東京の風俗について・・・大宅壮一/戦後の東京の服装について・・・伊藤道郎/東京女と関西女について・・・山本嘉次郎/東京弁と関西弁について・・・野元菊雄/五十年前の思出ばなし
見物の東京 A・一般コース B・盛り場と裏通り・どん底の街・さんや デッドエンドの街・たかばし


 アメリカの東京基地・・・佐々宇賛丸/東京周辺のアメリカの軍事基地と工場早わかり
娯楽の東京ー映画館/スポーツ場/劇場・寄席/競輪・競馬場/ストリップ/ダンスホール
女の東京ーバーキャバレーと女給のチップ/温泉マークの内幕と活用法/待合と芸者あそび入門/赤線区域の泊り方ー花の吉原から田園調布迄のシマ案内/青線区域のさがし方ーパンパン遊び・処女でも啞でもお好み次第



1956年9月 『別冊知性・現代の裏窓ー日本のブラック・メモ』河出書房(河出孝雄)◇船越義英「沖縄ーこの踏みにじられたものー売られ行く島オキナーワ!極東唯一の原爆基地オキナーワ!」◇三木淳「東京の裏窓ー超望遠カメラで捉えた都会の素顔」◇ギャンブル報国精神万才!競輪、競馬、パチンコ、宝くじーなどとならべてくると、日本ほどバクチで明け暮れている国はちょっと世界に例がないような気になる。ことに競馬、競輪、宝くじなどというのが何れも堂々と官営、公営されているなど、どうしてもモナコとまではゆかなくとも、少なくとも日本全体が、かつての上海、香港なみな植民地都市にでもなったのではないかという気がしてくる。(原四郎)

 河出書房新社 1886年(明治19年)に河出靜一郎(1857年 - 1936年)によって岐阜の「成美堂書店」の東京支店として日本橋に設立されたのが始まりである。当時は教科書や学習参考書を中心に出版していたが、農学関係書の刊行が次第に増えていった。 1933年(昭和8年)に2代目(靜一郎の女婿)の河出孝雄(1901年 - 1965年)が河出書房に改称し、文芸書や思想書を中心に刊行するようになった。1944年(昭和19年)には改造社より文芸雑誌『文藝』を買い取った。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災し、千代田区神田小川町に移転する。 1950年(昭和25年)に刊行した笠信太郎『ものの見方について』がベストセラーとなる。
 1954年(昭和29年)に創業70周年記念企画として総合雑誌『現代生活』の創刊を公告するも、立ち上げの資金を編集スタッフに持ち逃げされた。『現代生活』は『知性』という名で創刊するが、これが遠因となって1957年(昭和32年)に経営破綻、新たに河出書房新社を創設し再建された。同年3月には女性週刊誌の先駆けである『週刊女性』を創刊していたが、倒産に伴い、4号で休刊。同年8月に同誌の編集・発行権を主婦と生活社へ譲渡した。 1965年(昭和40年)、河出孝雄が死去し、河出朋久(1938年 - )が3代目社長となる。1967年(昭和42年)に会社更生法を申請し再度倒産、再建され中島隆之が社長となる。1968年(昭和43年)12月、吉本隆明の『共同幻想論』を刊行する。 1977年(昭和52年)に品川区東大井から新宿区住吉町に移転し、清水勝が社長となる。2年後に千駄ヶ谷に移転し現在に至る。旧社は登記のみ残し休眠状態だったが、2000年(平成12年)から東大井で営業再開した。2007年(平成19年)、新社と業務提携、販売契約を締結した。 →ウィキ


1953年2月 宮本顕治『宮本百合子集』河出書房/1988年3月 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫

河出文庫(澁澤龍彦、稲垣足穂)・河出新書/神保町、本郷、早稲田の古本街はよく行ったが、そこは静のイメージがある。仕事場は新宿歌舞伎町。その周辺ではアンダーグラウンド(1960年代後半に起こった、商業性を無視した前衛的・実験的な芸術運動)や派手な極彩色を用いたデザイン「サイケ調」も流行っていたので、相まってシュールレアリスムとかダダの芸術の本を読んでいた。

2002年3月 澁澤龍彦『旅のモザイク』河出文庫/2012年6月 藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』河出文庫

 私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。澁澤龍彦に会おうと思ったのは、テレビで千円雑誌『血と薔薇』発行が報じられたからである。5日後、鎌倉に澁澤を訪ねたのは1968年の10月9日であった。年配の女性がお茶を持ってきてくれたり応対してくれた。(同年、澁澤は夫人・矢川澄子と別れたばかりであったから母堂であろう。)そのうち2楷からトックリシャツ姿でパイプを持った澁澤が応接間の椅子に座り、甲高く透き通る声でいろいろ話をしてくれた。「京都に行く機会があれば稲垣足穂さんに是非会うといい。子どものような純粋な精神の持ち主だ」「沖縄出身の友人に彫刻家が居る」とか、発禁本の話もしてくれた。澁澤は1987年8月5日、59歳で亡くなった。

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1929年4月 『郷土雑誌 沖縄』 神山宗勲『悪魔』編集発行・座安盛徳/沖縄社鹿児島市上荒田1770のノ2

 新城栄徳 2020-4-15 私の敬愛する編集者に上間常道氏が居た。氏は大阪生まれの今帰仁2世。東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、その発売元の河出書房新社に無試験で入社。『ドストエーフスキー全集』『トルストイ全集』などを編集する。復帰を機に沖縄に移住。出版社などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。私は河出書房の話は聞いたかもしれないが記憶にない。

新城栄徳と上間常道氏の共同作業『沖縄美術全集』「年表」/『沖縄近代文芸作品集』/『琉球弧の雑誌展』

社会主義の実験
 1920年ーボリショイ劇場前でのレーニン演説の写真、右にトロッキーとカーメネフが居る

 写真ー1938年、メキシコにてトロッキー、ブルトン
トロッキー○1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。→ウィキ
カーメネフ○レーニンの死後、ジノヴィエフと組んで1925年秋から「新しい反対派」の指導者となる。第14回党大会では、スターリンの「一国社会主義」に反対し、共産党に「首領(ウォシチ)」はいらないと主張した。→ウィキ
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 アラビアのロンドンーいちおうロンドンについても触れておいたほうがいいかもしれない。前に法的権利擁護委員会のムハンマド・マスアリーがロンドンに逃げたという話を紹介した。なぜ彼らはロンドンに逃げるのか。実はロンドンというのはイスラーム原理主義の組織という点ではある意味、中東以上に重要な場所なのである。ロンドンには文字どおり数え切れないほどのイスラーム系組織が存在している。インド系、パキスタン系、バングラデシュ系といった旧インド帝国領のムスリムおよびそこからの移住者が中心だが、アラブ諸国からも多数の移住者、亡命者を受け入れている。とくに湾岸やエジプト、スーダンなどはかつての宗主国ということもあり、観光客を含め、膨大な人数をイギリスに送り込んでいる。そのためロンドンなどには、アラブ人街とでも呼べるような中東度のきわめて高い地域が出現してきている。
 そうしたところではアラブ料理屋、アラビア語の本屋が建ちならび、不動産屋でもアラビア語の案内が幅を利かす。イギリスではアラビア語の日刊紙だけで少なくとも5紙存在する。それだけアラブ人口が多いということであろう。問題なのはこうした連中がロンドンを中心に反政府活動を展開することであろう。もちろんここでいう反政府とは反イギリスではない。反サウジアラビアであり、反エジプトであり、反バハレーンの反政府活動なのである。幸か不幸かイギリスにおいてはそれぞれの本国ではけっして享受できない自由がある。彼らは欧米的な人権で守られながら、自由に情報を得、自由に情報を流すことができる。→」2011年 保坂修司『 新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』朝日選書

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ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard, 1884年6月27日 - 1962年10月16日)は、フランスの哲学者・科学哲学者。科学的知識の獲得の方法について考察した。また、詩的想像力の研究にも多くの業績を残した。

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「くろねこの短語」2019年1月3日-(前略)それはともかく、紀伊国屋書店が売文芸人の百田シェンシェイと有本香のサイン本に欣喜雀躍のツイートして呆れられている。節操のカケラもなくなっちまったんだなあ。田辺茂一が草葉の陰で泣いてるぞ!!◆あけましておめでとうございます。本日、百田尚樹先生、有本 香先生にご来店いただき、『日本国紀』および『「日本国紀」の副読本』にサインを入れていただきました。元旦からありがとうございます!サイン本お取り置きは2階売場☎︎03-3354-5702で承っております。 — 紀伊國屋書店 新宿本店 (@KinoShinjuku) 2019年1月
 ◆総理(新制成蹊高等学校出身)!今夜もごちそう様!‏2018.2.02(金)18:58~21:07-ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町内「OASIS GARDEN」にて、後藤高志西武ホールディングス社長(新制成蹊高等学校出身)様、高井昌史紀國屋書店社長(成蹊大学政治経済学部)様らと総理はご会食なされました。


2018年5月5日『沖縄の軌跡』第188号《静子さん・志多伯克進を語る》 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

志多伯克進「酒禮門」新宿・歌舞伎町
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上ー志多伯克進(1908年2月~1979年3月14日)写真ウラに「1936年6月、ある同志のカメラに向いてー志賀進」と記されている。



1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)/1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮

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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子


□1960年10月『オキナワグラフ』ー新宿の人気男「志多伯のおやじ」新宿コマ劇場の横丁にある”コマ小路”というバー街に、この春から異様な門構えのアワモリ酒亭ができてなかなか繁昌している。
屋号は「酒礼門」。勿論”守礼之門”をモジッてつけたもので、故伊江朝助男爵が名付の親だということだが、ゲン語学者の石川正通先生にいわすと、その語イはー酒の友こそ真の友 礼を守りて盃酌めば 門は大道無門にてーだそうだ。
 店構えが異様なら、ここの主人もまた変わり種。志多伯克進という名前からしてコクのよい銘酒を思わせるが、無類の好々爺で、ジュクの酒徒からは”シタハクのオヤジ”と愛称されている。
目マユがこく長く、デップリ太って、みるからにアワモリ天国のエビス様とう感じ、いつあっても、赤ら顔に満面笑みをたたえてさも愉快そうに話し出す。どんな酒癖の悪いインマヤーでもすぐなついてくる。
しかし、このオヤジが庶民の街で名物オヤジとしたわれているのは、ただこの人がお人好しだということばかりではなさそうだ。この人には往年の社会運動の体験から得た”庶民哲学”とジュクのヨタ公共をまかす位の”度胸”が備わっている。愛すべき志士だ。このスジ金の入ったところがまた魅力となって学生や労働者たちに好かれるのだろう。
 この人の哲学というのは、先ず人間は平等だということ、第2に貧乏人を蔑まず金持を恐れないこと、第3に真心を以って事に当たること、だそうだが、これはやはり戦前の社会運動時代に豚バコにブチ込まれたり、法廷に立たされた苦闘の中から生まれたものに違いない。非常に正義感が強い人で、終戦直後、新宿のテキヤ安田組を向こうに廻して空手で打ち負かしたという武勇伝は有名だが、いまでもヨタ公同志の決闘に”流血を避けるため”顔をかすこともあるという。
 都内の泡盛屋は大小入れて40軒を数えるといわれるが、この総元締格が志多伯のオヤジさんである。泡盛屋の歴史は古く、昭和12年に若い奥さんと大塚駅前で「デーゴ」を開いたのが始り、それからまもなく本所深川の「泡泉」に移った。新宿駅西口に乗り込んだのは終戦直後。ヤミ屋の横行する焼跡で「志多伯」の赤チョウチンを下げ、カッポウ衣に前カケをしめてジュウジュウ鳥焼きとアワモリのサービスに励むかたわら、西口の開拓にも力を注いで今日の繁華街を築きあげた。独得な風貌と誰にも好かれる人柄と親身の世話焼きで忽ち西口の人気オヤジとなり、つい最近まで飲食組合の会長にまつりあげられていた。
 『オヤジもトウトウ成り上がったかー』東口に酒礼門を開いたとき西口店のナジミがこう歎いた。お座敷酒亭より西口の番台でバタバタニコニコしていた方がオヤジらしい、ということだろうが、しかしオヤジの庶民性はどこへ行っても消えうせない。むしろ新しい酒礼門こそ庶民の酒亭だ。そこには南の芸術がある。文化がある、ラフティを食べ、アワモリを酌みながら踊りをみる。<しかもフトコロの心配もない、なければオヤジに話せばわかるのだー。あなたふと讃酒之仁義ありという 酒礼門にて酔い泣かんかも(石川正通)

 私の17歳は、東京・新宿歌舞伎町の大衆割烹・勇駒新館で働いていた。勇駒本店隣に鮒忠①もあった。当時、新宿は副都心と称していた。現在は伏魔殿と謂われた都庁があるので都心であろうか。新宿は個人の存在など歯牙にもかけない喧噪で無味乾燥なビルが林立する巨大歓楽街であった。夕刻、新宿駅から仕事を終えたサラリーマンが歌舞伎町に大量に弾き出され勇駒新館はたちまち地下、2階も満杯になる。仕事が終わり寮に帰ると朝霧が立ち込めゴミが散乱する早朝の静寂は何とも言えない退廃的な雰囲気であった。職場には学費を稼がなければならない大学生バイト(早稲田が多かった)が5人も居たのでヒマな学生の政治運動やスポーツには興味も関心も無かった。沖縄出身に元出版社に居たという神里氏、いつも朝にヌンチャクの稽古をしていた。王城(喫茶)にも入口に沖縄出身の用心棒が居て、「困っていることがあれば相談に来い」と言ってくれた。
     
当時の新宿歌舞伎町(真鍋博1968年12月)
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歌舞伎町の大衆割烹・勇駒本店 

1977年8月 桜井華子『東京の味Ⅲ』保育社「いそ料理 勇駒」
①根本忠雄(ねもと ただお、1913年 - 1988年)が1946年9月1日に同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業。川魚の捕れない冬場のメニューとして、進駐軍向けの鶏肉(ブロイラー)を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始。焼き鳥を大衆へ大々的に販売することを始めたのは日本初と言われ、「焼き鳥の父」と呼ばれたという。根本忠雄『年商十五億のやきとり商法―鮒忠立志伝』 柴田書店 (1965年)『鮒忠の江戸ッ子商法』 東京経済 (1972年)→Wikipedia。現在、勇駒はネット上出てこないが、鮒忠はもう老舗となって三代目が卸、ケータリング、レストランの3事業をネットも活用し引き継いでいる。

 勇駒新館の支配人は漫画家さいとう・たかお似の出っぷりとした人で読書人。週に一回は紀伊國屋本店に雑誌や本を買いに行かされた。もちろん私も本屋は大好きだから喜んで行った。紀伊國屋本店には名物社長の田辺茂一がいたが見たことはない。この年は、「夢の島」の蠅騒動、ベ平連、河野一郎・江戸川乱歩・谷崎潤一郎・高見順らの死去、横井英樹襲撃で東京を震撼させた安藤組の安藤昇が映画俳優として登場したのが週刊誌を賑わしていた。店にはヤクザの長老も常連で来る。その一人(若いころはドス○○)が「近くで安藤昇のロケがあったのだが奴は小柄だからいかに大きく見せるかで周囲が悩んでいた」という。これを聞いて思い出したのが、以前、錦糸町のボウリング場で美川憲一が雑誌の取材でボールを投げるポーズをしていた。誌面では見事にストライクとなっていた。何事でも演出は必要だと思った。集団就職での上京の目的のひとつに、神田の古書街に通うことがあった。新宿は夜の街で前衛的な文化(サブカルチャー)の街で芸術文学の分野も幻想、終末、刹那・頽廃なものであふれていた。安藤昇のレコード「新宿無情」[1965]も出ていたが今ではYouTubeで聴くことができる。『月刊専門料理』の創刊は、1966年11月、この創刊号も勇駒新館の事務所で見た。


右に新宿コマ劇場
新宿コマ劇場とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムによって運営されていた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。/1956年(昭和31年)2月にコマ・スタジアムが設立。大阪・梅田にあった梅田コマ・スタジアム(梅田コマ劇場の前身)の姉妹劇場として当劇場が建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。→ ウィキ
〇2011年7月11日、東宝が新宿コマ劇場及び新宿東宝会館の跡地に複合インテリジェントビル「新宿東宝ビル」を建設することを発表した。地上31階地下1階建て、高さ130メートル、延べ床面積55,390平方メートル、1階と2階に飲食店、3階から6階にTOHOシネマズが運営するIMAXシアターを導入して12スクリーン約2500席の都内最大級シネマコンプレックス「TOHOシネマズ新宿」、9階から31階に藤田観光が運営する約1030室のホテル「ホテルグレイスリー新宿」などが入居し、2015年4月17日に開業した。コマ劇場の中核だった演劇場は収益性が低いとして入居が見送られた。 → ウィキ

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新宿・勇駒新館でー左に座っているのが新城栄徳、柴田マネジャー。柴田マネジャーに早稲田の学生がバイトさせてくれという、即採用。/新宿コマ劇場近くには琉球泡盛屋が数軒あった。志多伯克進、「志多伯のおやじ」という新宿名物的人物も居たが見たことはない。当時は未成年だから覗くだけで、新橋の沖縄料理屋には「沖縄そば」を食べにいったことがある。新宿の南風②は1974年にオヤジさんに『青い海』を贈呈しユンタクした。
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1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物」
 ②『琉球新報』2015年3月7日 新宿歌舞伎町で67年 沖縄料理店「南風」閉店ー【東京】創業67年を数え、東京の沖縄料理店で草分け的存在の新宿歌舞伎町の「南風(なんぷう)」が今月末で閉店することになった。店主の前田清美さん(68)は「体力的にきつくなって、継ぐ人もいない。引き際だと思う」と話す。沖縄出身者の心のよりどころだった老舗が消えることになる。南風は戦後の焼け野原だった新宿で前田さんの両親の嘉手納知春さん(本部町出身)、幸子さん(大宜味村出身)夫妻が始めた。苦労して沖縄の食材を得、三線の名手だった知春さんが民謡で客をもてなした。
 一度離れると容易には帰れなかった米統治下の沖縄。沖縄出身者は遠い故郷を思い、南風に通った。知春さんは苦学する若者に食事をさせ、終電後はたびたび店に泊め、「始まりも終わりもない店」と呼ばれた。店の2階に住んでいた清美さん姉弟は朝、寝ている酔客をまたいで登校したという。学生時代から60年、南風に通う渡久山長輝東京沖縄県人会長は「おやじから三線を習い、土間で寝たこともある。多くの沖縄人(ウチナーンチュ)の慰めとなっただった」と懐かしむ。清美さんは嘉手納清美として歌手や女優として活躍した後、82年に店主となった。バブルのころは地上げ屋の標的にもなったが店を守り続け、浮き沈みの激しい歌舞伎町の中で、老舗の一つだ。清美さんは「毎晩、お客さんが島唄を大合唱し、カチャーシーを舞った。沖縄人が楽しんでくれたから67年も続けられた」と話した。
 柴田マネジャーは秋田の人、生真面目な人で未熟な人生観の持ち主の私を色々と注意してくれた。自宅にも連れて行かれ、マネジャーの痩躯にくらべふっくらとした色白の奥様の手料理を御馳走になった。寮の相棒に熊本出身の23歳の青年が居た。小柄だが休みの日にはコマ劇場の前などでプレイガールをお茶に誘い旅館に行き、その女性との一夜をこと細かく手帳に記していた。今だったら一流のホストになっていたが、私はそれでよく性病を移されなかったものだと感心した。店には茨城出身の威勢のいい2歳年上の子も居た。彼は駐車中の車を弄り人身事故を起こしその賠償金を払うため働いているという。また別の相棒に長崎出身の同じ年頃の子も居た。彼は年に似合わず、木の根っこを入手、磨きあげオブジェにして楽しむ人物であったが、繊細ゆえ「ゴールデン街」の人となった。後に柴田マネジャーは高円寺で焼鳥屋「秋田料理・鳥海」を開いた。


 



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 FB友の戸澤裕司さん(元週刊朝日グラビア班専属カメラマン 写真家作家藤原新也助手)の師匠・藤原新也氏の著『日々の一滴』を思い出して5月11日にジュンク堂那覇で買ってきた。私は文庫本愛好家であるから文庫になっている藤原氏のものは大概もっている。同著には石田 昌隆氏、戸澤裕司さんの写真も使われている。

 石田 昌隆 2020年3月24日 · 『日々の一滴』は、タイトルがエモすぎて大丈夫かなと危惧していたのだが、できあがったら『空から恥が降る』以来と思える傑作になっていた。まずぱらっと見た瞬間に、デジカメで撮影したものがほとんどであるにも関わらず、ひと目で藤原新也調とわかる写真になっていて、ファンなら感涙であろう。ところがこれが、懐古的なものではなく、写真を世に出す主流の媒体となっているインスタグラムに相対しつつ、今の時代をきっちり捉えた紙の本になっていた。
 ライカM(type240)サファリにノクチルックスをつけて大久保の路上で撮影した伊藤詩織さん、カルロス・ゴーンの制限住居、「忘却の10年。いまだ川は流れる セシウムの船を浮かべて」という文字が載った川が光っている写真、孤独死した知人の話、房総の里山の美しい風景、戸澤くんから借りたキャノンで撮影した小保方晴子、香港の路上でばったり会った黄之鋒くん、香港でホームヘルパーとして働いているインドネシアの女性たち、辺野古の大浦湾側の海、2015年に国会前で撮影したデモ、AKB48、熊本地震の跡、古き良き築地、1989年にカリフォルニアの白人ばかりが住む住宅地で撮影した写真を再利用して「風景がひとつの肌の色で独占されることの不気味さ」という文を載せたページ、房総で出会った軽ワゴン車で旅する老夫婦と老犬、去年パリのモンマルトルのアパートに数日滞在したときにライカSLで撮影した風景、安田純平さんと藤原さんが並んで笑っているツーショット(これだけ、ぼくが撮影した)、大久保のタピオカドリンクの行列、孫を抱いた玉城デニーさん、川崎通り魔殺人事件の現場、石牟礼道子さん、瀬戸内寂聴さん、などの写真と話で構成されている。

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1993年6月 藤原新也『南島街道 沖縄』スイッチ・コーポレイション書籍出版部
○藤原氏は本書で、28歳の頃八重山の島々を2カ月ほど渡り歩いたという。○藤原「外洋を旅している回遊魚がこのくちだな、やつらは一生のうち何十万マイルもの海を泳ぎ続ける。海が荒れれば底にひそみ、疲れれば流れ藻の下で休み、魚の群に当たればおそろしいスピードでその中に突進し、来る日も来る日も泳ぎ続けるんだ。やつらは旅の間にさまざまないい体験をするだろう。旅の途中でまるで楽園みたいなリーフや巨大な龍宮城みたいな隠れ磯のとりこになる。しかし、残念なことによい場所を見つけてもやつらの性格は一カ所にじっとしておれないたちでね。つまり旅するうちにものごとを較べたり計ったりする厄介な能力が身についてしまったんだな。だからその海の向こうにもうちょっとよい場所がないものかとすぐその場を離れてしまうんだ。そうこうしているうちに年月がたちゃあ、歳をとり体も弱ってくる。やつらはそれで、全身傷だらけ疲労困憊して自分の生まれた場所にいそいそともどって行く。そしてそこで死ぬ。」


藤原新也の本


2015年2月27日~3月12日 ブライトフォトサロン(〒104-0043 中央区湊1-8-11 ライジングビル4F ℡03-3523-0545)「島の記憶(ⅰ)戸澤裕司・写真展」

写真左から大城弘明氏、戸澤裕司氏、新城栄徳
2013年5月5日ー戸澤裕司写真展打ちあげ□海鮮亭ちひろ(店主・島袋憲広)

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『噂の真相』を糾弾する右翼結社

屋良朝博氏、 岡留安則氏、

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2011年1月 メディア総合研究所『放送レポート』「普天間報道 なぜ違う?沖縄と東京」大月書店

 2011□岡留安則の「東京-沖縄-アジア」幻視行日記 今回の大震災と原発事故はさまざまな出来事を核爆発のように吹き飛ばした。東北3県の地デジ延期からTPP,子供手当、高速道路無料化、メビン・ケア差別発言事件・・・・。東北の被災でJTの工場やトヨタの工場などが被災し,たばこ不足、部品不足による車の生産台数の削減。大手製紙会社の被災による紙とインク不足による新聞や週刊誌などの減ページ措置などにより社会生活にも多大な影響を与えつつある。小沢擁護や記者クラブ批判もやったリベラル過激な「週刊朝日」の山口一臣編集長もとばされ、同誌じたいの休刊も囁かれている。何よりも、外国人からの102万円の献金を受け取って内閣総辞職に追い込まれる寸前だった菅総理退陣も吹っ飛んだ。これぞ、最大の不幸かもしれない。 
 また、朝のTBSワイドショー「はなまるマーケット」でおなじみの薬丸裕英・岡江久美子コンビも、原発PR推進組(中部電力)に出たことも知らんぷりでテレビに出ずっぱり。北村晴夫弁護士、勝間和代らもそうだ。調べればB・C級戦犯は他にもいっぱいいるはずだ。こうした連中は、この原発危機の中で反省も自粛もなし。視聴者はシラケるばかり。それでいいのかい,テレビ局よ!!  それはともかく「ウチナー・パワー」という新刊が出た。サブタイトルには「沖縄 回帰と再生」とある。天空企画編集でコモンズというという出版社から出た本だが、なぜか筆者が表紙の帯に100時程度の推薦文を書いているので、紹介だけしておこう。「多彩な書き手が琉球を論じる掘り出しものの逸品本だ!沖縄再生のヒントがあちこちで発見できる楽しさも満載。 岡留安則元「噂の真相」編集長(沖縄在住)」。たまたま出合った沖縄本を数多く編集している智内好文氏に頼まれたものだ。
 15人くらいのライターたちが寄稿しているが、保坂展人氏も沖縄との出会いから今日までを「ニライカナイ・クロニクル」という題で書いており、小林よしのり派の宮城能彦教授も「村落共同体としての共同売店」について書いている。個人的に面白かったのは永峰眞名氏の「郷土月刊誌『青い海』のころ」だ。<沖縄に来て知った雑誌だが、なかなかウワシン的要素もあり、スコブル面白い。東京ならともかく、沖縄で採算ベースに乗る本を作るのがいかに難しいかと言う意味でも大いに参考になった記事だった。
 沖縄関連の振興予算は2900億円で決まった。当初の一括交付金3000億円よりも減額されたものの、大幅アップとなった。だが、沖縄県民にすれば、予算増額を手放しで喜べる状況ではない。仲井真知事が東京で民主党幹部や閣僚クラスと極秘の会談を続けた結果がこれだったのか、と思わざるを得ない。辺野古移設のための環境アセスを防衛省が進めることに対してもあっさり容認した。アセスの権限は防衛省にあるのは間違いないが、「県民の意志はアセス提出に反対である」ことを強く明言すべきだったし、振興予算と基地問題はリンクさせないという強固な意志を示すべきだったが、それもふにゃふにゃ。沖縄予算に関しては前原政調会長の陰謀臭いが、そうだとすればタチが悪すぎる。仲井真知事が振興予算と引き換えに辺野古建設容認をやるのではないかと勘繰りたくなる。少なくとも東日本大震災の復興予算じたいが厳しい中で、沖縄だけ特別視することのひとつが基地対策である事は間違いないろう。北部振興予算も20億円削られたが、50億円は認められた。いまだに、前原が建前上否定するアメとムチの政策は強固に存在しているのは明らかである。ケビン・メアではないが、やはり、たかりの名人なのか。 
 米国が東芝の子会社を使って原発を30年ぶりに建設するという。福島第一原発は米国のGEである。脱原発は完全無視なのか。オバマ大統領も碌な人物でしかないことがバレバレだ。来年は、北朝鮮、中国、ロシアも政権交代を迎える。日本も未熟な政権の元で先の見えないまま、非常事態に突入するつもりなのか。それでいいのか、ニッポン、チャチャチャ!!

□< 2012年3月11日 日テレ21>
東日本大震災の発生から11日で1年がたった。死亡した人の数は1万6000人近くに上っている。
警察庁によると、11日現在、震災による死者は計1万5854人となった。最も多いのは宮城県の9512人、次いで岩手県の4671人、福島県の1605人などとなっている。 行方がわからない人は宮城県が1688人、岩手県で1249人、福島県で214人など、計3155人となっている。死者と行方不明者は、計1万9009人となった。この死者と行方不明者、オキナワ戦没者、最初のヒロシマ・ナガサキの被爆者の霊魂(あるとすれば)は自分らの死が後世どう扱われているか気にする筈だが・・・。少なくとも今のゴミ扱いされている状況に対しては、財界・政治屋に「祟り」がないとおかしいと思う。

 岡留氏が小沢無罪の判決に素早く対応し、氏のブログに□待ちに待った小沢一郎公判で無罪判決が下った。権力の横暴を批判してきた小沢氏の正義が認められたことは、東京地検特捜部と10年裁判を闘った筆者としてもうれしい限りだ。恣意的な国策捜査を仕掛けた検察の完敗であり、検察審査会の不透明なやり方も今後は大いに問題になるだろう。検察というこの国の正義の砦は、いまや腐りきっているというのが、筆者の見立てだ。検察の大改革を主張してきた小沢氏の無罪判決で大慌てなのは、反小沢で固めた民主党野田執行部、霞が関官僚、自民党以下の野党、財界、大手メディア、米国政府だろう。
(略)
 驚いたのは在日米軍再編の新たな共同発表が延期された時の野田政権の対応だ。米国上院議員の軍事委員長であるレビン軍事委員長らが、共同声明に待ったをかけたのは、環境問題や費用の問題がクリアーになっていないことがその理由だった。実に真っ当だ。ところが、日本政府は、予定通りの方針で行くと早々と明言。本来ならば、日本が米国政府にクレームをつけるのが筋だろう。29日の野田訪米のパフォーマンスが何よりも第一なのだ。オスプレイをどうするつもりだ!!やはりここは、メディアを含めて既得権益体制の総スカンを食うかも知れないが、日本の防衛は米国第七艦隊で十分という基本的姿勢をもっている小沢一郎の出番ではないか。筆者は自信をもってそう断言したい。とある。
 小沢氏に対してはアレルギーを持っているが、ま、裏事情に精通している岡留氏のことだから根拠があってのことだろう。ここで歴代政権の沖縄に対する考え方、とくに初期の吉田茂を見てみる。1952年8月発行の東京『沖縄新報』(永岡智太郎)第16号に「去る6月6日、本土視察のため上京中の那覇市長又吉康和氏と吉田首相との会見の際『日本はまだ受入れ態勢が出来ていないからすぐに復帰ということは困る。今まで通り米国に協力して辛抱して貰いたい、米国に見離されてソ連が入って来たらどうするのか』という全琉百万同胞の悲願をふみにじった吉田首相の暴言」とある。私も積年の反米感情でどうも批判の対象をアメリカに向けてきたが、どうやら時の日本政府の「沖縄差別」が大きな問題のようである。それを許した沖縄側にも当然問題がある。それに関連して『琉球新報』に連載されている伊佐真一氏の伊波普猷批判が参考になる。
 宜野湾市長選挙で話題になった真部沖縄防衛局長が沖縄の新聞でなにやら記事になっていた。米軍の兵隊には選挙権が当然ながら無いが、自衛隊員にはあるから相当罪深い。最近は与那国島にも自衛隊員が居る、創価学会票と同じく、自衛隊票は石垣パクリ市長などの票にもなっている。基地反対と言いながら安保には触れない首長が増える元となっている。基地問題に触れながらその元の安保に触れないのは大手メディアも同じだ。

2012年4月26日の所感
 本日はひよりの誕生日、1歳である。昼、沖縄大学により宮城先生紹介で大学図書館に『青い海』創刊号と、沖縄関係資料室が載っている10号を寄贈する。帰途、那覇市歴史博物館によって、5時から久茂地・抱瓶の高橋淳子さんのお別れ会に参加。壁には淳子さんの写真が所狭しと貼られていた。アルバムには喜屋武真栄氏や西平守良さん、喜納昌吉、大田昌秀、具志堅用高、新城亘、儀間比呂志、ひさみ夫妻の諸氏らが淳子さんと収まっているのもある。私は1973年頃、高円寺・球陽書房の西平守良さんに近くの「きよ香」に連れていかれそこで淳子さんを知る。知るといってもそれが最初で最後の出会いであった。会場の抱瓶にはひさみ夫妻らが居られた。1時間半ごろ経って大田昌秀氏、岡留安則氏や沖縄大学のO教授、S氏らが参加し故人が好きだった民謡で追悼した。しばし大田氏、岡留氏と懇談する。岡留氏に東郷健の消息を尋ねた。(4月26日の新報、タイムスに同性愛者の差別撤廃運動で知られた東郷健の死亡記事が顔写真入りで報じられていた。)→2012年4月19日

 岡留氏のブログに□東京高円寺で沖縄居酒屋「抱瓶」や「きよ香」など5店舗を経営して成功を収めた高橋淳子(本名=清)さんがなくなった。東京の自宅マンションの風呂場で発見されたという。死亡推定日は4月7日。高円寺の抱瓶グループは長男の貫太郎君に任せて、高橋さんは3年前から那覇市久茂地で、沖縄居酒屋「抱瓶」那覇店を経営していた。最近は元照明マンの仕事をしていた光太郎君が母親の片腕となり、親子で店を切り盛りしていた。死因は細かく聞いていないが、享年73歳だった。高橋さんの苦労人生からサクセスまでの人生は「ただ、誠を尽くして浮世を渡る」(日本社)という一冊の本にまとめられている。
 筆者は高円寺の「抱瓶」にも何回か顔を出したことはあるが、高橋さんが沖縄に来てから本格的な付き合いが始まった。筆者が新宿の「ロフトプラスワン」に出演した時には長男の貫太郎君ともどもよく見に来ていたというので、沖縄での初対面以来、意気投合しての付き合いが始まった。何回も呑む機会があったが、自分の人生に自信と誇りを持っていたためか、頑固なところもあった。石垣島出身の高橋さんの早すぎた突然の死に合掌しておきたい、通夜・告別式は東京で済ませて、沖縄では「送る会」が4月19日午後5時より沖縄抱瓶2階で開かれる予定になっている。

『噂の眞相』左、2004年4月ー休刊記念別冊「追悼!噂の眞相」


2006年10月 サイゾー別冊『噂の眞相 闘論外伝 岡留安則VS12人の論客』インフォバーン

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屋良とものぶTravelogue--羽田湯巡り- 最近の銭湯事情2020-9-27
 久しぶりに羽田を訪ねたので玉の湯に立ち寄ったら、何と去年(2019年)の暮れから長期休業とは???? 今では少なくなった薪で湯を沸かす玉の湯はこのエリアでも一番の贔屓だった。残念無念。去年、休業なのでコロナとは無関係。しばし呆然。再開を熱烈希望。気を取り直して近くの入船湯へgo❗ 江戸時代から続く老舗銭湯。何とこちらも廃業、建物跡地にクレーン車が数台置かれ既に更地になってた。2020年3月31日(火)閉店。機械設備の劣化で湯温が安定しなかったのが原因という。江戸時代から続く銭湯を閉めざるを得なかったとは当主の無念が偲ばれる。再度、気を取り直して、ならば、帰り道の「重の湯」だ。ふ~、やっと♨にたどり着いた。
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 #玉の湯-入船湯 客は地元の年配の方が大半、湯船に浸かり目を閉じれば、おしゃべりの中に六郷や羽田の江戸前の漁師言葉が聴こえてきて懐かしい。どちらも京急空港線 穴守稲荷駅から近く、弁天橋も徒歩数分。空港利用者も立ち寄るという穴場の銭湯だった。「世界に一番近い銭湯」とは泣かせる。

 屋良 朝信 舞踏家-伊藤ミカ 2020年07月23日 1969年の夏-池袋-。新宿駅西口地下広場を埋め尽くした大群衆、安田講堂占拠など世界中が熱かったこの時代、政治・社会のみならず芸術・文化の世界でも、演劇なら寺山修司や唐十郎、舞踏では土方巽らがけん引していた。どんな経緯があったのか今となっては定かではないが、当時、首都圏でのフォークブームの渦中、コミュニティーのリーダー的な存在だったSさんから連絡があり、”池袋の劇場で前衛ヌードダンサーの公演があり、踊りのバックで即興演奏する若者を探しているが、屋良、どうだ、一度チャレンジしてみないか?” と声掛けがあった。決められた演奏がある訳ではなく、徒然なるままに演奏してくれれば、ダンサーがそれに合わせて踊るので面倒はないという。掛け持ちでアルバイトしていた頃でもあったし、演劇や舞台芸術への関心も高かったので断る理由はない。ただ一日複数回の公演、ひと夏の長丁場でネタ不足の懸念もありT兄弟やK.I君ら音楽仲間の協力を仰いだ。ダンサーの名は” 伊藤ミカ” 、勤め先が公立中学の教師だったことで既にマスコミの喧伝によって、世間ではスキャンダラスな存在だった。ひと夏とはいえ身近だったせいか、そのころも今も、週刊誌ネタを漁る気はない。
 “好き勝手に弾きまくってくれ”と言われてもその勝手さ加減が分からず戸惑いながら初日を迎えた。客の多くは、芸術を求めてというよりは単純にヌードがお目当てだったろう。簡単な事前打ち合わせと踊りの中で欲しい音を要求していくので流れを注視していてくれとの注文だった。ステージの横手に陣取り、アイコンタクトを取りながら都度、適当な楽曲を選んでいった。仲間の一人がジミヘンドリックスのファンだったので”紫の煙”や”ヘイ・ジョー”、その他モータウンサウンドの代表的な曲を演奏したりした。いまだに引きずる”ちゃらんぽらん”さが伊藤ミカさんの好みに合ったのか、気に入ってくれた。一日3回公演の幕間には、楽屋で世間話に興じて、時々、出前にお昼をご馳走になった。1936年生まれでぼくらより一回り歳上だが、前衛舞踏家として活躍するネーネーの話は興味深かった。
 このひと夏の経験後、ボクは翌年にはヨーロッパに旅立ち、国内の出来事には疎かった。帰国後、ミカさんが突然死したことを知りあ然とした(1971年享年33歳)。入入浴中、浴槽の湯を追い炊きしていたところバスタブの中でそのまま意識を失い事故死につながったと聞いた。壮絶な生き方は壮絶な死で幕を閉じた。ミカさんとの出会い以降、ひょっとしてヌード/ストリップ劇場でギターを弾くチャンスがないものかと各所をあたったがこれは全部断られた。

 屋良 朝信 ファイティング原田ジム訪問記 2020-7-15 無類のボクシングファンだった父の影響で、私はラジオ放送の時代からボクシングに親しんだ。テレビ時代になり、父は原田の試合があると数日前からそわそわしだし、家族に何度も事前告知をした。試合当日は家族全員、テレビ前に陣取り、放送前から全員吊り目状態の異様な雰囲気に包まれた。記憶に残る試合は多くあるが、原田の敗戦試合も含めてジョー・メデル、エデル・ジョフレの対戦が記憶に鮮やかだ。その原田さんのボクシングジムが横浜にある。知人の石井彰英氏が原田さんと面識があり、今回、取材に原田さんを訪ねるというので同行させていただいた。
 御年、77歳になられるがもともと童顔だったせいもあるのかとても顔艶がよく現役時代そのままの”ファイティング原田”然だ。この日のもう一つの目的だが、石井氏がエデル・ジョフレ(85歳)の近影写真をお渡ししたので、いきおいエデル・ジョフレの話題に集中した。既に近影に写るジョフレに現役時代の面影は乏しく、しばらく”ほんとにここに写っているのがジョフレなのか?” と半信半疑の様子だった。” そうだよなぁ、ムリもないよな、85歳だものなぁ” と頷きながら自らに言い聞かせていたのが印象的だった。話の中では何度もエデル・ジョフレに勝ちたいという一途な思いでボクシングに打ち込んだことを話した。ご両人とも高齢でもあり、またこのコロナ禍で往来の不自由な時代だがジョフレに”会いたい!会いたい!ブラジルに行きたい!”と繰り返した。エデル・ジョフレ全戦績75戦69勝(48KO)2敗4引分けの内の2敗は原田との対戦によるもの。
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 たくさんのことをお聞きしたが、ボクは個人的に原田さんの親友だった斎藤清作(後のタレント/俳優 タコ八郎))の話が好きだ。軟体動物系とでも言いたくなる執拗なボクシングスタイルの斎藤清作。無類のお人好しだった彼の話になると原田さんの目が遠い昔をみるように優しくなり、心が温かくなった。

 屋良 朝信 2020年7月5日 佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会
2019年10月31日、未明に首里城が火災、炎上して早や9カ月になろうとしている。沖縄ではこれまで、首里城の再建へ向けたたゆまぬ努力のもと、2026年には首里城が再建される。嘗ての首里城に、大正昭和の時代に活躍した、川崎市出身の詩人佐藤惣之助の詩歌碑があったが別な場所に移設されて今日に至るが、沖縄那覇市の山川宗徹氏が代表を務める-佐藤惣之助詩歌碑移設を考える会-が元の首里城に移設する運動を展開し、その努力が実り令和3年5月15日の惣之助没79回目の命日に「佐藤惣之助詩歌碑」が元の本籍地である首里城公園入口に移設建立されることが決まった。下記は佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会会長 山川宗徹氏によるfacebookへの投稿記事を引用させていただいた。YouTube”宵夏” 詩:佐藤惣之助 曲:屋良とものぶ 三線:御所真一郎 二胡:大関ジュンコ映像プロデュース:石井彰英
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「宵夏」の詩は佐藤惣之助が大正11年5月から7月、沖縄本島、各離島を巡遊、沖縄諸島風物詩集を著し、その中に「宵夏」の詩が載っている。惣之助詩歌碑は令和3年5月15日の惣之助79回目の命日に首里城公園に移設建立される。既に設計業務は完了し、今年度予算に移設工事費が那覇市の予算に計上されている。那覇市議会、那覇市当局、沖縄県、川崎市議会、川崎市当局、川崎沖縄県人会の皆様には多大なご協力を賜り、いよいよ「宵夏」の詩の本籍地である首里城公園に移設建立される日が近づいてきた。心躍る今日この頃である。改めて関係各位に感謝とお礼を申し上げます。 佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会会長 山川宗徹 拝

 関連→山川宗徹 4月7日 天山陵 
 那覇市首里池端町に所在する第一尚氏王統・尚巴志を始め歴代の王も葬られた陵墓跡である。方言名は「ティンサンリヨウ「、天山御墓「テインサンウハカ」、「天山ようどれ」、また「天山」ともいわれたようである。募陵は天山森の南の崖面に掘りこんで、東室、中室、西室の3室あったとされている。1983年(昭和58年)沖縄県教育委員会の調査で閃緑岩の扉が発見されている。第一尚氏滅亡後第二尚氏第三代尚清王の五男である北谷(ちやたん)王子に下賜されて「天山御墓」と呼ばれ、その後も北谷家の墓として利用されたとなっている。
 「中山世譜」によれば天山陵焼失後第二尚氏の一時的な陵墓として使用され、1637年(崇禎10年)第6代尚永王の妃が、1663年(康煕2年)に第7代尚寧王の妃が葬られたとなっている。何よりの証拠は1983年(昭和58年)に地主自身が西室近くで発見した、尚巴志の石棺台座が残存していたことは特筆されることではないかと考える。専門家でもない小生が「天山陵」について記述して意見を述べるのもおこがましいことではあるが、琉球国の礎を造った第一尚氏の功績があったればこそ第二尚氏が400年余りも続き、その子孫が今日まで繁栄している事に、改めて光を当てるべきではないかと思うのである。そして、琉球国を経て今日の沖縄県の長い歴史が続いている事に改めて驚嘆と誇りを持ちたいものです。

 屋良 朝信6月14日 9:58“橋電車” 2020-5-31半世紀ぶりに懐かしの都電34番系統を歩いた。起点;JR浜松町駅金杉橋⇒芝園橋⇒赤羽橋⇒麻布中ノ橋⇒一ノ橋⇒二ノ橋⇒三ノ橋⇒古川橋⇒四ノ橋⇒光林寺⇒天現寺橋⇒広尾橋 通学で利用していた1960年代当時の品川駅前は多くの都電路線のターミナル駅で、夥しい数の都電車両がひしめいていた。都電は欠くことのできない交通手段だった。高校から大学にかけては何かと高輪〜三田周辺に縁があり都電34番系統にはよくお世話になった。貧乏学生の身で都電に乗る金にも不自由なときは、沿線歩き。三田のイタリア大使館の裏辺りを通って芝園橋-赤羽橋に出て渋谷くらいまでは軽く歩いた。途中、少し方向を変えると六本木/赤坂も至近距離だ。34番系統は”橋電車”と呼ばれるほど橋の名の付く停留所が多い。昭和44年廃線、電停名は、今、バス停名に踏襲されている。

金杉橋/将監橋/芝園橋

赤羽橋/赤羽橋/中ノ橋

 16の停留所中12に「橋」がついている。四ノ橋から終点金杉橋までは九つの停留所すべてに橋が付く。東京タワーが近いがビル群に阻まれてようやく赤羽橋でタワーが拝めた。橋の架かる川は上流で渋谷川、下流では古川となり東京湾に注いでいる。大学初年の頃は三田に在った塗装工場でアルバイトをしていた。70年安保のころで大学のキャンパスも長期閉鎖、バイトに明け暮れる日々でもあった。ペイがよかった。給料後で懐が温かい時だったのか、生まれて初めてニコラスのピザを喰ったり、アマンドのケーキを奮発したりしたのを覚えている。


光林寺 (こうりんじ)は東京都港区南麻布にある臨済宗妙心寺派の寺院。慈眼山光林寺。
ヘンリー・ヒュースケン(オランダ系アメリカ人)の墓、東京都港区、光林寺 1856年(安政3年)に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに伴われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。 1861年1月14日(万延元年12月4日)にプロイセン王国使節宿舎であった赤羽接遇所(港区東麻布)からアメリカ公使館が置かれた善福寺への帰途、赤羽広小路ないしは芝赤羽新門前町の中の橋の北側で攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに腹部を深く斬られ、善福寺宿舎に運ばれたが翌日死去した。28歳没。 ウィキ
 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


 2020年06月01日 ショウセン-五反田駅 10数年前、勤め人時代のこと。営業で外回りの先輩から電話があり、五反田駅で待ち合わせすることになった。” 急遽、取引先と打ち合わせになったので、お前も出て来ないか” とのこと。五反田駅は地下鉄や私鉄の乗り入れもあり、”どの五反田駅へ行けばいいか?” と問うと” では ショウセンの五反田駅で待っている” との答えあり。 ””ん・・? ショウセン?”一瞬、??と思ったが先輩は私より二つ三つ年上、 そこで・・おっ、そうか。ショウセン(省線)のことね・・と合点したが、ショウセンなどという言葉をいまだに使う人がいるのかと驚いた。“先輩、まだ頭の中ショウセンが生きているのですか?” 電話の向こうで“ショウセンて今はなんて言うんだったかな、国電? 国鉄? ん・・E電かい?” というのでそこでまた吹き出してしまった。JRは思い浮かばなかったらしい。E電とはまたシブい。1987年日本国有鉄道民営化に伴い、「国電」に代わるものとして、決めた愛称だが一般には定着しなかった。国電/国鉄の前は「省線電車」(しょうせんでんしゃ)、略称-ショウセンと呼ばれていた。当時、国鉄という名称から抜け出せない人も多かったが、先輩の場合はさらにその前の呼び名を使っていたことになる。

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜旧東海道 かわさき宿 (2) 2020-5-1」
 さて”川崎宿”に戻るが地図に見えるように川崎宿には田中本陣と佐藤本陣跡が示されている。佐藤本陣は別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物だった。幕末には十四代将軍家茂が京に上る際に宿泊したという。確認できる記録は手元にないが江戸上りの一行が田中本陣、佐藤本陣に宿泊した可能性は高い。1890(明治23)年、旧佐藤本陣の後裔(こうえい)で詩人・佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。今でも多くの人に親しまれている「六甲おろし」「人生劇場」などの作詞家だ。惣之助は大正11年(1922)、31歳の頃、旅先の沖縄で琉歌に出会い、『琉球諸島風物詩集』を書いた。沖縄の風土、言葉や音楽など「沖縄のすべてが詩だ!」と語ったというほど沖縄にほれ込んだ。日本橋から西に向かって約17km、最初の宿泊地としては距離が短すぎるが、将軍家茂が京に上る際に宿泊したというから大行列ともなればその程度の余裕の旅だろうか。かわさき宿誕生400年の暁にはぜひともこの川崎の地で権力中枢に媚びない琉球王朝絵巻の大行列を見てみたい。
 
かわさき宿交流館/夕映えーかわさき宿 六郷橋/朝焼けーかわさき宿 六郷橋

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜旧東海道 かわさき宿 (1) 2020-4-29」
 旧東海道-かわさき宿が元和九年(1623)に誕生してから2023年で400年を迎える。川崎宿は、東海道五十三次の2番目の宿場である。武蔵国橘樹郡川崎領(現在の川崎市川崎区)に置かれた。最初の諸駅設定時に川崎宿はなかった。神奈川・品川両宿の伝馬継立の距離が長く伝馬百姓の負担軽減を目的として、その中間に位置する川崎に新駅を設置された。日本橋から約17.7km、品川宿からは約9.8km、神奈川宿へも約9.8kmの位置にある。



→「中原中也ジオラマDVD ダダさん You Tube URL」
 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜『中原中也-DVD作品ラフ・ミックス版プレビュー 2020-3-18』」
 ジオラマ/映像クリエーターの石井彰英氏が大正〜昭和にかけて活躍した詩人-"中原中也"の生涯を追ったDVD作品(映像/朗読/ナレーション/BGM)がほぼ完成に至り、制作参加メンバーの数人でひとまずの完成品プレビューに同席した。DVD映像は製作者の石井氏-手作りのジオラマをベースに撮られている。DVDリリース:2020年4月末。先々月から微力ながら私にとって未体験ゾーンである詩の朗読のお手伝いをさせていただいた。
 
  12月に中也が住んだとされる鎌倉-扇ガ谷・寿福寺周辺を歩いた際の記事をアップした。中也は鎌倉に住み始めてほどない1937年に、結核性脳膜炎を発症し、鎌倉養生院(現、清川病院)で亡くなった。先だって、本ジオラマDVD作品にも登場する中也・終焉の地である周辺を往時に思いを馳せて歩いた。清川病院は鎌倉駅から八幡宮に向かう若宮大路の東側の参道沿いにある。小林秀雄が最晩年に住んだ雪ノ下も清川病院の裏手にあり、歩いて5-6分のところだ。鞍馬天狗でお馴染の作家・大佛次郎が書斎や文士仲間の交流の場などに使った旧茶亭(築:1919年頃)も近い。ちなみに鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に大佛の墓所がある。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 斎藤 陽子(Walnut, California)7-10 日本時間 南カリフォルニアの、木曜日の今日の気温は37℃、湿度は3%ほどとカラカラで、木陰に入ると涼しく感じられるので救われます。また夜間は砂漠特有の気温となり、13℃ほどと凌ぎ良く、寒暖の差が激しいのがロスアンゼルスの一日です。南カリフォルニアに本格的な夏の季節がやって来て、大抵の持ち家では、裏庭にプールを持っている 家が殆どで、我が家の三人の子どもも小中学生までは、夏休みは朝起きると即刻水着を着て、一日中裏庭のプールで過ごすという生活をしていましたした。年寄りふたりっきりの現在では近所隣りのプールサイドから聞こえる子どもの遊び声を聴くと、今では懐かしい過去の思い出になってしまいました。最近の南カリフォルニアの深刻な水不足で、新規の建売家屋はプールを造るのを控えるように、市が奨励している傾向もあります。
 写真はカリフォルニア州立大学農学部に勤めていた頃の30年前に、イスラエル産のリンゴの木を大学の実習場に植えた時に、2本ほど分けて頂いたものです。このイスラエル産のリンゴは気温の暑い、乾燥地の中東地帯で生育し、真夏に収穫できるという南カリフォルニアの気温に適合している極めて特殊な品種で、あと三週間もすると収穫できる夏のリンゴです。秋になるとアメリカでは新鮮なリンゴが出回りますが、アメリカのリンゴ生産量は4,61万トンと、日本の5倍以上を生産し、その生産高は世界第2位です。(1位は中国)アメリカで最もリンゴ生産量の多いのがワシントン州で、この州だけでリンゴ生産量は日本の倍以上だと言われています。
 アメリカでも全米の半分の以上のリンゴをワシントン州で生産しているというリンゴの巨大産地です。30年前から青森産の「ふじリンゴ」を接ぎ木して、今ではふじリンゴも沢山出回っています。ワシントン州のリンゴの生育期は、太平洋からくる雨雲がカスケード山脈に阻まれ雨はすべて山に降ってしまうため、リンゴの生産地となっている内陸地帯にはほとんど雨が降らない状況のワシントン州の全てのりんご園は、コロンビア川の水を潅水にしています。緯度は北海道より高いワシントン州は乾燥と多日照の気象条件が、リンゴの品質にも良い影響があるようです。ほかにニューヨーク州、ミシガン州、カリフォルニア州などもリンゴを生産をしていますが、ワシントン州はその規模で群を抜くアメリカのリンゴの生産本場です。日本ではリンゴその物を果物として皮をむいて食べるか、最近ではりんごジュースもわずかに見かけますが、アメリカ人はリンゴの加工が上手で、代表的なものがアメリカの「おふくろの味の」のアップルパイ、そのほか焼きリンゴ、アップル・ジュースや焼豚肉の添え物用のアップル・ソースやドライ・フルーツとしてアップル・チップスなどが有ります。
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写真は今わが家の裏庭になっている夏に収穫できるイスラエル産のリンゴと、いま庭のハイビスカスが盛んに開花期を迎えています。右の写真はワシントン州のリンゴ生産畑です。


  那覇市歴史博物館 7-7 国宝尚家資料7月の特別展示のお知らせ 特別展示室では、毎月「国宝 琉球国王尚家関係資料」の美術工芸資料および文書資料とともに、王国時代の美術工芸品をご紹介しています。7月は尚家資料と福地家資料の染織品から、涼やかな水色地の紅型衣裳をご紹介します。また「琉球漆器の様々な技法」と題して、尚家資料や伊江家資料他の王国時代の琉球漆器から堆錦(ついきん)、螺鈿(らでん)、沈金(ちんきん)、箔絵(はくえ)の技法をご紹介します。文書資料は6月に引き続き、尚家関係資料から尚育王(しょういくおう)の元服・即位・冊封(さくほう)に関する文書6点をご紹介します。王国時代の精緻な工芸技術と、貴重な記録類をぜひご覧ください。


 大濱 聡7-6■7.4付地元二紙に掲載された記事――昨年11/2-3に首里城正殿前で行われる予定だった組踊上演300周年記念事業『首里城公演・式典「琉球舞踊と組踊」』は、本番2日前の10/31に起きた首里城火災によって中止になったが、舞台設営に関わった業者7社が焼失した機材3500万円の補償を元請けの広告代理店に求めたが応じてもらえず、窮状を訴えているというもの。■音響、照明機器などが焼失、どこからの補償もないというのは大変深刻な問題だが、私にはもうひとつの関心事があった。中止になった公演は今年2/15に実施された。それを収録したNHK「沖縄の歌と踊り」(4.24放送)を見たが、貧相な舞台設営に唖然とした。通常なら鮮やかな背景幕を使うが(国立劇場おきなわ公演参照)、TVの画面合成で使うクロマキーを思わせる青一色の背景のみ。経費の関係か、元請けや発注元の実行委員会(事務局・沖縄県文化観光スポーツ部)もそれでよしとしたのか、ノーチェックだったのか。経費は適切に使われたのか。■公演には組踊の第一人者の皆さんが出演、熱演していただけに、見ていて気の毒だった。当事者の見解を聞いてみたいものだ。

 斎藤 陽子 (Walnut, California)7-5 日本時間 (略)最近は日本の家屋の屋根にも太陽光発電のパネルを乗せた家を見かけるようになりましたが、太陽光線が1年の内9ヵ月は保証されている南カリフォルニアでは20年前頃から、個人住宅の屋根の太陽光パネルが敷設するようになり、現在はその売込みも多くの業者が盛んに行っています。カリフォルニアは真冬でも太陽光線の強い州で、そのお陰で四季を通して、野外撮影ができる地として、ハリウットの映画産業が栄えた処です。太陽光線の豊かなカリフォルニアでは、2020年からの新築家屋には、太陽光パネル設置が義務付けられています。すでに40年前から風力発電に着手しているカリフォルニア州ですが、このところ風力発電や太陽光発電などの自然エネルギーの開発に力が入った結果が伺えるのが、ロスアンゼルスから東に190キロの保養避寒地のパームスプリング(Palm Springs)の風力利用の発電です。
 パームスプリングの街中に入る手前の砂漠地帯には、見渡す限りの沢山の風力発電機の発電群ウィンド・ファーム(Wind Farm)を見ることができます。高さ60m~100mの風車ウィンド・ミル(Wind Mill)の一基あたりの設備容量は、約160KWの電気を作ると言われています。この風力発電がこの地帯に敷設され始めたのは既に40年ほど前からで、最初はポツリポツと建っていたのが、最近では3万基近くなり、その風車の林立風景はカメラに収まりきれない広さで壮観です。最近ではドイツ製、デンマーク製や日本の三菱重工製など競い合っているといいます。この写真はほんの一部ですが、プロペラの林が地平線の彼方まで埋め尽くされていて、全体の写真が撮れないのが残念です。なぜこの地に風力発電が盛んになったかというと、この地帯は広大な砂漠地帯で、年中砂漠の気温が上がり上昇気流が発生し、この上昇する気流が太平洋側からの風を引き込み風洞を作るため、風力発電に好条件を満たすと言われています。

 加えて、原子力発電離れもある昨今、オバマ前大統領は大統領時代に太陽光発電や風力発電を奨励しています。この風力発電の周りは砂漠地帯で、敷地的にはまだまだプロペラ建設用地に余裕がりますので、今後もここが拡大されるように思われます。またロスアンゼルスからラスベガスへ向ってドライブした人なら見たことが有ると思いますが、カリフォルニア州とネバダ州の州境前のカリフォルニア側のモハべ砂漠に、写真のような1982年から作られたタワー式太陽熱発電( Solar Power Tower)の大きな施設があります。この発電所が作られた初期の頃は、規模も小さいものでしたが、1995年頃から自然エネルギーが見直されて以来、年々この発電所は拡張され、最近の力の入れようは目覚しいものがあり、その規模は年々大きくなっています。このタワー式太陽光発電は、数メートル四方の鏡を数百枚から数千枚敷き詰めて、集められた太陽光を一箇所の集光器タワーに集めることで、1000度ほどの熱を確保することが可能とのことです。
 一年中無料の太陽が燦々と豊かにある砂漠地帯では、ぴったりのプロジェクトですが、ただ、このシステムが優秀と喜んでおれない問題も派生していると、昨日のカー・ラジオからの放送です。問題は周りを飛ぶ鳥が、この集光器タワー目がけて飛んできて、一日に相当数の野鳥の犠牲が見られ、自然保護団体が騒いでいるようです。発電所側も何らかの対策を立てなければとの課題を抱え、お役所もこれから太陽光発電の許可には慎重に立ち向かうと言っています。太陽光パネルや太陽光発電などは有り余る太陽光線と、台風や竜巻なども無いカリフォルニアには、最適な再生エネルギーかと思います。アメリカ全土の中でも、南カリフォルニアは有り余る太陽光線とハリケーンなども無く、再生可能エネルギー(太陽光線 風力など)政策は一応成功しているとと言えます。

  「くろねこの短語」2020年7月4日ーコロナ感染者が日々増加する中、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が、1~3月期だけで17.7兆円もの年金を株ですっちまったてね。2019年度の1年間でも8兆円の年金が水の泡となりましたとさ。休業補償するのが嫌で営業自粛を躊躇しているのが、いかにマンガかってことなんだね。(略)
 連日100人超の感染者が出ている東京なんか、これで「夜の街」に休業要請なんかしてみてごらんなさい。ただでさえ多くの飲食店は土俵際に立っているんだから、いま語るのは「増税」より「補償」「支援」だろう。そんな折も折、国会閉じたままで他人事のように平然としている初老の小学生・ペテン総理なんだが、昨夜はJR東海名誉会長の葛西敬之と赤坂の料亭で会食。官邸のアイヒマン・北村国家安全保障局長が同席したそうだ。おそらく、静岡県の反抗にあって開業延期せざるを得なくなったリニアについて、何らかの悪巧みしたんだろうね。こいつらにとっては、コロナなんかどうでもいいってことなのだろう。コロナ禍をほったらかして、お友達と赤坂の料亭で酒池肉林するような虚けがトップに居座っていることを許しているようじゃ、この国はもうダメかもわからんね。

   
 Y・A 7-4 あきさみよ〜コロナ大丈夫かな〜外人さん達がバーベキューしてますよ、40〜50人ぐらいで賑わってますが。州崎公園駐車場も満席ですが。独立記念日かなー。
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Y・A 7-6 外人さんバーベキューセット放置かな~


 斎藤 陽子 (Walnut, California) 明日7月4日(土)はアメリカの独立記念日で、三日間の連休です。独立記念日(Independence Day)は1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して、毎年7月4日に定められているアメリカ合衆国の祝日公休日です。アメリカでは独立記念日を(インディペンデンス・デイ)と呼ばれるのが一般的ですが、単に「7月4日」("Fourth of July")という呼び名で言うことも多いです。
 アメリカの建国は1776年に独立宣言し、 今年で建国244年になりますが、数字を見るとほんとに若い国で、日本ではアメリカ建国の頃は江戸時代で、老中 田沼意次や松定忠信が政権争いをしたり、間宮林蔵が樺太を調査していた時代です。アメリカは多くの国からの移民の集まりで「人種のルツボ」とはこういう国を言うのでしょう。この国に53年住んで思うことは、肌の色も文化も宗教も言語も違う人々を、この国はよくも束ねていると感心することがあります。
日本でよく感じる曖昧(アイマイ)さや玉虫色が無く、このアメリカはきっちりと規則や法律で線引きされていていることが顕著で、この辺が多様な人種のこの国を統括している、鍵のような気がします。
 日本でも最近は外国からの就労者が多くなりましたが、日本人に通じる、今まで通りの曖昧さや玉虫色の政策から、きっちりとした規則の見直しも必要な時期に来ているように思います。またアメリカの外国人への語学教育には歴史が有り、外国人のための語学教育方法、そのシステムやテクニック方法など、日本のこれからの外国人のための日本語教育方法の一助として、学ぶところも大きいかと思います。各人種が融合しあい「人種のルツボ」の割には、民主的にうまくまとめた社会を作り上げていると、遂い最近までは少々感心しておりましたが、トランプが大統領になって、アメリカ社会の雰囲気が、なんやらギスギスして心地よいものではなくなりました。特に今年はネソタ州ミネアポリスで、白人の警官に拘束された黒人が死亡した事件をめぐり、黒人への人種差別の抗議デモが、全米主要都市に広がるという状況下での、独立記念日は微妙なものが有ります。
 独立記念日の連休は、通常ですと各地でパレード、カーニバル、バーベキュー、ピクニック、野球などのイベントが開かれ、夏休み中とあって遠出をする車で、高速道路の混み方は尋常ではありませんが、カリフォルニアの今年の7月4日は新型コロナウィルスのため、10人以上の集会禁止やビーチ、公園は閉鎖されており、例年と違う独立記念日です。また独立記念日の名物が各地で恒例の「打ち上げ花火」が行われ、1777年以来のアメリカの伝統行事のようですが、わが街で催される恒例の花火大会も、今年は中止の様です。
 日本の夏は夏中どこでも花火を売っていますが、アメリカでは日頃は全州どこでも花火の販売は一切禁止されていて、花火を売っているのは7月4日のみで、これを違反すると州によって異なりますが、カリフォルニアでは6ヶ月の禁固刑、1000ドルの罰金と厳しい刑が科せられています。普段花火で遊ぶことも厳しく禁止されていている、アメリアの子どもたちには、唯一花火を楽しむことができるのが、7月4日の独立記念日のみなのです。写真のように7月4日だけの即席店で、このような販売店はボーイスカウトや婦人団体など公共団体が市に許可を受けて、団体運営の資金捻出のために花火発売店を出しますが、これもコロナ禍でどこも出店が無い様いです。

写真は7月4日独立記念日1日限りの、例年の暫定的な花火売り場です。わが街ウォールナッツ市は花火禁止の警告文もあります。

 「沖縄タイムス」7-2 沖縄の米海兵隊員の家族1人が新型コロナ感染 米国旅行から戻った後に 基地外との接触なし〇海鳴りの島からー東京で新型コロナウイルスの感染者が107人出たとニュースになっているが、沖縄では米海兵隊の家族から1人の感染者が出ている。海外からの旅行者が制限されているといっても、米軍関係者は別だ。世界最大の感染国から米兵やその家族が出入りしても、日本政府は管理できない。


 大濱 聡7-1■瀬長亀次郎の資料館「不屈館」(那覇市)がクラウドファンディング――NHK沖縄が本日の18:10-「おきなわHOTeye 」20:45-「ニュース845沖縄」で二度放送していました。新型コロナの影響で来館者が激減、厳しい運営状況にあるため、先月クラウドファンディング(朝日新聞社サイトA-port)を起ち上げたということです。10月19日23:59まで、目標金額500万円。■私は「不屈館」友の会会員ですが、それと関係なく、「瀬長亀次郎と民衆資料」と銘打っているように、カメジローの時代の沖縄戦後史が学べる貴重な資料がつまった資料館です。ご協力をお願いいたします。※( )内は投稿者補足

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石川正通 1934年1月1日 今人生の峠に立って 夜明けを待つ身に鬼気は迫る  過去の夢は貘に食わそう 未来は神に預けておこう さあ現在だ永劫の現在だ 全き憩いに若水を汲もう
 
1929年9月1日『沖縄朝日新聞』「昭和5年1月、三越において本県物産の展覧会を開催することについては斡旋者たる我部政達氏・・・」(この頃、三越に1919年入店の瀬長良直が居る。1934年、銀座支店長。1937年、大阪支店長)

1930年 世界恐慌が波及
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1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

1930年6月 『犯罪科学』1巻6号 伊波普猷「古琉球貴族の性生活」
1931年2月 『デカメロン』創刊号 金城朝永「琉球の遊女」
1931年7月 『犯罪科学』別巻2巻8号 伊波普猷「布哇物語」
1931年9月 『犯罪公論』2巻1号 伊波普猷「布哇産業史の裏面」
 1931年9月 満州事変おこる
1932年1月 『犯罪科学』金城朝永「頭蓋骨崇拝」
1932年3月 『犯罪科学』3巻3号 伊波普猷「性に関する南島の民謡」
 1932年3月 満州国建国
 1932年5月15日 海軍将校ら首相官邸など襲撃、犬養毅首相を射殺

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1933年1月1日 大宜味朝徳『南島』創刊

1933年1月 『人情地理』創刊号 金城朝永「迷信のろーかる・からー」
1933年1月 金城朝永『異態習俗考』六文館 伊波普猷「序に代へてー八重山のまくた遊び」
 1933年3月 日本、国際連盟脱退
1933年6月ー仲原善徳『大南洋評論』第1巻第2巻(仲原善徳編集)□金城朝永「南洋関係図書目録」

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1933年7月 仲宗根源和『沖縄縣人物風景寫眞帖』沖縄縣人物風景寫眞帖刊行會
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唐手ー冨名腰義珍
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昭和8年 東京琉球泡盛商組合(金城時男会長)発会式/東京八重山郷友会
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1933年3月5日 大宜味朝徳『南島』第3号/4月5日 大宜味朝徳『南島』第4号

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東京江戸川 伊江島郷友会/鶴見沖縄会館
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東京沖縄県人会/在京首里人会
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横浜市鶴見沖縄県人同志会/富士瓦斯紡績株式会社川崎工場 沖縄県人女工

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1933年8月5日『南島』第7号 久志芙沙子「若葉から拾った哲学」/1934年1月1日『南島』第9号 久志芙沙子「無題」

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1934年1月1日 大宜味朝徳『南島』第九号 久米仙「わが郷里の人々・東京県人会ーかつて筆者は自分の事を『俺は琉球人だ』と謂ったことに対して叱られ、『俺は芋を喰って育った』と書いたので絶交を宣告された経験がある・・・恩河朝健、は副会長で計理士を職業とする。元来計数的智能に乏しい郷土の人々に、近来計理士の多く出る微候の見えるのは喜ばしい事である。」

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1934年2月10日 大宜味朝徳『南島』第十号 久米仙「わが故郷の人々・学者ー教育者ー文士」


1934年7月 金城朝永『異態習俗考』成光館書店 伊波普猷「序に代へてー八重山のまくた遊び」
 
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1935年10月 上原永盛『沖縄縣人物風景寫眞大観』沖縄通信社
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県外篇ー長嶺亀助、神山政良、仲宗根玄愷、渡口精鴻、東恩納寛惇、伊波普猷、翁長良保、銘苅正太郎、大濱信泉、伊豆味元永、比嘉良篤、伊元富爾、八幡一郎、大城盛隆、高嶺明達、宮城新昌、富名腰義珍、翁長良奎、宮城仁勇、奥島憲仁、當山寛、上原健男、島袋全達、田崎昌亮、久高將吉、田崎朝盛、多嘉良憲秀、大城兼眞、仲吉朝敏、仲地昌元、我謝秀裕、安次富長英、
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眞玉橋朝起、國吉眞俊、比嘉春潮、仲本興正(サイパン沖縄縣人會々長)、饒平名智太郎、宮城清、安村師福、仲原善忠、嘉手刈信世、恩河朝健、大宜味朝徳、多田喜導、宮里良保、當間惠榮、親泊康永、島袋源七、山盛哲、宮城出隆、石川元康、多嘉良憲福、漢那朝常、與座弘晴、宮里興保、東風平玄宋,、與世山彦士、我喜屋宗信(大阪湯浅商店代表社員)、平尾喜代松(大阪平尾商店主)、豊川忠進(大阪沖縄県人会会長)、山城興善(益榮商会主)、玉城克巳、下地玄信、翁長良孝
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1936年2月26日 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件。 この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

1936年11月 『訓練』仲原善徳「フィリッピン観光記(上)」
1937年1月  帝室博物館「琉球風俗品陳列」
1937年3月ー仲原善徳『南洋千一夜一夜物語』日本書房
1937年3月ー『国際パンフレット通信』第998号 仲原善徳「蘭領ニューギニアの実相」
1937年4月ー『改造』仲原善徳「蘭領ニューギニア」
1937年7月  新宿伊勢丹で「琉球と薩摩の文化展覧会」
1938年4月  国家総動員法公布(5月5日施行)日中戦争に際し、国家の総力を発揮させるために人的、物的資源を統制・運用する権限を政府に与えた法律。昭和13年(1938)制定、同20年廃止。
1938年12月ー『比律賓年鑑』仲原善徳「比律賓群島の諸民族」

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大阪沖縄絵図
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テレホンカード
 私の17歳は東京一の繁華街、新宿歌舞伎町の大衆居酒屋「勇駒」で働いた事もある。その頃は若くてパワーもあった。20年ほど前、浅草寺初詣に行ったとき参拝者の列に入ったら全く身動きが取れなく離脱したこともある。とにかく過密都市でのオリンピック開催は気が知れない。いずれにせよ静かな場所に憧れて京都に住み着いたのが1969年であったが、盆地だから夏は暑く、冬は底冷えに寒い。復帰前、沖縄関係資料室主宰の西平守晴さん一家と同行、生駒聖天に初詣したのが生駒との出会いである。その後、私の家族は生駒に直通する近鉄奈良線の布施駅近くに住むことになる。

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2022年7月 あけみ、こうた/ユンタンの孫


宝山寺と新城あけみ
宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番。(→ウィキ)
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1985年10月 宗教社会学の会編『生駒の神々ー現代都市の民俗宗教』創元社〇朝鮮寺ー在日韓国・朝鮮人の巫俗と信仰ー

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2006「トンビの目のパノラマ地図」
 写真ー『沖縄美術全集』4絵画・書 山口宗季「花鳥図」大和文華館所蔵
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○我が家は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。
①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク

東大寺大仏殿ー2017年1月/ 『毎日新聞』2019-11-1 那覇市の首里城で起きた火災を受け、奈良県内の文化財でも31日、防火設備の緊急点検などが行われた。 奈良市の東大寺大仏殿では同市中央消防署員ら7人が緊急査察を行い、建物や周辺に設置された消火器や放水銃、自動火災報知機などの防火設備約30カ所を点検した。特に問題はなかったという。

奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)

源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像

大仏殿にある広目天像  多聞天像 

小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れており、滞在中の宿舎はこの場所にありました。

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1972月3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』「森鴎外」第二十巻

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。
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御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」
〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。

寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の文久2年4月23日(1862年5月21日)に、伏見の旅館・寺田屋に滞在していた尊皇攘夷の過激派志士が弾圧された事件。薩摩藩の事実上の指導者で藩主茂久の父島津久光はこのとき公武合体を推進する立場で、自らの入京を機に勝手に挙兵討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らを快く思わず、志士らの暴発を防止しようと、藩士に命じて従わぬものを上意討ちさせた。同郷の藩士同士が斬り合う凄惨な乱闘となり、7名が死亡して2名が致命傷を負い、後に切腹したものを含めて9人の殉難者を出した。事件後、久光は多くの志士を京都から追放し、勅使大原重徳を擁して江戸に向い、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とする幕政改革を行った。→ウィキ

上図単衣は木綿にして奈良原男爵が寺田屋騒動の時着用せられしもの、右肩の白みたる処は血のにじみ付きしものにて五六寸の刀痕あるものなり。/刀ー上段は寺田屋事件の時に用いたもの、下は兄喜左衛門が生麦事件に用いたもの

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1983年9月 山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社


奈良・飛鳥の本

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」null
右の電報は青い海出版社から「息子誕生」の祝電である。

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2020-8 こうたろう/1974-7 こうたろうのパパ

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伏見桃山城、息子と娘

 大阪、奈良の双方から望める金剛生駒国定公園内の大阪生駒霊園に阿氏西平家の墓、近くには大阪沖縄県人会の共同墓地「かりゆしの郷」もある。

元祖阿姓南風原按磁司守忠七世西平親雲上守安四男守秀ー守朋ー守保ー守孝ー守紀ー守諄ー


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勇駒本店/西口新宿

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勇駒新館で、右が柴田マネジャー、新城栄徳

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横尾忠則


1996年3月『酒文化研究所』第5号 野村磨子「新宿『沖縄横町』のことども」
 
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 2013年5月16日ー『沖縄タイムス』は一面トップで女性25団体が半グレ大阪市長に抗議、社説にも「橋下氏とともに日本維新の会を率いる石原慎太郎共同代表は『軍と売春は基本的は基本的に付きもので、橋下氏は間違ったことは言っていない』と擁護している。いったい、この党はどういう党」なのだろうか。慰安婦は米国では『性奴隷』と訳される。2人の主張は国際社会では通用しない。」と触れている。時評漫評「迷惑な客引き」も良い。『琉球新報』は一面でなくとも良い「原発廃炉」を一面トップにし、社説には「速やかな撤回、謝罪を」とする。謝(誤)って済む問題ではなかろう。大体地元紙はオスプレイ問題も近頃は少ない。解決するまでキャンペーンを張れ!。

 滝川政次郎『遊女の歴史』(至文堂1965年7月)に□柳学)的見地から見れば、云々」とあって、民俗学が振り回されている。氏の土俗学は、正直なところ猿真似に過ぎないが、材料は極めて豊富である。ただしその材料には田國男先生が「巫女考」および「イタカ及びサンカ」なる論文を発表し、民俗学の立場から、我が国遊女の起源が巫女にあることを論ぜられたのは、一大見識であったと言わねばならない。先生のこの論文は考証該博、従来の学者が顧みなかった資料を縦横に駆使して、前人未到の境地を開拓されたものであって、一世を魅了した。この柳田先生の民俗学に魅せられ、その遊女巫女起源説を敷 したものが、中山太郎①氏の『売笑三千年史』と『日本巫女史』であって、この両者にはしばしば「土俗学(民俗、新聞記事の切抜きや、氏が報知新聞の記者として伝聞せられたものが交じっているから、氏の著書を純然たる学術研究書として受け取ることは、いささか危険である。好事家の者として受け取らねばならないような部分も多分に存する。
 遊女史も売笑史も、大体同じようなものであるが、売笑史は芸能史と殆ど関係がない。(略)本書にあえて「日本遊女史」の名をもってしたのは、芸能史との関係を強調せんがためである。(略)戦争に敗れた者が戦勝者に女を贈ることによって平和が購われたことは、媾和の「媾」、妥協の「妥」が、いずれも女によって構成されていることによって知られる。(略)万葉集、巻八には 遊行女婦の橘の歌一首「君が家の花橘は成りにけり花なる時にあはましものを」。平安・鎌倉の白拍子は、招かれれば最初に「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで」をうたい、江戸時代の遊女は、「めでためでたの若松さまよ、枝も茂れば葉も茂る」とうたったという。(略)百太夫信仰は、平安中期以来、道祖神信仰と姿を変えた・・・、ゆえに後には陽物そのものが道祖神と考えられるようになり、木石もしくは紙もて製したる男根の形が、道祖神として祭られるようになった。木石もしくは紙もて製したる男根の形をコンセサマ(金勢明神)、ドンキョウサマ(道鏡様)という。本書は最後に「遊女史と男色の関係」にふれている。「明治以後においては、九州の辺境に稚児さん愛好の蛮風が少々残存していた程度で男色の風習全く跡を断ち、稚児物語は昔物語となってしまった。現代の日本人が、中世にあれほど盛んであった男色の風習を全く忘れてしまったということは、性生活史上の大きな変化と言わねばならない」、ここは著者の知ってか知らずか、現代では形を変え堂々とテレビなどの世界で息づいている。

 ○私は物事を整理してムダを省いた学者のものは理屈っぽく押し付けがましいので読まないが、中山太郎の著書は愛読している。中山にふれておこう。1928年11月『南島研究』に中山太郎「西平氏へー前略・・・・・・老生儀今春以来『日本婚姻史』の執筆を思い立ち漸く最近脱稿致し書肆春陽堂より発行の予定にて原稿手交少閑を得たるまま湘南地方へ遊びに参り帰宅致し候処『南島研究』第三輯に接手し拝見致し候処結婚風俗の特輯號殊に巻頭言に於いて老生の為に種々御厚配被成下候由拝見致し御芳志の段誠に感謝致し候南島の婚姻に関しては在京中の伊波、東恩納、金城、島袋、比嘉の各先輩より承り。之れに故学友佐喜眞氏の著書等により一通り記之置き候が、更に貴誌を拝見するに及んで大いに発明もし更に訂正すべき點も発見致し候、校正の折に出来るだけ御厚意に添べく期し居候  以下略  本郷弓町1ノ116」が載っている。中山と親しい折口信夫は大正10年8月に大阪朝日新聞編集所に絵葉書を送っている、表の琉球美人の説明には「尾類ズリ(遊女)といふもの」と書かれている。

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 「くろねこの短語」2020年12月25日 嘘をつくことが習い性となっているペテン師・シンゾーの釈明会見は、実に白々しいものだった。笑っちまったのが、「私が知らない中で行われていた」って若干言い淀みながら口にした瞬間に目が泳いだことだ。心の闇ってのは隠せないものなんだね。「秘書が~、秘書が~」の言い訳の中でも、その白眉が次の発言だ。桜を見る会前夜祭会費補填の原資を問われて、「私の預金から下ろしたものだ。食費や会合費、交通費、宿泊費などの支出一般について事務所に請求書が来て、支払いを行うが、手持ち資金として事務所に私が預けているものの中から支出をした」
 かみ砕いて言えば、「財布を渡していた秘書が勝手に使い込んだ」ってことだろう。自分の知らないところで何年にもわたって数百万円の使途不明金が出ているのにまったく気づかないような間抜けな人間が政治家になっちゃいかんだろう。ましてや、総理大臣だなんて・・・。民間企業なら、使い込んだ本人を懲戒免職の上で、背任横領で刑事告発して、返金も要求するものなんだよね。それなのに、略式起訴で罰金くらった公設秘書は、何事もなく辞職されましたとさ。でもって、ペテン師・ンゾーはとくれば、「動議的責任は痛感」しつつも、何の責任も取らないってんだから、これで幕引きしようったってそうは問屋が卸しませんよ。検察審査会もあることだし、まだまだ二の矢三の矢で追い詰めてやるから覚悟しやがれ。

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 「くろねこの短語」2020年12月24日 どうやら、明日にもペテン師・シンゾーの国会招致があるようで、自民党は議院運営委員会での釈明を計画してるってね。これに対して、立憲民主のトッポ・ジージョ安住君は「安倍氏による国会での説明が早期に実現するならば、野党が求める予算委への招致にこだわらず柔軟に対応する姿勢を示した」ってさ。バカじゃなかろか。そもそも、国会で118回も虚偽答弁をした男なんだから、偽証罪が適用される証人喚問でなければ「秘書が~秘書が~」って虚つきまくるに決まってるんだね。もし、立憲民主が予算委員会ではなく議院運営委員会への招致で引き下がったら、もはや野党第1党としての存在意義はありませんね。ヤメ検のエロ髭・若狭君や「ひるおび」のあの八代君でさえ「証人喚問という法的制裁がある所で行うべき」とペテン師・シンゾーには厳しい意見を吐いてるくらいなんだから、言いたい放題の釈明でシャンシャンってなったら、今度は何色のペンキが検察庁の看板にぶちまけられるのだろう・・・なんてことを期待しちまう今日この頃なのだ。/ネット上「生まれた年に自分の年齢(経過年数)を足すので現在の年(2020)になるのは当然のこと」が飛び交っている。

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 最近、母の死亡で色々と必要があって戸籍謄本を20数年ぶりに取り寄せてみた。妻が祖母の名前がトートメーと違っていると言う。なるほど、違っている。私としては当然にカマになっていると気にしなかったが、元他人であった妻だから気づいたのだろう。役場も勝手に改名して、何らかの問題があれば損害賠償を要求せねばならないと思うが、害はないようだ。
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 我が家の三脚蟾蜍はなるみ堂の開店の時頂いた。/なるみ堂の三本足のカエル 三脚蟾蜍(せんじょ) 三脚蟾蜍はお金を集めるために三本足になったといわれ,天災を予知する力を持つ霊獣もしくは神。大変に縁起の良い福の神とされ「青蛙将軍」、「金華将軍」などとも呼ばれる。道教徒の間で特に信仰されていた。清の蒲松齢の小説『聊斎志異』にも登場する。日本では青蛙神を題材に岡本綺堂が『青蛙堂鬼談』を執筆し、彼の養子の岡本経一が創立した出版社は青蛙神にあやかって「青蛙房」と命名されている。

 「くろねこの短語」2020年12月22日 日本医師会が「医療緊急事態宣言」を発表する中、ぼったくりバーのチーママ小池君が緊急記者会見というから何話すのかと思ったら、「心をひとつに国難を乗り越えましょう」だとさ。そして、医療従事者に対して「小中学生に感謝の手紙を送ることを呼び掛けたい。この時期ですから年賀状ですね」ときたもんだ。いやはやです。もっと凄いのが、特高顔のカス総理で、「新型コロナウイルスに打ち勝った証として東京で五輪・パラリンピックを」ってイベントで挨拶したってね。イギリスではコロナ変異種でロックアウトだってのに、この男はそうした世界の状況ってのをまったく理解してないんだね。
 さらに、夜にはTBS『NEWS23』に出演して、相も変わらずカンペに目をやりながら愚にもつかないことをタラタラとくっちゃべったそうだ。星:桜を見る会、菅さんは当時、官房長官として安倍総理に諫言しようとは思われなかった?国会で総理の答弁(前夜祭の費用補填はしていない)を正しいと言われていた菅さんご自身の責任は?菅:桜を見る会は昔からやってることだし、新宿御苑は広いから、人がいっぱい来たらいいなと思っていただけ。私は今でも総理は正しいと思ってますから。小川:最後に総理、国民が安心して将来に希望が持てるようなメッセージをご自身の言葉で。菅:ワクチン。ワクチン。そのためにワクチン。ワクチンで人類がコロナに勝った証としてのオリンピックを開けるように。ワクチンでコロナのなかった時代に戻れるように。論評するのも馬鹿馬鹿しくなってくる。



 《終わらない「コザ暴動」》東アジア共同体研究所O氏が「コザより強力な希望! 本を読む 14 『沖縄と国家』(辺見庸 目取真俊―角川新書)」と題し、末尾に〇目取真俊の「希望」とまではいかないが、少しマイルドな選択を考えてみよう。街に出た米兵を狙って自動車でひき逃げ、基地に入りこんで宿舎を焼き討ち、男性兵士に斬りつけ、女性兵士は強姦、これを執拗に行えば(米兵が毎年のように沖縄人に対して行っているように)必ず米軍基地は無くなるだろう。幕末の外国人打ち払い、「攘夷」の再現だ。部分的に実現したのが、コザ暴動だ。ご存じのように米兵の車約80台が焼かれ、交番も基地内の建物も燃え上がった。見物のおばあが、アメ車から立ち上る炎をバックに両手をあげてカチャーシーを舞っている映像を見たことがある。めでたい時には欠かせぬ踊りだ。この事件はちょうど50年前の今日、12月20日の未明に起きた。

 私の場合、コザ暴動は京都鳴滝音戸山の沖縄学生が借りている農家、木が生い茂って川が流れている静寂な環境。いつもそこでゴロゴロしていた。そこに同志社大学生の山口浤一さんの婚約者が帰省していた沖縄での「コザ暴動」を興奮な口調で話していた。
 1977年、伊佐千尋氏が『逆転』を新潮社から出し、1978年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。1977年12月『青い海』68号に「”執念〝が書いたベストセラー はみ出し人生が『逆転』したとき」と伊佐氏がインタビューを受けている。この号には本多勝一「近づき難い沖縄」、森口豁「どぅちゅいむにぃノートX黄色い新聞紙」も載っている。1981年9月、伊佐氏は潮出版社から『炎上 沖縄コザ事件』が発刊。写真ー1986年9月『炎上 沖縄コザ事件』文春文庫

 「くろねこの短語」2020年12月17日 (前略)特高顔のカス総理にとっても、地検特捜部にとっても、「やてる感」を強く印象づけられるし、ペテン師・シンゾーにとっても年末のドサクサに閉会中審査で禊がすんじまえば、年明けの通常国会で追及されることもなくなりますからね。「三方一両損」どころか「三方一両得」ってことも夢じゃない。独裁体制確立のために、特高顔のカス総理がペテン師・シンゾーを生贄として差し出して、事情聴取→議員辞職or逮捕ってシナリオを描いていたら・・・なんて妄想をしたいところだが、しょせんは顔も頭も貧相な自称苦労人の小物には無理な相談か。


菅の連夜の酒宴

 「くろねこの短語」2020年12月17日 政治家が謝罪する時にバカのひとつ覚えで「誤解を招いたら」って言うんだが、こようするに「お前らが勘違いしただけだ」って言ってるようなもので、いわば受け手である国民を舐めてるってことだ。そんな言い草を、高級ステーキ店の忘年会を糾弾された特高顔のカス総理が、臆面もなく口にしやがりました。これって、「誤解を招いた」ことは反省するけど、「忘年会」についてはどうでもいいって態度なんだね。こんなんだもの、その舌の根も乾かないうちに、読売新聞幹部、日本テレビ幹部、そして田崎スシローと会食するわけだ。忘年会が問題になった15日の夜にも、フジテレビ会長や東京オリ・パラ組織委員会理事と会食してるようで、もはやタガが外れちゃって制御不能のノータリンってことだ。早いところ総理の座から引きずり降ろさないと、大変なことになりますよ。
 ところで、ネトウヨ的体質でつとに名高いDHCが公式ウェブサイトに在日コリアンに対する差別的メッセージを掲載して炎上している。メディアにとってはスポンサーでもあるから、これまではDHCのヘイト体質に沈黙を守ってきたんだろうが、今回もまたスルーするつもりなのだろうか。これはもう、犯罪だと思うけどねえ。

  「くろねこの短語」2020年12月16日 特高顔のカス総理が「マスク会食」を呼びかけた11月20日の夜に芸者とノーマスクで会食していたとTBS『報道特集』にスッパ抜かれて、加計のポチ・みのたけ萩生田君が大恥かいたと思ってたら、なんと特高顔のカス総理も似たようなことやらかしてくれちゃいましたとさ。
・萩生田文科相が芸者遊びにノーマスク会食、菅首相がマスク会食呼びかけた日に… 石田純一や手越を叩いたワイドショーはなぜ沈黙?
 なんでも、「Go To トラベル」停止を発表した14日の夜に、銀座の高級ステーキ店で土建政治の二階君の他、「プロ野球ソフトバンクの王貞治球団会長、俳優の杉良太郎氏、政治評論家の森田実氏、タレントのみのもんた氏、林幹雄幹事長代理も同席」して、会食したんだとか。
 14日の夜というタイミングもふざけた話なんだが、そもそも「会食は控えるように」ってのが感染拡大を避けるための政府方針だったんだよね。でもって、「GoTo イート」では「原則4人以下」ってのが決まりだったはずだ。ああ、それなのに、この様だもの、こんな暇があるなら記者会見開いて国民にちゃんと説明しやがれ、ってなもんです。「腐れ外道」ってのはこういう輩のことを言うんでしょうね。

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1982年6月 牧港篤三・儀間比呂志『沖縄の悲哭』集英社
〇牧港篤三ー序文 戦争とは、なんと出口のない深い森のようなものであろう。かと思うと、それは多くの人間たちの漂う際限のないむごい死の海のようでもある。漠として捉えどころのない地中から吹きあげる呪咀にみちた叫び、暗い壕内を走る水流の、いずれは火山帯・古生層・第三紀、四紀層など地獄の底をくぐって、大洋に注がれる、潮との合流点で、気泡となって空に昇る危険な空転と繰り返し。-沖縄戦のばあい、時間と場所によって戦争は状況をまったく異にする。
 飢えと血の恐怖、むき出しの憎悪、愛とそねみ、誤った過信、千差万能の地獄図絵である。この一冊にまとめた詩は、そのように沖縄戦の一点でしかなく極微粒の一部分でしかない。読者のために、すこしでも鑑賞の案内となれば幸いである。主題の「水」「火」「空」といった腑分けは、ほんとうはどうでもよく、便宜上そうしたまでである。勿論、各詩篇をつらぬく主調は沖縄戦という国土内で行われた戦争である。
 「沖縄の悲哭」というタイトルは、それを凝縮したものといえる。名付けた人は、ジャーナリストで、沖縄平和をつくる百人委員会の代表豊平良顕氏。-詩画集におさめてある作品は、ほとんどが異常といえる戦場生活のなかで体験したことを時には深層に沈潜し、日常の片々とした襞のようなものを歌ったものである。異様な世界のなかに圧縮された、非日常性の死。・・・・それが詩の狙いといえば狙いでもあった。


儀間比呂志と牧港篤三(右)/牧港篤三(左)と新城喜一氏


儀間比呂志氏、牧港篤三(右)、後右が東江清俊氏、新城栄徳/平良次子さんと儀間比呂志氏

牧港篤三1912-2004 昭和-平成時代の新聞記者,平和運動家。
大正1年9月20日生まれ。昭和15年沖縄朝日新聞入社。戦後の23年「沖縄タイムス」の創刊にくわわり,のち専務。58年アメリカ公文書館所蔵の沖縄戦記録フィルムの買い取り・上映をする「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」(平成16年吉川英治文化賞)の結成につくし,のち代表をつとめる。詩人としても知られた。平成16年4月14日死去。91歳。沖縄県出身。著作に太田良博との共著「鉄の暴風」。ほかに「沖縄精神風景」など。 →コトバンク





『琉球新報』1936年11月1日「榕樹派ポエジイ展」(琉球新報記者・国吉真哲が設けた)牧港篤夫「河」
、愁麗(のちの瀬長亀次郎夫人)「意慾」、イケイ雅「波の音」「茶の花」「怨詞」、知念秀彦「できごと」、玻名城長正「冬の華」、松山聖「ピュウリタンの町の中で」

1980年11月 牧港篤三『沖縄自身との対話・徳田球一伝』沖縄タイムス社/1986年11月 牧港篤三『幻想の街・那覇』新宿書房〇詩人の風景(1)仲村渠、(2)佐藤惣之助、(3)山口芳光・有馬潤 司馬遼太郎「ふかい陰翳」

1985年8月 豊平良顕編『ジャーナリストの証言 昭和の戦争5 悲哭ー沖縄戦』講談社〇牧港篤三「体現的沖縄戦記ー地獄を見た者」

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2004年6月ー牧港篤三『沖縄人物シネマー会った人、すれちがった人』ボーダーインク□沖縄を訪れた偉才たち/駆け抜けていった人々
2005年8月ー『KANA』第11号<特集・牧港篤三追悼>

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2021年4月 半藤末利子『硝子戸のうちそと』講談社


新宿区立漱石山房記念館(しんじゅくくりつそうせきさんぼうきねんかん)は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館である[。2017年(平成29年)9月24日に開館した。〇2019年9月『漱石山房記念館だより』第1号


1970年4月 『夏目漱石自筆全原稿 坊ちゃん』番町書房
夏目漱石資料


1916年12月11日『琉球新報』


松岡映丘と漱石「草枕」・絵卷を見る

「熊本『草枕』MAP」
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夏目漱石「草枕」

 東京都近代文学博物館(とうきょうと きんだいぶんがくはくぶつかん)とは、東京都目黒区の駒場公園内にあった文学館である。加賀藩主であった旧前田侯爵邸洋館を利用し、1967年4月に隣接する日本近代文学館と同時開館した。2002年3月に閉館し、資料は日本近代文学館や日本現代詩歌文学館、実践女子大学などへと移された。 建物は1991年3月に「旧前田侯爵邸洋館」として東京都指定有形文化財(建造物)に指定され、無料で土・日曜日、祝日のみ見学が可能になっている。→ウィキペディア

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第17代那覇市長・兼次佐一


 1953年9月『沖縄婦人の友』創刊(表紙画・山田真山)。社長・兼次佐一、編集兼発行人・比嘉寿助
 1953年11月『沖縄婦人の友』2号
 1954年1月
 1954年2月
 1955年『沖縄婦人之友』新春号□大宜味朝徳(沖縄出版協会長)/沖縄婦人之友の発展を祝すー出版事業は難事業の一つである。これ位、体力・智力を使うなら他にいくらでも楽な仕事はある筈だ。智識階級を相手の仕事だけに一寸でもヘマをやるともう相手にされない。沖縄における出版業は全く宿命の仕事である。これは過去の出版受難史が雄弁に物語っている。
 永続した雑誌と云うのは今まで皆無の状態である。三号雑誌は良い方で一号でつぶれたものや計画だけで本の姿を見せず流産するのが多い。この難事業を比嘉君がコツコトと継続し、逐年発展の一途を辿りつつあることは比嘉君の信念と情熱の然らしむるものとして敬意を表するものである。今度更に新年度を期し編集方針を改革し誌面を公開し、雑誌文化を通じて沖縄の発展に寄与したいということは非常に意のあることでその発展に期待している次第である。
 私が比嘉君を知ったのは昨年彼が那覇市会議員に落選したとき、私の事務所を訪ねて会ったときが始めてである。そのときの言草がふるっている。「どうも那覇市民は私の人物を知らぬようだ。どうか権威のある沖縄興信所発行の『琉球人物名鑑』に私の経歴を紹介してくれ」ということであった。
 比嘉寿助(□1915年2月10日~1978年6月27日)代書業サイン社
本籍・那覇市西新町 住所・那覇市二区九/大正3年2月10日生 南大東島尋常高等学校卒。 趣味・一人で夜道を歩いて考えること。/家族・妻豊子、長女祥子、二女美津子、三女小夜子、四女市子。昭和8年あの有名な琉球天一坊事件をまきおこし後に日刊沖縄新聞記者。23歳の時に沖縄批判社を創立、初版で解散となり、24歳の時上京すべく鹿児島から土方をやりつつ1年がかりで25歳の暮れの鐘を東京新宿の安酒屋で聞くという放浪の旅をなし、26歳の時サンゴ座脚本部に入り、戦争と共に徴用され八重山飛行場の作業班長となる。終戦後はPT船大工、МGメスホールコック、『八重山文化誌』記者。現在前記場所にて代書業をなす。年3月、那覇市会議員に立候補し惜敗。比嘉和志のペンネームで雑文を書く。であった。
 終わりに乞わるるままに『沖縄婦人之友』に忌憚のない希望を述べてみたい。沖縄の出版界の現状として、枕の代用にするような数百頁の雑誌をつくることは無理な話である。・・・・とすれば頁を少なくして質でゆくほかはない。同時に特色を持たせることが必要である。しからば『沖縄婦人之友』の特色をどこに置くか?という問題であるが、これには私は漫画(現在もやっているが)と婦人、子どもの読物に重点をおくことだと思う。漫画は立派なニュースであり、社会評論であり目に訴える読物として高く評価してよい。婦人子どもには最初に飛びつくのは漫画である。
1954年『向姓仲吉家之家譜』沖縄婦人之友社

1976年5月ー『政経情報』創刊/編集発行・兼次佐一 発行所・政経情報社(那覇市古波蔵)


1976年5月『政経情報』創刊号□「伊波普猷生誕百年記念 おもろと沖縄学の父」、沖映演劇「那覇大綱挽き基金募集特別公演・裁判劇女よ強くあれ」
1976年6月『政経情報』№2
1976年8月『政経情報』№3□「浜比嘉出身の彫刻家(金城実)本土で大気炎」「沖縄ヒューム管工業所・仲本幸智」
1976年9月『政経情報』№4□「小佐野賢治の摩手 沖縄にも延びていた」「沖縄電力の発電所建設に地元民反対」「NHK受信料徴収率最下位の沖縄」「天災と人災ー中国の地震と玉城村の陥落」
1976年10月『政経情報』№5□「毛主席の死を悼む」「防衛施設庁の態度」を糾弾せよ」、「安里徳仁ー米寿を迎えて」「(有)嘉栄産業・赤嶺嘉栄」
1976年11月『政経情報』№6□「海洋博の犠牲・琉海倒産」「大阪商人 生肉牛輸入」「国会議事堂のトラパーチンを切った粟国太郎翁の話」「暴力による組合弾圧(オリオンビール)」、島庄吉「関東地区における北山会 8年ぶりに復活ー平光雄、上間実、春山国生(夫人は岸本賀昌の二女とよ)、宮城栄昌」→№12島庄吉「うちなーんちゅ物語」
1976年12月『政経情報』№7
1977年1月『政経情報』№8
1977年2月『政経情報』№9□「観光立県に奇抜な着想が欲しい」「大阪のロンボックチーム優勝(平岡行秀)」
1977年4月『政経情報』№10□「集団就職の少年少女を守れ(がじまる会)」、屋良朝四郎「努力格差を是正せよ」「大阪便り」、仲井真元楷「狂歌雑記」、安里徳仁「琉歌」
1977年5月『政経情報』№11□「「大阪で沖縄の観光物産展/がじゅまる会総会/金城実氏の解放会館彫塑」

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 2021年10月 上江洲儀正『島を出るーハンセン病回復者・宮良正吉の旅路』水曜社(新宿区)
 10歳の少年は、兄に連れられて故郷の石垣島を出た。病気がなおればすぐに帰れると思っていた。長い旅のはじまりだった。1956(昭和31)年、島を出た宮良正吉(みやらせいきち)は現在76歳。大阪で暮らし、ハンセン病関西退所者原告団「いちょうの会」の会長である。いまだにやまないハンセン病への差別・偏見の解消をめざし、回復者の語り部として各地で自身の体験を伝えている。ハンセン病の歴史は悲惨である。患者はらい病と呼ばれて差別され村の外へ追いやられ、隔離された。療養所内では男性に断種手術を施し、妊娠した女性には堕胎を強要した。「この病気は死んだら喜ばれる」……。
 回復した正吉は大阪の印刷会社で働いた。社会は荒波だった。恋人ができた。プロポーズの時に回復者だと打ち明けた。「それがどうしたの?」。その言葉にあたらしいふるさとができた。ふたりの子どもに恵まれた。娘に元患者だったと告白してから5 年後、新聞記事で公にカミングアウトし、ハンセン病語り部の道を歩みだした。本書はロングインタビューの積み重ねにより、ひとりのハンセン病患者の半生を「生の声をできるだけ生のまま」「わたし(著者)自身に教えるように」ハンセン病問題の歴史をかさねあわせて書かれた「長い旅」、その現在進行形の経過報告でもある。
 宮良 正吉(みやら・せいきち)1945 年7月沖縄県石垣町に生まれる。小学4年身体検査でハンセン病罹患が判明。翌年、沖縄本島のハンセン病療養所愛楽園に収容のため島を出る。1961年患者専用列車で高校入学。1965 年高校卒業後大阪で就職。2001年らい予防法違憲国家賠償請求訴訟原告団に加わる。2008年はじめて自身の体験を語りはじめる。

 
大濱 聡 2021年11月■「過去の思い出を振り返ってみましょう」として2017.11.10の投稿が。「日本最南端の出版社」南山舎と、代表の友人・上江洲儀正さん(現会長)についての紹介でした。■1987年の創業以来、八重山をテーマに数々の良書を世に送り出してきましたが、このたび初めて自身の本『島を出る―ハンセン病回復者・宮良正吉の旅路―』(水曜社刊)を出版。2019-20年の2年にわたって、南山舎発行の『月刊やいま』で自ら10回連載したルポ「島を出た八重山人」に加筆修正してまとめたものです。
■ハンセン病患者として10歳の幼い身で親元を離れ、島外の療養所でひとりで生きていかねばならなかった人生――〈一人の元患者の半生とハンセン病問題の歴史を重ねあわせて書かれた、現在進行形のノンフィクション〉(新聞広告より)■〈島を出る。島人にとってこのことばは特別な響きがある〉〈島を出るのは、若者にとって宿命のようなものである。しかも一度出てしまうと、島に働く場はそう多くはないから、なかなか戻ることはできない。したがって、「島を出る」ということばには、覚悟、希望、別れ……などさまざまな思いが入り混じる〉(あとがきより)読み応えのある本です。お薦めします。

週刊誌は個人で保存するには限界がある。後に雑誌図書館・大宅壮一文庫が開館したときは早速に訪ね整理法を学んだ。そのときは西沢昌司氏が応対してくれた。次に行くと、八重山出身の上江洲榕氏と出会った。『琉文手帖』2号の東京連絡所が大宅文庫(http://www.oya-bunko.or.jp/)となっているのは上江洲氏が引き受けたからである。
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 上江洲儀正氏との出会いは1976年。『週刊ポスト』に「雑誌図書館『大宅文庫』活用の手引き」が載っていて雑誌17万冊を辞典のように利用できると紹介されていた。早速、京都駅から新幹線で上京。文庫を訪ね西沢昌司氏に会い「大宅壮一と沖縄」を話題にして歓談した。その次に尋訪ねると上江洲氏が居たので書庫を見たり大宅の生前の書斎で上江洲氏の仕事が終わるのを待ち新宿の沖縄料理屋へ繰り出した。そのうち上江洲氏から自分の小説が載っている『早稲田文学』『じくうち』が贈られてきた。手元にある『大宅壮一文庫索引目録』の扉には彼に押して貰った文庫の印がある。そのときの名刺には「財団法人大宅壮一文庫事務局次長」とあった。彼は『じくうち』の同人で4号に東京とシマをテーマに小説「二ーラン神の島」を書いている。5号に「肝苦さんさあ」、6号に「義足」、7号「人形」であった。私は彼が文庫に居る時、松島記者担当の『琉球新報』落ち穂欄にエッセイを書いてもらったが今では良い記念となっている。数年後『八重山手帳』や『情報ヤイマ』創刊号が贈られてきた。那覇で会ったときの名刺には「企画・出版・情報処理・南山舎」とあった。

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Category: 99-未分類
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渡久地 政司 2023年10月25日 · ■コスモス満開■豊田市宮上町一丁目水田 コスモス畑の後方は宮口神社と宮口こども園 撮影:渡久地

 神無月は日本における旧暦10月の異称。今日では新暦10月の異称としても用いられる場合も多い。「神無」を「神が不在」と解釈するのは語源俗解である。→ウイキ
 沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき(1980年)島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。だから梅田に行くと島根県事務所もよく寄るが、島根(出雲)はまだ行ったことがない。熊野は熊野本宮大社だけが残っている。1937年7月の『月刊琉球』に沖縄県総務部長の清水谷徹が「王仁三郎を捕ふ」というのを書き「元来、島根県は松江市は有力な大本教の地盤で、その大本教松江分院なるものが、また素晴らしく豪奢なものであった。面白いことには、その隣りが皮肉にも島根県警察部長官舎で、当時私が住んでいた訳である。」と述べている。私は最近、千田稔『華族総覧』講談社を愛読しているが、島根県・亀井家を見ると「王政復古以後、議定、神祇局副知事となり、同局判事に大国隆正を登用した。まさに津和野藩主主従が宗教行政を握ったかであり、廃仏毀釈で神道国教化政策を推進した。(略)亀井家では西周が亀井玆明の養育を担い、森林太郎も同世代として玆明と交流した。日清戦争が勃発すると、亀井玆明は祖先玆矩が琉球守として外征の大志を抱いたことに触発され、従軍写真家として中国に赴く。のちに『明治廿七八年戦役写真貼』を皇室に献本した」とある。
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出雲観光ガイド:縁結びの神・福の神として名高い「出雲大社(正式な読みはいづもおおやしろ)」は、日本最古の歴史書といわれる『古事記』にその創建の由縁が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていました。/ハワイ出雲大社はアメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市に鎮座する神社/出雲大社沖縄分社 所在地: 〒902-0061 沖縄県那覇市古島1丁目16−13

 島根大学・郷原すず:須佐神社周辺では、2002 年から「スサノオウォーキング」という
ウォーキングのイベントが同実行委員会により開催されており、2004 年にはコースに須佐
神社周辺も含む「出雲風土記スサノオのみち」が、「美しい日本の歩きたくなる道 500
選」に選ばれている。/2015年7月22日~8月31日 古代出雲歴史博物館「琉球王国ー東アジア交流の盛華」琉球王国のすべてが出雲に集結

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10月1日 中之橋/那覇空港/ブックオフ/おもろまち駅/孫こうた

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9月29日 我が家の節目

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→動画「大阪エイサー祭り 2023」「NHK大阪」
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「第49回エイサー祭り」プログラム
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9月24日 がじまるエイサー広報部(大阪) ハイサイでーびる。めっちゃ久しぶりの投稿やいびんどぉさい。がじまるエイサー祭りが4年ぶりに帰って来ましたよぉ~。沖縄から千原エイサーがやって来ます。今年は熱中症対策で例年より2週間うしろにずらしました。お間違えのないように。ゆたさるぐとぅ、うにげぇさびら。/孫こうた参加

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いいねうるま市 山城 明 · 9月24日 · おはよう御座います 今日も暑いです

豊里友行 今週の日曜日9月24日は、大阪の「第49回エイサー祭り」に千原エイサーの写真を撮りに行ってきます。めったに県外に出ることがない出不精な私ですが、がじまるの会・エイサー祭り実行委員会より昨年出版した写真録『千原エイサー』(2022年刊、沖縄書房)を見て写真展を開催依頼をいただく。ついでにエイサーとは別の別区画で「おきなわ」豊里友行写真展の大阪展も開催することになりました。ぜひ。エイサーを楽しみつつ、私の写真展も観に来ていただけると嬉しいです。

9月22日 沖縄タイムス 沖縄県浦添市の沖縄県浦添市の松本市長が新しく市内にできたホテルをPRするためSNSに投稿した動画の中で女性従業員をプールに誘う場面などがありました。タイトルは「市長が美女とホテルへ」 

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2023年9月『琉球』№68琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947◇後多田敦「歴史はしばしば韻を踏むー百年前の日本(大日本帝国)ー」/しもじけいこ「宮古IN コロナ明け?の島で」
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島袋マカト陽子「東京琉球館便り」/伊良波賢弥「焚字炉の葉書②天妃の門」/鈴木次郎「沖縄戦と詩・寒川哲人(名嘉座元司)」

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仲松 健雄 「敬老の日」の18日,東京沖縄県人会 川平朝清最高顧問(第7代会長)のカジマヤー祝いをホテルニューオータニ東京「鶴の間」で開催✨「鶴の間」は500名を超える参加者の祝福と熱気に包まれました❗️幕開け 「かぎやで風」東京琉球舞踊協会師匠の皆様/川平ファミリー、仲松 健雄さん

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9月17日 明日が敬老の日ということでユンタンの娘と孫の合作「お婆ちゃん」「爺ちゃん」の絵を持ってきたが、どう見てもお婆ちゃんが娘の年齢に見える。沖縄県立博物館・美術館で遊んでコープ、ジュンク堂(地下1階に駿河屋 那覇沖映通り店)

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山城 明 ·9月15日 · うるま市南風原漁港から あちさんや〜海面がキラキラ輝いてますよ

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9月15日 平和通り傍の通り/沖縄県立博物館・美術館で左から宇佐美賢さん、山本正昭さん、翁長良明さん/那覇市市民文化財課で外間政明さん、課長兼博物館長の上原清実さん

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大濱 聡 9月14日 ■Media literacyーー9.12にNHK沖縄が〈独自〉ネタとして報じた「〃有事の際の避難のあり方〃与那国島で検討状況伝える初の住民説明会」――最後は「有事が迫ってきているのではないかという不安が大きいです」でまとめていた。通常は賛否両論の意見を伝えるが、意図的なのか、深く考えずに一人だけにしたのか。■しかし、現場を取材していた三上智恵さん(映画監督)のFBで生々しい実情を知ることができた。以下、一部引用。→三上智恵 2023年9月13日 いよいよ万が一の時の全島避難の住民説明会が与那国島で開かれた

 くろねこの短語 2023年9月 8日 (金) 性加害者ジャニーの名前が冠のままでどこが「解体的手直し」だ!!&TV局はジャニーと深い関わりのあった制作局長やプロデューサーを事情聴取して、検証番組を作るべき!!
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関連:岡留安則/1996年9月 『噂の眞相』/1997年9月 『噂の眞相』

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いいねうるま市 山城 明 · 9月6日 · 涼しい風が吹いて気持ち良いですよ!


大濱 聡 ■本日(9.6)「悠仁さま17歳の誕生日」というニュースを伝えていた。ところで、拙著でいちばん古いのは17歳時(1965年・高校2年)の地元紙への投書である。前年に大ヒットしたのが西郷輝彦の「十七才のこの胸に」。よく口ずさんだ。沖縄出身の南沙織のデビュー曲は「17才(1971年)である。■その他、映画などでも「17才(歳)」を冠したものが多いのはなぜだろう。
新城栄徳◇私の17歳は東京一の繁華街、新宿歌舞伎町の大衆割烹「勇駒」で働いていた。その頃は若くてパワーもあった。20年ほど前、浅草寺初詣に行ったとき参拝者の列に入ったら全く身動きが取れなく離脱した。とにかく過密都市でのオリンピック開催は気が知れない。いずれにせよ静かな場所に憧れて京都に住み着いたのが1969年であったが、盆地だから夏は暑く、冬は底冷えに寒い。

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9月5日 那覇市民ギャラリー「―表現する布染―平井真人YUGAFU2023」展

東洋経済オンライン ·9月5日 2025年4月に予定されている大阪・関西万博の開催に暗雲が立ち込めています。海外参加国のパビリオンの建設工事が大幅に遅れており、ゼネコン関係者も「手を出さないほうがいい」と冷ややかに見ています。

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板橋区立美術館「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」を報じた新聞、『芸術新潮』(弘中智子さん提供)


撮影・屋良朝信氏

2018年2月24日(土)~4月15日(日) 20世紀検証シリーズ No.6 東京⇆沖縄 池袋


図録『東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』共同通信社

1931年  山元恵一、沖縄県立第二中学校卒業 同期生ー西村菊雄、八木明徳、山田有勝、又吉康哉、南風原英佳、与那原良規
 1986年8月7日『沖縄タイムス』〇本土通信/文化人のたまり場ー東京・いけぶくろの「みやらび」再開発でビル取り壊し。池袋西口・北口で知られる沖縄飲み屋は初代店主が文化人だったのが特徴。焼け跡から出発して最も古い「おもろ」の故南風原英佳さんは早稲田大学を出た日本経済新聞社記者上がり。つづく「さんご」は川端画学校出身の崎原当保さん。やや遅れて1953年開店の「みやらび」はやはり早稲田大学出身、戦前沖縄毎日新聞役員もした音楽家の故川田松夫さん。舞踊家で沖縄芝居に新劇を取り入れる試みもした人。三店とも初期は詩人山之口貘、伊波南哲、画家南風原朝光、末吉安久さんら今は故人の名物男を中心に、大正リベラリズムの申し子のような草野心平、金子光晴、喜多村知、内堀勉、小館善四郎ら、詩人、国画・春陽会など在野展の画家や知識人が米支配下の沖縄をしのぶたまり場だった。

池袋モンパルナスとニシムイ美術村
戦前の池袋と落合、戦後の沖縄・首里のニシムイに「アトリエ村」がありました。それら画家たちのコミュニティは、戦争や占領による抑圧の下にあった彼らの拠り所であり、世代や地域、思想を超えた交流によって多様な傾向の作品が生み出されます。
1930年代の池袋周辺には、アトリエ付き住宅が立ち並び、その様子はパリの芸術家街になぞらえ「池袋モンパルナス」と呼ばれました。そこには北海道から沖縄まで各地から上京した芸術家の卵が集い、切磋琢磨しながら新たな表現を模索します。隣接する落合にも佐伯祐三、松本竣介や沖縄出身の名渡山愛順らの画家、文学者、音楽家たちが居を構えており、戦前の池袋、落合一帯は様々な分野の芸術家が集う文化醸成の場となっていました。しかし、1941(昭和16)年に始まる太平洋戦争は、こうした営みを一変させ、自由な作品発表の場は失われます。
戦後「池袋モンパルナス」は再建され、次世代の画家が集まり、新たな美術運動の発信の場となりました。地上戦で壊滅状態にあった沖縄でも、学生時代を池袋や落合で過ごした名渡山らを中心に、1948(昭和23)年「ニシムイ美術村」が首里に建設されました。画家や彫刻家に加え、文化人もここに集い、戦後沖縄の美術と文化の展開に主導的な役割を果たすことになります。
本展では、池袋、落合、ニシムイに集った芸術家の作品約90点を初めて一堂に会し、3つのアトリエ村の概要と意義を明らかにすると共に、戦前から1971(昭和46)年の沖縄返還協定調印の頃までの東京と沖縄の文化交流の一断面を紹介。

 『沖縄タイムス』4月15日ー皇后さまは14日、東京都板橋区の区立美術館を訪れ、開催中の絵画展「東京・沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」(主催・共同通信社、同美術館)を鑑賞し、沖縄県出身の画家の絵画に触れられた。 皇后さまは興味深そうに熱心に見て回り、戦後すぐの沖縄の画家たちが地元の石灰岩で絵の具を作り、沖縄らしさを追求していたとの説明を聞き、「きれいな白ね」と感心していた。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
2020年1月『月刊琉球』№72 琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947
 後田多敦「資料紹介『国際法先例彙輯(1)国家併合』の「琉球併合」 「琉球併合」を国家併合として位置付けた資料」/しもじけいこ「宮古IN 2020に何思う」/北山睦子「狙われる本部の港」

  
 斎藤 陽子(Walnut, California)1-30 
 こちら今日の南カリフォルニアは風の強い春の嵐が訪れています。寒い寒いと思っていても、いつの間にか一足早く春の訪れを感じており、南カリフォルニアの春先はカヨーテの恋愛シーズンも始まり、カヨーテの雌雄が相手を求めて市街地にまで降りてきて、猫や犬などがカヨーテの餌食になり、小動物の犠牲も目立って増えるシーズンでもあります。家の周りの20本ほどの、和歌山果樹試験場から補木を得て増えた梅にも確実に春が訪れ、いま満開の花梅にミツバチも寄ってきています。
 なぜか梅の花を眺めていると、日本を思い出すのですが、梅の持つ雰囲気が東洋的なのでしょか。毎年梅干を作るのも大仕事で、梅酒を作るにも焼酎は日本からの関税がかかっていて価格が高く、もっぱらウォッカまたはジンがベースで作る梅酒ですが、最近はもっぱら梅ジャム造りに凝っています。咲き終わった梅の花が風に乗ってヒラヒラと舞い、「ロスアンゼルスの庭に、春の小雪が降った」と言ってもいいような景色で、地面を白く埋め尽くしています。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 1-28 新型コロナウィルス肺炎 騒ぎの中、慌ただしい1月ももうじき終わります。
今年は暖冬だと言われていましたが、東京都内は夜半から久しぶりの雪のようですが、ロスアンゼルスは幾らか温かくなり月曜日の今日は23℃ほどになるとの予報ですが、夜間は相変わらず6℃ほどと寒いです。

  数年前の寒い夜に、最も身近に訪ねてきて欲しくないスカンクが、 裏のパティオに訪問出現しました。これらの野生動物は人間の住んでいる近くに来るような動物ではありませんが、冬場で餌が乏しいのか、余程お腹を空かしていたようで、人間の生活圏内に侵入してきます。スカンクは見た目はとても可愛い動物ですが、肛門の両脇にある「肛門傍洞腺(肛門嚢)」から、強烈な悪臭の分泌液を噴出し、外敵を撃退することで知られているので、アメリカでは最も人間から嫌われている動物です。その悪臭の匂いはどんな匂いか表現できませんが、しいて表現すると車のタイヤを燃やした時のような匂いと言ったらいいのかも知れません。悪臭の分泌液の主成分はブチルメルカプタン(C4H9SH)といい、その匂いは独特で、硫化水素臭やにんにく臭などと、文献によって異なりますが、これらをスカンク臭という表現が用いられることも多いです。
 北アメリカから中央アメリカ、南アメリカにかけてスカンクは生息して、誰もが知っている白黒まだらの体色をし、模様は種によってそれぞれ異なようですが、よく目立つ模様は外敵に対する警戒色の効果がある様で、見た目にはとても可愛く、日本では悪臭の源である肛門嚢を除去手術して、スカンクをペットにしている人も居ると聞きます。体長は40〜68cm、体重は0.5〜3kgほどで、ふさふさとした長い尾をもち、雑食性でネズミなどの小型哺乳類、鳥の卵、昆虫、果実などを食べています。地中に巣穴をつくり、冬などは巣穴にこもることが多のですが、真の冬眠をするわけではない様です。
 アメリカではスカンクは狂犬病の媒介獣として知られていて、テキサス州やカリフォルニア州などでは、人間が狂犬病にかかる感染源のトップに挙げられています。狂犬病に感染したスカンクはあらゆる動物に攻撃を仕掛けるため、これによって感染した家畜を介して、人間にも感染すると考えられています。
日本の人々はスカンクは見たことは無くとも、スカンクが悪臭を放つのはご存知と思います。分泌液を敵の動物の顔を目掛けて噴射させ、これは4〜5m離れていても命中させることができると言われ、分泌液が目に入った場合、一時的に目が見えなくなるようです。悪臭の範囲は風向きによっては2km近くにも及びます。運転をしていて間違ってスカンクを轢こうものなら、その悪臭がタイヤに付いて4,5日も悪臭が取れず、大変な事態になることもあります。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 1-25 相撲取りでは身体が最も小さい炎鵬が阿炎に勝ち、今場所勝ち越しを決めました。大型の身体が当たり前の力士の中で、勝ち越しという偉業をつらぬいた、その努力にただ感激しています。
今日の写真はちょっと地味な画像ですが、裏庭に時々やって来るロードランナー(Roadrunner)、和名はオオミチバシリと言い、漢字では(大道走)と書きます。日本では決して見ることのできない鳥で、アメリカ大陸の南部(南カリフォルニア、アリゾナ、メキシコ)の半砂漠地帯に生息し、主に昆虫・トカゲ・ヘビ・サソリ・ネズミや鳥の卵などを食べています。地上で生活をし飛ぶのは下手、せいぜい低く滑空するぐらいで、走るのが得意で、時速30キロ近くの速さで走ることが出来る鳥です。英名では、ロードランナー(Roadrunner)といいますが、ロードランナーといえば、ワーナー映画のアニメのキャラクターで、青い鳥を思い浮かべる方も多いと思います。アニメではドジなコヨーテが毎回、この鳥を捕まえようとあれこれ工夫をするけど、コヨーテのあの手この手の罠をかいくぐり、ミッミッと鳴きながら、すごいスピードで 駆け抜けるロードランナーです。

 実際のロードランナーは、アニメのような青色でなく、地味な色をしてます。(上面は、褐色に黒白の縦斑があり、下面は淡褐色。)このロードランナーはニューメキシコ州の州鳥でもあります。砂漠地帯などに多く生息しているので、裏庭で写真に収さめられるのも貴重なチャンスですが、その動作も素早く炎鵬にも似ています。

 斎藤 陽子(Walnut, California)1-23 中国湖北省武漢で新型のコロナウイルスによるウイルス性肺炎が発症し、世界に感染が拡大している状況の中で、明日から中国語では「春節」英語では「チャイニーズニューイヤー Chinese New Year」が、中国人の最も重要な祝祭日として始まります。中華圏国では7日間を旧正月祝日と設定されていて、この間を国の休日としていると云います。

㊗全家平安(家族の幸せを願う) ㊗大吉大利(目出度いことが沢山有ります様に) ㊗恭喜發財(金運に恵まれます様に)
 アメリカの中国系の人々も旧正月を挟んで、一週間ほどこの時期に有給休暇を取る傾向が有り、銀行などでは随分の中国系行員がお休みをしています。
中国系のスーパーの混みようは尋常ではなく、旧正月の準備のための食材を求めて、人々でごった返しています。アメリカの中国系の人々は新暦の正月よりも、旧暦のお正月の方を盛大に祝い、ロスアンゼルスのチャイナタウン(中華街)も、バクチクを鳴らしたり獅子踊りが有ったりと、旧正月一色です。圧倒的に中国系移民の多いカリフォルニアではお正月よりも、旧正月の方がなんだか年の初めのような錯覚になるほど、街全体がお正月ムードです。
なにしろカリフォルニアの移民の比率は日系人が0,8%で、それに比べて中国系は3.2%と圧倒的に中国人の多いカリフォルニア州なのです。日曜日までは中国系の各家庭はパーティーで賑わい、赤い包(ホンパオまたはアンパオ)のお年玉袋に、偶数金額のお金を入れて、子どもはもとより大学生まで独り者には、お年玉を渡す習慣はとても重要な行事のようで、中国系の友人は一族郎党へのお年玉の予算も、高額になるとこぼしていますが、もしかすると日本のお年玉の風習は中国から来たのかもしれません。
 公立小学校でも中国の旧正月の習慣が、カリキュラムの中に組まれ教えています。いずれにしても、縁起のいいお正月を新旧と二度も楽しめることは善きかなです。日本国内でも中華街以外で旧暦のお正月を行う処が、今も幾らか有るようですが、何といっても日本国内で旧正月を最も盛大に祝うのが沖縄で、この習慣は今でも色濃く残っていて、四脚の動物を使わない和風オセチ料理と異なり、沖縄の旧正月は豚肉料理が主役です。

 斎藤 陽子(Walnut, California)1-20 アメリカでもNHKの相撲中継が観れますが、白鴎、鶴竜の横綱不在の今場所の相撲は余り興味も無かったのでが、このところ幕内力士で最も小さな98キロの炎鵬の活躍は痛快で、目が離せません。昨日は161キロの大関 豪栄道を軽く負かしたのには喝采を送らずにはおれませんでした。炎鵬のお陰でしばらく相撲が楽しめそうです。
 晴天に恵まれた昨日の日曜日はグレープフルーツを収穫しました。53年まえアメリカに来た時には日本ではそれまで見かけなかったグレープフルーツが珍しく、価格も安く当時学生時代には毎朝食べたものです。今年は雨の恵みが充分だったせいか、何の手入れもしないのに庭のひと隅で、いつの間にか鈴なりのソフトボール大のグレ―プフルーツが生っていました。このところの南カリフォルニアの明け方の気温は4℃程で、霜も降りないので、グレープフルーツも元気に育っています。もし寒さが厳しい日々が続いて霜が降りる環境だと、この南カリフォルニア一帯から中部カリフォルニアにかけては、オレンジ、レモンなどの、世界的に有名なカンキツ類の広大な生産地の南カリフォルニアでは、農業者は最も気温が下がる夜中の3、4時頃には気温を警戒し、暗い中を灌水(スプリンクラー)で散水を出したり、農場各所に設置されている大型プロペラを回し温度を拡散するなどし、農場管理者は夜を徹して、凍害対策(フロストコントロール)をするものです。

レモン、オレンジなどの収穫期だけに、凍害は最も恐ろしい災害なので、寒さがピークの時は農業者も徹夜で気が抜けません。わずか1、2日の凍害が原因で、世界のレモン、オレンジの価格に左右する、深刻な事態も発生します。
 太陽光線の豊かな夏のカリフォルニアは柑橘農業には最適ですが、寒さの厳しい冬が来たら警戒が必要で、自然相手のギャンブルともいえます。さてグレープフルーツを沢山収穫したのはいいのですが、成人病予防の血圧降下剤を服用している私ども夫婦には、グレープフルーツは薬との相性が悪く、食べてはいけない果物でもありますので、会社の社員に食べてもらうしかありません。

斎藤 陽子(Walnut, California)1-19
 1月も半分が過ぎましたが、まったりとした土曜日の今日のロスアンゼルスは16℃ほど夜間は8℃との予報です。1週間もすると旧正月になりますが、日本国内でも今も旧正月の盛んな沖縄ですが、沖縄の旧正月おせち料理は豚肉料理が主流で、「豚は鳴き声以外は全て食用に利用できる」と言われて、豚足はもちろん腸や顔面、耳、豚の血液までも利用する琉球料理です。そんな時期に人へは感染しないといわれている豚コレラ(CSF)ですが、豚コレラは豚とイノシシ以外の、人を含めて他の動物がかかることはありません。CSFウイルスは、実験的には、マウス、モルモット、うさぎ、山羊、めん羊などの動物が一時的に感染することは知られていますが、発病することはまずありません。

 すでに沖縄の6軒の養豚場に蔓延し、獣医師や県職員などが日夜殺処分と奮闘し、豚コレラの蔓延を食い止るべく、7000頭近くが殺処分となっています。
沖縄には沖縄固有の希少種「沖縄アグー豚」(黒色の豚)が居ますが、「アグーは琉球王朝から端を発し、先の大戦でほとんどいなくなってしまったものを戦後、県民の努力で復活した大切な固有種」と位置付け、政府は「沖縄アグー豚」の保護に向けて、豚コレラからのアグー保護の移動にかかる費用などを支援する方針とのことです。
 琉球料理には欠かせない豚肉ですが、いずれにして豚肉の消費量が多くなる旧正月まえ、豚肉市場にも影響することでしょう。より品質の高い豚肉をと、豚の育種に励んでいた養豚農家の気持ちを思うと、やりきれないものが有ります。(なお豚コレラが蔓延しているとはいえ、市場に流通している豚肉には何ら関係はありませんから、安心して豚肉を使用ください。)


斎藤 陽子(Walnut, California) 1月16日-今日のロスアンゼルスの気温は16℃ほどの曇り模様の肌寒い日で、夜間は5℃ほどになり、雨になるとの予報の水曜日です。意外に寒くなる南カリフォルニアの冬の寒さから逃れて、温室に避難している島唐辛子(沖縄語でコレーグス)沖縄の唐辛子、これまで収穫したのは2回目です。寒くなったこの季節も温室内で赤い可愛い実をたわわに付けています。海外で沖縄のものが収穫出来ると、尋常でないほど嬉しくなります。まるで難産の子が生まれたように嬉しくて、沖縄定番の泡盛に漬け込んでみました。泡盛漬けのコーレーグスは「沖縄そば」を頂く時に、薬味として欠かせなく、1.2滴使うのが定番です。

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